まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「お母さん」

月曜日, 3月 11th, 2013
titi kinn


   藤本 猛夫(作家、詩人)
            
       『致知』2013年4月号
         特集「渾身満力」より

└─────────────────────────────────┘

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  藤本さんの実家は藺草(いぐさ)の専業農家。

  日中は畑仕事にかかり切りになるご両親は、
  ベッドから一人で起き上がることも、
  車椅子に乗ることもできない
  藤本さんの面倒を見ることができず、
  七歳の時、断腸の思いで病院に預ける決断をした。
……………………………………………………………………………………

入院した日のことはいまでも忘れられません。
「帰りたい」って泣き叫ぶ私を残して、
父と母は看護師さんに促されて病室から去っていきました。

私は保育士さんに抱きかかえられて、
二人の寂しそうな後ろ姿を、窓からじっと見つめていました。

毎晩消灯を迎えると、両親のことが恋しくなるから、
「家に帰る」って泣き叫びましたね。

でもありがたいことに、病院のスタッフの方々が
私のことをとても温かく迎えてくれました。

他の患者仲間たちともたくさん遊んだり、
喧嘩をしたりしながら、深い関わりを持って
生活することができました。

だからこの病棟は私の家で、
一緒に暮らしている人たちは
家族のように思っているんです。

周囲の支えのおかげで、特に病気を
意識することもなかったんですが、
養護学校の小学部を卒業する少し前に、
呼吸する筋力が衰えて人工呼吸器を離せなくなり、
それまで休んだことのなかった学校を
二週間以上も休みました。

その時に、自分の人生は長くないんじゃないかなとか
思ったりして、初めて死というものを
見つめるようになったんですね。

毎週末には両親が自宅から車で一時間半もかけて
見舞いに来てくれていました。

体調がなかなか回復しなくて、
いらだちを募らせていた私は、
母がつくってきてくれたお弁当を
「食べたくない!」って
ベッドのテーブルから払いのけてしまいました。

母は「元気そうでよか」と言いながら、
床に散らばった好物のハンバーグとか
唐揚げを片づけてくれ、帰って行きました。

病室を出ていく母の背中を、
私はやりきれない思いで見送りました。

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  そんな藤本さんの心を癒やしてくれたのが詩歌だった。
  藤本さんの通った病院に隣接する養護学校には、
  詩歌を専門とする教師が在籍していた。

  中学部の一年の時、「母」をテーマに
  詩を書くことになりました。
  私は、週末になる度に手づくりのお弁当を持って
  見舞いに来てくれる母の優しい笑顔を思い浮かべながら、
  こんな詩を綴りました。
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       「お母さん」

 母さんは

 にこにこして病棟にくる

 やさしさが顔にあふれていて

 ぼくは美しいと思う

 ぼくの心はシャボン玉のようにはねてくる

 母さんがいぐさの話をするとき

 母さんのひとみは光っている

 仕事にほこりをもっているんだろう

 ぼくたちは散歩に行く

 母さんはすいすいと車いすをおしてくれる

 みなれた風景だけど

 母さんがいると変わってしまう

 時間がとぶように流れる

 「じゃ またくっけんね」

 ふりかえり ふりかえり

 母さんはかえった

 ぼくは小さい声で

 「母さんのカツカレーはうまかったよ」

 と、言ってみた

これは病気の私をここまで育ててくれた
母に対する感謝の気持ちであり、
母だけでなく父も含めた家族への思いです。

この詩がたまたま熊本県の子供の詩コンクールで
最優秀作品に選ばれて、あるお寺からのご依頼で、
石碑に刻まれ境内に建立されています。

師・棟方志功の教え

月曜日, 3月 11th, 2013
     ~化け物を観ろ、化け物を出せ~
            秋山 巌(版画家)
          
       『致知』2013年4月号
               連載「生涯現役」より

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【記者:棟方志功さんからはどんなことを教わりましたか?】

版画に対する姿勢ですな。
棟方の名を慕って門下に入った者は百人以上いますが、
版画そのものを習ったのは一人もいませんよ。

先生、どんなことに気をつければいいですかと尋ねたら

「人を感動させろ。

 人を感動させるためには
 おまえ自身が感動しなきゃいかん。
 そのためには本を読め」


と。先生はどんな本を読んでいるのかと聞いてみると、
人からもらった本ばかりでした。
柳宗悦や金田一京助といった人たちが年中やってきて、
これを読め、あれを読めと難しい仏教書なんかを
しょっちゅう置いていくというんです。

