まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「私の鼓動を止めてしまうほどの感動」

日曜日, 2月 3rd, 2013

        堀内 永人 様(静岡県三島市在住 82歳 作家)

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■はじめに
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人は馬齢を重ねると、経験が豊かになり、
少々のことには動じなくなる反面、頑固にもなる。

80歳を過ぎて「世捨て人」ならぬ
「世拗(す)ね人」となった私は、
新聞やテレビで報道される若者たちの生態を見て、
「近頃の者はなっておらん」
とかなんとか言って、腹を立てることが多く、
感動することは、すっかり忘れてしまった観がある。

そんな折、三戸岡道夫先生
(作家、『二宮金次郎の一生』の著者)から、

「ちょっとした小話のネタにいいと思いますので、
 ご参考までにお贈りいたします」

と、書かれた便箋が添付されて、1冊の本が送られてきた。

その本の題名は、

『心に響く小さな5つの物語』
(藤尾秀昭著、致知出版社、価格は1,000円)

俳優の片岡鶴太郎氏の筆になる挿し絵が、
随所にちりばめられた上製本で、
巻末の「あとがき」まで入れて、77ページ。

ちょっとの空き時間を利用して、気軽に読める本である。

一見、詩集と見紛うばかりのこの可愛い本が、
私の鼓動を止めてしまうほどの感動を与えようとは、
このときはまったく思いもしなかった。

………………………………
■最初のおどろき
………………………………

それから、数日後の夜、私はベッドに横になり、
この『心に響く小さな5つの物語』を開いた。

本は、14ポイントくらいの大きな活字で、
しかも、1行25字、1ページ8行、
1ページ平均100字くらいの文字数である。

視力の衰えた私にも、老眼鏡なしで、らくらくと読めた。

第1話は、小学生の作文を引用して書かれてあり、
2分足らずで読んでしまった。

「そうか! この作文を書いたのは、
 小学6年生の時の鈴木一朗君か。

〈栴檀(せんだん)は二葉より芳し〉
というが、これは、この少年のためにある詞(ことば)だったのか」

第1話を読み終えた私は、目を閉じ、大きく深呼吸して、
胸の高鳴りを抑えた。

それほど、感動したのである。

続いて第2話も、あっという間に読んでしまった。

読み終わった私は、言葉や文字では表現できないほどの、
大きな感動が胸いっぱいになり、胸がジーンとなった。
口を利けば、涙がこぼれてきそうだった。

ここ10年、いやいや80余年の人生のうちで、
これほど大きな感動を受けた本があっただろうか。

隣りのベッドにやすんでいた老妻が、
私の挙動をいぶかしんで起きあがり、

「どうかなさいましたか?」

と、声をかけてきたほどである。

私は、声が詰まり、返事ができなかった。

「いや、なんでもない」

それだけ言うのがやっとだった。
口を利けば涙がこぼれそうで、それ以上は言えなかった。

私は、本を両手に持ったまま両眼を閉じ、
しばらくの間、胸の高まりの静まるのを待った。

一呼吸の後、私は、

「先日、三戸岡先生からいただいた、
 この『心に響く小さな5つの物語』を読んで、
 久し振りで感動した。胸が熱くなった。
 実に素晴らしい本だ。

 字も大きくて、平易なことばで書かれているので
 とても読み易い。
 年寄りから小学生まで読めるとてもいい本だ。
 あとで読んでごらん」

そう言って、表紙を老妻に見せた。

老妻は、日頃「冷血動物」と揶揄(やゆ)されている私が、
珍しく涙ぐんでいたので怪訝な顔をして、

「そう、どんな内容の本ですか?」

と言って、螢光灯スタンドの灯りに照らされた表紙と私を、
半々に見ながらベッドに戻った。

この『5つの物語』を読んだ、
青森県の中学3年生の小崎絢加(おざき あやか)さんは、

私が、この物語を読んですばらしいなと思ったのは、
物語自体は、この大きな世界で、小さな小さな物語だけども、
この物語を通して私の心に響いてくるものは、
とても大きなものということです。(後略)

