まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

お母さんを「太陽」と呼んだ日本人

木曜日, 2月 21st, 2013
    『日本のこころの教育』より 

                境野 勝悟(東洋思想家)

└─────────────────────────────────┘

僕が小学校の一年のときのある日、
「ただいま」って家に帰ると、
お母さんがいないときがありました。

お父さんに、「お母さんどうしたの?」と聞くと、
「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」と言う。

そして、

「きょうはお母さんがいないから、
 おれが温かいうどんをつくってやる」

と言って、親父がうどんをつくってくれました。
ところが、温かいうどんのはずなのに、
お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。

一方、「ただいま」と家に帰って
お母さんがいるときは僕はいつでも
「お母さん、何かないの?」と聞きました。

すると、母は

「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
 食いしん坊だね。そこに、ほら、芋があるよ」

って言う。

そういうときは決まって、
きのうふかしたさつま芋が目ざるの中に入っていました。

かかっているふきんを取ると、
芋はいつもひゃーッと冷たいんです。
だけれども、お母さんのそばで食う芋は
不思議に温かかった。

これは、もしかすると
女性には理解できないかもしれないけれども、
男性にはわかってもらえると思います。

お母さんが家にいると黙っていても明るいのです。
あたたかいのです。

それで、わたくしたち男は自分の妻に対して、
「日身(カミ)」に「さん」をつけて
「日身(カミ))さん」と言ったんです。

丁寧なところでは、これに「お」をつけて
「お日身(カミ)さん」といったんですよ。

何でしょうか。

この「日身(カミ)」という意味は?

「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
もっと古い言葉では「カアカア」といった。
さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。

「カカ」「カアカア」「カッカッ」
これが「カ」となるんですね。
「ミ」というのは、わたくしたちの身体という意味です。

ですから、「日身(カミ)」とは、わたくしたちの身体は
「カカ」の身体である、「カアカア」の身体である、
「カッカッ」の身体であるという意味なんです。

では、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
古代では一体何を意味したのでしょうか。

「カッカッ」というのは、
太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。
「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。

「カアカア」「カカ」という音も同様です。
つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は
太陽の命の身体であるということを、
「日・身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。

「カミ」の「カ」に「日」という漢字が当てられているのを見れば、
「カ」が太陽のことを意味しているということがわかるでしょう。

「日身(カミ)」とは、
太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。

お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたくしたちの生命を育ててくださいます。
わたくしたちの身体を産んでくださいます。

母親というのはわたくしたちを産み、
その上私たちを育ててくれます。

母親は太陽さんのような恵みの力によって
わたくしたちを世話してくれる。

母親はまさに太陽さんそのものだということから、
母親のことをむかしは
「お日身(カミ)さん」といったのです。

「学校給食に命を吹き込む」

木曜日, 2月 21st, 2013
 佐々木 十美 (管理栄養士)

     『致知』2013年3月号
         特集「生き方」より

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【記者:毎日の給食にはどのような思いを込めてこられたのですか?】

先ほども申しましたが、子供たちに
食材の本当の味を覚えてほしいというのが一番の思いですね。

大人になった時にどんな食材を選ぶか、
どんなお店を選んで何を食べるかを決めるのは
学校給食の経験だと思っているんです。

本当の味ですから魚は骨が入ったものを出しますし、
辛口のカレーも出します。

「食べやすいものを」と言う方もいますが、
決して子供に媚びることはしません。

それで残すことがあっても切り方や味付けを変えて
何度でも出します。
そのことによって子供たちの味覚は磨かれていくんです。

使う野菜にも調味料にも徹底してこだわります。
通年で使うものはタマネギ、ニンジンなど数種類に限定し、
キュウリは夏場のみ、カボチャは冬至を過ぎたら出しません。

旬でないものを食べさせることには違和感があるし、
冬場にトマトやキュウリなど
体を冷やす食材をあえて使う必要もない。

【記者:自ら農家に収穫に行かれることもあるそうですね】

同じ環境で育ったものを
体が一番喜ぶという思いがありますから、
旬のものは極力地元産を使って、
その美味しさを子供たちに伝えたいと思っています。

それでも食材全体からすると
三、四割といったところでしょうか。

限られた予算でやり繰りするのも大変なのですが、
ある時「杏がいくらでもなっているからあげるよ」
と言われて伺ったら、屋根の上だったことがあるんです。

登って収穫して天日干しで杏漬けにしましたけれども、
仕事のためなら屋根にも木にも登ります(笑)。

食材について申し添えておくと、
私たちは挽き肉も最初から自分で作るんです。

数年前、北海道の食肉会社の挽き肉偽造事件が起きましたね。
北海道教育委員会のほうから調査に来られましたが、
うちは一切使っていませんから、
まったく問題になりませんでした。