そうやって棟方はよく本を読むし、
人の描いたものも実によく見ている。

「写真を見ろ、写真を。写真展を見て歩け」


とも言われましたね。

優れた写真は的確に物の焦点を捉えている。
その写真家の撮る構図を取り入れていけば、
絵もうまく描けるようになる。

要するに自分の描こうとするものを見る目が、
彼らと同じレベルにならなきゃダメだということなんです。

そのおかげで、なんとなくではありましたが、
あぁ、この場合はここを焦点にすればいいんだな、
あんまり余計なものを詰め込み過ぎてもダメなんだな、
といったことを覚えていきました。

実はこれは俳句の世界にも通じることで、
種田山頭火の自由律俳句も字が余るものもあれば、
逆に短いものもある。

大事なのは作品の体裁ではなく、
物事をどういう角度から見るかということですね。

それから棟方は、人を見れば

「化け物を観ろ。化け物を出せ」


と言いました。

要するに奇想天外なことをやれということでしょう。

棟方の絵は確かに化け物的なものが多いのですが、
その化け物をどうすれば版画に生かせるのか、
私は年中旅に出て石仏や道祖神を
写生してばかりの日々でした。

「功徳の貯金を積む」

土曜日, 3月 9th, 2013
    塩沼 亮潤(慈眼寺住職)
               
              『致知』2013年4月号
               特集「渾身満力」より

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【栗城】僕は山に行っている時だけ
    頑張るんじゃなくて、
    日常生活の中でも
    汚い言葉は使わないとか、
    何事も当たり前だと思わないで
    感謝の気持ちを持つようにしています。

    そういうことは子供の頃から
    身についていたかなと思います。

    いまでも伊勢神宮参拝や
    母のお墓参りには
    よく行っています。
 

【塩沼】私もお寺の修行僧や職員の
    人たちから「運がいいですね」
    とよく言われるんですね。
 
    人生ですから、いろんなことがあります。

    しかし、すべて転じて福となるんです。

    ある時、
    「なんでそんなに運がいいんですか」
    って突然聞かれたんです。

    いままで考えたこともない質問
    だったので、ふと
    「皆の中で一番言葉遣いが丁寧な人は誰かな」って聞いたら、
        「阿闍梨さんだ」と。

    「じゃあ、皆に一番敬意を払って
     話をしているのは誰だろう」って聞くと、
    「やっぱりそれは阿闍梨さんだ」
    って言うんです。

    私は「たぶんそこじゃないかな」
    って言ったんです。
 
    実は、それができるから私は偉いんだ
    っていう話じゃなくて、
    そこをちゃんとしていないと
    人生裏目に出て痛い思いをするって
    ことを何度も経験しているから、
    怖くてできなくなるんだよって(笑)。

    たくさん失敗して、失敗して、
    やはり大事なのは日常であり、
    自分の心掛け次第なんだということに
    気づいてくるんです。

…………………………………………………
命がけの人生を生きる塩沼氏が
幼少期に母から受けた教えとはなにか?
…………………………………………………

「母は小さい頃から私に二つのことを教えてくれました。
 一つは礼儀。もう一つは他のために生きる。
 この心を、日常何度も繰り返し教育してくれたおかげで
 いまがあると思います」

「松本薫選手が金メダルを取れた理由」

金曜日, 3月 8th, 2013
   稲田 明 氏(帝京豊郷台柔道館館長)

             『致知』2013年4月号
              特集「渾身満力」より

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【稲田】吉田沙保里さんもそうだと思いますが、
    松本薫の場合も金メダルを取るための
    練習をやってきた。

    2位、3位じゃダメだ、
    自分はそれだけの練習をやってきたんだ、
    なんで負けられるか
    という気持ちで戦ったと思うんですよ。

    それが結果に繋がったんでしょうね。

    柔道には体重別の階級制がありますが、
    あの子の場合はパワーもスピードも必要
    だということで、一日にあらゆる階級の
    選手を相手にするんです。

    また他の選手がぶっ続けでこなす
    30分のメニューを、松本はさらに
    2セット多くやる。要するに3倍ですね。

    何がなんでも金を取りたい、
    取るためにどうすればいいのか、
    それを自分で考えてできる選手なんです。

【吉田】そういう選手は伸びますね。

【稲田】実は彼女の帝京大時代にもこんなことが
    ありました。

    ひと月に数回だけ指導に来る
    偉い先生がおられたんですが、
    その方が道場の隅で話をしている選手に
    「おい、何を話しとるんだ! 練習やらんか」
    と大きい声で言われたんです。

