まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

大国の脅しに屈することなく戦った若き指導者・北条時宗

金曜日, 11月 9th, 2012

◆  
 いまから800年ほど昔、
 日本への侵略を目論む超大国・蒙古のおどしに対して、
 毅然とした態度で立ち向かった若き指導者がいました。
 その若者の名は北条時宗、まだ17歳の青年でした。

 明治期に詠まれた元寇の和歌に次のようなものがあります。

  寇船(あだふね)を覆(かへ)しし風は武士(もののふ)の
  猛(たけ)き心のうちよりぞ吹く

 本日は『致知』12月号のインタビュー記事でも取り上げられた
『日本の偉人100人』の中から、
 元寇という未曾有の国難から日本を救った
 若き指導者・北条時宗の話をご紹介させていただきます。

    *     * 

「蒙古来襲の国難に立ち向かった鎌倉幕府の執権」 
 北条時宗(1251~1284年)

◎文永の役
 文永五年(1268)、
 蒙古(もうこ ※元)の国書を携えた高麗(こうらい)の使いが大宰府に現れます。
 既に中国北部と朝鮮半島の高麗を支配下においていた元は、
 表向きは友好を求めますが、
 その使者の来訪は明らかに我が国への軍事的恫喝(どうかつ)でした。
 18歳の時宗が執権職に就いたのは正にこの年です。

 使いはその後もたびたび来訪し、朝廷、幕府はそのつど評定を重ねましたが、
 あえて返書を送らぬまま、
 九州に所領のある御家人(ごけにん)たちに異国警護を急がせます。
 そして遂に文永11年10月、高麗軍と合わせて3万人の元軍は、
 900艘(そう)の船に分乗してまず対馬(つしま)を襲いました。
 
 対馬の守護代である宗助国(そうすけくに)は68歳の老将ですが、
 直ちに大宰府と壱岐に急使を送った後、80騎余りで大軍に立ち向かいました。
 昔も今も国境最前線のこの島で、
 最後の1騎まで奮戦しましたが半日持ちこたえるのが精一杯でした。

 上陸した元の兵たちは
「民家を焼き略奪殺戮(さつりく)を恣(ほしいまま)にし、
 婦女子を捕えて掌(て)に穴を穿(うが)ち、
 その穴を綱で貫いて船べりに数珠(じゅず)つなぎにした」
 と彼らの記録(『元史』)に記しています。

 続いて壱岐(いき)が攻撃されました。
 ここの守護代の平景隆(たいらのかげたか)は、
 対馬からの一報を得て大宰府へ援軍を要請し、
 100騎ほどで島内の樋詰(ひづめ)城に立て籠もって防戦しました。
 島民も続々と籠城に加わり一晩は凌(しの)ぎますが、
 やがて全滅してしまいました。

 こうしていよいよ10月20日(新暦の11月26日)に、
 元軍は博多湾西部から上陸し、
 先陣が博多に向かって赤坂(現在の福岡城址)まで迫って来ました。

 この合戦の様子は『蒙古襲来(もうこしゅうらい)絵詞(えことば)』に活写されています。
 その『絵詞』によると、
 御家人たちは大宰少弐(だざいのしょうに)の武藤景資(むとうかげすけ)を大将として
 博多の海辺側に集結し、
 景資は元軍がさらに博多に攻め寄せるのを待って迎え撃つようにと命令を下しました。
 
 この戦況は近年の研究で明らかになって来ました。
 それによると、10月20日中に少なくとも2度の合戦が行われ、
 日本軍が元軍を撃退し、百道(ももち)の海(博多湾)に追い落としたとのことです。
 大宰府攻略という目標は達せず、
「味方の体制が整わず、又矢が尽きた」(『元史』)ため船に戻った元軍は、
 その夜半に吹き荒れた暴風に押し流され一斉に退却してしまいます。

