まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「闇の向こうに見えた光」

火曜日, 12月 18th, 2012

    伊藤 勝也 (牛心社長)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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大阪府内で炭火焼き肉店「但馬屋」など
十店舗を展開する(株)牛心の創業は昭和四十五年。

母が生業として始めた自宅兼店舗のホルモン屋がその原点です。
私はもともとデザイナー志望でしたが、
二十一歳の時、店の経営が立ちゆかなくなり、
なんとか母の店を守ってあげたいと家業を継ぐ決意をしました。

吹田市にあった店の通りは、二十軒もの同業者が
ひしめき合う通称「焼肉屋街道」。

まずはこの地域で一番店にしたいと思ったものの、
三坪足らずの店では真っ当に勝負をしても勝ち目はありません。

そこでまず入店のきっかけをつくってもらうため、
空いたビールケースを常に店外に山積みにし、
煙突からは勢いよく煙を立ち上らせるなど、
「流行っている店の雰囲気」を出すよう知恵を絞りました。

そして来ていただいたお客様を逃さぬよう、
カウンター越しに聞こえてくる会話の中から
名前や誕生日などの情報を掴み、
それを逐一メモして顧客情報をつくり上げていきました。

お客様のほうから商売のコツを
教えてくださったこともあります。

ある時「儲けようという考えをやめ、
お客様のために何ができるかを考えよ」と諭され、
閃いたのが、原価率を六十~七十%まで引き上げてでも、
いい肉を出そうということでした。

飲食業の原価率は三十%程度が相場といわれますが、
従業員は母と自分の二人だけ、人件費も家賃も不要なため、
決してできないことではありません。

商品力を引き上げたことによって競合店との差別化が図れ、
二、三年で業績は急激にアップしていきました。

さらに平成三年のバブル期には手狭になった店を
リニューアルしようと、銀行から多額の融資を受け、
新たな土地を購入しました。

当然家賃が発生してきますが、私は愚かにもその認識が甘く、
商品力が維持できなくなった途端に客足も遠のいていきました。

銀行は待ったなしで返済を迫ってくる。
できることといえば営業時間を延ばすことくらいで、
明け方までカウンターに立ち、
必死に売り上げを伸ばす努力をしました。

しかし追い討ちをかけるようにバブルがはじけ、
材料費は高騰していく。

将来になんの展望もひらけず、
自分は借金を返済するためだけに生きているのかと、
首を吊る考えすら頭を過りました。

そんな時、ふと脳裏に浮かんだ光景がありました。

以前、実際に山で遭難した時の記憶です。
上のほうには微かだけれども光が見える。
なんの光かは分からないが、そこには建物も、人のいる可能性もある。

一方、下へ行けば道があることは違いないが、
どこかに辿りつけるという保証はない。

どちらを選ぶべきか。

真っ暗闇でもがき苦しんでいる中で私がした決断は、
あの時のように、山上に仄見える光のほうへ進んでいくこと。
そしてその光が自分たちにとっては何かを、
明確にしていかなければならないということでした。

「旗を揚げる」

日曜日, 12月 16th, 2012

  尾角 光美 (おかく・てるみ=一般社団法人リヴオン代表)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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私が母を失ったのは九年前、十九歳の時でした。

長年、鬱状態が続いていた母はいつも
「死にたい」と繰り返していました。

「あんたなんか生まれてこなければよかった」と
辛辣な言葉を毎日のように浴びせかけられ、
大切な肉親でありながら、
一緒に暮らすのが辛くてしかたがありませんでした。

それでも母を少しでも喜ばせたいと思い、
浪人生活を送りながら内緒でアルバイトをして貯めたお金で、
母の日にバッグをプレゼントしました。

よもやそれが最後のプレゼントになるとは
思いもよりませんでした。

程なく、経営する会社を倒産させた父が失踪。
経済的にも精神的にも負担が過度に重なった末、
母は私が大学に入る二週間前に自ら命を絶ったのです。

以来、私のカレンダーから母の日はなくなりました。

ところが五年前、母の日というのは、
一九〇八年五月十日に母親を亡くしたアメリカの女の子が、
教会で行われた追悼の集いで白いカーネーションを配り、
亡き母親への想いを伝えたことが始まりだと知りました。