    すると真面目に練習していた
    松本がやってきて、

    「先生、柔道は言われてやるものじゃないですよ。
     自分の意志でやるものです」

    と言ったんです。

【吉田】ほぉ。

【稲田】もう私、びっくりしましてね(笑)。

    自分なんかは話もできないような先生ですよ。
  
    本人は一所懸命やっとるもんですから
    耳障りだったんでしょう。

    彼女はそれくらいの強い意識で
    練習に臨んでいる。
    それがあの目に表れています。

【吉田】やっぱり自分の目標を自分でつくって
    挑むことが大事ですね。

    私も沙保里にはレスリングに対する情熱が
    なくなったら、もうやめなと
    言ってあるんですよ。

    人の邪魔になる、人に迷惑を掛けてまで
    やる必要はないと。

    アテネ、北京、ロンドンで金を取ったのは
    あくまで過去の問題で、
    いま現在メダルを取ろうと皆が頑張っている中で、
    嫌だと思いながら練習をするくらいなら
    やめたほうがいい。

    やる以上は世界の頂点を目指し、
    四つ目の金を取る覚悟で頑張んなって。

「命を懸ける姿勢が人を感化する」

木曜日, 3月 7th, 2013
   植木 義晴(日本航空社長)

            『致知』2013年4月号
              特集「渾身満力」より

└─────────────────────────────────┘

【記者:稲盛和夫氏のご指導で他に印象に残っていることはありますか】

数えきれないほどあります。
中でもやはり一番大切にされていたのは、
まずは「責任を持て」ということでした。

この会社ではいままで誰が責任を持って
経営をしてきたんだと。

本部長一人ひとりが自分の本部のことに
100%の責任を持っているのかと。

その責任感がなければ
執行もできないだろう、
と我われに強く訴えかけられました。

会議の場で我われ役員が時間をいただき、
個別の案件について提案させていただいた
時のことは、いまも忘れられません。

そこで名誉会長が見ておられたのは、
説明の内容よりも、それを説明する
我われの「心意気」でした。

これ以上聴く必要がないと判断されれば、
最初の5分で「もう帰りなさい」と。

君の話には魂がこもっていない。

本当に認めてほしいなら、
私と刺し違えるつもりで来なさい。
その気迫のない者は去りなさいと。

ですから5分、10分、なんとか持ち堪えようと
懸命に説明をする。

30分聴いていただいて
ホッと胸をなで下ろしました。

もちろんその上で判断が下るわけですけれども、
そういう「真剣勝負」の場を毎日毎日
過ごさせていただいたことは
本当に大きかったですね。

「知られざる偉人・天野清三郎」

水曜日, 3月 6th, 2013
0010201amano[1]              『致知』2012年11月号
               特集「総リード」より

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天野清三郎は十五歳で松下村塾に入塾した。
四つ年上の先輩に高杉晋作がいた。
清三郎は晋作とよく行動を共にした。

だが、清三郎は劣等感を覚えるようになる。
晋作の機略縦横、あらゆる事態に的確に対処していく姿に、
とても真似ができないと思い始めたのである。

では、自分は何をもって世に立っていけばいいのか。

清三郎の胸に刻まれているものがあった。

「黒船を打ち負かすような
 軍艦を造らなければ日本は守れない」

という松陰の言葉である。

「そうだ、自分は手先が器用だ。
 船造りになって日本を守ろう」


真の決意は行動を生む。
二十四歳で脱藩しイギリスに密航、
グラスゴー造船所で働くのである。

そのうち、船造りの輪郭が呑み込めてくると、
数学や物理学の知識が不可欠であることが分かってくる。
彼は働きながら夜間学校に通い、三年間で卒業する。

当時の彼の語学力を思えば、
その努力の凄まじさは想像を超えるものがある。

しかし、三年の学びではまだおぼつかない。
さらに三年の延長を願い出るが、受け入れられない。
そこで今度はアメリカに渡り、
やはり造船所で働きながら夜間学校で学ぶのだ。

ここも三年で卒業する。
彼が帰国したのは明治七(一八七四)年。
三十一歳だった。

清三郎は長崎造船所の初代所長になり、
日本の造船業の礎となった。
一念、まさに道を拓いた典型の人である。

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「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」