◎弘安の役
 文永(ぶんえい)の役の翌年に、
 鎌倉にやって来た元の使いを時宗は斬首(ざんしゅ)に処しました。
 そして再び来寇(らいこう)するに違いない元軍に備えて水軍を整備し、
 九州沿岸の防備を固めました。
 特に博多湾岸沿いに石築地(いしついじ)を築いた「元寇防塁(ぼうるい)」は、
 今日まで一部を留めて往時を偲ぶことが出来ます。

 やがて弘安(こうあん)4年(1281)、
 元の皇帝フビライは元軍、旧南宋軍、高麗軍合わせて4400艘、
 14万人の大軍を二手に分けて送り込んで来ました。
 弘安の役です。

 そのうち東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸し、
 我が軍と激戦を繰り広げます。
 その後、長崎県鷹島(たかしま)に待機中だった江南軍と合流して
 総攻撃の機会を窺ううちに、
 閏(うるう)7月1日(新暦の8月23日)の大型台風によって
 壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 二次にわたる元寇は、
 鎌倉幕府の政治、外交姿勢と九州御家人たちの奮戦に加え、
 暴風雨や台風という自然現象の後押しもあってはねのけることが出来ました。
 そしてこの自然現象はやがて「神風(かみかぜ)」と呼ばれるようになります。

◎時宗の人となり
 このように2度の国難を打破した鎌倉幕府の最高リーダーが時宗ですが、
 その事績を伝える資料は驚くほど少なく、本人の言葉もあまり残っていません。
 弘安の役後3年足らず、34歳の若さで急死しており、
 正に元寇撃退のために生を享(う)けたかの如(ごと)くです。

 元を迎え撃つ弘安4年の正月に、
 禅の師無学(むがく)祖元(そげん)が書して渡したという
「煩悩する莫(なか)れ」(一説では「妄想する莫れ」)はよく知られていますが、
 その祖元が時宗の葬儀で語った法語の一部を、次に掲げておきましょう。

【偉人をしのぶ言葉】
 訳――
 母に孝養を尽し、
 君に忠節を尽し、
 民には恵みの心を以って治め、
 参禅して深く悟る処がある。
 20年間天下の権を握っても
 喜怒を表に出すことが無くいつも沈着である。
 元寇を瞬(またた)く間に追い払ってもそれを自慢する様子もない
 (『仏光国師語録』四より)

 ――『日本の偉人100人(下)』より
 

「患者さんのベッドサイドに立つ資格」

木曜日, 11月 8th, 2012

      紙屋 克子 (筑波大学名誉教授)

              『致知』2012年11月号
               特集「一念、道を拓く」より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_pickup.html

└─────────────────────────────────┘

卒業後はまだ新しい領域だった脳神経外科を選びました。

半年くらい過ぎたある日、私は経管流動食
(意識障碍などで口から食事のできない患者さんに
  管を通して胃に栄養食を入れる)
を取り替えるために病室を順番に回っていました。

最後の部屋に入ると、脳腫瘍の術後、
意識が回復しない27歳の患者さんのベッドサイドに、
私と同年代の若い奥さんが3歳の女の子を抱き、
5歳の男の子の手を引いて立っていました。

私が作業を終えたちょうどその時、その人が

「こんなのは治してもらったことになりません!」

と、本当に激しい口調でおっしゃったのです。

私はご家族の悲痛な叫びを初めて聞き、
大変な衝撃を受けました。

その当時は、意識に障碍のある人の命を維持することにも
大変な努力が必要だったものですから、
一所懸命頑張っていた仕事に対して、
そんなことを言われるとは思いもよりませんでした。

「確かに命は助けてもらった。
  でも他人である看護師さんと妻の私を区別できないこの人、
 二人の子供が“お父さん”と呼んでいるのに応えないこの人を、
 家族の一員として受け入れて、私たちはこれから
 どんな人生を歩んでいったらいいんですか」って……。