その年は、母の日が始まってからちょうど百周年。

私は、それまで心の奥にしまい込んでいた
母への想いを伝えたいと強く思いました。

そして、同じような想いを抱いている人がいるなら
一緒に想いを伝えたいと考え、
母親を亡くされた方々から手紙を募り、
『百一年目の母の日』という本をつくりました。

マスコミで報道されて話題になり、以来毎年刊行しています。

日本ではこの十五年、毎年三万人以上もの人が
自ら命を絶っています。

東日本大震災でも多くの方が突然の死別を経験されました。
それに伴い、大切な人を失った人びとを精神的、
社会的に支えるグリーフサポートの重要性が高まっています。

大切な人を失った悲しみは、一人ひとり異なります。
私の場合、母に対する感情的なわだかまりや、
拭いがたい孤独感など、様ざまな感情が
心の中で複雑に交錯し苦しめられました。

大学にはなんとか入学したものの、
身体をこわして講義への出席もままならなくなりました。

学業復帰への足がかりをいただいたのは、
親を亡くした子供に奨学金貸与を行っている
あしなが育英会でした。

同会が開催したテロ、戦争、病気などによる
遺児たちへのケアの現場で、
悲しみと悲しみが出合ったところから
希望が生まれるのを目の当たりにしました。

二〇〇六年に自殺対策基本法が制定されて以来、
国内の地方自治体が遺族支援に取り組んできました。
その流れの中で、自治体をはじめ、学校、寺院などでの講演、
研修などで全国から呼ばれるようになりました。

年間三万人以上もの方が自ら命を絶ついま、
自殺の問題は決して他人事ではなく、
自分事として考えていきたい。

そしてこの問題が私たちに問い掛けているのは、
自分たちの生き心地について。この生きづらい社会を、
どうすれば生き心地のよい社会にできるかを
ともに考えていくことが、いまを生きる
私たちの役目だということを体験を交えてお話ししました。

二〇一〇年三月、社会起業家を目指す
若者のためのビジネスプランコンペ「edge2009」での
優秀賞受賞をきっかけに、本格的に社会に
グリーフサポートを根づかせていくために、
確実に遺族にサポートが届く仕組みを考えました。

寺院や葬儀社は必ずご遺族と出会います。
そこで、研修で出会った石川県小松市の僧侶の方と
協力して地域にサポートを産み落とすことを目的とした
グリーフサポート連続講座を開催。僧侶、坊守(僧侶の妻)、
葬儀社、一般市民の方が定員を超えるほど参加されました。

