まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「高畠導宏さんに学んだ本物の生き方」

金曜日, 11月 23rd, 2012

        隈本 豊 (筑紫台高等学校副理事長・前校長)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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八年前の夏、一人の高校教師が膵臓がんでこの世を去った。
高畠導宏、享年六十―。

プロ野球七球団で約三十年にわたり打撃コーチを務め、
落合博満、イチロー、小久保裕紀など、
数々の好打者を育て上げた指導者でもあった。

彼との出会いは平成十四年秋。
福岡の筑紫台高校で私が校長を務めていた時、
共通の知人を通じて知り合った。

かつてダイエーホークスで打撃コーチをしていた高畠さんは、
チームの本塁打数が激減した要因を、
本拠地がドームに変わり、球場が広くなったことに対する
精神面の変化にあるのではないかと考え、
五十代半ばにして心理学の勉強を始めるようになる。

心理学を学ぶのには教職課程が最適とよくいわれるが、
彼はコーチ業の合間を縫って
日本大学の通信課程を五年掛かりで履修。

その上で教員免許の取得に必要となる教育実習を、
私の高校で受け入れてもらえないかと
相談を持ち掛けてきたのだった。

私は実習期間中に全校集会で講演してもらうことを
条件に引き受けることにした。

実際に講演を聴いてみると、実に話が上手い。
自らの失敗談も交えながら、その失敗に挫けず、
経験として生かしていくことが大事だと語る。

本校の生徒には県立高校の受験に失敗し、
挫折感を抱えている者が少なくない。

高畠さんはそういう彼らに
「君たちは物凄いバネを持っているんだ」
「失敗を生かせ」と逆に励ましてみせる。

素晴らしいと感嘆した私は、彼にこの学校で
教員免許を生かす気はないかと持ち掛けた。

高畠さんはプロ野球の世界で、複数年契約をせず、
常にクビと隣り合わせの一年契約を自ら志願してきた人である。

監督の指導方針と合わなかったり、
自分の持つ能力を十分に活用してくれないのであれば
いつでもチームを変わる、
そういう覚悟を絶えず持っていたのだろう。

私は四十年近く県立高校の教員をし、
校長も何校かで経験してきたが、
大半の教員にはそれだけの覚悟がない。

加えて、初めて赴任する私立校は県立校とは
質の異なる様ざまな問題を抱えており、
彼ならばきっとこの学校の体質を変えてくれるに
違いないとの期待があった。

その頃、すでに某プロ野球チームからの
オファーが掛かっていたが、結果的に彼は
その誘いを断って本校へ来る決断をしてくれた。

新校長として赴任した私に対して
「教育の素人を雇うような中途半端なことをやっとって、
  学校教育ができるか」
と厳しい言葉もいただいた。

私は反論こそしなかったが、
人にものを教える際に問われるのは、
教養もさることながら、一人の人間としてのあり方だ
という信念があった。

高畠さんにはここで通用しなければいつでも腹を切れる
という覚悟が備わっており、彼はまたそのための努力を人一倍し、
持てる愛情のすべてを子供たちに懸けるという姿勢を貫いていた。

高畠さんは本校へ来て
「三年以内に甲子園で全国制覇する」と宣言していた。

もっとも、プロ野球の経験者は教師になっても
二年間は高校野球の指導が禁止されているのだが、
私も彼にならそれができるはずだと信じていた。

だからこそ、病院の検査を受けた彼から
「余命六か月です」との報告を突然受けた時は
返す言葉もなかった。

膵臓がんは進行が早いのとは対照的に、
症状が乏しく早期発見が難しい。

体の丈夫さには誰よりも自信を持っていただけに、
普段のケアが疎かになっていたのかもしれない。
まだ六十歳の、あまりにも早過ぎる死だった。

高畠さんが本校にいたのはたった一年半にすぎなかったが、
その後、大学への進学率が着実に伸び始めた。
さらに彼は剣道部の生徒たちの持つ目に惚れ込み、
試合の応援にも欠かさず駆けつけた。