脳腫瘍を摘出して命を助けたのは医師です。

でも彼女にとっての「治る」という意味は、
自分のところに夫が帰ってくることであり、
二人の子供に父親が帰ってくることだったのです。

私たち専門職が考える治療のゴールと、
ご家族の考える健康のゴールには
随分大きなギャップがあるのだと気づかされました。

その時、私は初めて看護本来の役割は何か。

何をすべき人間として、医師とは異なる資格を持って
患者さんのベッドサイドに立っているのかと考えたのです。

すると、彼女の発言の中にヒントがあって、
命を助けたのが医師ならば、
看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと。

仕事をしたり学校に行ったり、
そういう役割を持つ存在として、
その人を社会と家族のもとに帰すのが
看護の仕事だと思い至ったのです。

※たくさんの反響が届いております。

* * * * * * * * * * * * * * * * * 

 この記事の中で次の言葉が、ストーンと心に入ってきました。

 「命を助けたのが医師ならば、
  看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと」

 仕事を通じて自分の役割を本質にかえって考え、
 定義し、実践している。一人の人間の偉大さを知りました。
 このような考え方ができる人が多くなると、未来は明るいと思います。

* * * * * * * * * * * * * * * * * 

 ナースの大先輩のお言葉、感銘を受けました。
 そうなんです。教科書で勉強することもプロとして大切・・・。
 しかし、毎日、それぞれの人がそれぞれの感情をお持ちです。

 目の前の患者様、目の前の相手…
 何よりも学びを与えてくれる存在なんです。
 この記事を読んで嬉しくなりました。
 私が看護学生に伝えたかったことの1つです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * 

作家・五木寛之氏の幸福論

水曜日, 11月 7th, 2012

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆免疫学の世界的権威だった多田富雄さんと生前にお話をした時、
  医学は3年で一変する。3年前の教科書は通用しないくらいの
  勢いでどんどん進歩しているとおっしゃっていました。

  そんな時代に古い知識でくどくど言ってても仕方がない。
  もっと動的に物事を見なければダメだし、
  幸福論にしても永遠の幸福論なんてないんです。

 ◆コップに残った水を、まだ3割も残っていると考えるか、
  もう3割しか残っていないと考えるかという話があるでしょう。
  そしてまだ3割も残っていると考えるほうが
  ポジティブでいいんだと。
 
  だけど、あと3割しか残っていないという現実を
  きちっと勇気を持って見定めることも大事です。

 ◆喜び上手というのはとても大事です。
  だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。

 ◆ちゃんと悲しむということは、
  笑うことと同じように大事なことなんです。
  ただ笑うだけじゃ無意味ですよ。涙も流さないとダメ。

 ◆フランクルは強制収容所の中で、一日に一回ジョークを言って、
    お互いに笑おうと決意してそれを実践したといいます。
    それはとても大事なことです。

    しかし、人の見ていないところで彼がどれだけ涙を流していたか。
  そこを見逃してはダメです。
  喜ぶことも、悲しむことも、両方大事なんです。

……………………………………………………………………………………
(編集部より)

  80の坂を越えても長編小説に挑むなど、
  精力的な活動を続ける作家の五木寛之さん。

  若くして流行作家となり、常に新たな境地を切り拓いてきた
  五木さんの創作力の源泉やご自身の養生法などについて伺いました。

  先行きの見えない現代社会の中で幸せを掴むには
  どのように生きればよいか?
  親鸞の教えや、自らの体験から導き出された幸福論は
  数々の知恵に溢れています。ぜひご一読ください。

天才建築家・ガウディの遺志を継承する

火曜日, 11月 6th, 2012

    彫刻家・外尾悦郎氏の幸福論

        『致知』2012年12月号
          特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆ この34年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、
   私がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がありましてね。

  「いまがその時、その時がいま」というんですが、
   本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、
   その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、
   いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。
 
   憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、
   だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければいけないと思うんです。

 ◆ 人は答えを得た時に成長するのではなく、
   疑問を持つことができた時に成長する。

 ◆ 仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが何よりも大切で、
   完璧に条件が揃っていたら逆にやる気が失せる。
   たやすくできるんじゃないか、という甘えが出てしまうからです。

 ◆ 本来は生きているということ自体、命懸けだと思うんです。
   戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、
   いま自分は生きていると感じる。