自殺遺族にどんな話をすべきか。実は人を導く
僧侶の方々ですら悩んでいらっしゃるのです。

いま求められるのは、遺族が頼れる人の繋がりやサポートの場です。
講座を通じて、去年の冬にグリーフサポートの団体が
二つ発足しました。

かつてお寺は地域と深く結びついていました。
いま日本にはコンビニの二倍にも当たる
七万以上ものお寺があります。

かつてのような地域との絆を取り戻せれば、
もっと生き心地のよい社会になると考え、
「寺ルネッサンス」と銘打って
小松市以外でも働きかけをしています。

グリーフケアで大切なことは、聴く力です。
聴の字は耳+目+心で成り立っており、
自分のすべての注意力を相手に向けること。

受け身でなく能動的な行為であって、
聴くことを通じて相手の痛みや苦しみを
ジャッジせずに少しでも近づくことが重要です。

もう一つ大切なことは、相手のことを気にかけてあげること。
母を失い、自室に籠もって死を思い詰めていた
私の心に光を灯してくれたのが友人のメールでした。

友人は私をむやみに励ましたりすることなく、
ただ「きょうは食べられた?」「眠れた?」と
毎日声を掛け続けてくれました。

一通のメールでもいい。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。

その実感が命を繋ぎ止めてくれるのです。

友人のおかげで、私はその後様ざまなご縁に恵まれ、
グリーフケアというライフワークを見出すことができました。

そしていま、いただいたたくさんのご縁は
亡き母からのギフトとして感謝の念を胸に抱いています。

旗を揚げることで繋がることのできる人がいます。
私は、大切な人の死を経験した人の目に
留まるよう高く旗を揚げ、確かに繋がっていくことで、
その喪失から希望を見いだせる社会を実現していきたいと思います。

「人格の根っこ」

土曜日, 12月 15th, 2012

       大平 光代 (弁護士)

                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」より

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 現在、ダウン症のお子さんを育てられている
 大平光代さんは、子育てに『論語』を用いているそうです。

 現在は、『論語』に関する本を出されている大平さんが
 そこに込めている思いとは?

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
 これは以前、強盗致傷罪で担当した少年の話です。

 彼は小さい頃、お父さんについてタバコ屋さんに行きました。
 その時、五千円札一枚出したところ、
 おつりとして八千円と小銭が返ってきた。

 「お父さん、おつり多いやんか。
  おばちゃん、間違えてはるで」

 と言うと、お父さんは彼を殴りつけ、

 「余計なことを言うな。黙ってたら分からへん」

 と言い放ったそうです。
 ちなみに、お父さんのこの行為は
 つり銭詐欺で刑法上の罪に問われます。
 
 この経験が少年の人格の根っことなって、
 後に彼は万引きを繰り返し、
 最後はひったくりを行って被害者が怪我を負ったために
 「強盗致傷罪」に問われました。
 
 お父さんは
 「おまえには十分に小遣いを与えていたはずだ」
 と怒りをぶちまけていましたが、
 もともとは「バレなければいいんだ」と、
 自分が五千円をごまかしたことがきっかけなのです。
 
 このお父さんも一流企業にお勤めのエリートサラリーマンでしたから、
 もしかすると『論語』の言葉は知っていたかもしれません。

 『論語』の心とは、
 目に見えないものを感じる心だと思います。

 誰が見ていなくても、お天道様が見ている。

 「そうやなぁ、おつり返しに行かなあかんな」
 と言って返していれば、
 この出来事は少年にとってまったく別の人格の根っことなったと思うのです。
 

生きる力と笑顔を生み出すのは・・・・・・

水曜日, 12月 12th, 2012

生きる力と笑顔を生み出すのは
       母の手のひらだった

    占部 賢志 (中村学園大学教授)
                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」より

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 大阪大学医学部の先生で玉井克人さんという方がいます。

 玉井医師は「表皮水疱症(ひょうひすいほうしょう)」の専門家で、
 この病気は全国で数百名ぐらいの難病中の難病といわれています。
 
 通常、私たちの皮膚は三層から成っていて、
 それがくっついているそうですが、
 「表皮水疱症」はそれが不十分で、
 夜、寝返りを打つだけで、皮膚がずれて破れてしまう。

 ですから、いつも水疱ができるので、
 それを一つひとつ専用の針で潰し、
 軟膏を塗らねばならないそうです。

 これを朝夕二回やるんです。そういう難病です。
 
 玉井医師はこの研究と治療をずっと続けてきて、
 信じられない現象に気づくんですね。
 それは、この難病を背負っている子供たちが一人の例外もなく、
 いつもみんな笑顔で実に明るいというのです。
 
 あれだけの難病、しかも毎日激痛と闘っている。
 いつ治るかも分からないのに、なぜこんなにも明るく、
 逆にこちらが癒されるような笑顔を見せてくれるのか、
 不思議でしょうがなかった。