剣道部にはいまも高畠さんの書による
「氣力」の文字が飾られており、
女子剣道部はインターハイで二年連続日本一になるなど
全国有数の強豪校となっている。

また直接指導することはなかったが、野球部には
「伸びる人の共通点」として彼の挙げた七つの言葉が残っている。

※高畠氏が生徒たちに伝えた
「伸びる人の7つの共通点」とは?
 また、氏は最後の授業で何を語りかけたか――。

「中谷宇吉郎&治二郎展」in江別

木曜日, 11月 22nd, 2012

岡潔先生の親友が、考古学者・中谷治二郎さんだった。

彼のお兄さんが、あの雪博士・宇吉郎博士。

フランス留学時代に知り合い、何時も一緒に語り合い、

そこで初めて、岡先生は、友人という存在を知ったと言う。

だが、彼が不治の病を得て、由布院で療養して死するまで、

岡先生は、度々見舞って、心が離れなかった。

その治二郎さんと宇吉郎さんの二人展が江別で開かれている。

是非、行きたいと思う。

30日までである。

「家族が欲しかった。あたたかい家族がいつも欲しかった」

木曜日, 11月 22nd, 2012

           安藤 大作 (安藤塾塾長)

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

僕自身も両親が離婚しまして、幼い頃から
「自分が惨めだ」とずっと思い続けてきたんです。

とはいっても、それに気づいたのはずっと後で、
子供の頃から人よりも目立とう目立とうと頑張ってきたのも、
いま思うと不安や惨めさ、温かい家庭を持つ人を
恨めしく思う気持ちを埋め合わせようとしていたのでしょうね。

両親が離婚した後、僕は父親の再婚相手との生活に
馴染めないで母親の元に送られたそうです。

だけど、その母も結局は九歳の僕と妹を
伊勢に置いて東京に行ってしまう。

それから僕たちは福祉施設を経営する母の知人の女性に育てられました。
この女性は皆から「先生」と呼ばれていて
僕たちをとても大事にしてくれたんですが、
仕送りが滞って親や安藤家の悪口を言われる時は惨めでしたね。

「見返したい」「でも構ってほしい」
「僕は惨めじゃない」「甘えたい」……。
そんな複雑な感情が湧き上がってくるんです。

悔しかった僕は新聞配達のアルバイトをして、
稼いだお金は全部先生に渡していましたよ。

ある時から、僕たちの家に先生の知人の山本さんという女性と
四人の子供たちが一緒に住むようになりました。

この山本さんは僕たちの第二の育ての親でもあるのですが、
先生と一緒に家庭問題に悩む人の会を立ち上げると、
やがて各地から家族ぐるみでやってきて
生活を始める人まで現れました。

中学一年から高校三年までこの大家族で育ったことは、
とても大きな体験だったと思っています。

長野の大学に入学した後も目立ちたい、
チヤホヤされたいという思いは相変わらずでした。

だからスキーやサーフィンなど仲間に
注目されそうなものにはすぐに飛びついた。

その頃の僕はいつも元気印で、皆の注目を集めていれば
世の中を上手く渡っていけると本気で考えていたんです。

ところが、就職にことごとく失敗しまして、
特別扱いされない世界、どうにもならない世界があることを
知るんですね。

そしてこの時、幼少期から満たされない心を
埋めよう埋めようとして頑張ってきた
自分の生き方にようやく気づくんです。

そうすると心を埋めるためだけに生きた自分が
猛烈に空しく思えてきて、最後にはとうとう死を決意しました。

いまも台風シーズンになると思い出すのですが、
一九九〇年九月、超大型の台風が松本を直撃した時、
僕は夢遊病者のように誰もいない暴風雨の街を彷徨いました。
もうどうにでもなれ、という思いでしたからね。