と、感想文に書いている。

(致知出版社、『5つの物語新聞』、平成22年7月15日号所収)

安岡正篤師の語録のすべてを凝縮した2つの教え

水曜日, 1月 30th, 2013

     『安岡正篤 心に残る言葉』
                藤尾秀昭・著より

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私自身が安岡先生の本を二十四冊もつくってきて
感動した言葉の中から、いくつか紹介して
終わりにしたいと思います。

安岡先生は

「人間は短い言葉が大事だ。
  人間は短い言葉によって感奮興起していく」

と言っています。これも名言ですから、ちょっと読んでみます。

「われわれの生きた悟り、心に閃めく本当の智慧、
  或いは力強い実践力、行動力というようなものは、
  決してだらだらとした概念や論理で説明された
  長ったらしい文章などによって得られるものではない。

  体験と精神のこめられておる
  極めて要約された片言隻句によって悟るのであり、
  又それを把握することによって行動するのであります」

そういう意味で、私が大好きな言葉をこれから紹介します。

最初の一つはこういう言葉です。

「日常の出来事に一喜一憂せず、
  現在の仕事を自分の生涯の仕事として打ち込むこと、
  そして、それを信念にまで高めなければ自己の確立はあり得ない」

皆さん、これは名言ですよ。

覚悟を決めない限り、何も得ない人生になります。
覚悟を決めたら、あらゆる問題が
全部自分のほうに向かってくるんですね。
そういう覚悟を持って、
人間は仕事に打ち込んでいかなければいけない。

次の言葉は『安岡正篤一日一言』の三月九日に載っています。

この『安岡正篤一日一言』という本は、
安岡正篤先生の数多くの著作の中から
特に心に響く言葉を三百六十六選んだものですが、
その語録のすべてを凝縮した教えを示せといわれたら、
これから読む二つの言葉に要約できると思っています。

まず一つ目はこうです。

「何ものにも真剣になれず、したがって、
  何事にも己を忘れることができない。
 満足することができない、楽しむことができない。

 したがって、常に不平を抱き、
 不満を持って何か陰口を叩いたり、
 やけのようなことを言って、
 その日その日をいかにも雑然、漫然と暮らすということは、
 人間として一種の自殺行為です。

 社会にとっても非常に有害です。毒であります」

こういう人間になってはいけないと言うことですね。

じゃあどういう生き方がいいのか。

九月二十二日と二十三日にその答えが載っています。
これは二日で一つの言葉になっています。

「いかにすればいつまでも進歩向上していくことができるか。
 第一に絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということです。
 純一無雑の工夫をする。

 純一無雑などと申しますと古典的でありますが、
 近代的にいうと、全力を挙げて仕事に打ち込んでいく、
 ということです」

「人間に一番悪いのは雑駁【ざっぱく】とか
 軽薄とかいうことでありまして、
 これは生命の哲学、創造の真理から申しましても
 明らかなことでありますが、
 これほど生命力・創造力を害するものはありません。

 また生命力・創造力が衰えると、
 物は分裂して雑駁になるものであります。
 これがひどくなると混乱に陥ります。

 人間で申しますと自己分裂になるのです。
 そこで絶えず自分というものを
 何かに打ち込んでいくことが大切であります」

これは人生の要諦だと思います。

何かに真剣に打ち込んでいくから、
人間は絶えず進歩、成長するんです。
毒みたいな生き方を絶対にしてはいけないという、
これは安岡先生の生き方の根本ではないかと思うんですね。

「あずさからのメッセージ」

日曜日, 1月 27th, 2013

   是松 いづみ (福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)

                『致知』2013年2月号
                      致知随想より

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十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、
多数の子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという
痛ましい事件が起きました。

