まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「創発で地域を活かす」

日曜日, 3月 24th, 2013
   斉藤 俊幸(地域再生マネージャー)
              『致知』2013年4月号
                      致知随想より

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東京の自宅を離れ、単身赴任を始めて間もなく十年になる。

その間、熊本で五年、高知で四年を過ごし、
去年の春から愛媛のしまなみ海道に拠点を移した。

私の仕事は、まちづくりを通じて
地方活性化のお手伝いをさせていただく
地域再生マネージャーである。

まちづくりには学生の頃から関心を抱いていた。
東京に生まれたこともあり、都会よりも田舎への憧れが強く、
地元の方々と力を合わせて仕事をしたいという思いがあった。

そこで大学卒業後は一般企業に就職せず、
開発途上国で経験を積んで二十六歳で
地域再生の事業を起こした。

スキルも実績もなかったため、社会の荒波にもまれ、
随分痛い目にも遭った。

「おまえなんかいらない」

何度言われたことだろう。
厳しい言葉を浴びせながらも、
未熟な私と手を組んでくださる方々があったおかげで、
なんとか生きていく術を身につけ、バブル期には
こなしきれないほどの仕事に恵まれるまでになった。

ところが程なくバブルが弾けて仕事は激減、
暗黒の九〇年代を迎えた。

転機となったのは二〇〇二年、
ある大学が横須賀市の商店街活性化のために立ち上げた
「まちなか研究室」に参画したことである。

企画はよかったが、現地の空き店舗に設けた研究室を
どう維持するかが問題になった。

そこで私は、生計の足しにするために習得していた
酒造技術を公開し、設備を原価で提供することにした。

さらに事業費として店主たちから一口一万円を集めて
ファンドをつくり、ワイナリーを設立。
商店街は活力を取り戻し、研究室はいまも
ワイナリーの運営とまちづくり活動を続けている。

このまちなか研究室が評判になり、
「ふるさと財団」からの紹介で総務省の民間人派遣事業に参画。
地域再生マネージャーとして最初に赴任した
熊本県荒尾市の二か所の商店街で、私は貴重な教訓を得た。

最初の商店街では当初、横須賀同様に
ワイナリーの立ち上げを提案したが賛同を得られず、
侃々諤々の議論の末、野菜の直売所をつくることになった。

実は一キロ先にできた巨大ショッピングモールによって
八百屋が潰れた経緯があり、私は一抹の不安を覚えていた。

ところが蓋を開けてみると周辺に住む高齢者の方々が
次々と買い物に訪れた。
あるお婆さんは手を合わせておっしゃった。

「一キロ先のショッピングモールまで歩いて行けないから、
 週に一回タクシーで出かけていました。
 近くに直売所をつくってくれてありがとう」

意図せずして私たちは、高齢化に伴う
「買い物難民」の問題を日本で最初に発見し、
その救済モデルを確立したのだった。

次の商店街でも米蔵の下屋部分に、
同じく野菜の直売所を開設すべく準備を進めていたが、
保健所から壁と天井をつくれとの予想外の指導を受けた。

一緒に開設準備をしていた地元の老人たちに、
とてもそんなお金は捻出できない。

諦めかけた時にあるお爺さんから

「加工品を置く場所だけ壁と天井をつくればよか!」

というアイデアが出て、無事開設に至った。

あいにくこの直売所は、直後に台風で大きな被害を受けた。
しかし自立心を取り戻した老人たちは自ら出資し、
補助金に頼らず新しい直売所を立ち上げ、
日商十五万円を実現。

現地を離れる時は涙が止まらなかった。
私はこの活動で国から地域活性化伝道師の称号をいただいた。

現場にたまに顔を出して机上のプランを押しつけたり、
偉そうにコメントするだけでは問題は解決しない。

補助金を申請してお金が下りるまで待っていたら
機を逸してしまう。

私は常に現地に居を構え、地元の方々と夢を共有して
一緒に汗を流すことを心懸けてきた。

その最中に現場から出てくる声を拾い上げ、
スピード感を持って反映していくことで、
思わぬ道が開けていくのである。

科学の偉大な発見が、失敗から偶然導き出されることが
しばしばある。いわゆる瓢箪から駒、怪我の功名、
金融工学でいう「創発」であるが、この創発こそが
まちづくり成功の鍵を握っていると私は確信している。

