まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

精いっぱい生きよう

木曜日, 1月 10th, 2013

 臨済宗円覚寺派管長・横田南嶺氏の修身論

                『致知』2013年2月号
                 特集テーマ「修身」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆  人間のいのちというのは
   一代限りではないというのは真理だと思います。
   何代ものいのちを経て、いまがあるのだろうと思うのです。

 ◆  すべてはこの大自然の中にあるということを、
   いろいろな経験をしながら、
   なるほど、なるほどと思い知らされていく。

   すべてはそういう過程にしかすぎないと思いますし、
   大悟といっても、
   大自然を飛び越えるようなことは別にございません。
   己のちっぽけなこと、弱さに気づくことです。

 ◆ 自分の儲けばかり追求する人は大した商売人ではないし、
   すぐにうまい話に引っかかったりします。
   禅では魔境に落ちるといいますが、
   その程度のことだと私は思います。
   
   しかし、他人様のお役に立ちたい、
   世の中のために何か尽くしたいと思って商いをする人は、
   大きな仕事ができます。

 ◆ まず生まれたことの不思議に手を合わせましょう。
   いま生きていることに感謝をしましょう。
   そして、いまこうして
   この場で巡り会ったことに手を合わせましょう。

 ◆  松原泰道先生に、私は厚かましくも色紙を持っていきまして、
   「仏教の教えを一言で言い表す言葉を書いてください」
   とお願いしたのです。

   泰道先生は嫌な顔もせずにこう書いてくださったのです。
   「花が咲いている/精いっぱい咲いている
    私たちも/精いっぱい生きよう」

「宮間あや選手が成長できた理由」

木曜日, 1月 10th, 2013

    本田 美登里 (U-20 サッカー日本女子代表コーチ)

                『致知』2013年2月号
                 特集「修身」より
└─────────────────────────────────┘

【記者:伸びてくる選手に何か共通したものはありますか?】

まずどんなに嫌なことや辛いことがあっても、
変わらずにサッカーが好きでいる子。
負けず嫌いでありながら、周りにもちゃんと気が使える子。

例えば宮間は凄く人思いな子で、私がちょっとでも心配事があると、
すっと寄ってきて

「大丈夫? あやに何かできることない?」

と声を掛けてくれる。
彼女はそれを私にだけじゃなく、
チームメイト全員に対してできるから、
いまの立場にいるのだと思います。

それと、あの子はいつも私に質問をしてきましたね。

「なんで点が入るの? なんでパスが通ったの?
 なんであやはボールを取られたの?」

って

「なんで、なんで?」

と聞いてきて、それをきちんと理解しようとしていた。

きっと自分の中に描くイメージがあって、
そのイメージを大きくしよう、大きくしようとしていたんでしょうね。
何か頼み事をしておいても

「できました」

と言うだけじゃなく、

「できたけど、次何をやったらいい?」

と、絶えず次のことに目を向けていました。

【記者:伸びる選手は心掛けが違うんですね】

同じことを言われても、
それを疑問に思う子と思わない子、
言われたことだけをやる子と
それ以上のことをする子がいます。

そういう一つひとつの積み重ねが、
五年や十年という年月の中で
大きな差になっていくと思うんです。

「断捨離(だんしゃり)の極意」

火曜日, 1月 8th, 2013

    やました ひでこ (クラター・コンサルタント)