それを知った時、私は障がい児を持った親として、
また一人の教員として伝えていかなくては
ならないことがあると強く感じました。

そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。

梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。

梓が大きくなっていくまでの過程を
子供たちへの質問も交えながら話していったところ、
ぜひ自分たちにも見せてほしいと
保護者から授業参観の要望がありました。

以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、
現在までに福岡市内六十校以上で
出前授業や講演会をする機会をいただきました。

梓が生まれたのは平成八年のことです。
私たち夫婦はもともと障がい児施設で
ボランティアをしていたことから、
我が子がダウン症であるという現実も
割に早く受け止めることができました。

迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかということです。
私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら

「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も
  書けないかもしれない」

と伝えました。
息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。

さあ、なんと言ったでしょう?

という私の質問に、子供たちは

「僕が代わりに書いてあげる」

「私が教えてあげるから大丈夫」

と口々に答えます。
この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。

実際に息子が言ったのは次の言葉でした。

「こんなに可愛いっちゃもん。
 いてくれるだけでいいやん。
 なんもできんでいい」。

この言葉を紹介した瞬間、
子供たちの障がいに対する認識が
少し変化するように思います。

自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、
いやここにいてくれるだけでいいのだと
価値観が揺さぶられるのでしょう。

さて次は上の娘の話です。

彼女が

「将来はたくさんの子供が欲しい。
 もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」

と言ってきたことがありました。私は

「もしそうだとしたらどうする?」

と尋ねました。

ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?

「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」。

子供たちの不安はどれも深刻です。
しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。

「そうだとしたら面白いね。
 だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」。

子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ――。

いままでマイナスにばかり捉えていたものを
プラスの存在として見られるようになるのです。

逆に私自身が子供たちから教わることもたくさんあります。

授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」には
どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。

黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。

中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。

将来に対する不安が次々と挙げられる中、
こんなことを口にした子がいました。

「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。

理由を尋ねると

「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、
 分かるようになればそれが喜びになる。
 意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」。

これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと
自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。

子供たちのほうでも授業を通して、
それぞれに何かを感じてくれているようです。

「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、
 きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」

と言った子。

「町で障がいのある人に出会ったら
 自分にできることはないか考えてみたい」

と言う子。

「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
 凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
 でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」

と打ち明けてくれた子。
その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。

「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と
 私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、
 “梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
 ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、
 あの子が言ってくれたんです……」。

涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。

授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。

「あなたの息子は

 あなたの娘は、

 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。

 生意気な僕を

 しっかり叱ってくれるから

 無視した私を

 諭してくれるから

 泣いている僕を

 じっと待っていてくれるから

 怒っている私の話を

 最後まで聞いてくれるから

 失敗したって

 平気、平気と笑ってくれるから

 そして一緒に泣いてくれるから

 一緒に笑ってくれるから

 おかあさん

 ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね

 私のおかあさんになることがきまっていたんだね

 だから、ぼくは、私は、

 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」

上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、
お互いに学生時代、障がい児施設で
ボランティアをしていたからと答えたところ

「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
 準備をしていたんだね」

と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。

昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、
梓を育ててくる中で得た多くの学びが、
いままさにここで生かされているように思います。

「お母さん、準備をしていたんだね」
という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。

「発心、決心、持続心」

金曜日, 1月 25th, 2013

                『致知』2010年12月号
                    特集総リードより
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当社のロングセラーの一つ、鍵山秀三郎氏の
『凡事徹底』の中に、夏目漱石が
弟子の芥川龍之介に言った言葉が紹介されている。

「世の中は根気の前に頭を下げることを知っています。
 火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。
 だから、牛のよだれのようにもっと根気よくやりなさい」

夏目漱石は単なる文才の人ではなく、
深く人生を見詰めた人であることを物語る一言である。

漱石については、新潮社を創立した佐藤義亮氏も
その著書(『明るい生活』)で興味深い逸話を記している。

漱石の書は何とも言えない気品があって、誰もが欲しがった。

漱石門下の某氏もその一人で、かねがね何度か所望したが、
一向に書いてくれない。

ある時、夏目邸の書斎で某氏はついに口を切った。

「前から何度もお願いしているのに、
 どうして僕には書いてくださらないんですか。
 雑誌社の瀧田(樗陰)にはあんなにお書きになっているのだから、
 僕にも一枚や二枚は頂戴できそうなもんですな」