だけどとうとう死にきれずに、ずぶ濡れのまま
アパートに帰りました。

そして、気がつくと、部屋にあったまっさらなノートに
湧き上がる思いを一気に書き殴っていたんです。

「家族が欲しかった。あたたかい家族がいつも欲しかった」

とめどなく言葉が溢れて、ノートはたちまち埋め尽くされました。
臭いものに蓋をしていたというか、幼い頃から抱いていた感情が
際限なく湧き出るのが自分でも不思議でしたね。

ノートをつけ始めて三週間後くらいでしょうか、
僕は一大決心をしました。

決別してもいい。
二度と会えなくてもいい。
心のコブとなっている母と本音でぶつかり合いたいと思ったんです。

母はそれまで一切長野に来ることはありませんでしたが、
「とにかく来てほしい」と松本の僕のアパートに呼び、
泣きながら訴えました。

「俺は寂しかった。惨めだった。
 お母さんの悪口は聞きたくなかった。
 親は好きだ。だから俺は頑張った。
 バカにされたくなかった。辛かった……」

と。いい年した大人がですよ。

【記者:お母様はなんと?】

「ごめんね。ごめんね」を繰り返しながら
いつまでも泣いていましたね。

そうやって一晩中語り明かして明け方になった頃に
母の辛さ、弱さも分かってきました。

母自身も片親で育ち、寂しさを紛らわすかのように
音楽にはまり、離婚した後は、我が子に寂しい思いをさせるのを
覚悟で音楽の夢を求めて東京に出てきていたんです。

僕は母の泣く姿を見ながら

「受け入れられた」「深く愛されている」

という安堵感に包まれていました。

母を松本の駅に送り、アパートに帰る時の
清々しさといったら半端ではなかったですね。
世の中がキラキラ輝いているというか。
僕が心の縛りから解放されたのは、この時からです。

「幸福の原点とは?」

水曜日, 11月 21st, 2012

           ――鈴木秀子氏の幸福論

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

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 ◆ 東日本大震災は大変な悲劇でしたけれども、
     マイナスに見える出来事をとおしながら
   日本人が古来、よしとしてきたものをさらに純化していく。

     そういう時期に日本が直面しているような気がします。
     危機を皆で乗り越える上での大きな方向性みたいなものが
     日本人の間から湧き上がることを私はずっと祈り続けているんです。

 ◆ 全人類を大河にたとえると、自分はその中の一滴にすぎない。
   だけどその一滴がなくては川そのものが成り立たない。

 ◆ 私たちは自分の命は自分のものだと思っています。
     だけどその当たり前は
     当たり前ではないということなんですね。
     そこに気づくところに幸福の原点がある。

 ◆ 仏教で諸行無常を説くように、
     すべては変化していくわけだから安全や安定が
     いつまでも続くということは絶対にありえないわけですよね。

     時々刻々の変化の中にいいこともあれば、悪いこともある。
     ただそれは中立として起こるものであって、
     それをこちら側がどのように受け止めるかで
     いい、悪いが決まる。

     だから起こってくる出来事をしっかりと見つめながら、
     最善の判断をしていくことが大事だと私は思うんです。

安藤大作氏の幸福論

月曜日, 11月 19th, 2012

「心のコブを取り除いた時、本当の幸せが見えてくる」
 
                 
                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

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 ◆ 僕は、現代人の自己否定は、
   その人が勝手につくりあげたものだと考えています。
   誰かから否定されたわけではないのに、
   自分の意識が「おれは駄目だ」「認められていない」と思ってしまう。

   僕が塾の教育を通してやってきたのもまさに、
   子供たちのこの「心のコブ」に気づかせ、
   そこから抜け出させて「必ずやれる」という確信を
   持たせてあげることでした。

 ◆ 人間の心が100としたら、普段意識できるのは5%で、
   95%は無意識の世界です。

   「俺はこんな男だ」「これしか俺にはできない」
   と言っているのはこの5%です。

   ところが、化石のようになった95%を穿(ほじく)り出すと、
   段々自分の思考パターンや可能性が見えてくる。
   おもしろいもので自分を穿り出した分、他人の心も見えるんですね。