                『致知』2013年2月号
                 特集「修身」より

└─────────────────────────────────┘

断捨離(だんしゃり)は実は、モノを通した思考の片づけなんです。
そしてそれをするためには、
モノの片づけ以前の価値観の問い直しが必要なんです。

取っておこうという気持ちがあるのは、
そのモノに価値を感じているからですよね。

ではその価値について、本当にきちんと思考しているだろうか。
どういう価値を感じてそれを取っておこうとしているのか。

そうして検証を進めていくと、例えば本の処分ができないのは、
自分の教養が高いのを見せつけようと無自覚に思っていたからだと
気づくかもしれない。

そうしたら、そんな形で自分の凄さを社会に
証明する必要はあるのかってまた自分に問いかけるんです。

その結果、やはり取っておくべきだという選択も、
実はOKなんです。

【村上:捨てない選択もある?】

ええ、意図的にそう選択するのでしたら。
でも大概は、無意識、無自覚に採用した価値観で
思考はストップしています。

そのためにモノをため込んで自分を損なっていないかと確認し、
意識化しましょう、自覚的になりましょうという
トレーニングなんです。

初めてそんな問いかけをしていくと、
実は抱えていたモノは
全部ゴミだったというケースがほとんどです。

ですから断捨離イコール捨てることみたいに思われがちなんですが、
本来は自分とモノの関係を見つめ直して選び抜くこと、
モノの片づけを通じて自己を深く探究し、
心の混沌を整理して人生を快適にするツールなんです。

「石巻から甲子園へ届けた思い」

月曜日, 12月 31st, 2012

┌───2012年、反響の大きかった記事ベスト3──────────┐

        松本 嘉次 (宮城県石巻工業高等学校硬式野球部監督)

                『致知』2012年7月号
                      致知随想より
└─────────────────────────────────┘

宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
 被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、
 いまも当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
 悲しみに暮れている方がたくさんいます」

2012年春、21世紀枠で
初のセンバツ甲子園出場を果たした石巻工業。
主将の阿部翔人が行った選手宣誓は、
部員たちがこの1年間のいろいろな思いを白板に書き込み、
その言葉をまとめて作り上げたものである。

監督の私が最後に清書をした時には、
様々な思いが去来し、思わず目頭が熱くなった。

2011年3月11日、石巻市沿岸部を襲った巨大津波により、
我が校の校舎とグラウンドは1,7メートルの浸水をした。
5日間水は引かず、残ったのはヘドロと瓦礫の山。

野球部員は市民800人とともに校舎へ避難したが、
選手の7割は自宅に被害を受け、親族を亡くした者もいた。

当日私は水に浸かりながら周囲の人の救助などに当たった。
3日後、学校を出てからはその間、
昼夜を問わず復旧作業に当たる人の姿をたくさん目にした。

最初に考えたのは、子供がいつまでも
避難所や自宅にいたままだと、親たちも動きがとりづらい。
子供たちに生活のリズムをつくってやることで、
そのリズムが元に戻れば大人たちの生活も
元どおりになるだろうということだった。

そこで思いついた言葉が
「あきらめない街、石巻!! その力に俺たちはなる!!」
である。

選手を集めたのは被災後まもない22日のことだったが、
「野球やりたいか」と聞くと全員が力強く頷いた。
「じゃあ学校再開の4月21日には瓦礫一つない校舎にしよう」
と発破を掛け、皆一日も休むことなく
瓦礫やヘドロの片づけに当たった。

その間、他校の野球部員や近所の方々、
海外の救助隊なども駆けつけてくださり、
錆びついた金属バットなどに代わる道具の支援も
全国からいただいた。

おかげで被災から40日後には
無事練習を再開することができ、
野球ができることのありがたみを実感した。

私は宮城県内の高校で15年野球部長を務め、
3年前、当校の監督に就任したが、選手たちにはいつも

「当たり前が当たり前と思うな。
 人が嫌がることを進んでできる人間になれ」

と言い続けてきた。
高校を卒業して世の中に出れば、
ほとんどの仕事は雑用と雑用との組み合わせで
成り立っていることが分かる。

その雑用を嫌がらずに自らやる癖をつけておけば、
社会に出ても必ず役に立つ人間になれるという
信念が私にはある。

ただ今回の震災で、我われは当たり前のことなど
何一つないことを思い知った。
野球はバットとボールとグローブさえあればできる
といわれるが、まず、やる場所がなければ
何も始めることはできないのだ。