 ところが、その理由が分かったそうです。

 
 それは、母と子の触れ合いによって活性化される
 「スキンシップ遺伝子」
 の働きなのだというのです。

 要するに彼らは生まれた瞬間から
 毎日毎日、朝夕二回、母が水疱を潰して、
 全身に手のひらで軟膏を塗ってやるでしょう。

 その母の手のひらが遺伝子に働きかけ、
 情動の発達を促して、
 あの優しい笑顔を生み出していたというのです。

 それを玉井医師は「スキンシップ遺伝子」と呼ぶのです。

 
 私はこの玉井医師のレポートを読んだ時、大変感動しました。
 難病やハンディという大変な逆境を背負っていても、
 人を癒し、明るく世の中を生きる力を生み出すのは、
 母の手のひらなんだと。

 目に見えぬ母の愛情には、
 それだけの力を与えることが科学でも証明されたということです。
 

超小型人工衛星「ハヤト」に夢をのせて

月曜日, 12月 10th, 2012

 西尾 正則 (鹿児島大学大学院理工学研究科物理・宇宙専攻教授)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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二〇一〇年五月二十一日、午前六時五十八分。
鹿児島県の種子島宇宙センターから
H‐2(※正しくはローマ数字/以下同)Aロケット十七号機は
打ち上げられました。

このロケットには金星探査機「あかつき」とともに
三機の人工衛星も搭載されており、その一つが、
私がプロジェクトマネージャを務める研究グループの開発した
「KSAT」です。

KSATのミッションは、大気中の水蒸気の分布を解析し、
局地的な天気予報を行うこと。一辺僅か十センチの立方体で、
重さ約一・四キロという超小型の人工衛星です。

鹿児島はロケット打ち上げ基地を有する日本で唯一の県。
しかし、ここ鹿児島に、宇宙産業に携わる企業はあまりなく、
九州の研究施設としては初めて小型人工衛星の打ち上げに
漕ぎ着けることができました。

とはいえ、私はもともと宇宙工学に関しては全くの素人でした。
専門は電波天文学。人工衛星を使って天体観測に影響する
地球大気の様子を調べようというものです。

この成果を利用し、最近よく耳にする
ゲリラ豪雨や雷をもたらす雲の発生などを早く、
正確に捉えるべく、教え子である
鹿児島大学の学生たちとともに研究に励んでいました。

当初はアメリカの携帯電話衛星が出している電波を使って
観測していたのですが、衛星本来の目的と違った利用方法のため、
どんな強さの電波を出しているかなど、
大事な情報を提供してくれません。

「これでは観測に限界がある。
 ならば、いっそのこと、自前の衛星をつくろう」

それがすべての始まりでした。
ちょうどその頃、一辺十センチの超小型衛星でも
宇宙で動くという話を耳にした私は、

「小型衛星であれば地元の企業の協力を得て、
 自分たちで開発できるはずだ。
 これに挑戦し、成功させることで、
 誰も見たことがない世界を見てみたい」

と思い立ったのです。
さっそく地元の工業技術センターや企業が集まる
セミナーなどに足を運び、賛同者を募っていきました。

すると、渕上ミクロという電子部品メーカーの東郷会長や
当時工場長だった佐藤哲朗さんたちから、
「面白いね。一緒にやろうじゃないか」
と声を掛けていただきました。

それだけでなく、佐藤さんは親しくしている
関連企業の技術者を掻き集め、
とりまとめに奔走してくださったのです。

そうしてプロジェクトチームが始動したのは二〇〇五年。
しかし、集ったメンバーは衛星それ自体は
つくったことのない方ばかり。
まさにゼロからのスタートでした。

何から始めればいいのかも分からず、最初はああでもない、
こうでもないと徒らに話し合いを重ねていましたが、

「いや、話しているよりも、まずは一回つくってみよう」

ということで、アルミニウムの塊を切り出し、
実物を見ながら衛星をつくっていきました。

地元の小さな企業の技術者たちと学生たちが協力し、
試行錯誤を重ねた末にKSATは誕生。

二〇〇八年七月、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の
公募に合格し、H‐2(※)Aロケットへの
搭載が決定したのです。