私はプロとして仕事に責任を持っているし、
何があっても揺るがない姿勢で四十年間やってきたんです。

何かあるとすぐ人のせいにしたくなるでしょう。
誰かがこう言いました、ああ言いましたって。

だけど仕事はすべて自分の責任なんです。
真剣勝負と申し上げたように、
いつ辞表を出してもいいという覚悟でいました。

だから私は怖いものなしです。
保護者や担任の先生がいようと
子供たちがいい加減な食べ方をしていたら、
本気で怒りますから(笑)。

      (略)

よく言われます。

「給食ごときになんでそんなに一所懸命なんだ」って。

だけど、私は自分で納得するまで働かないと
仕事をしたことにはならないと思って生きてきました。

吉助とーうーさーんー!!!

火曜日, 2月 19th, 2013

 

先日11日の建国記念日に、あの「日韓友好海苔」の後藤吉助翁の

八十八米寿のお祝いの式が、銀座服部時計・鳩居堂前のサッポロビルで行われた。

参加予定が、あいにくの急用で叶わず、札幌の近藤社長にメッセージを託しました。

その一文を載せ、今もめている日韓関係を少しでも改善出来ますよう民間で努力して参りましょう。

春には、「倭詩」と同じ出版社IDPから、翁の本が出ます、それも自作自演のCD入りですよ。

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後藤 吉助 さま

 

米寿、八十八歳のお祝い、おめでとうございます。

折角、参加できる予定だったのが、よんどころない用事でお祝いに駆けつけられず、残念でなりません。

「江差追分」を唄って、北海道を思い出して頂こうと思っていたのに、とても悔しい気持ちです。

 でも、さすが男、後藤さんです。

米寿記念を、銀座のど真ん中で開くとは・・・・。

日本の中心で、「私は八十八になった後藤吉助なるぞー!!」と宣言したようなものですね。

誰もが、成し得ないことで、日韓に橋をかける人は、心意気が違います。

 

 後藤さんとのお付き合いは、札幌のブライダル愛の社長・近藤さんから韓国海苔のご紹介を受けてからで、

5年ほど前のことでしょうか。

お会いしたその日から、何か懐かしい親父のような感じを受け、

心の中で、義理の親子の契りを結んだ訳です。

 

森下自然医学の海外特別会員として、毎月送られて来る月刊誌に目を通うされ、

連載されている私の『倭詩/やまとうた』を読まれた感想を、

お電話で必ず語ってくださいます。

その義理堅さには頭が下がります。

そして、いつぞやかお招きに預かって、

隅田川の屋形船で江戸情緒をともに味わった印象は、今もって忘れられません。

 

道東阿寒の寒空のもとで過ごした開拓団で苦労された少年時代。

逃げて来た朝鮮の強制労働者を匿って、官警の手から逃がしてやったご両親の姿が、

瞼に焼き付いたのです。

「神仏の前に、人は平等で差別なし」という無言で説く正義の教えを、心に刻まれたのでした。

それが今日、韓国に住まわれて両国友好の橋に自らがなろうとした種火でした。

吉助少年の胸にご両親が灯されたのです。

 

先日、電話越しに、自ら作詞作曲して唄う『母を慕い、讃える歌』に、

不覚にも涙を流してしまいました。

私は、中学生で母を亡くしましたが、未だに母への想いは断ち切れず、

我が家内の子供を案ずるその心が二重写しで迫って来て、

母の有難さが胸に込み上げて来て泣いてしまいました。

八十八になっても、なおも母の恩、母の愛を思える至純でやさしいお心に感銘したのです。

 