1か月以上のブランクはあったものの、
夏の宮城県予選ではベスト16。

秋の県大会の最中には台風で付近の川が溢れ、
グラウンドが再び浸水する被害にも見舞われたが、
秋季宮城大会で準優勝し、初の東北大会に進出した。

センバツ甲子園の21世紀枠は、
各都道府県の秋季大会でベスト8入りした高校を対象に、
困難の克服やマナーの規範などが評価される出場枠だが、
そうした点を認めていただけたのは光栄なことだった。

ただ、被災地からの出場とあって世間からの注目は高く、
選手たちが背負っているものは非常に大きいと感じた。

そこで私は野球に対する指示や戦略は一切伝えず、
ただ「ありがとう」ということだけを考えろと言った。
甲子園に出られることに対しても、
野球のできる状況をつくってくださった
周りの人に対してもそう。

それ以外は何も考えなくてよいと。

大会では鹿児島の強豪・神村学園と当たり
初戦敗退したものの、一時は四点差をはね返すなど、
選手が一丸となり最後まで諦めないプレーを見せてくれた。

試合後には相手チームのスタンドからも
「また夏に戻ってこいよ」と大きな声援をいただき、
全国からいまも多くの励ましのメッセージが届いている。

これまでの指導経験を踏まえて私がつくづく感じるのは、
「動けば変わる」ということである。

被災後、石巻地区でグラウンドの掃除を始めたのは
我われが最初で、練習再開に踏み切ったのも当校が一番早かった。

こんな状態の中で本当に野球などしていて
よいのだろうかとも思ったが、保護者の方からも

「先生、早く練習をやってけろ。
 子供たちの野球を見るのが一番の楽しみだったから」

と声を掛けていただき、再開させた。
するとそれまで自粛していた周りの高校も、
挙って練習を始めるようになったのである。

今回の被災では本当に多くの方々にお世話になった。
それに対する感謝の気持ちを
なんらかの形でお返しするとともに、
これからの世の中をつくる担い手を
生活指導を通して育てていけたらと考えている。

なお、冒頭に紹介した選手宣誓は次のように続く。

「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは
 苦しくて辛いことです。

 しかし、日本が一つになり、
 その苦難を乗り越えることができれば、
 その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。

 だからこそ、日本中に届けます。
 感動、勇気、そして笑顔を。

 見せましょう、日本の底力、絆を――」。

まだ10代の若者たちが、それぞれの悲しみを胸に秘め、
日本全国へ届けた渾身のメッセージだった。

「最期のときを共に過ごして」

日曜日, 12月 30th, 2012

┌───2012年、反響の大きかった記事ベスト3──────────┐

     日比野 寿栄
               (ひびの・すえ=管理栄養士・健康運動指導士)
 
               『致知』1998年10月号「致知随想」
└─────────────────────────────────┘ 

「大丈夫ですか」

車椅子の上で体勢を整えようとされた上妻由紀子先生に、
私は思わず尋ねた。

すると由紀子先生は、
私に向かって諭すようにこう言われた。

「『大丈夫ですか?』という言葉は、
 安易にかけるものではありませんよ」

こういうことである。

体が不自由だからといって、
いつも人の手を借りなければいけない状態に
あるのかといえば、そうではない。

「大丈夫ですか」と問い掛けるのは、
かたわらで見ている側の心の不安の表れである。

由紀子先生は
「ちゃんと私の状態を把握していますか」
と問い掛けたかったに違いない。

私が栄養士として由紀子先生の身近で仕事をするようになって、
1か月ほど経ったときのことだったが、
いまにしてみればその思いがよくわかる。

由紀子先生との出会いは2年半ほど前のことだ。

新聞で腎臓病食専門の栄養士募集の広告を見て、
応募したのがきっかけである。
由紀子先生は精神科医で、東京の町田市にある上妻病院を開設され、
副院長を務められた方だ。