現在私は、総務省の地域おこし協力隊として
離島のまちづくりに派遣される若者たちの監督も務めている。
この就職難で、地方に自分の活路を
見出そうとする若者が増えているのだ。

よそ者の彼らは、地元の方々との関係に悩みながらも
優しく育まれ、少しずつ渦を巻き起こしつつある。

彼らの年収は概ね二百万円だが、
これはギリシャやスペインなど、
財政危機に直面するヨーロッパの国民の収入に近い。

そういう条件下で、彼らがまちづくりの
ユニークな成功事例を構築していけば、
世界の諸問題にも打開策を提示できる
グローカルな人材に育つ可能性も大いにある。

そのために大切なことは、人が見向きもしないところで
勝つまで挑戦を続けるような、
あるいは転んでもただでは起きないような執念と情熱である。

彼らの思いが地元の方々を動かし、創発をもたらすのである。

夜明け前は最も暗いという。

長らく低迷の続いた日本であるが、
志ある若者が増えている事実は、
この国にいよいよ夜明けが近づいている兆しだと
私は期待したい。

彼らの背中を押すとともに、
私自身も各地のまちおこしに力を尽くし、
日本再生のお役に立てれば幸いである。

「作家・三浦綾子さんの幸福論」

土曜日, 3月 23rd, 2013
    『致知』2005年10月号
                 特集「幸福論」総リードより

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禅の研究と著述に九十六年の生涯を傾注された鈴木大拙博士が、
こういう言葉を残されている。

「人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって
  信用できるものになれば、それでけっこうだ。

 真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば
 “さよなら”で消えていく。

 このような人を偉い人と自分はいいたい」


平明、しかし深遠な一つの幸福論である。

幸福論の言葉で真っ先に思い出す人に、
作家の故三浦綾子さんがいる。

三浦さんの人生は難病の連続だった。

二十四歳で突然高熱に倒れたのが発端である。
それがその後、十三年に及ぶ肺結核との闘病の始まりだった。
当時、肺結核は死に至る病だった。

入退院の繰り返しの中で、三浦さんは自殺未遂も起こしている。

さらに悲惨が重なる。脊椎カリエスを併発。
ギプスベッドに固定され、動かせるのは首だけで寝返りもできず、
来る日も来る日も天井を目にするのみ。

排泄も一人ではできず、すべての世話はお母さんがした。
そんな生活が四年も続いたとは想像を超える。

そこに一人の男性が現れて結婚を申し込む。
光世さんである。

その日から薄皮を剥ぐように快方に向かい、
二人は結婚する。

綾子さん三十七歳、光世さん三十五歳だった。
そして綾子さんの書いた小説『氷点』が
新聞社の懸賞小説に当選、作家への道が開ける。

しかし、その後も病魔はこの人を襲い続けた。
紫斑病。喉頭がん。

三大痛い病といわれる帯状疱疹が顔に斜めに発症、鼻がつぶれる。
それが治ったと思ったら大腸がん。
そしてパーキンソン病。

この二つを併発している時に、
本誌は初めてお会いしたのだった。

次々と襲いかかる難病。

それだけで絶望し、人生を呪っても不思議はない。
だが三浦さんは常に明るく、ユーモアに溢れていた。

「これだけ難病に押しかけられたら、
 普通の人なら精神的に参ってしまいますね」という
 本誌の質問に三浦さんは笑顔で答えた。

「神様が何か思し召しがあって
 私を病気にしたんだと思っています。

 神様にひいきにされていると思うこともあります。

 特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと……。
 いい気なもんですねえ(笑)」


誰の人生にも絶望的な状況はある。
だが、心が受け入れない限り、絶望はない。

同様に、誰の人生にも不幸な状況はある。
しかし、心が受け入れない限り、不幸はない。

三浦さんの生き方はそのことを教えてくれているように思う。

その三浦さんがこんな言葉を残している。

「九つまで満ち足りていて、
 十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、
 人間はまずその不満を真っ先に口から出し、
 文句をいいつづけるものなのだ。