 ◆ 親と分かち合って繋がりを感じた時に、
人間は優しくなれるし、万物への愛しみが生まれる。
これが僕の実感です。

身の回りの友達、同僚、これも確かに大切な絆でしょう。
だけど親や先祖というもう一つのパワーが
これとクロスすることで人間は無限の幸せが
得られるのではないでしょうか。

 ◆ どんなマイナスの環境に生まれたとしても
「それを変えるために自分は生まれてきた」
「そんな自分だからできることがある」と思ったら
すべて感謝、すべてオーケーです。

そこに幸福感、心の安らぎを覚える人が増えていけば、
この国はもっと優しくなり、もっと輝くはずです。

(編集部より)

  安藤大作氏は三重県屈指の学習塾・安藤塾の塾長です。
  小さい時の両親の離婚に端を発する様々な苦悩を
  克服するために目を向けたのが、自らの潜在意識でした。

  誰もが持つ「心のコブ」をいかに取り除くか。
  実体験に基づく安藤氏の言葉はどれも説得力があります。

宮脇 昭 氏の幸福論

日曜日, 11月 18th, 2012

世界1700か所、
         約4000万本の植樹をした         
          

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆瓦礫は貴重な地球資源です。
  そもそもゴミとか廃棄物などというのは人類の歴史にはなかった。
  すべて生産、消費、分解、還元の
  生態系の循環システムに組み込まれている。
  すべて生かす。だから瓦礫も生かすんです。

 ◆私は人と付き合って騙されたことがない。
  なぜなら本物としか付き合わないから。
  本物とは「そのうちに」とは言わない人。
  日本人の「そのうちに」は「やらない」という意味です。

 ◆やれることからすぐに始める。これが本気さの証明。

 ◆現代人の多くは
  経済と環境問題は相対するものと考えていますが、
  それは刹那的で一時的な富を考えるからです。
  長い目で見れば、
  本当は環境を大切にすることが経済的なのです。

 ◆木は2本植えれば林、
  3本植えれば森、
  5本植えれば森林になる

 ◆駆け回るからタフになるんです。
  過労死などありません。
  それから、引き算の考え方はしない。
  常に未来志向、明日のためにできることを毎日やる。
  これが私の健康法です。

 ◆生きている以上の幸福はないんです。
  私はまだ84歳ですからね、
  少なくともあと30年は木を植え続けたい。

……………………………………………………………………………………
(編集部より)

  「瓦礫は大切な地球資源」

  「瓦礫を活かして、9000年間日本を守る
   “森の防潮堤”をつくる」
  
  東日本大震災後、多くの報道で瓦礫の処理をどうするか
  自治体の首長がもめている姿を見ましたが、
  こんなスケール感で考える人がいるのかと改めて驚きました。

  「いますぐにやらなければならないのは、
   消費税の増税ではなく、森の防潮堤づくりです!」
  
  という一言に、その場の編集部一同、大いにうなずきました。

奇跡の作曲家 3

土曜日, 11月 17th, 2012

宮下 周平様

NHK番組「ただイマ!」で“奇跡の作曲家”として紹介されて
大きな反響を呼んだ佐村河内 守さん。

『致知』2008年11月号にも登場され、
この記事を読んだ時の衝撃は、あまりにも大きく、
4年を経た今でも心に残っています。

その内容とは・・・・

35歳の時全聾となり、四六時中激しいノイズや発作に苦しむなかで、
闇の中に光を見出せたのは、障害施設の子どもたちの姿でした。

「自分のことは構わず、朝も昼も晩も

『守さんが元気になりますように』

と祈ってくれる子どもたちの中には、
生きたくても生きられない、私なんかよりもずっと苦しんでいる子がいる。

その中の一人、山口太一くんのお母さんから手紙をもらいました。

太一くんはがんで片脚を切断しました。
脚は切断しましたが、肺をはじめとして他にも癌が転移していました・・・
太一君は私の曲を聴いて、免疫力をつけて頑張っていこうと決心し、
自宅に帰ったそうです。