漱石は静かに言ったという。

「瀧田君は書いてくれと言うとすぐに毛氈を敷いて、
 一所懸命に墨をすり出す。紙もちゃんと用意している。
 都合が悪くていまは書けないというと、
 不満らしい顔も見せずに帰っていく。

 そして次にやってくると、都合が良ければお願いします、と
 また墨をすり出すんだ。
 これじゃいかに不精なわしでも書かずにいられないではないか。 
 

 ところが、きみはどうだ。

 ただの一度も墨をすったことがあるかね。
 色紙一枚持ってきたことがないじゃないか。
 懐手をしてただ書けと言う。

 それじゃわしが書く気にならんのも無理はなかろう」

この逸話にこもる実を見落としてはならない。
ここには発心・決心・持続心のエキスが詰まっている。

 誠の一字、中庸尤も明かに之れを先発す。

 読んでその説を考ふるに、三大義あり。
 
 一に曰く実なり

 二に曰く一なり

 三に曰く久なり

吉田松陰の言葉である。

「誠」は『中庸』の中で明らかに言い尽くされている。
「誠」を実現するには、
実(実行)、一(専一)、久(持久)が大切である。
一つのことを久しく実行し続ける時に、
初めて「誠」の徳が発揚されてくる、というのである。
至言である。

さあ、やるぞ、と心を奮い立たせるのが「発心」である。
やると心に決めたことを実行するのが「決心」である。
そして、その決心をやり続けるのが持続心である。

発心、決心はするが持続しない人は、
動き出したと思ったらすぐにエンストを起こす
車のようなものである。

誰からも見向かれなくなる。
私たちは自分をエンストばかりする欠陥車にしてはならない。

小さな努力をコツコツと、久しく積み重ねること。
これこそが自己を偉大な高みに押し上げていく
唯一の道なのである。

古今に不変の鉄則を心に刻みたい。

「ジャンプする時は深くしゃがむこと」

火曜日, 1月 22nd, 2013

 吉元 由美 (作詞家・作家)

                『致知』2013年2月号
                 連載「第一線で活躍する女性」より

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私は子供の頃から、人はなんのために生きるんだろうと
ずっと考えていました。

そして人にはそれぞれ才能があって、
それを活かして生きることが幸せに繋がるのだろうと。
だから自分にも絶対なんらかの才能があるって信じていたんです。

そういう意味では信じる力は強かったのですが(笑)、
中学、高校、大学でもこれといった才能を
見つけられませんでした。

いよいよ就職活動となった時、
自分自身が一番生かされる道はなんなのか
分からなかったんですね。

そこで知り合いが通っていた、算命占星術の
高尾義政先生をお訪ねしたんです。
受けようとしている業種をいくつか出した時、

「あなたはものを表現するお仕事が合っています」

と、広告代理店を第一志望にするよう
言ってくださったんです。

そして

「二十四歳で本当の仕事に出合います」

「二十六歳で一人暮らしをしてください」

「三十歳で自分の会社を持ってください」

と。

【記者:そんな先のことまで】

私、就職先も決まっていない大学生ですよ。

「ええ!?」って驚きましたが、もしも私に
そういう運気があるならそれにかけてみようと、
広告代理店に入りました。

そこでクリエイティブの先輩に
「作詞家になったら」と言われ、
「どうしたらなれますか」と聞いたら
「勉強すればいいんじゃない?」って。
その日から仕事が終わったら
ピューッと家に帰って猛勉強しました(笑)。

【記者:どういう勉強をなさったのですか?】

既にある歌に違う歌詞をつけるとか、
私は写経と呼んでいるのですが、
本を大量に読んでいいなと思った表現を
何度もひたすらノートに書いていくと(笑)。
そういうことを二年間やり続けました。