「この世の中から病気をなくすことはできない。
 でも、病気で苦しむ人の心をなくしていきたい」

との志を掲げて病院を始められたのだが、
間もなくリウマチを患われた。

その後、2年半前には腎不全になり、
私が由紀子先生と過ごさせていただいたのは、
62歳で亡くなるまでの約一年半である。

20数年にも及ぶ闘病生活が辛く苦しくなかったはずはない。

それなのに

「病気によって苦しいのは、本人ではありません。
 代わってあげることのできない周囲の人たちのほうが
 よほど苦しいのです。地獄とはそういうことです」

と言って、決して弱音を吐かなかった。
いつも周りに気をつかって、笑顔で振る舞われる先生が
不思議で、尋ねたことがある。

「先生はどうしてそんなに強いのですか」

先生の答えはこうだった。

「それは多分、人間はとても弱い存在だということを、
 知っているからだと思います。

 例えば、この苦しみをだれか一人の人間に預けて、
 もたれかかろうとしたとします。

 そうしたら、その人はきっと私の重荷に耐えかねて、
 つぶされてしまうのね。
 それくらい人間は弱い生き物です。

 だから、人間に絶対を求めてはいけません。
 絶対なるものは、目に見えない、
 神とも言うべき存在に求めるしかないのです」

先生は、いつも見えない神と対話しながら、
ご自身の弱さと闘ってこられたように思う。

そのような先生の姿勢から、
私はさまざまなことを教えられた。

先生は仕事に対してことのほか厳しい方だった。
私が栄養計算をしてお出しした料理にしても、
1回目で口にしていただけることはほとんどなかった。

あるとき、食べやすいようにと、焼きなすの皮をむいて
食膳にお出ししたことがある。

「これではだめよ。
 なすはアツアツの状態で、
 自分で皮をむいて食べるようにしなければ」

と、作り直しを指示された。

先生は薬の瓶も決して捨てることはなく、
ものを大切にされる方だ。
それなのに、なぜ作り直しを指示されたのか。

「プロとして報酬をもらっている以上、
 最高のものを提供しなければいけない。
 妥協してこれでいいですよ、と言ってしまったら、
 その人のためにはならない」

そう思って、苦言を呈してくださったのではないかと思う。

別の折、仕事の厳しさを説明するために、
次のような話をしてくださった。

「あなたがある人から1万円を借りたとしましょう。
 『明日返しますから』と約束していたのに、
 うっかりして返すことを忘れてしまいました。

 『ごめんなさい、明日には必ずもってきますから』
 と言えば、その人はきっと許してくれることでしょう。
 でも、天の裁きというのは、
 自分の言った言葉を守らなかった時点で下っているのですよ。

 仕事も同じです。
 自分が今日はこうしよう、と思って決めたことを
 きちんと果たしているかどうか。

 だれかが見ているからやるのではなく、
 自分と交わした約束を守っているかどうか。
 それが仕事の基本的な心構えなのですよ」

このように言われるのは、先生自身が仕事に対して、
真摯な姿勢で取り組まれてきたからにほかならない。
病院を設立する前、先生がある病院に
勤務されていたころのことである。

勤務時間が終わっても、
交代の医師が来ないことが度重なった。
そんなとき、由紀子先生はいつも表情一つ変えることなく、
何時間も待機されていたそうである。

院長先生が、そのような由紀子先生の働きぶりに感心して、
給料のほか、同額以上の別封を渡されたそうだ。

由紀子先生はこうも話されていた。

「大抵の人は、人生の花を咲かせるには、
 耕された土地に、種をパッと蒔けばいいと
 勘違いしているようです。

 人生に花を咲かせるというのは、
 コンクリートの上に花を咲かせるのと同じくらい
 大変なことなのです。

 考えてもごらんなさい。
 コンクリートの上に咲いている花がどこにありますか。
 でも、そのように苦心惨澹(さんたん)して咲かせた花は、
 心の中にいつまでも咲かせ続けることができるのです。