   病で余命を宣告された人が、
   きょうこの瞬間に最も生きていると感じる。

   つまり、死に近い人ほど生きていることを強く感じるわけで、
   要は死んでもこの仕事をやり遂げる覚悟が
   あるかどうかだと思うんです。

 ◆  当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、
   まだ子供で未熟です。それを今回の震災が教えてくれました。

   本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。
   それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。

………………………………………………………………………………………………
(編集部より)

  不世出の建築家アントニオ・ガウディが設計した
  「サグラダ・ファミリア教会」。

  着工から130年の歳月を経たいまなお未完のまま工事が続く
  壮大な聖堂の建設に、日本人として参加してきたのが
  彫刻家・外尾悦郎氏です。

  外尾氏に初めてお目にかかった時、
  全身から漲る強烈なエネルギーに圧倒されました。

 「この仕事がうまくいかなければ明日はない」という過酷な世界の中、
  一回一回、「これが最後の仕事だ」という思いで
  真剣勝負をし続けてこられた方だけが持つ迫力ではないかと思います。

  ぜひ本誌のインタビュー記事から、
  外尾氏の“熱”を感じ取ってください。
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201212_pickup.html#pick3

……………………………………
○サグラダ・ファミリアとは?
……………………………………

 正式名称はサグラダ・ファミリア贖罪教会。
 聖母マリアの夫ヨセフを信仰する教会として1882年に着工。
 翌83年、前任者が辞任したことによりガウディが引き継ぐこととなり、
 没後その遺志は弟子たちに委ねられた。

 設計図が残っていないため、ガウディの建築思想を想像する形で
 建設は進められている。

 完成すれば170メートルを超す「イエスの塔」など
 18の塔と3つの門を持つが、完成するのは
 数十年後とも数百年後ともいわれる。

「九十五歳の回想 ~人生は蒔いた種のとおりに~」

月曜日, 11月 5th, 2012

        折小野 清則
       (おりこの・きよのり=折小野農園代表者)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘

鹿児島県薩摩郡さつま町の山間に
「折小野(おりこの)ひがん花ロード」という道があります。

毎年秋のお彼岸の頃になると、
約四キロにわたり道の両側にひがん花が一斉に咲き誇ります。

もともとこの道は舗装されていない山道でした。

いまから十五年前に立派なコンクリートの道をつくっていただき、
当時八十歳だった私は何らかの感謝の思いを伝えたいと思いました。
そこで生命力と繁殖力の強いひがん花の球根を
人知れず植えていきました。

一つずつ、一尺(約三十センチ)置きに。
最初の年は誰も気づきませんでした。
二年が経ち、三年が経った頃、村の人たちが

「なんであの道の両脇に
 あんなにたくさんのひがん花が咲くんだろう?」

「誰がやったんだ?」

と話題になっておりました。私の近隣の方が、

「そういえば、清則さんが毎朝暗いうちから出掛けていた」

という話から、私が植えていたことが知れることとなりました。

いつしか噂は広まり、季節になると
遠方からわざわざ見に訪れる方もいるそうです。

現在は下草の手入れなどは町役場が行ってくれて、
「折小野ひがん花ロード」という大きな看板もつくってくれました。
九十五年間懸命に生きてきて、このように皆さまに
喜んでいただけることが何より誇らしく思います。

私は大正六年、この集落で農家を営む
折小野栄の長男として生まれました。

私も農家になるものとばかり思っていましたが、
十五歳の時に人生の大きな転機が訪れました。
地元からシンガポールに出て、漁業で成功された「南海の虎」
こと永福虎さんが私の中学校に講演にいらしたのです。