 自分を顧みてつくづくそう思う。
 なぜわたしたちは不満を後まわしにし、
 感謝すべきことを先に言わないのだろう」

幸福な人生をどう生きるか。各界先達の英知に学ぶ。

「いま現在、一流ですか?」

金曜日, 3月 22nd, 2013
 久瑠 あさ美(メンタルトレーナー)
       『致知』2013年4月号
         連載「読者の集い講演録」より

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「いま現在一流ですか?」

「未来一流で在りたいですか?」

私は普段、渋谷のメンタルルームで
一対一のパーソナルトレーニングを行っているのですが、
これは最初のトレーニングで必ず聞くことです。

皆さんも自分自身に問いかけていただければと思います。

まず、最初の質問に対して
「はい、そうです」と答える方はほとんどいません。

どんなトップアスリートでも
「一・五流ですかね」という感じで、
いまこの瞬間、一流であると答える人は少ないんですね。

それは自分自身の過去を振り返ってしまうからです。
しかし、

「まだ自分は一流ではない。
  でも未来一流になりたい」。

これでは人生を変えることはできません。

大事なのは

「自分はいま一流である」

と決めること。
自分自身が持っている潜在能力は
とんでもなく凄いんだと、イメージすることなんです

「胎内記憶に心耳を澄ます」

木曜日, 3月 21st, 2013
    池川 明(池川クリニック院長)

        『致知』2013年4月号
              連載「生命のメッセージ」より

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(胎内記憶の)情報発信を始めて
十五年くらいになりますが、
この頃ではお産をするお母さんの七割くらいは、
赤ちゃんにおなかの中にいた頃の記憶があることを
理解される時代になりました。

私が初めて胎内記憶のことを知って、
自分の病院で話してみたら、

「うちの甥も、おなかの中にいた時は
  温かくて気持ちよかったと言っていますよ」

「小学生の孫が作文に、おなかにいた時に
  包丁(鉗子)が入ってきて、
  足を掴まれて引きずり出された(帝王切開)と書いています」

なんて言うスタッフがいたのでびっくりしましてね。
翌日から妊婦健診に来られる子連れのお母さんに、

「お子さんがおなかの中にいた時の記憶を
  話すことはありませんか」

と端から聞いてみたんです。

結構多くの方が、
「うちの子しゃべります」っておっしゃったんです。

変な子ってネガティブに捉える方が多かったのと、
親が聞かない限り子供も自分からしゃべらないので
あまり話題にならなかったんですね。

そこで真偽を確かめる際に、
朝日厚生事業団のご縁もあり、
諏訪市と塩尻市のすべての公立保育園で
アンケート調査を実施できました。

すると千六百二十件のご回答のうち、
どちらの市でもおなかの中の記憶を持つ子が三十%、
誕生した時の記憶を持つ子が
二十%もいることが分かったんです
千を超える回答に基づく数字ですし、
異なる地域で同じような結果が出ましたから、
信憑性が高いと思うんです。

その後も興味を持ったいくつかのIT企業が
独自調査を実施しましたが、
やはり同じような結果を得ています。

【村上:子供たちはどんな記憶を語っているんですか】

「暗くて、プカプカしてて、気持ちよかった」
「温かくて柔らかだった」といった胎内の様子や、
「丸くなって入ってたの」
「毎日ずっとねんねしてた」
「ダンスして、キックして、クルンってまわったりした」