ところが、それで完成ではありませんでした。
搭載が決まってからもJAXAの審査を何度も受けなければならず、
打ち上げまでの二年間は、改良に明け暮れました。

審査の一つに安全審査というものがあります。
これは、どんな状況にあっても、壊れたり、
爆発したりせず、親衛星に百%悪影響を
もたらさないことが求められるのですが、
すべて書面で証明しなければなりません。

実験を行い、データを抽出し、書面に書く。
ひたすら文字との格闘です。

そのような審査を経て、問題点を解消し、
精度の高い衛星に仕上げていきました。

打ち上げ当日は、大学の教室にスクリーンを設置し、
打ち上げイベントを実施。早朝にもかかわらず、
地元の小中学生が三百人も集まってくれました。

カウントダウンの前に命名式を行い、
当初のプロジェクト名だった「KSAT」に代わって
「ハヤト」という愛称がつけられました。

ハヤトはまさに我われプロジェクトチーム、
そして鹿児島県民の夢を託して、宇宙へと飛び立っていったのです。

打ち上げは成功。高度三百キロ地点で
ハヤトはH‐2(※)Aロケットから分離され、
地球周回軌道に入りました。

ところがその後、通信は途絶え、
行方不明になってしまったのです。

宇宙空間を彷徨うハヤトをなんとしても見つけ出そうと、
管制室から宇宙に向けてひたすらアンテナを向け続けました。
そして、十日目にしてようやく、
ハヤトからの電波を受信することができました。

「ハヤトは生きている」。

そして、いざ観測モードに切り替えようとした矢先に、
再び見失ってしまいました。
その後、ハヤトは大気圏に再突入し、
儚くも燃え尽きてしまったのです。

しかし、私たちのチャレンジはまだ終わっていません。
現在は二〇一三年の打ち上げに向けて、二号機を制作中。
次こそ観測を成功させ、どんな苦難でも
必ず乗り越えられることを伝えたいと思っています。

私はよく学生に
「宝くじは買わなければ当たらない」と言っています。

目の前にチャンスが訪れた時に、
「自分には身に余る」「失敗したらかっこ悪い」と躊躇し、
チャンスを自ら潰すことがあってはならない。

自分の可能性を信じて挑戦して初めて、
新しい世界が見えてくるのではないでしょうか。

「突然の便り ~千代子はまだ生きています~

木曜日, 12月 6th, 2012

     中條 高徳 (アサヒビール名誉顧問)

           『致知』2013年1月号
              リレー連載「巻頭の言葉」より

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暑かった平成二十四年の夏も終ろうとする頃、
分厚い包みが届いた。

京都府綾部市の川北千代子さんからのものであった。

お会いしたこともない方々から、
毎日のように講演の感動や、拙著の読後の喜びを
伝えてくださるお手紙をたくさんいただくので、
すぐにはどなたか思い出せなかった。

お手紙を読むや、この老いの身も心も
電気ショックに打たれたような衝撃を受けた。

この世の出来事かと身をつねるほどの感動であった。

筆者の早朝の靖国詣では数十年に及ぶ。

若い頃、遊就館の「親子の像」の隣の
展示ショールームに飾られている
一通の遺言状に釘付けになった。

「妻千代子へ」という、
しっかりした筆跡の遺言状であった。

十八年十二月一日とある。

筆者はその一か月前の十一月三日、
教育総監から陸軍士官学校合格の電報を受け、
勇躍国家のために尽くせると身も心も燃えていた。

遺言状はその頃のものである。

「兼(かね)テ軍人ノ妻トシテ嫁グ前ヨリ覚悟ナシ居リシコトト思フガ

  決シテ取乱(とりみだ)スコトナク

 武勲ヲ喜ンデ呉(くれ)ヨ

  ヨク仕ヘテ呉タ事ヲ心ヨリ感謝シテイル

  短イ期間デハアツタガ誰ヨリモ
 可愛イ妻トシテ暮シタ事ハ忘レナイ

  飽ク迄(まで)川北家ニ踏止(ふみとどま)ツテ
 御両親ニ仕ヘテ呉(く)レ」

入隊前日認(したた)ム 川北偉夫(まさお)