月曜日, 3月 4th, 2013
  中村 久子

致知』2012年11月号
        特集「総リード」より

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その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。

少女7歳の時に父が死亡。

そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、

「ほどいてみよ」

「鋏の使い方を考えよ」

「針に糸を通してみよ」。

できないとご飯を食べさせてもらえない。

少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。

文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。

ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。

それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。

この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。

その人の名は中村久子。
後年、彼女はこう述べている。

「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
  人間としてどう生きるかを教えてくれた
 最高最大の先生であった」

そしてこう断言する。

「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」


折しも弊社から『日本の偉人100人』(上下)が出版された。
登場する百人はいずれも、一念、道を拓いてきた人たちである。

「どん底で私を救った二つの聖句」

土曜日, 3月 2nd, 2013
 山崎 比紗子(ヒサコヤマサキ ネイルスクール学院長)

     『致知』2013年3月号
         連載「第一線で活躍する女性」より

└─────────────────────────────────┘

三菱銀行を結婚退職し、
一児の母として普通の主婦をしていました。

ところが二十六歳になる直前のこと、夜中に倒れ、
朝まで意識不明のまま。夫が起きてきて私を見つけ、
救急車で運ばれたのですが、私がそこで少し気がついたのか、
お医者様の声がかすかに耳に入ってきたんです。

「あなたはもう棺桶に足を半分突っ込んでいます。
 助かるかどうかは気力だけですね」と。

子宮外妊娠だったんですが、当時は発見が遅れて、
二人に一人は出血多量で死亡していたんです。
私は危機一髪、運よく輸血が間に合い手術も成功し、
助けていただきました。

ただその後が大変でした。

何かの瞬間ふっとお医者様の声が耳に蘇る。
すると急に体が硬直したり目まいがしたり
震えが止まらなかったりするんです。

それから二年間は病院通いの毎日でした。
いろいろな症状が出るので苦しくて心配になり、
あちこちの病院に行っては薬を貰い、
いいと言われる健康食品を買い込む。

なんの希望もなく、ほとんど家の中で
寝たり起きたりの状態でした。

     * *

ある日突然見知らぬご婦人二人が
我が家の玄関に立たれました。
そしてそれぞれの方が一枚ずつ、
白い紙をそっと玄関先に置いていかれたんです。

お二人はご近所の方々で、病気で寝込んでいる
私のことを知り、わざわざお見舞いに来てくださったんです。

紙の一枚にはこう書かれてありました。

「明日のことを思いわずらうな
 明日は明日自身が思いわずらうであろう
 今日の苦労は今日一日で十分である」。

そしてもう一枚は

「心を尽くし精神を尽くし 
 力を尽くし思いを尽 くして 
 主なるあなたの神を愛せよ 
 また自分を愛するように 
 あなたの隣人を愛せよ」。


その二つの聖句を見た時、
涙がとめどもなく溢れ出ました。
一体今日まで何をクヨクヨと思い悩んでいたのだろう。

私はただ治りたい、元気になりたいと
自分のことばかり考え、家族や周囲の人たちに
迷惑や心配をかけていたのに全く感謝もせず、
その上自分の不幸を嘆き悲しんでばかりいた。

そんな自分がとても情けなく、
恥ずかしくてたまりませんでした。

今日のことは今日生きているだけで十分なのに、
なぜ明日のことまで思い煩うのか。

今日一日精いっぱい生きなくてはいけないのに、
なぜ明日具合が悪くなったらどうしよう、
死んだらどうしようなんて考えるのか……。

私はなんて馬鹿な生き方をしてきたんだろうと
猛烈に反省しました。

当時は老婆みたいにガリガリに痩せていましたが、
こんな私だけど力いっぱい生きよう、
とにかく今自分が変わらないといけない。

そんなことを思いながら、
その場にへたり込んで号泣しました。
あの時に病気も洗い流されていったのかもしれませんね。

「プロ野球優勝の法則」

水曜日, 2月 27th, 2013
 天野 篤(順天堂大学医学部教授)  

     『致知』2013年3月号
       特集「生き方」より

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【天野】 私も34歳の時、先生と同じように
    「明日から来なくていい」と言われ、
     全くゼロの状態になりました。

     新東京病院も須磨先生という後ろ盾があるにせよ、
     新興で、大病院などにどう立ち向かっていくか
     思案しましたが、そこはやっぱり若さで
     乗り切れたと思うんです。

