まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

『生きる力になる言葉』

金曜日, 5月 17th, 2013
      藤尾 秀昭・著
       ⇒ http://www.chichi.co.jp/book/7_news/post_76.html

「人は昔から、言葉を心の糧として生きてきました。
 私たちはできるだけよい言葉、よい教えにふれ、
 それを糧とすべく心術の工夫をしていかねばなりません」

――言葉の持つ力の偉大さと、
心を鼓舞する内的言語の存在が、
人生においていかに大切であるかを謳った
著者の思いが込められた一文です。

今回一冊の本として装いを新たにしたことで、
各章の中に刻まれた箴言至言の数々が、
読む人の心に大きな活力を与えてくれます。

  *        *        *

「“3万6500朝”(棟方志功)
 なんといういい言葉だろうか。
 100年生きたって僅か3万6500朝だ。
 一朝だってムダにしてはならないんだと、
 腹にしみわたるような言葉だ」
(坂村真民)

「父母の恩の有無厚薄を問わない。
 父母即恩である」
(西晋一郎)

「家庭の躾ができていない人は
 主役級の俳優にはなれない」
(浅利慶太)

「人に教えられたものは身につかない。
 自ら探して得られたものだけが自分の力になる」
(中川一政)

「芸のゆきどまりを見せずして、
 一期を終るをまことの芸とす」
(扇ケ谷三郎)

  *        *        *

一度海に潜った海女は、
一つの真珠貝を見つけるまで、
どんなに苦しくとも上がってこない、
これを「一沈一珠」という.

「いかに恐怖心と向き合うか」

水曜日, 5月 15th, 2013
   竹内 洋岳(プロ登山家)

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

└─────────────────────────────────┘

十四座完登というのは、
もちろん簡単に達成できる目標ではありません。
山というのは登る喜びもある一方、
一つ間違えれば命を落とす危険も内包しています。

では、その危険に対する恐怖心をいかに克服すべきか。
実は、恐怖心というのは克服したり
打ち消したりしてはダメなのです。

恐怖心があるがゆえに、それを利用して危険を察知し、
危険を避けて進んでいくのです。

私の中では、危険な体験を重ねる度に
恐怖心が積み重なっています。

しかし恐怖心が増すということは、
危険に対するより高感度なセンサーを手に入れるようなもので、
決して悪いことではないと思っています。

これから起こりうる危険を、いかにリアルに想像できるか。
その感覚をどんどん研ぎ澄ましていけたらいいと思っています。

もちろん、登山で相手にするのは大自然という、
人間のコントロールを超える存在です。

いくら自分が登ろうと意気込んでも、
天候に恵まれるなど自然の了解を
得られなければ登ることはできません。

私たちにできることは、自然の了解が得られた時に
すぐアクションを起こせるよう十分な準備をしておくことです。

登山の準備で大切なことも、やはり想像力です。
それは頂上に到達できるという想像ばかりでなく、
到達できずに引き返すという想像であり、
時には死んでしまうかもしれないという想像です。

そして死んでしまうかもしれないという想像ができるなら、
どうすれば死なずに済むかという想像をする。

死なないためにいかに多方面に、多段階に、
緻密に想像できるかということを、
私たちは山の中で競い合っているのです。

ゆえに想定外というのは山の中では存在しません。
想像が及ばなかった時、登山家は命を落とすのです。

――無能無才にしてこの一筋につながる

水曜日, 5月 15th, 2013
致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
┃□□□  
┃□□□      2013/5/15 致知出版社(毎月15日配信)
┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┌──┬──────────────────────────────
│130 │『致知』35年に思うこと――無能無才にしてこの一筋につながる
└──┴──────────────────────────────

『致知』は今年の9月1日発行の10月号で創刊満35周年になります。

私はこの雑誌の創刊の準備から編集に携わってきましたので、
『致知』一筋に35年の人生を歩いてきたことになります。

俳聖、松尾芭蕉は
「無能無才にしてこの一筋につながる」という言葉を残していますが、
この言葉はそのまま実感として、
体に溶け込んできます。

先日、タビオの越智会長にお会いしましたが、
愛媛県の中学を卒業し、大阪の靴下問屋に丁稚奉公に入り、
以来約60年、靴下一筋に歩まれ、
会社を今日業界の雄に育て上げられた越智会長の信条は、
「一生・一事・一貫」
だとおうかがいしました。