私は彼のために、なんでもしてあげたい。
せめて自分の音楽を通じて苦しんでいる彼に、小さな光でもいいから与えてあげたい。

と願っていましたが、お母さんから『太一危篤』のメールを受け、
広島の大学病院に駆けつけました。

3日後太一君は

『マモルサンガキテクレテウレシクテココロガナイテイル』

と最後の言葉を残し、私の音楽に包まれながら息をひきとりました」

「私にとって、生きることそのものが音楽であり挑戦です。
 その挑戦を通じて、闇の中で苦しんでいる人々に
 小さくてもいい、一筋の光をもたらすことができればと願っています」

という深い思いで、命を削りながら曲を書いている佐村河内さんの魂の叫びが
今回の大きな反響に繋がったと、思えてなりません。

既に「致知」の在庫はなくなっていますが、
「現代人の伝記 4」には、この記事が紹介されていますので、
まだお読みでない方は、是非ご一読いただけたらと・・・

http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=891&category_cd=

致知出版社   小笠原節子

「いまがその時、その時がいま」

月曜日, 11月 12th, 2012

           外尾 悦郎 (サグラダ・ファミリア主任彫刻家)

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

【記者:スペインへ移住されてから今年で34年目になるそうですね】

はい。私自身の気持ちとしては昔から何も変わっていませんが、
ただはっきり言えるのは、34年もあそこで
仕事ができるとは一度も思わなかったということ。

いつもいつも「これが最後の仕事だ」と思って取り組んできました。

【記者:いまだにそうなのですか】

はい。私は長らくサグラダ・ファミリアの職員ではなく、
一回一回、契約で仕事をする請負の彫刻家でした。
教会を納得させる作品ができなければ
契約を切られる可能性がある。

命懸けという言葉は悲壮感があって
あまり好きではありませんが、
でも私自身としては常に命懸け。

というのも命懸けでなければ面白い仕事はできないからです。

ただ本来は生きているということ自体、
命懸けだと思うんです。

戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、
いま自分は生きていると感じる。
病で余命を宣告された人が、
きょうこの瞬間に最も生きていると感じる。

つまり、死に近い人ほど生きていることを
強く感じるわけで、要は死んでもこの仕事を
やり遂げる覚悟があるかどうかだと思うんです。

この34年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、
私がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がありましてね。

「いまがその時、その時がいま」

というんですが、本当にやりたいと思っていることが
いつか来るだろう、その瞬間に大事な時が来るだろうと
思っていても、いま真剣に目の前のことを
やらない人には決して訪れない。

憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、
だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければ
いけないと思うんです。

……外尾氏はなぜサグラダ・ファミリア教会の建設に
携わることになったのか?
その聖堂の建設に携わる中で知ったガウディの思いとは?

「人は感謝するから幸せになる」

日曜日, 11月 11th, 2012

        鎌田 善政 (鎌田建設社長)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

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鹿児島県霧島市にある鎌田建設の敷地内に
「凡事徹底」の文字が刻まれた石碑ができたのは、
二〇〇二年九月。

以前から経営者としての指針となる言葉を
刻んだ碑が欲しいと念願していた私は、
師と仰ぐイエローハット創業者・鍵山秀三郎先生にお願いして
その座右の銘であるこの言葉を揮毫していただきたいと考えました。