1、   聖なるいのち授かりぬ 手塩にかけて育みつ

 両手を合わせ初詣で 行く末祈る母心

2、   清く正しくたくましく 泣いたら負けよ人生は

 骨身削って汗流せ 人の鏡が母心

3、   聞こえて来るよ 幼な時に 歌ってくれた子守唄

 優しい声が今もなお 瞼に浮かぶ母心

4、   海より深く山よりも 高く尊い親の恩

 導きたりし人の道 ああ・・讃えなん母心

      お母さん・・・・・・。

 

名詞名曲ですね。だれか有名演歌歌手が歌ってくれないでしょうか。

世を清める一服の清涼剤となるでしょう。

 

飛行機の中でも、日韓友好のハッピを着て、人類みな兄弟なることを訴えています。

そして首からはご両親の写真をぶら下げながら、

片時も親を忘れまいとする姿は尊くあります。

これが、言葉が違えども、肌が異なるも、親子の愛は変わらず、

親思いの心こそ、世界平和の絆、人類友好の礎なのです。

 それを、実践している後藤翁こそ、われわれの先達であり、鑑であり、目指す人なのです。

 

ありがとうございます、後藤さん。

感謝します。後藤さん。

あなたがいらっしゃることで、どんなにか生きることに勇気付けられ、

世の中の誠を知り、人の世に希望を抱くことが出来たでしょうか。

 

ありがとうございます。

これからも、そのお丈夫な体で、卆寿、白寿、天寿(120歳)・・・

まだまだ、まだまだまだ・・・生きて、私たちの灯台となってください。

煌々と照らして、世を導いてください。

 がんばれ!!!吉助とーうーさーんー!!!!!!

 

                     

              札幌 株式会社 まほろば

                     宮下 周平 記す

 2013.2.11.

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「奇跡の鳥・ダチョウ」

月曜日, 2月 18th, 2013


 塚本 康浩(京都府立大学教授、「オーストリッチ・ファーマ」社長)

      『致知』2013年2月号
              致知随想より

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意外に思われるかもしれないが、いまダチョウが
「人類を救う鳥」として注目されている。

ダチョウの抗体が花粉症やノロウイルス、
新型インフルエンザ、アトピーなどを撃退する
働きがあると分かってきたからだ。

私がダチョウの研究を始めたのは約十五年前。
物心ついた時から「鳥少年」で、
家ではずっと鳥を飼い続けてきた。

鳥好きが高じて大学は獣医学科に進み、
大学院で博士課程を修了。
そのまま大学教員に就任、
研究テーマを探しているところだった。

神戸にダチョウを飼っている牧場がある、という話を聞き、
私は少なからず興奮を覚えた。

初めて動物園でダチョウを見たのは小学生の時。
「こんな大きな鳥はマンションでは飼えないなぁ」と思い、
手の届かない遠い存在だと思っていたからだ。

「牧場は儲かっていないみたいだから、
 もうすぐ閉めるかもしれない」
という話を聞き、私は翌日から牧場通いを始めた。

鳥は人生最大の趣味とはいえ、私も研究者だ。
ダチョウの行動を観察し、いままで誰も気づかなかった
規則性を発見して、論文にまとめようと考えていた。

ところが、である。

ダチョウはそれまでの私の鳥に対する知見を覆す
常識破りの鳥だった。 

そもそも彼らに規則性はない。
いつも何も考えず右へ左へ動き回っている。
いきなり崖の頂上へ駆け上がったかと思うと、
パニックになり、足がすくんで動けなくなる。
そんなダチョウを何羽助けたか分からない。

また、一般的に鳥はきれい好きである。
毎日せっせと毛づくろいをし、
寝る前に水浴びをする鳥も多い。

体を清潔に保つことが、
病原菌から身を守ることを知っているのだと思う。

ところが、ダチョウは違う。
体の汚れは全く気にしない。

汚れたら汚れっ放し。
糞を付けたまま走り回っていることもある。
しかしそれでもダチョウの平均寿命は六十年。
破格の生命力である。

彼らは暇になると隣のダチョウの羽をむしりとるが、
そこにもなんの意味もない。
されているダチョウも何も気にせず餌を食べ続けている。

そこに血の匂いを嗅ぎつけたカラスが現れ、
餌だと思い、ダチョウの肉を喰い千切る。

獣医として縫合手術が必要だと思うくらいの重傷でも、
消毒をすれば三日後には皮下組織が復活し、
一か月後には新しい皮膚が再生する。

私はダチョウの傷口の組織を大学に持ち帰り、
顕微鏡で調べてみた。

なるほど、他の動物よりも細胞の動きが速かった。
また傷口から感染症になることがないのだから
免疫力も相当強いのだろう――。

ここで私は研究の方針を大転換した。
行動生物学的な成果よりも、
ダチョウの抗体を利用できないかと思ったのである
(そこに至るまでに実に五年の歳月を費やしたのだが……)。