会社がうまくいき始めますと、
本業以外にいろいろな事に手を出したがる人が多いのが世の常ですが、
創業以来45年靴下一筋、
他には目もくれないで歩んでこられた、その姿勢に頭が下がります。

『致知』は心を磨く、人物を創るということをテーマに
一事一貫してきた雑誌です。

即ち、人間学の追究です。

その道を35年追い求める中で、実にたくさんのすぐれた先達の生き方、
遺した言葉に触れ得たことは、まさに冥利に尽きるというものです。

この道一筋に歩ませていただいた者の至福を感じています。

一生を道元禅の研究に生きた田里亦無(たざと やくむ)氏から聞いた話ですが、
シモーヌ・ヴェイユというフランスの思想家が

「与えるというものではないが、、
 人に是非渡しておかねばならぬ 
 大事な預りものが私の内にある」

といっているそうです。
すばらしい言葉だと思います。

私自身も先達から手渡された大事な預り物を『致知』を通して、
心を込めて、後世に手渡していきたいと念願しています。

ちなみに、『致知』の7月号の特集テーマは
「歩歩是道場」(ほほこれどうじょう)です。

禅の言葉ですね。
特別な場所を道場とするのではなく、
日常のあらゆる場を自分を鍛える道場としていけ、という教えです。

そういう心構えで生きていけば、
あらゆる場が自分を高めていく修養の場になるということです。

これに似た言葉に
直心是道場(じきしんこれどうじょう)があります。

「維摩経」(ゆいまきょう)にある有名な言葉です。
光厳童子(子どもではなく、求道にめざめた人)が
路上で維摩居士(伝道の奥儀をきわめた在家の人)に会います。

童子が「どちらからこられましたか」と聞くと、
「道場から来た」と答えます。
童子は修行のためにどこかいい場所はないかと探していたので、
「それはどこにありますか」とききます。

その時、維摩が答えたのが先の言葉です。
「直心是道場」

直心とは、素直な柔らかい心ということです。
心さえ、素直に調(ととの)っていれば、
あらゆるところが道場になる、ということです。

伸びる人はあらゆる場を生かして伸びてゆくというのは
『致知』の取材を通して感じたことですが、
そういう人たちはこの言葉を体現した人であったということでしょう。

禅語にはさらに
「歩々清風起こる」という言葉もあります。
一歩一歩、歩いたあとに清風が起こる。
至り難い世界ですが、そういう一歩を歩んでいきたいものです。

「守拙求真(しゅせつきゅうしん)」

水曜日, 5月 15th, 2013
        平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)

              『致知』2013年5月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

数え百八で命尽きるまで彫刻に情熱を燃やし続けた
祖父・平櫛田中。

私は、祖父が晩年を過ごした自宅
「九十八叟院」(東京都小平市)に開設された
美術館で館長を務め、その芸術と人生をご紹介しています。

明治五年、現在の岡山県井原市の田中家に生まれた祖父は、
十一歳で平櫛家へ養子入りしました。

しかしながら家業が傾き、小学校卒業後に
丁稚奉公を余儀なくされ、
また当時不治の病であった結核を患うなど、
苦労の末に二十代半ばで彫刻の道に入りました。

平櫛田中の号は、平櫛家と田中家の姓を組み合わせたものです。

他の芸術家に比べて遅いスタートでしたが、
代表作である「転生」「五浦釣人(ごほちょうじん)」など、
生涯に手掛けた作品は数百点にも上りました。

わけても六代目尾上菊五郎丈をモデルに取り組んだ
「鏡獅子」は、昭和十一年より構想を練り、
二十四年に菊五郎丈が鬼籍に入った後も制作を続け、
二十年もの歳月を費やして完成させた畢生の大作です。

書も手掛けていた祖父には、
「寿 七十不踰矩(ことぶき しちじゅうにしてのりをこえず)」
という作品があり、七十にしてまだ規範を超えない、
すなわち自分はまだ道半ばであるという心境を
表現しています。