幸い鍵山先生にも快諾いただき、上京してお借りした書は、
亡きお兄様の筆によるものとのことでした。

碑が無事完成し、私は入魂式を行うために
友人の僧侶を招きました。

すると彼は石碑を眺めながら

「理由は分からないが、この文字の力に体が思わず反応する」

と言うのです。

不思議に思った彼は、書の達人として
有名な堀智範大僧正(京都・元仁和寺門跡)に
碑の写真を送って鑑定を依頼。

間もなく書を讃える内容の返事が届きました。

「凡の字はバランスを取るのが難しく、
 どうしても縦長になりがちです。

 ところがこの凡の字は横にどっしりと広がっています。
 この字を書いたのはおそらく商売をなさっている方でしょう。
 商売が末広がりであるように祈りを込められたのだと思います」

私は早速鍵山先生にお電話をして、このことをお伝えしました。
すると先生は喜ばれ、あの訥々とした口調で
お兄様の思い出を語り始められました。

その話を聞きながら、私は感動のあまり受話器を握る手が震え、
堀和尚の言葉の意味が心に深く浸透していくのを感じたのです。

先生のお兄様は学校の教師をされていました。
長屋のようなところで、生涯を慎ましく生きられたそうです。

先生の事業がまだ軌道に乗る前、資金繰りに困って
お父様の遺産を処分しなくてはならない事態が起きた時、
「父の遺産を秀三郎に」という一言で、
きょうだいを納得させられたのがお兄様でした。

イエローハットが増資する時には僅かな給料の中から出資し、
他界された時には手持ちの株は
二十数億円の価値になっていたといいます。

しかし、お兄様の息子さんは

「これは秀三郎からの預かりものだ、
 というのが父の口癖でしたから」

と一円も受け取らず、すべての株券を鍵山先生に渡されたのです。

兄はそれくらい私に愛情を注ぎ、
仕事を心配してくれていたのですね」と、
感慨深そうに電話での話を結ばれました。

凡事徹底という四文字には、
弟の成功と幸せを願う兄の無心の祈りが込められていたのです。

当社にとってこの石碑は単なる石碑に止まらない
守り神そのものであり、私もこの碑を拝んでは
お客様や社員の幸せを願い、経営者の誓いを
新たにするのを日課にしています。

いまから四十五年前、小さなガソリンスタンドから出発した当社は
現在、建設会社のほか、住宅会社、石油販売、カー用品店、
福祉施設など十一法人、従業員数四百名からなる
企業グループに成長を遂げました。

もちろん、私一人の力ではありません。
人との縁が思わぬ縁を招いて少しずつ業容が拡大し、
気がつくと、今日まで歩んできていたというのが偽らざる実感です。

この間、実に多くの方に支えていただきましたが、
最も影響を受けたのはやはり鍵山先生でした。

十九年前に先生とご縁をいただくまで、
恥ずかしながら私は目の前の利益を追い求めてばかりいました。

しかし、大企業のトップでありながら、
作業服姿で黙々と道端の草を取り、便器を磨き続ける
先生の風貌に接した途端、価値観は百八十度転換しました。

「こんな方がこの世の中にいたのか」と。
先生は無言のまま私という人間を変えてしまわれたのです。

私はすぐに鍵山先生が主宰される「掃除に学ぶ会」に入会し、
社にも取り入れました。その効果はてきめんでした。

日々、ともに掃除に汗する中で社員間のコミュニケーションが深まり、
人間関係は円滑になり、仕事のトラブルも少なくなりました。
さらによき縁が次々に舞い込み、今日のグループ経営が
できあがっていったように思います。

鍵山先生へのご恩を思う時、私の胸には
亡き父の思い出が鮮烈に甦ってきます。

父は特攻隊を志願した一人でした。

ある時、二人の戦友が

「もし君が生き残ったら、両親のことを頼む」

と父に言い残して基地のある鹿児島の出水を飛び立ち、
沖縄の地で果てました。
飛び立った僅か六時間後に戦争が終わるとも知らずに……。

父は二人との約束を果たすために戦後、
老人福祉施設を建設しました。

父の施設運営に懸ける思いは尋常ではなく、
身内がいない入所者は理事長の父自ら保証人となり、
施設で亡くなった後は自ら骨を拾い、
墓を建てるほどの熱の入れようでした。