原始的な生物から人間を含む哺乳類まで、
体の中に異物が入ると、これを除去しようとする
タンパク質の分子をつくる。これを「抗体」という。

一方、異物のことは「抗原」と呼ぶ。

当初、ダチョウからこの抗体を取り出すために、
実験の都度ダチョウ一羽の命をいただくなど相当苦心した。
そして、ある時から卵に着目し始めた。

仮にインフルエンザの抗体をつくりたいとしよう。

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「土光敏夫氏に教わった経営と人生」

月曜日, 2月 18th, 2013
平林 武昭 (日本システム技術社長)

        『致知』2013年2月号
            特集「修身」より

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昭和三十七年、私が石川島播磨重工業に
入社した時の社長が土光さんだったんです。

その頃は瀕死の重傷に陥った
石川島播磨の経営再建を成し遂げて
社会的に注目を集めていらっしゃいましたが、
そういう人と偶然とはいえ、
巡り合えたのは幸せだったと思います。

格調高き人物に出会いの縁・運があった。
縁とか運とか目に見えないものを大切にすることで、
道がひらかれるのではないでしょうか。

土光さんと私はまったく次元が違うし
比較にもならんのだけれども、共感するところがありましてね。

一つには土光さんは岡山市、私は播州赤穂と故郷が近いんです。
そして信仰篤い家柄、なおかつお互いに農家の出でしょ。
春夏秋冬、とにかく休む暇なく
百姓仕事に汗したことも土光さんに共感した理由です。

それに、土光さんは受験の挫折とか代用教員を経て
大学に入るなど随分苦学されたようですが、
私も学区制を破って隣県の高校を受験しようとしたり、
親元を離れて千葉の高校に転校したり
向学心が旺盛でしたから、そういう点でも
親しみを感じるものがありました。

入社して間もなく我われ東京・豊洲
(当時は東京砂漠といわれていた)の
工場の新入社員五、六人で経営の勉強会を始めました。

ところが、ある時「経営は学か術か」というテーマで
社長の土光さんに一度講義をしてもらおうじゃないか
という話になりましてね。

新入社員のプライベートな勉強会なんか
普通、トップは来ませんわ。

ところが土光さんは実行の人ですよ。

勤務後、バスに乗って本社からやってこられたんです。
考えたらこれは大変なことでね。
私も「やはりただ者ではない」という思いを強くしました。

いまでも覚えていますが、

「議論する時は対等だ。同じ社員だ」

とおっしゃるんです。

大企業の社長と新入社員が対等なんてありえないでしょう。
でも土光さんは私たちの考えに
謙虚に耳を傾けてくださいました。 

あの方は根っからの技術者なんです。
日本を技術立国にしようと努力した方だけに
技術者を凄く大事にされました。

工場視察に行くと普通のワーカーたちに
「ここはどうなっているのだ」と気さくに聞いて回られる。
それが楽しかったようですね。

労働組合の団交にも自ら行って腹を割って話された。

とにかく偉く見られようとか、地位に固執するとか、
そういう素振りは一切なかったし、
謙虚な姿勢は九十二歳で亡くなるまで変わりませんでした。
そういう姿を見ると誰だって信奉します。
素晴らしい傑物でしたよ。

「ローマ法王に米を食べさせた公務員」

金曜日, 2月 15th, 2013
  高野 誠鮮(羽咋市役所ふるさと振興係) 

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より

└─────────────────────────────────┘

私は日本人の気質や人間の心理というものを考えて、
いつも戦略を立てるんですね。

日本人ほど近い存在を過小評価する民族はいないんです。
近くに素晴らしい宝の原石があっても
遠くにあるもののほうが素晴らしいと評価する。

また、人は自分以外の人が持っているもの、
身に着けているもの、食べているものを欲しがるんです。
で、その相手の影響力が強ければ強いほど
メディアも取り上げるし、ブランド力が上がる。