 私が病に苦しみながらも、心やすらかにいられるのは、
 これまでに咲かせた花がいまも萎まずに
 咲いてくれているからなのです」

先生が繰り返し繰り返し語られた言葉に、

「あなたはどれだけ損得なしに、
 人のために尽くすことができますか」

というのがある。

だれかのために、惜しむことなく、身を呈す。
その瞬間にこそ、人は神に近づける――
という思いが、先生の根底にあった。

そして、惜しまれつつ召された
由紀子先生の生きざまを振り返れば、
限りなく神に近づこうと努力された方だったと改めて思う。

先生とは短い縁であったが、私もそのような生き方に
一歩でも近づきたいと願っている。

「お母さんから命のバトンタッチ」

土曜日, 12月 29th, 2012

     鎌田 實 (諏訪中央病院名誉院長)

                 『致知』2012年7月号
                  読者の集いより

└─────────────────────────────────┘

僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。

「先生、助からないのはもう分かっています。
  だけど、少しだけ長生きをさせてください」

彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、

「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を母親として見てあげたい」

と言うんです。

9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。

でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。

奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。

こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。

おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。

さらに不思議なことが起きました。

彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。

でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。

僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。

「母は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」

と娘さんは言いました。

彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。

病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、

「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」

と言って送り出しました。

ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。

「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
 そのおむすびを持って、学校に行きました。
 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」

お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。

でも、命は長さじゃないんですね。

お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。

人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。

 「よい俳句を作る三つの条件」

水曜日, 12月 26th, 2012

   『致知』2010年3月号
                 特集「運をつかむ」総リードより

└─────────────────────────────────┘

「功の成るは成るの日に成るに非ず。
 けだし必ず由って起る所あり。
 禍の作るは作る日に作らず。また必ず由って兆す所あり」

蘇老泉の「管仲論」にある言葉である。

人が成功するのは、ある日突然成功するわけではない。
平素の努力の集積によって成功する。
禍が起こるのも、その日に起こるのではない。
前から必ずその萌芽があるということである。

運をつかむのもまた、同じことだろう。

宝くじを当てる。これは運をつかむことだろうか。
棚ぼた式に転がり込む幸運というのは、
得てしてうたかたのごとく消え去るものである。
ことによると身の破滅にもなりかねない。

運をつかむには、運に恵まれるに
ふさわしい体質を作らなければならない。

言い換えれば、運を呼び寄せ、
やってきた運をつかみ取るだけの実力を養わなければならない、
ということである。

そういう意味で忘れられない言葉がある。

よい俳句を作る三つの条件である。
どなたの言葉かは失念したが、初めて目にした時、
胸に深く響くものがあった。

その第一は、強く生きること。

強く生きるとは、「主体的に生きる」ということだろう。
状況に振り回されるのではなく、
状況をよりよく変えていく生き方である。
「覚悟を決めて生きる」と言い換えることもできよう。

一道をひらいた人は一様に、強く生きた人である。
例えば、江戸後期の儒者、頼山陽は十三歳の正月に、
こういう覚悟を決めている。

「十有三春秋 逝く者はすでに水の如し
 天地始終なく 人生生死あり
 いずくんぞ古人に類して千載青史に列するを得んや」

(もう十三歳になってしまった。
 時間は流れる水のように過ぎていく。

 天地には始めも終わりもないが、人間は必ず死ぬ。
 どうしたら昔の偉い人と並んで
 歴史にその名を留めることができるだろうか)

 小卒で給仕から大学教授になった田中菊雄氏の言葉。

「一生の間にある連続した五年、本当に脇目もふらずに、
 さながら憑かれた人のごとく一つの研究課題に自分のすべてを集中し、
 全精力を一点に究める人があったら、その人は何者かになるだろう」

 こういう信念、姿勢が、強く生きる人格のコア(核)になる。

第二は、深く見る。

強く生きることで初めて視点が定まり、深く見ることができる。
深く見るとは本質を見抜くことである。
状況を見抜くことでもある。ここに知恵が生まれる。

第三は、巧みに表す。

巧みに表すことは大事である。
分野を問わず、技術、技巧なくしてよいものは作れない。
だが、それだけではよいものは作れない。

強く生きる信念、深く見る姿勢があって、初めて技巧は生きてくる。

この三条件はそのまま、よい運をつかむ条件である。

「弱さと悪と愚かさとは互いに関連している。
 けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である」