ただその間、突然の異動で
総務部の配属になった時期がありました。

すぐに高尾先生のところに行って

「私は総務部とは合いません。
  辞めてアルバイトをしながら
  詞の勉強をしようと思います」

と言うと、先生はこうおっしゃいました。

「辞めてはいけません。
  ジャンプする時はしゃがみますよね。
  いましっかりしゃがんでください。

  自分の好きなことばかりやって、
  いい運を掴もうというのは甘いです。
 嫌なこともやってください」

この言葉はいまでもちょっと辛いなと思う時、
思い出しますよね。

高尾先生からこの言葉をいただいていなかったら
傲慢な生き方をしていたかもしれないし、
忍耐力も持てず、作詞家にもなれなかったかもしれません。

【記者:その後、どのようにして作詞家への道を
    切り拓かれましたか?】

私、人生って一瞬で変わるんだなって思ったんですけれど、
二年後、知り合いの方からサンミュージックの方を
紹介されたんです。

※その後、吉元さんの人生はどう変わったのか。
 1000曲以上の作詞を手掛けてきた人気作詞家の原点を
・・・・・・・・・・・・・・・

「さようなら」の意味は?

火曜日, 1月 22nd, 2013

  『日本のこころの教育』より

                境野 勝悟 (東洋思想家)

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わたくしが勤めさせていただいた「栄光学園」という高等学校は、
ミッション・スクールでした。

校長はドイツ人のグスタフ・フォスという神父さんでした。
いつも青い目が美しく輝く、肩の張った逞しい校長先生でした。

その校長先生が、ある卒業式の日に、
長い訓話の最後にこんな話をしたのです。

「きょうは、諸君たちと、お別れしなくてはならない。
 だから、さようならと言わなければならないが、
 さようなら、といいたくない。

 なぜかというと、『さようなら』という意味が、
 はっきりわからない。

 わたくしは、もう、三十年も日本に滞在しています。
 日本に来たときから、さようならの意味を知りたくて、
 たくさんの日本人に、この意味をきいたのですが、
 だれ一人として、この意味を教えてくれません。

 お父さんやお母さん、中学や高等学校の先生方にも
 お尋ねしたのですが、だれも、答えてくれませんでした。

 そこで、きみたちとの大事なお別れに、
 意味のわからない『さようなら』をいっては、
 無礼になるんじゃないのか、と思って、
 今日はさようならの代わりに、
 『グッド・バイ』という別れの言葉を差し上げましょう。
 『グッド・バイ』とは、もとは『ゴッド・バイ』です。
 『ゴッド』とは神様で、『バイ』はそばにという意味です。

神様よ、諸君のそばにいて、諸君たちをよく守ってくれますように、
『グッド・バイ』……。そして、もう一つ
『シー、ユー、アゲイン』また会いましょう」

校長先生はこういう話を力強くされて、両手を高くかかげ、
壇上から降りたのです。

そのとき。わたくしは胸の中で、

「さよならの意味か? 俺もわからないなあ」と思っていました。

が、話がこれだけで終われば、なんの問題もなかったのです。
事件は、このあとの先生方のパーティーの席上で起こりました。

(続く)

「伸びる人は明日を期待させる」

火曜日, 1月 15th, 2013

     朝倉 千恵子 (新規開拓社長)

                『致知』2013年2月号
                 特集「修身」より

└─────────────────────────────────┘

伸びる人材という意味では、
我が社の社員の事例を紹介すると、
話す態度から口調から、
もうすべて腹が立つような言い方をする社員がいたんです。

食事のマナーも注意指摘をすると
「食事の時くらい好きなように食べたっていいじゃないですか」
みたいに反抗的な態度を取る。

この五年間、私も副社長もメチャクチャ叱って、
一番泣いた部下です。

【染谷:よく辞めませんでしたね】

どんなに叱られても「私は絶対に辞めません!」と言っていました。
以前の会社でもトップセールスで、我が社に入る時、
「この年俸を保証してください」と額を提示してきたので、
「無理です、この年俸になります」と言うと
「分かりました」と。