そこには損得勘定を抜きにお年寄りの幸せに
人生を捧げる父の姿がありました。

「あの世の極楽より、この世の極楽を実現したい」

というのが父の一貫した思いで、
その根底にあったのは亡き戦友の願いに応えたいという
一念だったに違いありません。

施設運営は私が引き継ぎましたが、
その父が生前いつも私に話していたのが

「人間は感謝するから幸せなんだぞ。
 幸せだから感謝するんじゃないぞ」

という言葉でした。
この言葉はいまも人生の支えです。

他の幸せを願い、懸命に人生を歩まれた鍵山先生と我が父。
これからも二人の教えを胸に、企業活動を通して
社会に貢献していきたいと思います。

「失明を乗り越え、初の金メダルへ」

土曜日, 11月 10th, 2012

        浦田 理恵 (ゴールボール女子日本代表)

              『致知』2012年12月号
               特集「大人の幸福論」より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201212_pickup.html

└─────────────────────────────────┘

私の場合は徐々に徐々に、じゃなくて、
20歳の頃にガクンと来たんですね。
左の目が急に見えなくなって、すぐに右の目、
とスピードが早かった。

小学校の先生になるための専門学校に通っていた時で、
卒業を間近に控えた3か月前の出来事でした。

これまでできていたことができなくなるのが本当に怖かったです。

1年半くらいは一人暮らしのアパートから出られず、
両親にも友達にも打ち明けられないままでした。
目が見えなくなってきたことが、
最初は受け入れられませんでした。

もう本当に凄くきつくて、お先真っ暗で、
見えないのなら何もできないし、
できないんだったら別に自分がいる意味なんてないと
考えたりもしました。

22歳のお正月の頃、
もう自分ではどうにも抱えきれなくなって、
このまま死んでしまうぐらいなら
親に言おうと思ったんです。

その決心がようやくできて、
福岡から久しぶりに熊本へ帰りました。

熊本へは電車で帰ったのですが、
全く見えないわけではないので、
こう行けばそこに改札があったなといった
記憶も辿りながら、駅のホームに降りて、
改札口のほうへ向かいました。

すると、すでに母が迎えに来てくれていたようで、

「はよこっちおいで。何、てれてれ歩きよると?」

と声がしました。

あぁ、お母さんや、と思って改札のほうへ向かったんですが、
母の声はするんですけど、顔が全然見えなくって……。

その時に、あぁ、私、親の顔を見たのは
いつやったかな、親の顔も見えなくなったんだということで、
自分の目がもう見えなくなったことを凄く痛感させられた。

改札のほうへも、さっさとは歩けないので
ちょっとずつ歩いたのですが、
母は私がふざけていると思ったそうです。

改札をやっと通り抜けて母の元へ行き、

「私……、お母さんの顔も見えんくなったんよね……」

と言ったら、母は

「ほーら、また冗談言って。これ何本?」

って指を出されたんですが、その数も全然分からなくて、
母の手を触って確認しようとした。

その瞬間、母はもう本当に、改札の真ん前だったんですけど、
ワーッとメチャクチャに泣き崩れて……。

それを見てる私も、自分は何をやってるんだろう、
とやるせない気持ちになったんですが、
でもこれまでずっと自分一人で抱えてきたものを伝えられたと、
肩の荷がちょっと下りた気持ちでした。

それと、親がしばらくして
「何か自分ができることを探さんとね」と声を掛けてくれた。
その時に、あぁ自分がたとえどんな状態になっても
親は絶対見捨てないでいてくれるなと実感できたんです。

それまでは家族の存在も、まるで空気のように
当たり前に感じていたのですが、
いてくれることのありがたさというのが
初めて身に染みて感じられました。

そしてこれだけ応援してくれたり、
励まして支えてくれる人がいるんだから、
自分も何かをやらないと、とそれまで後ろ向きだった気持ちが、
少しずつプラスに変化していきました。