要するに、誰がいつも食べていたら
消費者は勝手に神子原(みこはら)米を
ブランドだと思ってくれるかを考えました。

まずはここは日本ですから、天皇皇后両陛下です。
うちは「神子原」で、「皇」に「子」と書いて
「皇子」と読むからゴロもいい。

もう一つは、「神子原」を英語に訳すと
「the highlands where the son of God dwells」となって、
「イエス・キリストが住まう高原」となるんです。

ならば、キリスト教で最大の影響力のある人は
誰かといえば、ローマ法王だと。

で、最後にアメリカは漢字で書けば「米国」ですから、
アメリカ大統領に食べてもらうと、この三本柱を立てました。

まずは天皇皇后両陛下です。
羽咋市のある石川県は旧加賀藩になるわけですが、
宮内庁には加賀前田家十八代目にあたる
前田利佑さんがいらっしゃることを掴んでいました。

早速市長と一緒に宮内庁を訪ね、
前田さんに天皇皇后両陛下に神子原のお米を
定期的に食べていただけないかと直談判したんです。
山の水だけでつくった安全でおいしいお米ですと。

すると、あっさり
「いいですね。料理長にお願いしましょう」とおっしゃる。

いきなりOKですよ。

市役所に電話して「成功したぞ」と電話しまくって、
ホテルでどんちゃん騒ぎしていました。
もう私の頭の中には真ん中に金色の菊のご紋と
「天皇皇后陛下御用達米 神子原米」という昇り旗と
ポスターが完璧にでき上がっていたのですが、
部屋に戻ると伝言メッセージのランプが点滅している。

宮内庁からで「さっきの件はなかったことにしてくれ」と。

陛下が召し上がるのは「献穀田」からのお米だけと
決まっていて、そこに新たに加えることは難しいという理由でした。

まあ、一瞬はガクっときましたが、すぐに切り替えて、
次はバチカンのローマ法王様にお手紙を書いたんです。

「山の清水だけでつくったおいしいお米がありますが、
  召し上がっていただく可能性は一%もないですか」と。
 しかし一か月たっても音沙汰なし。二か月目も何もない。

ダメだ、ならば次に行こうと。
当時はブッシュ大統領の時代で、
テキサス州にあるパパブッシュの自宅住所は掴みました。
そこに届けてもらおうと、アメリカ大使館に頼みに行ったんですね。

ところがその交渉のさなかにローマ法王庁から連絡が入り、
「来なさい」と。
そこで今度は市長と町会長と三人で
四十五キロの米を担いで駆けつけました。

新米をお出しして、これを法王に
味わっていただきたいと申し上げると、大使は
「あなた方の神子原は五百人の小さな集落ですよね。
 私どもバチカンは八百人足らずの世界一小さな国です。
 小さな集落から小さな国への架け橋を、
 私たちがさせていただきます」とおっしゃったんです。

で、このことを地元の北國新聞と
カトリック新聞が取り上げたんです。
そうしたら二日後、聖イグナチオ教会のバザーの関係者と
名乗る品のいい奥様からオーダーのお電話があって、
ものすごい量の注文がありました。しかもこちらの言い値で。

ここから全国紙やテレビでも
「ローマ法王御用達米」として取り上げられ、
それまで一粒も売れていなかった神子原米は
一か月でなんと七百俵も売れたんです。

一方で、最も売れる時期に売らなかったことも
ブランド米になるための一つの戦略でした。

幻の教科書『実語教』

木曜日, 2月 14th, 2013
  齋藤 孝 (明治大学教授)  

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より
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「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」

――福沢諭吉『学問のすゝめ』の冒頭にある有名な言葉です。
諭吉はここで、人間はみな平等につくられていることを
高らかに宣言しています。

しかし、そのすぐ後に

「されども今広くこの人間世界を見渡すに、
 かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、
 富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、
 その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」

といって、この世の中に貧富や貴賤の差があることを
指摘しているのです。

なぜ平等に生まれたはずの人間に、差ができてしまうのか。
諭吉はその理由を次のようにいっています。

「『実語教』に、人学ばざれば智なし、
 智なき者は愚人なりとあり。

 されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに
 由て出来るものなり」

『実語教』に

「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」

という言葉があるように、賢い人と愚かな人の差は
学ぶか学ばないかによって決まるのだ、というわけです。

さらに、世の中には医者や学者や政府の役人や
経営者などの難しい仕事もあれば、
力仕事のような簡単な仕事もあるが、
難しい仕事にはどうしても学んでいる人がつき、
学んでいない人には簡単な仕事しか回ってこない、
と非常に具体的に述べています。