希望額よりグンと下がったのですが、
それでも自分は絶対にここでやると決めて、
いまは我が社のトップセールスです。

後付けで身につけた礼儀や礼節が
全部彼女の財産になっていると思います。

【染谷:でも、それはうるさい上司がいたからですね。
    そういうのを「個人の自由だ」と許してしまう
    経営者が多いんですよ。
    不愉快だけど、仕事さえやってくれていればいいって】

もう、どれだけうるさく言ったか分かりません。
でも、本当に五年間で成長しました。

よく、伸びる人材は「素直だ」と言われますが、
その定義が勘違いされていると思うんです。

上の人の言うことを「はい、はい」と聞くことじゃない。
ガツンと叱られて、その瞬間はムカっとした顔をしていても、
必ず改善して確実に成長していく人。

それが本当の「素直な人」だと思うんです。
なんでもかんでも「はい、はい」と
従うだけの人は面白くもなんともない。
大体、そういう人は売れません。

      * *

我が社の場合は、履歴書を一切見ないんです。
私はうちの部下がどこの学校を出ているかとか、
まったく興味がないですから。

面接で聞くのは「やる気ある?」「根性ある?」ということだけ。
やっぱりガッツとか生命力というのは教えられないですね。

そういうベースがあって、礼儀礼節が身についている人は
組織の中で認められ、用いられていく人材になると思います。

だからこそ、叱られて大泣きして
鼻水流しながらでも、改善して、
食らいついてくるような人を
経営者は求めていると思います。

そういう人は未来が楽しみですから。
三年後、五年後、この子はどうなっているかなと
未来を期待させる社員は伸びると思います。

「正岡子規が救ってくれた」

日曜日, 1月 13th, 2013

  白駒 妃登美 (ことほぎ代表取締役)

                 『致知』2013年2月号
                  読者の集いより

◇─────────────────────────────────◇

昨年(2011)6月に、私が好きな日本史のエピソードを
二十九集めた『人生に悩んだら日本史に聞こう』という本を
出版させていただきましたが、
そもそも私は歴史の専門家ではなく、
単なる歴史好きだったんですね。

いまから三年前、作家のひすいこたろうさんに
出会ったことがきっかけで、
ブログに歴史のエピソードを綴るようになりました。

それが出版社さんの目に留まって、
本の企画が持ち上がったんですが、
その時私は人生最大のピンチを迎えていました。

といいますのも、いまから四年前に
私は子宮頸がんになったんです。

その時はまだ初期状態だったため、
全摘手術と放射線治療を受けて退院することができました。

ところが、一昨年の夏、治ったと思っていた子宮頸がんが
肺に転移していたことが分かったのです。

私は死というものがすぐ目の前に来たような
恐怖に駆られました。

がん細胞が一つ、また一つと増えてしまい、主治医から
「こんな状況で助かった人を見たことがありません」
と言われてしまったんです。

出版社さんから「本を出しませんか」
という話をいただいたのは、ちょうどその時でした。

私は残された時間はすべて子供のために使いたいと
思っていたので、最初はお断りするつもりだったんです。

私がピンチに陥ると、必ず歴史上の人物が
助けてくれるのですが、その時、
力を与えてくれたのは正岡子規だったんですね。

子規は江戸末期、四国松山に武士の子供として生まれます。
幼い頃から「武士道における覚悟とは何か」を
自問自答していた子規はある時、それは
「いついかなる時でも平気で死ねることだ」と、
自分の中で一つの結論を得ます。