そして百八歳で亡くなった時には、
あと三十年以上は制作を続けられるだけの材が
確保してありました。

まさに不撓不屈、創作に懸ける凄まじいばかりの祖父の意欲は、
やはり仕事が心底好きであったところから
生じたものであることは言うまでもありません。

祖母が嫁いできた時、
祖父の身の回りには行李一つしかなく、
しかもその中には創作の参考に切り抜いた
新聞しか入っていなかったといいます。

生活は質素で衣食にほとんど執着がなく、
夜九時頃に床に入り、夜中の一時半から二時頃には
布団から抜け出して新聞の切り抜きを始め、
後はひたすら作品に向かう毎日。

八十を過ぎても上野桜木町の自宅から
葛飾のお花茶屋に設けたアトリエに一人で通い続けました。

高齢ゆえに家族はいつも帰りを心配し、
夜の八時頃に祖父の下駄の音が聞こえてくると
胸をなで下ろしたものです。

夏はアフリカの探検隊のような帽子をかぶり、
甚平に足袋。
その独特の出で立ちがいまも懐かしく脳裏に甦ります。

「腹を括れ」

月曜日, 5月 13th, 2013
 水野 彌一(京都大学アメリカンフットボール部前監督) 

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

└─────────────────────────────────┘

私は昭和四十三年に大学院を卒業した後、
本場のアメフトを学ぼうとアメリカへ留学しました。
これが一つの転機になりました。

それまではいわゆる体育会のシゴキをやって、
普通じゃない、特別な選手をつくることが
スポーツの指導だと思っていましたが、
アメリカはそうじゃなかった。

集めてきた選手に自分たちの戦術を教えて、
組織で試合に勝つと。その大切さを学びました。

それで留学前は関学と戦っても
100対0という世界だったのが、
帰国後、監督に就任した昭和四十九年の試合では17対0。
負けはしましたが、この時が京大アメフト部元年だったと思います。

ただ、そこからなかなか勝てませんでした。

その年、さすがに無給のままでは
活動を続けられないと思って、
スズキインターナショナルという会社に就職しました。

そこは西ドイツ(当時)のビール製造機械を販売しています。
社長さんは鈴木智之さんといって、
関学アメフト部を四年連続全国制覇に導いたスター選手です。

その人のもとで働きながら、
アメフトの神髄を学ばせていただきました。

それで、いつもおっしゃっていたのは
「小手先のフットボールはするなよ」と。
最初はその意味が全く分からなかったんです。
やっと理解できたのは昭和五十七年の時でした。

ある試合の休憩中、副将の四年生が
「ちょっと頭が痛い」と言ってきたんです。
凄い体当たりをしたわけでもなかったので、
ベンチで休ませていたらバタッと倒れた。

すぐに救急車で運んだんですけど、結局駄目でした。

私は入院していた一か月間、
毎日病院に詰めていました。

お父さんとお母さんがずっと看病しておられるんですね。
それを見るのは辛いことでしたけど、
そこで感じたのは、人間っていうのは
あんな頑丈なやつでも呆気なく死んでしまうということ。

もう一つは、親が子を思う心、これは理屈じゃないなと、
物凄く感動しました。

もう、彼は帰ってきません。
ならば自分も人生を捧げないとフェアじゃないだろうと。
それで、「自分をなくそう」と思いました。

それまではやっぱり
「自分が強くする」「自分が日本一にする」と、
自分が強かったんです。

でも、もう自分はどうでもいいと腹を括りました。
それからです、すっと勝ち出したのは。

だから私は京大生に「腹を括れ」と
いつも言っているんです。

腹を括れば自分がなくなる。
そうすれば、逆に自分が自由になるんです。

自分に制限をかけているのは
自分でしかないですから。

『吉田松陰 四字熟語遺訓』

金曜日, 5月 10th, 2013
    川口 雅昭(著)