哲学者、森信三師の言葉である。
運をつかむ道は人格陶冶の道であることを、哲人の言は教えている。

「天何をか言うや、四時行われ百物生ず」

月曜日, 12月 24th, 2012

 安岡 定子 (安岡活学塾 銀座・寺子屋こども論語塾専任講師)

          『致知』2012年12月号
           連載「子供に語り継ぎたい『論語』の言葉」より

└─────────────────────────────────┘

今回は、私が大好きな章句を取り上げたいと思います。

 子曰わく、予(われ)言うこと無からんと欲す。

 子貢曰わく、子如(も)し言わずんば、則ち少子何をか述べん。

 子曰わく、天何をか言うや、

 四時(しじ)行われ百物(ひゃくぶつ)生ず。

 天何をか言うや。

孔子はある時、「私はもう何も語るまいと思う」とおっしゃいました。
これに対して弟子の子貢が

「先生がもし何もおっしゃらなければ、
 私どもはどうして先生の教えを学び、
 伝えることができるでしょうか」

と質問します。

すると孔子は

「天は私たちに何を言っているか考えてみなさい。
 春夏秋冬の四季は巡っているし、
 万物は自ら成長しているではないか。
 天は私たちに何を言っているだろうか」

と応じるのです。

   (略)

頭脳明晰で雄弁家の子貢は孔子を唯一の師と仰ぎ、
教えを聴き、それを分かりやすく噛み砕きながら
若い弟子たちに伝えていたことでしょう。

それだけに「私はもう何も語るまいと思う」という一言には
大いに驚き、困惑したに違いありません。

そういう子貢の心を既にお見通しだった孔子は

「自分が何かを語らなくても、
 自然は変わることなく四季は巡ってくる。
 天は何を言おうとしているのか考えてみなさい」

と投げ掛けたのだと思います。

二宮尊徳翁の道歌に

「音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は 
 かかざる経をくりかへしつつ」

とあるように、大自然は無言のまま私たちに
多くの教えを授けてくれています。

孔子もまた,優秀で頭でっかちな子貢に、
たとえ言葉はなくても見る目さえあれば
真理はいくらでも発見、吸収できることを伝えようとされたのです。

もう一つ、別の観点から捉えれば
「私をもっとよく観察してごらん」
という孔子のメッセージと受け取ることができます。

自分がどういう思いでこの言葉を発しているか、
こういう行動をとったのか、
優秀な子貢なら察することができるはずだよ、
という弟子の成長を願う孔子ならではの
深い思いやりだったのかもしれません。

自分の考えを熱く語る一方で、
弟子との間でこのような情緒的なやりとりを
さりげなく行っているところ。

これもまた孔子の魅力の一つです。

「人生を劇的に変えるユダヤの教え」

日曜日, 12月 23rd, 2012

   星野 陽子 (翻訳家)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘

若い頃の私はどちらかと言えば控えめな性格で、
大人しく、人生に対する姿勢もまるっきり丸腰だったと思います。

しかし、私は変わりました。
私を変えたもの――それは約十年におよぶユダヤ人夫との結婚生活です。

出会いはひょんなことからでした。
当時シティ・バンクに勤めていた私は、
お客様として来店した彼と知り合い、
友人たちを交えて親しくなって交際に発展、
結婚に至りました。