つまり、しっかりした仕事につきたいのならば、
一所懸命に勉強して智恵を身につけなくてはいけない。
それは『実語教』に書かれているとおりだ、というわけです。

日本の近代を開いた『学問のすゝめ』は、
『実語教』を下敷きとして書かれたものだったのです。

この『実語教』という本は、
平安時代の終わりにできたといわれます。

弘法大師の作という説もありますが、
本当のところは分かりません。

子供たちの教育に使われ、鎌倉時代に普及し、
江戸時代には寺子屋の教科書となりました。
なんと千年以上も受け継がれてきた子供の教科書なのです。

なぜ『実語教』がそれほど重宝されてきたかというと、
学びの大切さ、両親・先生・目上の人への礼儀、
兄弟・友達・後輩との付き合い方など、
人間が世の中で生きていく上で欠かせない
大切な智恵が詰まっていたからです。
そのいくつかを紹介してみましょう。

富は是一生の財、身滅すれば即ち共に滅す。
智は是万代の財、命終れば即ち随って行く。

(富は自分が生きている間は大切なものですが、
 死んでしまえば墓の中まで
 持っていけるものではありません。

 それに対して智恵は万代も後まで残るものです。
 自分が死んでも、子孫へと受け継がれていくものなのです)

「プロフェッショナルの条件」

木曜日, 2月 7th, 2013

  天野 篤 (順天堂大学医学部教授) 

                『致知』2013年3月号
                特集「生き方」より
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プロフェッショナルとは、
より高みを目指す人だと思います。

プロスポーツにしても、とにかく記録を目指す。
前の記録よりも、よい記録を。
そして高いところに登った時に見える景色を
自分の中で謳歌できる人。

その景色を見た時、その空気を感じた時に、
前とは違う自分を感じている。
そしてまた次の新しい空気を感じてみたいと感じる。
それが本当のプロだと思うんです。

私は患者さんとのコンタクトもそうですが、
いまもまさに自分の手術を極めるために、
無駄と思うものは徹底的に削ぎ落とすようにしている。

そのことが最終的には、自分が世の中に対してできる
精いっぱいの貢献になるだろうと思うんです。

そんなふうに至った過程を申し上げると、
小学校の頃はそれなりに勉強ができたんですよ。

でも中学校へ通い出すと、
異性とか運動とかに興味を持ったり、
いろんなものに出合うじゃないですか。

そんな成長過程の中で勉強というものが下位に沈んでいって、
それをコツコツやることができなかった。

ところがちょうど一年前に『致知』の中で
「一途一心」という言葉に出合い、
そこに「コツコツは一途一心と同義である」と書いてあって、
これだと思った。

やればできると思っていた勉強が、
やってもできなくなった。

同じ努力をしていても抜かれてしまう。
それでも卑屈にならず、ひたすらに、ひたむきに
一つのことに打ち込んでいると、
あぁこれならできるというものが見つかるんですよ。

そして「やればできるじゃないか」という気持ちを
再び呼び起こしてくれるのだと思うんです。

「言葉は丁寧に使おう」

水曜日, 2月 6th, 2013

   腰塚 勇人 (「命の授業」講演家) 

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より

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実は怪我をするまで、僕は競争が大好きな人間でした。
「常勝」が信条で、人に負けない生き方を
ずっと貫いていたんです。