◆ 吉田松陰「四文字の教え」を紐解く
====================================================

1859年、安政の大獄で享年30(満29歳)という
短い生涯を閉じた吉田松陰。

その松陰研究に40年以上情熱を傾けてきた
著者が着目したのは、松陰が書き残した「四字熟語」でした。

本書には松陰が残した膨大な著作や資料の中から
厳選された100の四字熟語に加えて、
その訳と時代背景を踏まえた丁寧な解説を付記。

「鬱然藹然(うつぜんあいぜん)」
「枕戈横槊(ちんかおうさく)」
「疾風勁草(しっぷうけいそう)」

などからは、諌死・諫言できる武士を理想として
学問に励み続けた自己に厳しい松陰の姿が浮かんできます。

その一方で、

「誠朴忠実(せいぼくちゅうじつ)」
「真心実意(しんしんじつい)」
「敦篤朴実(とんとくぼくじつ)」

からは青年らしい純情さや、
友人への温かい思いやりの心が伝わってきます。

他にも

「切偲勤学(せっしきんがく)」
「気節識見(きせつしっけん)」
「休戚隆替(きゅうせきりゅうたい)」

など普段目にすることのないような
四字熟語も多く収録されており、
純粋に知的好奇心がくすぐられるのではないでしょうか。

松陰が綴る四字熟語に心揺さぶられたという著者は、
その凝縮された「四文字の教え」が
混迷にある日本の再生に繋がればとの願いを込めています。

「刻苦勉励」せよとの心を鼓舞する松陰の叱咤を背に、
その気高い精神を学び取りたいものです。

「奇跡の美術館はこうして生まれた」

木曜日, 5月 9th, 2013
  蓑 豊(兵庫県立美術館館長、金沢21世紀美術館特任館長) 

           『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

└─────────────────────────────────┘

金沢市長から(金沢21世紀美術館館長就任の)オファーを
いただいたのは2003年で、六十二歳の時です。

美術館予定地の向かいにあった県庁が移転し、
四千人いた人通りが途絶えたために街は一気に寂れ、
商店街ではシャッターを下ろす店が相次いでいました。

ただ当時、私は大阪市立美術館の館長をしていたので、
両方をやるわけにはいきません。

大阪市長に話をしていただき、それで許しが出れば行きます、
ただし行っても週一回程度ですよと話をしていたんですが、
その割合がいつの間にか逆転してしまいました。

自分でもよく働いたと思います。
学芸員はよく知っているんですよ。
現代美術は人が来ないと。

私は記者会見で、目標は年間四十万人と公言したのですが、
学芸員は「五、六万人入ったらいいほうですよ」と
言うから凄く怒ってね。

「君たち、ここには市民の税金を二百億円も使っているんだ。
  市民全員の四十六万人が来ることを考えろ」

とハッパを掛けました。
とにかく十万人は目途がつかないと安心して寝られないので、
まずは十万人を確保しようと。

それで目をつけたのが、子供たちですよ。
金沢市内には小中学生が四万人いるというので、
じゃあ全員連れてこようと。

初年度から追加予算を認めてもらうのは大変でしたが、
市と掛け合ってなんとか五千万円の予算を取り付け、
全員をバスの送迎つきで無料招待することにしたんです。

次に目をつけたのが美術館の建設に携わった人たちです。
調べてみると延べ二万人、実数三千七百人くらいいると。

その人たちの名前をプレートに刻み
「この美術館の建設に携わった人々」と題を付けて
地下のシアター前に掲げる。

そうすれば、本人はもちろん、その人が家族を連れて
一緒に来てくれるに違いないと考えたんです。

それは彼らの誇りにもなるし、やる気も出てきますからね。
これでさらに一万人は見込めるだろうと。

「ビジネスマン必読、睡眠の法則」

月曜日, 5月 6th, 2013
         菅原 洋平 (ユークロニア代表・作業療法士)  

              『致知』2013年6月号
               連載「大自然と体心」より

└─────────────────────────────────┘

大勢の方に昼間の何時頃が一番眠くなるか聞いたところ、
最も多かったのが午後一時から三時という返答がありました。
本欄をお読みの人も覚えがあるのではないでしょうか。