結果的に十年で破局しましたが、
その鮮烈で濃密な時間に身につけた「ユダヤ的思考」が、
現在、約六億円の不動産資産等を築いた
自分のベースになっていると思います。

ユダヤ人には、例えばロスチャイルドや
投資家のジョージ・ソロス、
あるいは映画監督のスティーブン・スピルバーグなど
世界的な成功者が数多くいます。

なぜユダヤ人の多くは事業等で成功し、
富を得ることができるのでしょうか。

まず、彼らはお金に対してネガティブなイメージがありません。
ユダヤ教ではお金は神からの祝福とされていますから、
素直にお金を尊び、手に入れようと努めます。

一方、日本でお金持ちの代表例といえば
時代劇の越後屋。腹黒く、悪事を働き、
最後は成敗されます。

多くは清貧の思想こそが美しく、
お金は「持ち過ぎると身を持ち崩す」
「親族との争いの種になる」など、
一種の心理的ブロックが掛かっています。

富裕層であっても日本人は
「年収は三千万円もあれば十分だ」と言いますが、
ユダヤ人に「これで十分」というリミットはありません。
稼いだお金で他者を助けるという大義があるからです。

彼らは収入を得始めた当初から年収の十%を慈善に回します。
施しは十倍になって戻ってくるという教えがあるため、
皆、喜んで寄付するのです。

また富を得た人は妬みやバッシングではなく、
尊敬の対象となります。

人びとは彼らを訪ね、どうすれば自分も後に続けるかを聞き、
成功者たちも自分の体験や知識を余すところなく教えます。
よって常日頃から「お金に関する会話」が
当たり前に繰り広げられています。

これは私が日本で家を建てた時の話です。
日本の友人たちは「素敵なお家ね」「木の香りが心地よい」
などと言うのに対し、ユダヤ人の友人たちは
「土地はいくら?」「ローンは?」「総額は?」
と聞いてきます。

日本人は失礼な質問だと感じるかもしれませんが、
彼らにとっては有意義な情報交換。
そのくらいオープンなのです。

一般的にユダヤ人の成功の根底には
「タルムード」と呼ばれる教えがあるといわれます。
しかし私はその内容よりも、それを
“自分はどう考えるか”と議論することが、
彼らの成功の下地ではないかと感じています。

彼らは幼少の頃から議論の訓練を
日常的に行ってきているので、
自分と反対の意見を言われて腹が立つということはありません。

むしろ、新しく革新的な考えを好み、
それによってより深く、
熱く議論を戦わせることを楽しみます。
もちろんそれが終われば仲良しに戻ります。

十年の結婚生活でとにかく元夫に言われたことは
「why?」であり、「think!(考えろ)」です。

「なぜ日本で贈り物をもらったら半額分を返すのか?」

「風習だから……」

「君はそれが正しいと思うのか。だいたいなぜ半額なのか?」

と、こちらがきゅうきゅうとするほど問い詰められます。

また、すべて戦略を持っています。
夫婦であっても何気ないおしゃべりではなく、
すべてに「考え」がある。

例えば彼が家事をやりたくないとすれば、
それを前提に会話を仕掛けてくるので、
考えなしで受け答えをしていると、
いつの間にか私がせざるを得ない状況になっている。
そんなことがよくありました。

そういった背景には、やはり迫害に遭い、
長い間祖国を失った歴史があるのだと思います。

ある日、テレビで「イスラエル人が二人死亡」
というニュースが流れました。

彼は「これは嘘だ。なぜなら……」
と自分なりの解釈を述べていましたが、
どんな時でも人の意見を鵜呑みにせず、
自分の頭で考え、納得しなければ信じない。

仮にそれで自分が命を失うことになっても
すべては自己責任。
逆に言えば、自分の運命を他人に委ねることはしないのです。

離婚後、私はフリーランスで翻訳の仕事をしながら、
投資によって資産をつくりました。

しかし、もともとは特許翻訳者の会社で
翻訳と雑務のアルバイト、
とてもフリーで仕事をする自信はありませんでした。

帰国子女でもなく、特許法に関する知識もなかったからです。
そんな時、私はユダヤの教えを思いました。

自分でリミットを設けない。自分の運命を他人に委ねない。
それで降りかかるリスクは自分で背負おう  。

フリーになると決心し、行動を始めたら
次第に周囲が変わっていきました。

パソコンやコピー機など
仕事に必要な器材一式を譲ってくれる方が現れたり、
家族や友人が子供の面倒をみると申し出てくれるなど、
応援の手を差し伸べてくれるようになったのです。