と自分のことを話したりします。

また

「パパがオヘソをツンツンしてきたんだよ」
「お父さんとお母さんがケンカをしてた」


といった外の様子や、

「暗いトンネルをくぐってきたんだよ」


と出産時の記憶を語る子もいます。
これは子供の描いた絵(本誌参照)ですが、
子宮の中は温かくて居心地のいい空間だったと
言う子が多いですね。

お母さんの気持ちもすべて伝わるようで、
妊娠中に夫婦の諍いなどでネガティブな精神状態でいると、
冷たかった、寂しかったと言う子もあります。

母親の食べたものに対する好き嫌いについても語りますし、
たばこやお酒はダメなようです。

もちろん科学的に証明することは極めて難しいですから、
そんなことはあり得ない、といった
否定的な意見もたくさんあります。

アメリカではチェンバレン博士の
グループが肯定派ですが、
まだ三百人くらいの団体にすぎません。

向こうの産科の先生とお話ししたことがあるんですが、
医学的に証明されていないということで
全く信じていませんね。

だけど、否定する意見のほうにも
科学的な根拠があるわけではないんです。

「苦しみに感謝」

水曜日, 3月 20th, 2013
  栗城 史多 氏(登山家)
       『致知』2013年4月号
              特集「渾身満力」より

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登山で凄く大切にしているのは
「苦しみに感謝」ということなんです。

苦しみが来た時に、どうやったら
苦しみから逃れることができるのかな
と、山の中でいろいろ試したことがありました。

でも、苦しみから逃れることはできないですし、
かと言って、戦いを挑めば挑むほど、
どんどん苦しくなっていきます。

最後は、この苦しみはもう
自分のお友達なんだと思い始めてから、
スーッと行けるようになりました。

だから、本当に苦しい時は
「ありがとう」
「なんて素敵な経験をさせてもらっているんだろう」
 と言って登っていくことが大切だと思います。

「感謝の気持ちをダンスで表しなさい」

火曜日, 3月 19th, 2013
   岩倉 真紀子(京都明徳高等学校ダンス部顧問)

           『致知』2013年4月号
            特集「渾身満力」より

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私はモチベーションというものを
一番大事にしているんですが、
それを保つには子供たち自身に、
自分もチームの一員なんだ、
自分が頑張れば誰かの力になるんだというふうに
思わせることが大事なのだと思っています。

それでもコンテスト前には、
三分の二がメンバーから外れます。

そこで、選ばれた子には、選ばれなかった子の分まで
三倍頑張りなさいと話をします。
倍じゃ足りん。この子に負けたら仕方がないと
思うくらいの練習をしなさいと。

選ばれなかった子には何が足りなかったかを自分で考えさせ、
そのポジションに入ったつもりで
練習に参加しなさいと言います。

そうすると彼女たちから「もっとこうしてほしい」
といった声が自然と出てくるようになるんです。

私がクラブ運営をする上で大事にしているのが、
全員でダンスをすることと、
周りの人に感謝をすることの二つ。

練習場所を提供してもらっている学校、
自分を支えてくれる両親や友達、
部の礎を築いてくれた先輩、
そういう周りの人に対する感謝の気持ちを
ダンスで表しなさいと言うんです。


自分がミスをしたり、ルールを破ったりすれば
皆にも迷惑が掛かる。
逆にいいことをすれば皆が喜んでくれる。

そうやって自分が人のために何ができるかを考え、
それを子供たちに体験させることが一番だと思うんです。

ただその時に、表現の仕方を知らなかったり、
気持ちを素直に出せないでいる子には、
いま出せる時に出しなさい、
ストレートに出しなさいと指導するんです。

だってもったいないじゃないですか。
やれる可能性があるのに、
恥ずかしいなんて言ってやらないのは。

「伸びる選手の条件」

月曜日, 3月 18th, 2013
   吉田 栄勝 氏(一志ジュニアレスリング教室代表)

            『致知』2013年4月号
             特集「渾身満力」より

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◆その1◆
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「一度負けたくらいでクヨクヨするな」