だから「助けて」なんて言葉は口が裂けても言えない性分でした。

それが怪我ですべて人の手を借りなければ
ならなくなりました。
僕が一番したくない生き方でした。

苦しいし、泣きわめきたいし、「助けてっ!」って
言葉が口元まで出かかってくるけど、
プライドが邪魔してそれを言わせない。

ここで弱音を吐いたら、家族に余計に
心配をかけてしまうと思うと、
なおさら言えませんでした。

皆に迷惑をかけた分、なんとかしたいって
気持ちでいたんですが、そのプレッシャーや苦しさに
押し潰されそうになってしまって……
僕はとうとう舌を噛んだんです。

自分の未来に絶望感でいっぱいでした。
本当は死にたくなんてなかったんです。
でも首から下の動かない人生、
生き方が分からず苦しかったんです。

だけど結局、死に切れなかった。
あとには生きるという選択肢しかなくなりました。
じゃあ明日から前向きに生きられるかといったら、
それは無理です。

自分を押し包む苦しさが
なくなったわけではありませんからね。

次にしたことは将来を手放すことでした。
自分の将来に期待するから苦しむ。
だったらその将来を手放してしまえばいい。
周りに何を言われても無反応になりました。

そんなある晩、苦しくて寝つけないでいると、
看護師さんが声をかけてくれました。

「腰塚さん、寝ないと体がもちませんよ。
  睡眠剤が必要だったら言ってね」

って。その言葉に僕の心が反応しちゃったんです。

おまえに俺の気持ちが分かってたまるかって、
無意識に彼女をグッと睨みつけていました。

その看護師さんは素敵な方でね、
僕の様子にハッと気づいてすぐに言ってくれたんです。

「腰塚さんごめんね。
 私、腰塚さんの気持ちを何も考えずに、
 ただ自分の思ったことを言ってたよね。

 でも腰塚さんには本当に少しでも
 よくなってもらいたいと思っているから……、
 なんでもいいから言ってほしいです。
 お願いだから何かさせてください」

看護師さん、泣きながらそう言ってくれたんです。
彼女が去った後、涙がブワッと溢れてきました。
あぁ、この人俺の気持ちを分かろうとしてくれてる。
この人にだったら俺、「助けて」って
言えるかもしれないって思えたんです。

それまで僕は周りからずっと
「頑張れ」って励まされていました。

僕のことを思って言ってくれているのが
分かるから決して言えなかったけど、
心の中は張り裂けそうでした。

俺、もう十分頑張っているんだよ……、
これ以上頑張れないんだよって……。

だから救われたんです。
あの時以来、凄く思うんです。

人の放つ一言が、人生をどうにでも
変えてしまうんだなって。

だから自分は言葉を丁寧に使おう。
言葉をちゃんと選んで、丁寧に使おうって。

※腰塚氏はこの後、さまざまな人との出会いを経て
 見事社会復帰を果たし、自らに対して「5つの誓い」を
 立てます。深い悲しみを乗り越えて誓った
 5つの人生信条とは?

「王監督から学んだプロのあり方」

火曜日, 2月 5th, 2013

  小久保 裕紀 (元福岡ソフトバンクホークス選手)

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より

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僕がプロで成功した一番の要因は
王監督との出会いだと思っています。

亡くなられた根本陸夫監督の後を引き継いで
ダイエーの監督に就任されたのは
僕がプロ二年目の時でした。

その出会いからトータルで十五年、
王監督の下でプレーさせてもらったんですけど、
僕はその教えを忠実に守ることを心掛けてきました。

王監督からは例えば「楽をするな」って教わったんですよ。
「練習の時に楽をするな。練習の時に苦しめ」と。

練習は普通センター返しが基本と言われていて
大方の選手はそうしているわけですけど、
僕の場合は王監督から

「ボールを遠くに飛ばせ。
  それにはバットを振った時、
 背中がバキバキと鳴るくらい体を百二十%使え

と言われました。

皆、練習の時は適当にやって、
試合で百%の力を発揮しようとするのですが、
これは間違いだということがいまはよく分かります。

王監督のことでは強く印象に残っていることがあります。
怒ったファンからバスに卵をぶつけられたことがありました。

忘れもしません、九六年五月の日生球場での
公式戦最終日です。

負けが続いていて、怒ったファンの方が
たくさんの生卵を僕たちのバスに投げつけられたんです。
卵が飛び散って外の景色が見えないくらいだったのですが、
そんな時でも王監督はどっしり構えて絶対に動じられなかった。

後ろをついていく人間としてリーダーが
ここまで頼もしく思えたことはなかったですね。

帰ってからのミーティングでも

ああいうふうに怒ってくれるのが本当のファンだ。
 あの人たちを喜ばせるのが俺たちの仕事なんだ。
 それができなければプロではない

とおっしゃいました。

僕はまだ人間が小さいですから
「あんなやつらに」とついつい思っていたのですが、
それだけに絶対に言い訳をしようとしない
監督の姿には学ばされました。