その後、若くして脊椎カリエスに罹り、
彼は三十代半ばで亡くなってしまうのですが、
この病気は物凄く激痛を伴うもので、
何度も自殺を覚悟したといいます。

その苦しみの病床の中で彼は悟ったんですね。
自分は間違っていた。

本当の武士道における覚悟とは、
痛くても苦しくても生かされている
いまという一瞬を平生と生き切ることだって。

だから彼は、どんどん激しさを増していく病床にあって、
死の瞬間まで文筆活動を止めず、自分らしく輝き続けたんですよ。

私は正岡子規が大好きでしたから、
私も子規のように最後の瞬間まで
自分らしく生きたいって思い直して、
出版のお話を受けることにしました。

そして抗がん剤治療を受けるために、
病院のベッドが空くのを待っていたんですね。

その間に毎日パソコンを開いて、
出版に向けてブログ記事を整理していたんですけど、
その時に私はあることに気づかされたのです。

過去も未来も手放して、いまここに全力投球する。
そうすると、扉が開いて次のステージに上がれる。

そんな天命に運ばれていく生き方を
過去の日本人はしてきたんじゃないかって。

そして、私もそうやって生きようと思ったら、
不思議なことが起こったんですね。

あんなに不安で毎晩泣いていたのに、
夜ぐっすり眠れるようになったんですよ。
不安が雪のように溶けてなくなりました。

私たちの悩みのほとんどは過去を後悔しているか、
未来を不安に思っているかのどちらかで、
いま現在、本当に悩みがある人って少ないのではないでしょうか。

もし、“いま”悩みがあるという方が
いらっしゃったとしたら、多くは
“ここ”に照準が合っていないのだと思います。

人と比べて劣等感を抱いたり、
人からどう思われているかが気になったり。

ですから、時間軸を“いま”に合わせて、
地点を“ここ”に合わせたら、
おそらく世の中の悩みのほとんどは
消えてなくなってしまうのではないかと思います。

入院が決まり、精密検査を受けて驚きました。
消えたのは悩みだけじゃなかった。

いくつもあったがん細胞が全部消えていたんですよ。
それで私はいまもこうして生かされていて、
皆さんときょうお目に掛かることができたわけですね。

         * *

きょうは残りの時間を使いまして、
私が日本人らしいなって思う
ある人物の生き方をご紹介してみたいと思います。

「運とツキの法則」

土曜日, 1月 12th, 2013

   『致知』2011年3月号
                 特集「運とツキの法則」総リードより

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人生に運とツキというものは確かにある。
しかし、運もツキも棚ぼた式に落ちてくるものではない。

『安岡正篤一日一言』に
「傳家寳(でんかほう)」と題する一文がある。

ここに説かれている訓えは全篇これ、
運とツキを招き寄せる心得といえるが、
その最後を安岡師は、

「永久の計は一念の微にあり」

と記している。

人生はかすかな一念の積み重ねによって決まる、
というのである。

松下幸之助氏は二十歳の時、
十九歳のむめのさんと結婚した。

幸之助氏が独立したのは二十二歳。

以来、勤勉努力し大松下王国を創り上げるのだが、
独立当時は日々の食費にも事欠き、
夫人は密かに質屋通いをした。

そんな若き日をむめの夫人はこう語っている。

「苦労と難儀とは、私は別のものだと思っています。
 “苦労”というのは心のもちようで感じるものだと思うのです。

  ものがない、お金がないというのが
 苦労だといわれておりますが、
  私はこれは“難儀”だと解しています。

  常に希望を持っていましたから、
  私は苦労という感じは少しも持たなかったのです。
  難儀するのは自分の働きが足りないからだと
  思っていたふしもありました」

難儀を苦労と受け止めない。
若き日のむめの夫人はすでに、
一念の微の大事さを感得していたことがうかがえる。

『随心』

土曜日, 1月 12th, 2013

126 │人生の深奥――西端春枝さんのお話とご著書『随心』
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1月も15日、正月気分もすっかり冷めた頃でしょうか。