もしかすると、私たちは積極的にではないにせよ、
「普通に考えれば無理だよね」と
周囲の情報に流されて制限を設け、
受け身で生きているのかもしれません。

自分の運命は自分で切り開く。
その覚悟を決めて、一歩踏み出すだけで
人生は劇的に変わります。

ユダヤの教えは丸腰で平凡だった私の人生を
大きく変えてくれたのでした。

「発展繁栄の法則」

土曜日, 12月 22nd, 2012

       『致知』2010年4月号
                    特集総リードより

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志摩半島にあるそのホテルは、さる著名な経営者が
バブルの最中に計画、三百八十億円を投じて平成四年に完成した。

全室から海が見渡せる設計。
贅を尽くした内装。
足を運んだ人は、誰もが「素晴らしい」と歓声を上げる。

しかしバブル崩壊後、経営不振が続き、
十年前にホテルは人手に渡った。
新経営陣も経営を軌道に乗せるべく手を尽くしたが、
赤字は年々嵩む一方となった。

仙台で小さなエステを経営していた今野華都子さんに
白羽の矢が立ったのは、そんな時だった。

平成十九年、今野さんは現オーナーに請われて
ホテルの社長に就任した。

今野さんを迎えたのは社員百五十人の冷たい、
あるいは反抗的な視線だった。

それまで何人も社長がきては辞めている。
また同じ繰り返し、という雰囲気だった。

今野さんがまず始めたのは、社員一人ひとりの名を呼び、
挨拶することだった。
また、全員と面接し、要望や不満を聞いていった。

数か月が過ぎた。

今野さんは全社員を一堂に集め、言った。

「みんながここで働いているのは、
 私のためでも会社のためでもない。

 大事な人生の時間をこのホテルで生きる、と
 自分で決めたからだよね。

 また、このために会社が悪くなったと
 みんなが思っている不満や要望は、
 私や経営陣が解決することではなく、
 実は自分たちが解決しなければならない問題です」

 そして、今野さんは二つの課題を全員に考えさせた。

「自分は人間としてどう生きたいのか」

「自分がどう働けば素晴らしい会社になるのか」

 
ホテルが変わり始めたのはそれからである。
自分の担当以外はやらないという態度だった社員が、
状況に応じて他部門の仕事を積極的に手伝うようになっていった。

就任二年半、ホテルは経営利益が出るようになった。
全社員の意識の改革が瀕死のホテルをよみがえらせたのである。

今野さんが折に触れ社員に伝えた
「自分を育てる三つのプロセス」というのがある。

一、笑顔

二、ハイと肯定的な返事ができること

三、人の話を肯きながら聞くこと

仕事を受け入れるからこそ自分の能力が出てくるのだから、
仕事を頼まれたらハイと受け入れてやってみよう。
「できません」「やれません」と言ったら、
そこですべての可能性の扉が閉まる。

そして、教えてくれる人の話を肯きながら聞くのが、
自分を育てていく何よりの道なのである。
今野さんはそう言う。

この三つはそのまま、
人生を発展繁栄させるプロセスである。

すべての繁栄は人から始まる。
ひとりの人間が自らの人生を発展繁栄させていくことが、
そのまま組織の発展繁栄に繋がる。

しかも、その発展繁栄の法則は極めてシンプルである。
今野さんの事例はそのことを私たちに教えてくれる。

弘法大師空海の言葉がある。

「物の興廃は必ず人に由る
 人の昇沈は定めて道にあり」

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今野さんとは、旧知の仲で、來道される時は、

まほろばに立ち寄ってくださる。

このように有名になられる前からの付き合いだが、

出会いから、不思議な方でエステシャン世界コンクールでグランプリを獲得、

その前は、東北で酪農業を営み、ウシの世話をしていたというから面白い。

そんな泥まみれの生活からの知恵が人を動かすのだろう、と思うのだ。

いかにも、母性時代の魁のような輝ける女性である。