…………………………………………………

私は沙保里によくこんな話をしてきました。

「もしおまえが途中で負けてしまったら、
 おまえに負けた子がまた泣いてしまうぞ。
 
 だからおまえに負けた子の分まで
 勝たなきゃいけない」と。

 一方、女房は2008年に
 連勝記録が119で途切れた時

「いままでおまえが勝たせてもらったその裏で、
 他の子は皆泣いていたんだよ。
 一度負けたくらいでクヨクヨするな」

と言いました。

 連勝の記録ももちろん大事ですが、
 やっぱり人間、負ける悔しさというのを
 覚えていってこそ、
 本当の成長へと繋がるのだと思います。

◆その2◆
………………………………

「素直な人間が伸びる」

………………………………

以前うちのレスリング教室に、
一万人に一人とも言える逸材がいました。

出る大会出る大会、全部優勝していきました。

ところが彼は、俺は日本一だという
偉そうな顔をしていて、態度が悪い。

その子が本当に強くなるかというと、
やっぱり最後、素直でなきゃだめですね、人間。

俺は偉いんだ、なんて偉そうにしている人間は
もう人が相手にしない。

小さい頃からそういうことをしっかり叩き込んで
おかないと、大きくなってから必ず損をします。

※2012年のロンドン五輪で、国民に勇気と感動を与えた
 松本薫選手と吉田沙保里選手。

 頂点を極めた彼女たちを指導してきた稲田氏と吉田氏。
 選手と共に歩んだ渾身満力の生き方は、
 P16~24の記事をご覧ください。

「ビジネスマン以前に真人間であれ」

月曜日, 3月 18th, 2013
 フランス在住 田崎正光さん(会社役員・60代)
       http://www.chichi.co.jp/news/3651.html

        ●海外でも大勢の方に読まれている『致知』
         世界190か国以上へ送れます

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 26歳の時に青年海外協力隊員を志願して
 3年半を独立直後のバングラデシュの農村で
 野菜栽培の普及に従事して以来、
 政府開発援助計画の専門家として、
 そして、45歳で中途入社した
 民間種苗会社の駐在員として、
 これまで通算するとインドネシア、ブラジル、
 南ア、フランスに28年間を暮らし、
 五大陸の多くの国々を訪問してまいりました。

 野菜の栽培方法を教えたり、
 その地域の条件に適した品種を改良をしたり、
 あるいは高収量・高収益となる品種を普及する
 現地法人の経営が主たる仕事です。

 その間、多種多様な人種や文化(言語、宗教、習慣)の中で
 所期の目標を達成するための方策を模索してまいりました。

 そして、専門化され、知識を細分化した
 あまたのハウツー物のビジネス書を
 いくら読んでも得られえない、
 ビジネスマン以前に真人間であれという、
 人間としての体系的な指針を
 本書『致知』の中でやっと見出すことができました。

 これまで異文化の中で自分なりに試行してきた

 「自分を受け入れてもらいたければ、先ず、
  相手を受け入いれよう」、

 あるいは

 「自分を尊敬してもらいたければ、
  先ず、相手を尊敬しよう」

 というものが、本書で説く
“相互敬愛”や“惻隠”とか“謙譲”と
 言われるものなのでしょうか。

 今週、管掌するロシア、ヨーロッパ、
 中近東、アフリカの商圏の
 マーケッテング担当者に集まってもらい
 会議を催したところ、
 19カ国の国籍を数えました。

 グローバルな市場でビジネスを展開するに、
 本誌から示唆された“和魂洋才”たらんと、
 今後とも学んでゆきたいと存じます。
 宜しくお願い申し上げます。

「デッドライン仕事術」

木曜日, 3月 14th, 2013

 吉越 浩一郎(トリンプ・インターナショナルジャパン元社長)
                
              『致知』2013年4月号
               連載第29回「二十代をどう生きるか」より

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香港での体験は、私のビジネス人生に
大きな影響をもたらした。