 元日や この心にて 世に居たし
 
昨年末に発刊した『安岡正篤活学一日一言』の
1月2日に紹介されている俳句です。

元旦の朝に感じるようなさわやかな気持ちで1年をすごしたいとは
万人の願うところでしょうが、
浮世はなかなか、そうはさせてくれません。

同書1月1日には「年頭清警」が紹介されています。

年頭清警

一、残恨(残念なこと)を一掃して気分を新たにする。
二、旧習(ふるい習慣)を一洗して生活を新たにする。 
三、一善事を発願して密に行ずる。
四、特に一善書を択んで心読を続ける。
五、時務を識って自ら一燈となり一隅を照す。

このうち1つでも実行し続ければ、1年は1年の成長を
人に保証してくれると思います。
ぜひ1つでも続けたいものです。

さて、『致知』の昨年の11月号(特集「一念、道を拓く」)の
「生涯現役」に、元ニチイの創立者、西端春枝さんの話が出ていますが、
この西端さんの話を読み、大変感動しました。

西端さんはいま真宗大谷派浄信寺副住職として
篤志面接員のお仕事をされているそうですが、
こんな話をされています。

――受刑者と接して、どのようなことを感じられていますか?

西端 こんなことをいったらご無礼かもしれないけど、
   自分は正しいと必死に思っている人が多いですね。
   話を聞いていると、旦那がトンズラしたとか、
      離婚状を突きつけて家を出ていったのが悪いという具合に、
   罪を犯した原因を自分以外のところに求めている。
   私にもいたらないところがあったのかもしれないとは、
   なかなか考えられないんですね。
   だから物凄く苦しんでいて、そこから抜け出せずにいる。

西端さんがこういわれていることに、私は大変感ずるものがありました。
それは『致知』の35年に及ぶ取材を通して私なりに気づいたことと、
西端さんの話に符号するものがあったからです。
そのことを『致知』2013年3月号の総リードで触れたいと思っています。

その西端さんが年末に『随心』という本を送ってくださり、
その本にも深い感動を覚えました。

すばらしい話がたくさんありますが、
特に私の心を深く打った一話をここに紹介します。

~【夜の雪】~

江戸の中期、俳諧の宗匠・西島さんのお話です。

「夜の雪」という季題を出され、何か世に残る名句をと苦吟しておりました。
ある夜、珍しく大雪となり、夜がふけるにつれて
身を切るように寒さが厳しくなって参りました。
宗匠はさっそく矢立と短冊をもって、表に出ようといたしました。
奥さまは温かい着物と頭巾、高下駄と十分な身ごしらえを整えたのです。
そこで奥さまに
「ひとりでは淋しい、小僧を連れて行く、叩き起こしてこい」

小僧とは12~13歳で家貧しく、ふた親亡くし、
わずかな給金で西島家に奉公している子どもなのです。
昼は子守、掃除と疲れ果てて眠っています。
亡き母の夢でも見ていたのか、目に涙が糸を引いていました。

そこを急に起こされ、寝ぼけ眼をこすりこすり、
あまりの寒さに歯の根も合わず、ガタガタ震えながら宗匠に従う後ろ姿に、
奥さまがほろりと一滴の涙をこぼし、主人に言うのです。

  わが子なら 供にはやらじ 夜の雪

「旦那さま、3歳で死んだ長男が生きていれば、ちょうど同じ歳でございます。
 草葉の陰の母上がどんな思いでこのありさまを見ておられましょう。
 あなたは十二分な身ごしらえでございますが、
 あの小僧は、ご覧なさいませ。
 あかぎれの足に血がにじんでいます。
 わが子なら連れて行かれませんでしょう」

と、奥さまの頭に浮かんだ句でした。

宗匠は
「悪かった、温かいものを作って食べさせてやってくれ」と、
ひとりで雪の中へ出て行かれたのでした。
旦那さまのお名前はわかりませんが、
奥さまのお名前は「西島とめ」と申されました。

この「わが子なら」という言葉は、
後に多くの寮生と暮らすようになった私への、
深い教えとなりました。