数十年前のことであった。

同年代の男としてこの遺言状に触れた瞬間、
涙が滂沱と流れた。

筆者も結婚していただけに男の気持ち、
その切なさが痛いほど伝わってきた。

国家の防人として出征する男の公の決意と
新婚間もない可愛い妻との別離の切なさの間に立って、
「川北家に止まって両親に孝養を尽くせ」としか
再婚拒否の意を伝えることができなかった戦時下を思うと、
戦争の罪深さと男の切なさが身に沁みる。

筆者は幾度となくこの遺言状の前に額(ぬか)ずいて
涙を重ねてきた。

なんとその千代子さんの手紙が届いたのだ。

「千代子は生きています。
  八十五歳で幸せに生きています」

との嬉しい感動のお手紙であった。

「実践×読書で経験値を倍増する」

火曜日, 12月 4th, 2012

         桑原 豊 (ワタミ社長)

                『致知』2012年12月号
                 連載「20代をどう生きるか」より

└─────────────────────────────────┘

一年間の修業で技術を身につけた私は、
開業資金をつくるため、当時外食産業で給料がよいと
評判だったすかいらーくへ友人の紹介で入社した。

私が修業していた店はコーヒー専門店とはいえ、
本格的な料理も提供していたため、
自分が一番できると思っていたが、とんでもない。

高校生のアルバイトより仕事ができないのだ。

彼らは皆、一所懸命働き、自ら進んで掃除などをしている。
「なぜ彼らはこんなにも意識が高いのだろう」と不思議に思った。

さらに驚いたのは社員教育の仕組みである。
三か月ほど経った頃、店長から突然、
「アルバイトの面接をしてください」と頼まれた。

その後さらに、「トレーナーになってほしい」と言われ、
新人の指導をすることになった。
最初は戸惑いながらも、会社の理念や作業の手順を教えていくと、
自分が会社を代表して話しているという自覚が芽生え、
どんどん自分の身に沁み込んでいくとともに、
自ら学ぼうとする姿勢が育っていった。

一方で、毎日お店には、ステーキはグラムでポーションされ、
ホワイトソースは一人前がパックになった状態で
工場から届けられる。

入社前、私は「どうせチェーン店なんてレンジでチンだろ」と
馬鹿にしていたが、その後の調理は個人店となんら変わりない。

この時私は、これらの「仕組み」があるからこそ、
アルバイトの高校生でも料理をすることができ、
お店のためにイキイキと働くことができるのだと気づかされた。

と同時に、これはいったい誰が考えているのだろうかと思った。

それ以外にも、毎月送られてくる新しいメニューは
誰が考えているのだろう。

お店に商品が入ってくる前の一次加工は
誰がしているのだろう……。

そうして、複数の人たちがフォローし合いながら
チームワークでつくり上げていく「組織」というものに
強く興味を抱くようになっていった。

言ってみれば、個人店は1+1が2の力にしかならない。
一方、チェーン店で働いて分かったのは、
組織の中で一人ひとりの力は足し算にとどまらず、
相乗作用を引き起こすのだということ。

私にはコーヒー専門店をやりたいという夢があった。
しかし、自分という一人の人間が皆に
少しでもいい影響を与えられる仕事は
どっちだろうかと考えた時、私が出した結論は
「ここで必死に働いて店長までやろう」ということだった。

そのためにはまず店舗運営を勉強しなければならない。
また、四十人いる従業員のリーダーとして
マネジメントの勉強も必要になる。

そこで私はチェーンストア理論とマネジメント、
この二つだけを徹底的に勉強しようと、専門書を読み漁った。
いくら読書をしても、実践する場面がなければ
生かしようがないが、現場にいながら読書をし、
理論の要諦を掴む。