現地の同僚に同じ歳の二十九歳のドイツ人がいた。

驚いたことに、彼は着任早々自分の秘書を
探すことから始めたのだ。
日本の会社の常識では考えられないことであり、
私は彼に冷ややかな視線を送っていた。

ところが、いったん仕事を始めると、
彼は自分の仕事をどんどん秘書に振り分け、
私の何倍もの実績を上げ始めたのである。

衝撃を受けた私は、ボスが出張して
時間を持て余していた秘書に頼み、
レターをタイプしてもらうことにした。

私が時間をかけてようやくひねり出した拙い英文を渡すと、
彼女は当時の最新式電動タイプライターに向かうや、
凄まじいスピードでタイプし始めた。

ものの一分も経たないうちに
持ってきてくれたレターを見ると、
見事に洗練された英文に書き換えられている。
私は同僚が秘書を雇った意味が理解できた。

秘書に投資をすることばかりではない。
生きたお金の使い方をして仕事の効率を上げることは、
自分の成長を促し、ひいては会社のために
なることを私は学んだ。

もう一つ学んだことは、
常にデッドライン(締め切り)を設けて
仕事をすることの重要性である。

香港のオフィスには、社主である
トーマス・ベンツが考案した
木製の「デッドライン・ボックス」が
各自に配布されていた。

ボックスの中は月ごとに仕切られていて、
直近三か月の仕切りの中は、
さらに一日から三十一日まで日ごとに区切られている。

会社の仕事にはすべてデッドラインが設けられており、
書類はそのデッドラインの日にファイルしておく。
相手から必ずその日に連絡が入るからだ。

逆に自分が担当のデッドラインのついた
仕事のファイルは手元に置いて片っ端から片づけていき、
終えたものからデッドラインの日に入れておく。

おかげで常にデッドラインを意識して
仕事をする習慣が身についた。

例えば会社の始業時間の一時間前に出社して
ひと仕事する。

始業までに何が何でも終わらせなければ、
それ以降の仕事に支障を来すため、
一所懸命集中して取り組むことになる。

いわゆる“締め切り効果”が発揮され、
時間内にはちゃんと終えることができるのである。
そうして仕上げた仕事は質が低いかというと、
決してそんなことはない。

ダラダラ時間を費やした仕事より格段に質も高い。
そういう集中する仕事のやり方を、
平素からの習慣にすべきなのである。

「君の大義はなんだ?」

水曜日, 3月 13th, 2013
 植木 義晴(日本航空社長)

      『致知』2013年4月号
       特集「渾身満力」より

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【記者:再生の道のりでとりわけご苦労されたことはなんですか】

やはり人の問題ですね。

この会社を立ち直らせるためには、
どうしても一度身を縮める
必要がありました。

私自身も、絶対にこの会社を
立ち直らせるんだ、
絶対に自分を曲げないで
この職を務め上げる、と決意して
執行役員になったわけです。

しかし実際に更生計画案に
記されていたリストラ案というのは、
衝撃的な数字でした。

私自身がこれを本当に
心から納得しない限りは、
周りを説得することはできません。

辛かったですよ、毎日。
自分の同期も後輩も、
ほとんど会社を去りましたし、
心が折れそうになる時もありました。

そんな時、名誉会長から、

「君の大義はなんだ?
 もう一度思い出しなさい」


と問い掛けられたんです。

人間は大義をしっかりと背負った時、
強くなれる。

君の大義はなんだったんだ?
と言われた時、そうだよなと。

「絶対にこの会社を立ち直らせる」
という大義の下に、
私は操縦桿を置きました。

ここでくじけたのでは話にならない。
そう思い直すことができたんです。

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【JALフィロソフィ その2】
 物事を決断するモノサシとは?
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●「人間として何が正しいかで物事を判断せよ」

 物事を決断するときには、いろんな
 モノサシがあって判断を迷いがちです。

 しかし「人間として何が正しいか」という
 モノサシであれば、それ一つで足りますから、
 いろんな決断がスピーディーに
 下せるようになりました。