     そしてその1年くらいの中で確信したのが
    「プロ野球優勝の法則」というものでした。

【南淵】 ほぉ、なんですか、それは。

【天野】 野球のペナントレースでは
     勝率5割5分で優勝するチームもあれば、
     4割5分で最下位に沈むチームもある。

     要するにプラスマイナス十%の差で、
     全部掴むか、全部失うかが決まるんです。
     外科手術も、この10%、
     場合によっては5%をどう出し入れし、
     自分のほうへ引き寄せられるか、
     それによって明暗が決まるのだと。

【南淵】 なるほど。その5%をいかに引き寄せるかですね。

【天野】 そのために大切なのは、相手をよく観察することです。
     アンテナを張って情報をとにかく収集し、
     これまでの経験と知識を総動員して3秒で判断する。
     3秒で次の一手を考える。

【南淵】 判断は数秒でも、大事なのはその前に
     必ず「観察」があるということでしょうね。

     新東京病院で一緒に仕事をさせていただいた時も、
     お互いやり方が細かいところで違っていたのですが、
     先生はそれに対して何も言わずにずっと観ているんですよ。

     へえ、そうやるのか、そうなるのかと、
     常に観察をされていた。

【天野】 私は俯瞰と表現していますが、手術中でも、
     もう一人の自分が鳥のように
     ビューッと上に上がっていって、
    「こうしろ」と体に指令を出すんです。

『この道を行く』

日曜日, 2月 24th, 2013
 坂田 道信(ハガキ道伝道者)

        定価 1,260円(税込)
        → http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=989

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◆ ハガキ道に生かされた40年
==========================================

    *     * 

  むかし むかし
  師を同じくする
  一人の呉服屋さんと
  百姓がいました

  二人は
  めぐまれた境遇では
  ありませんでしたが
  師をしたい
  はげましあい
  心ゆたかに
  生き抜いたそうです

    *     * 

 この「むかしむかし」という詩は
 坂田道信氏が
 寺田一清氏と初めて出会った後に
 書いたものといわれています。

 ここにある「師」とは
 お二人の師である森信三先生のこと。
 この詩を読まれて、
 深く感動された森信三先生は
 次のようなハガキを
 坂田氏に宛てて送られています。

    *     * 

  今朝「むかしむかし」を
  読みおわった時
  私は 思わず
  嗚咽(おえつ) 慟哭(どうこく)を
  禁じ得ませんでした

  唯今(ただいま) 夜の8時に
  再拝読いたしましたが
  やはり滂沱(ぼうだ)たる落涙を
  禁じ得ないでいる次第です
  
    *     * 

 ハガキ道の伝道者として知られる坂田道信氏。

 坂田氏は若き日に森信三先生と出会い、
 ハガキを書くことの大切さを学んでから、
 40年以上にわたって、
 ハガキを書き続けてこられました。

 
 本書には、
 坂田氏がハガキ人生を通して、
 掴まれてきた様々な知恵が語られています。
 

「私は考えられないような
 貧乏でね、病弱でね、
 散々悔しい目に遭ったけど、
 ハガキに出合って
 ものすごくおもしろい人生を
 つくり出すことができた。
 だから私にとってハガキは『道』なんですよ」

 
「森先生は教育とは、
 宗教とはハガキを書くことだと
 しょっちゅう言っていられましたが、
 先生のお弟子さんたちの中には
 書かない人もありました。
 で、私のような頭のよくないものが
 一所懸命書いて森先生に育てられたんです」

「頭がいい人はなかなかハガキをしない。
 ハガキは一対一だから能率悪い。
 能率悪いから苦労するんです。
 だから能率、効率考えてる間はできん。
 しかし一対一でも千回やれば一対千になるんですよ」

 こうした
 楽しいながらも
 本質をついた坂田氏独特の口調は
 読む人をぐんぐんと引き込んでいき、
 無限に広がるハガキ道の世界へと導いてくれます。

 また、文中には、
 東日本大震災で被災されたご友人に宛てたメッセージや
 新たなリーダー像としての「支援者」の生き方、
 日々の暮らしの中で感じられたことなどが
 詩のような文章によって綴られています。
 

 読むと心が洗われて、
 自然とハガキが書きたくなってくるような
 不思議な力を秘めた一冊です。

 良縁を引き寄せる
 ハガキ道の世界に触れて、
 豊かな出会いに満たされた人生を
 歩むきっかけの書にしていただければと思います。