それによって、通常の半分程度の時間で
経験値を得ることができるというのが私の実感である。
その結果、入社二年目で店長に就任し、
翌年、七店舗を統括するエリアマネージャーに
昇格することができた。

「幸運をつかむ3つのプロセス」

水曜日, 11月 28th, 2012

      『致知』2011年5月号
               特集「新たな地平を拓く」より

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昨年(2010年)10月、二人の日本人科学者が揃って
ノーベル化学賞を受賞され、日本国中を沸かせた。

鈴木章さんと根岸英一さんである。

そのお一人、根岸さんが特別出演された新春のテレビ番組を視聴し、
深く感ずるものがあった。

「自分は科学者だが、中小零細企業の社長と同じです」

と根岸さんは笑いながらそう話し出された。

ヒト、モノ、カネをいかに裁量するかが事業経営の要諦だが、
科学技術の開発もまた、その苦労から逃れ得ない、
ということだろう。

また、科学者は一つの研究が成ったらそれで終わりではない、

さらに新たなテーマを見つけ挑戦していかなければならない、
という話をされた。

根岸さんはいま、海水中にあるウランを活用する
技術の開発に取り組んでいると目を輝かされていた。
そして、長年のご体験から掴まれた発見に至るプロセスを
図式化して説明された。

発見はまず、こういうものが欲しい、
こうなったらいいという「ニーズ」「願望」が出発点である。

そのニーズや願望を達成するために「作戦」を練る。
この作戦でいこうと決めたら、それに沿う方向で
「系統立った探求」を始める。

この系統立った探求が難物である。
途中で、もうやめようか、と迷う瞬間が何度もある。
失敗が続き、こんなことをやっていても無駄だ、
と思う時がある。

その時、「いや、絶対に屈しない。これでいくんだ」と
思い続けられるかどうか──。

そう思い続けるには、
「知識」「アイデア」「判断」が要る。

この3つが不屈の「意志力」「行動力」を生む基になる。
これらの難関をくぐり抜けて「幸運な発見」が生まれる、
というのである。

この発見のプロセスは、科学技術に限ったことではない。
あらゆる仕事に共通した普遍の法則というべきものであろう。
新たな地平を拓くための要訣を示した法則だ、とも言える。

「息子の名前がつく村 ~ナカタアツヒト村~」

月曜日, 11月 26th, 2012

   中田 武仁 (国連ボランティア終身名誉大使)

                『致知』2008年9月号
                       致知随想より

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 平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、
 外資系のコンサルティング会社に
 就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、
 1年間休職し、国連ボランティアとして
 カンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。
 
 カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、
 国連の暫定統治機構のもとで
 平成5年5月の総選挙実施が決まった。
 
 人々に選挙の意義を説き、
 選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。
 それが厚仁が志願したボランティアの
 任務の内容だったのである。
 

 厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。
 商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、
 厚仁は小学校時代を過ごした。
 
 いろいろな国の子どもたちと交わり、
 アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、
 世界中の人間が平和に暮らすには
 どうすればいいのかを考えるようになった。
 

 世界市民。
 
 その意識を持つことの大切さを
 厚仁はつかみ取っていったようである。
 
 1年間のアメリカの大学留学も
 その確信を深めさせたようだった。
 国連ボランティアは、
 厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。
 
 だが、現地の政情は安定には程遠い。
 ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。
 息子を危険な土地に送り出す不安。
 
 私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。
 そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。
 厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。
 私は厚仁の情熱に素直に感動した。
 

 カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
 政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。
 自ら手を挙げたのだという。
 私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。
 
 厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする
 平成5年4月8日、私は出張先で
 信じたくない知らせを受けた。
 

 厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
 射殺されたのだ。
 

 現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
 現地の人びとに信頼されていたかを知った。
 厚仁の真っ直ぐな情熱は、
 そのまま人びとの胸に届いていた。
 