「昼ご飯を食べておなかがいっぱいなのだから仕方ない」

と思っている方も多いでしょう。
しかし、忙しくて昼食をとる時間がなくても眠くなるのです。

ではなぜ眠くなるか、
それは脳の働きを保つために一日に二回、
大脳を積極的に眠らせるシステムが働くからです。

簡単に言えば、これ以上脳を働かせていては
能率が落ちるからと判断して、眠気を起こさせるのです。

私たちの脳には目覚めている限り
睡眠物質が溜まっていきます。
この睡眠物質が溜まった状態を「睡眠負債」といいます。

睡眠負債が溜まれば溜まるほど脳の働きは低下します。

その睡眠負債がピークになり、
システムが作動する=猛烈に眠くなる、
のが目覚めてから八時間後と二十二時間後なのです。

とはいえ、さすがに会社で横になって
仮眠をとるわけにはいきません。

しかし、椅子に座って目を閉じるだけでも
眠気を減らす効果があることが分かっています。

理想は十分ほど眼を閉じていることですが、
せめて五分、いえ、たとえ一分でも
目を閉じるだけで効果があります。

もう一つ大切なことは、眠くなってから眼を閉じるのではなく、
眠くなる前に目を閉じるということです。

例えば六時起床だとすれば、眠くなるピークは十四時頃です。
ちょうど昼休みが始まる正午に目を閉じるのです。

五分でもそうやって休んでから昼食をとると
噛む刺激で徐々に目が覚め、
気持ちよく午後の仕事に臨むことができるでしょう。

これが昼五分―負債の法則です。

「なぜ日体大は箱根駅伝で優勝できたのか?」

水曜日, 5月 1st, 2013
 渡辺 公二(日本体育大学陸上競技部特別強化委員長)

              『致知』2013年6月号
               特集「一灯照隅」より

└─────────────────────────────────┘
======================================================================
【水野】今年の正月の箱根駅伝は
    日本体育大学が三十年ぶりに総合優勝しましたが、
    お聞きしたところによると、渡辺先生がコーチとして招聘され、
    一年で優勝に導かれたそうですね。
======================================================================

いま私は七十五歳なんですが、七十過ぎたら
もう指導者をやめるつもりでした。家内からも

「これからは人を育てるより、家で野菜を育てて」と(笑)。

ところが、2012年の箱根駅伝では
日体大が襷を繋ぐことができず、
結局、創部史上最低の十九位に終わったんですよ。

別府監督は私が四十年間監督を務めた
西脇工業高校時代の教え子なんです。

また、日体大は私の母校でもあって、
そんなことから私に指導の話がきました。

======================================================================
【水野】昨年は襷を繋げず、今年は優勝というのは、
    一体どういう指導をされたのですか。
======================================================================

いや、大したことは何もしておりません。

四月に、まずは二週間という約束で
横浜まで練習を見に行きました。

合宿所で一緒に寝泊まりしたのですが、
選手たちは夜中の十二時近くまで起きている。
古い木造二階建ての寮でしたから、
話し声が聞こえるんですね。

これじゃいかんと思って、
結局そのまま八月いっぱいまで住み込んで、
夜十時半消灯、朝五時半起床、
これを徹底させました。

※箱根駅伝30年ぶりの総合優勝はいかにして成し遂げられたか?
 選手指導、人間育成のヒントが満載の
 6月号対談記事を楽しみにお待ちください。

「たった一つの命だから」

火曜日, 4月 30th, 2013
 今村 和男(日本人間学会代表理事)  

              『致知』2013年5月号
               連載「生涯現役」より

└─────────────────────────────────┘

一九八五年に日本人間学会を創設された)
高島博先生は、単に議論だけをやっていてもダメで、
人間が生きる上で役に立つものでなければ人間学ではない。
つまり「実学」でなければいけないと常々強調されていました。

実学ということについて、いま日本では
自殺者が非常に多いですね。
なぜ自分の命をもっと大切にできないのだろうか。

そういうことにも当学会は貢献をしなければと考えて、
命を大切にするための運動も行っているんです。

だいぶ前になりますが、十六歳で
この世を去ったお嬢さんがいて、
その方はテニスをやっていました。

ところが骨肉腫になって右腕を切断する羽目になったのです。
そして最後は肺がんで亡くなるんですが、
その時に自分の人生というものを考えたのだと思います。

残った左の手で年賀状を書かれたんですが、
自分の遺言にするつもりだったのでしょう。

そこに「たった一つの命だから」という言葉を書いて
方々に送られました。

これが非常に大きな反響を呼びました。

このお嬢さん、何を考えてそのような言葉を書いたのだろう、
後にどんな言葉を繋げるつもりだったんだろうと、
多くの方がその続きを考え始めたわけです。

たくさんの方からいろんな答えが返ってきます。
たった一つの命だから、もっと希望を持って生きていこう、
おばあちゃんに育ててもらったたった一つの命だから、
おばあちゃんへの感謝をしなければ。

そういった手紙がたくさん届いて、
いま全国で朗読会を開いているんです。
この会は毎回凄い反応なのです。

現在は「たった一つの命だから」という社団法人もできて、
私もその代表顧問をさせていただいておりますが、
ヨーロッパやハワイなどにも運動が広まっているんです。