 カンボジア佛教の総本山と尊崇されている寺院で、
 厚仁は荼毘(だび)に付された。
 煙がのぼっていく空を見上げた時、
 厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。
 

 私は決意した。
 
 長年勤めた商社を辞め、
 ボランティアに専心することにしたのだ。
 そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。
 
 そういう私の姿は厚仁の遺志を引き継いだ、
 と映るようである。

 確かに厚仁の死がきっかけにはなった。

 だが、それは私がいつかはやろうとしていたことなのだ。
 厚仁のように、私もまた自分の思いを貫いて
 生きようと思ったのだ。
 
 私はボランティアを励まして
 延べ世界50数か国を飛び回った。
 それは岩のような現実を素手で
 削り剥がすに似た日々だった。
 
 ボランティア活動をする人々に接していると、
 そこに厚仁を見ることができた。
 それが何よりの悦びだった。
 

 厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、
 カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、
 人口約1000人の村ができた。
 
 その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。
 アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。
 人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。
 

 ところが、もっと驚いた。
 

 その村の行政上の正式名称が
 ナカタアツヒト村ということを知ったのだ。
 

 このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。
 洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。
 
 私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
 集まった四百万円を被災した人びとの
 食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。
 
 ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。
 カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、
 これからは何よりも教育が重要だ、
 ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、
 というのである。
 

 こうして学校ができた。
 
 名前はナカタアツヒト小学校。
 いまでは中学校、幼稚園も併設され、
 近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。
 
 やがては時の流れが物事を風化させ、
 厚仁が忘れられる時もくるだろう。
 だが、忘れられようとなんだろうと、
 厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。
 
 これは厚仁がその短い生涯をかけて
 教えてくれたものである。
 

 厚仁の死から15年が過ぎた。
 
 ひと区切りついた思いが私にはある。
 楽隠居を決め込むつもりはない。
 国連は改めて私を国連ボランティア終身名誉大使に任じた。
 
 この称号にふさわしいボランティア活動を、
 これからも貫く決意だ。
 
 15年前、あれが最後の別れになったのだが、
 一時休暇で帰国しカンボジアに戻る厚仁に、
 私はこう言ったのだ。
 

 「父さんもベストを尽くす。厚仁もベストを尽くせ」
 

 ベストを尽くす。
 
 これは息子と私の約束なのだ。
 
 厚仁の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、
 人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれるのである。

「人間の脳が持つ3つの本能」

土曜日, 11月 24th, 2012

              『致知』2012年12月号
               特集「総リード」より

└─────────────────────────────────┘

太古から今日まで、生命は一貫して二つの原理によって
存在している、という。

一つは代謝であり、
もう一つはコミュニケーションである。

代謝によってエネルギーをつくる。
コミュニケーションによって新しい生命を生み出す。
この二つの原理によらなければ、あらゆる生命は存在し得ない。

この生命を生命たらしめている二つの原理は、
人間の幸福の原理と対をなすように思われる。

即ち、あらゆる面で代謝(出と入)をよくすること。
そして物を含めた他者とのコミュニケーションをよくすること。
そこに人間の幸福感は生まれるのだ。

聖賢の教えは、極論すれば、この二つを円滑にするための
心得を説いたもの、とも言える。

脳の専門医、林成之氏は、どんな人の脳も
三つの本能を持っている、という。

一は「生きたい」、

二は「知りたい」、

三は「仲間になりたい」

という本能である。

この脳の本能から導き出せる
「脳が求める生き方」は一つである。

「世の中に貢献しつつ安定して生きたい」

ということである。

脳の本能を満たして具現するこの生き方は、
そのまま人が幸福に生きる道と重なり合う。
そこに大いなる宇宙意志をみる思いがする。

遠くから来た私たちは、宇宙意志のもとに、
幸福を求めて遠くまで歩み続けているのかもしれない。