講演終了後、校長室に呼ばれました。

先生はこう言いました。

「折小野君、君は外国に行きたくはないか」

なぜ私が呼ばれたのかは分かりませんが、私はすぐに
「はい、行ってみたいです」と答えました。

永福さんは
「外国に行ったら十年は帰れないぞ。それでもいいのか」
とおっしゃるので、「はい、構いません」と申しました。

外国に行ったら何かいいことがあるように思ったのです。

いまにして思えば、両親はよくぞ長男の私を異国へ出したものです。
現代ではシンガポールも飛行機ですぐでしょうが、
当時、田舎に住む両親にとって月の世界へ送り出すような
感覚だったのではないでしょうか。

シンガポールでは二年間は事務所の手伝いをしましたが、
三年目からは志願して漁船に乗り、赤道を越えて
南シナ海やインド洋にも行きました。

その後、新たにできた製氷所のチーフエンジニアとして
働いていた時、大東亜戦争が勃発したのです。

当時シンガポールは英国領でしたから、私たちは捕虜となって、
灼熱の国インドの収容所へと送られました。
食料はない、連日四十度を超す暑さで、
毎日二~三人の日本人が死んでいきました。

この収容所には子供もおりました。
最初は一緒に連れられてきた先生が教えていましたが、
昭和十七年に第一次交換船によって帰国された方が多く、
その選にもれた子女は教育を受けられないままでした。

キャンプ内でただぶらぶらと過ごす子供たちは遊ぶことにすら
情熱を失った様子でした。このままではいけない。
二十代前半だった私は文学青年だったこともあり、
先生に推挙されました。

「日本の子供たちに負けるな」を合言葉に、灼熱の中、
必死で勉強し合ったことが昨日のように思い返されます。

敗戦を迎えた時が私の人生で一番の危機であったかと思います。
敗戦を伝えに磯貝陸軍中将と沢田連隊長がお見えになり、
私は悲しみのあまり自殺したいと思いました。

ところが「あの二人は偽者で、本当は日本は勝っているはずだ」と
言い出す者が現れ、賛同する者も多く、
子供たちに敗戦と伝えた私たちも襲撃され大怪我をする始末。

犯人を出すようにという厳しい命令も聞かず、暴動化し、
鎮圧するために、向こうの兵士が五十名ほど入ってきました。

「日本は勝っているのだから、銃を撃つはずがない」

棒を持って向かっていった人たちは、たちどころに撃たれました。
私にもその血しぶきが飛んでくるほど間近で十七名が死にました。

そこで奇跡的に助かり、板子一枚下は
地獄の船で日本へ帰国。敗戦直後の地元で貧しい中で農業に従事。

同時に女性ばかりだった生命保険の仕事もやり、
鹿児島県一になったこともありました。

山間の集落なので水田には向かず、
皆が苦しんでおりましたので、思い切って新たに山を開墾し、
ミカン畑に切り替えたこともございます。

その間、十七歳だった長男を水死で失い、ひどく落胆しましたが、
翌年次男が誕生するということもありました。

これまでの人生、いつ死んでもおかしくなかったのに
不思議と九十五歳の今日まで生かされてきました。

思いがけないことの連続でしたが、
しかし蒔かぬ種は生えぬよう、
諦めの種からは諦めの人生、
希望の種からは希望の人生、
感謝の種からは感謝の人生になるのだと思います。

私が植えたひがん花は時期が来たら必ず花を咲かせます。
その花が、私がこの生の役目を終えた後も
村の人たちの心を和ませることができたら、幸せに思います。

「百度と九十九度の違いを意識する」

月曜日, 11月 5th, 2012

      高野 登 (人とホスピタリティ研究所主宰)

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

└─────────────────────────────────┘

最初に齋藤泉さんの存在を知ったのは
僕がまだリッツ・カールトンにいた頃でした。

山形新幹線で驚異的な売り上げを誇る乗務員がいると。
しかも二か月更新のパート契約の立場だという記事を週刊誌で見て、
「こういう仕事の仕方をされている人がいるんだ」と。

リッツ・カールトンで我われが考えている立ち位置と
似ているなと思って興味があったんです。

リッツ・カールトンでは九十九度と百度の違いを
意識しているんですね。

九十九度は熱いお湯だけれども、
あと一度上がって百度になると蒸気になって、
蒸気機関車を動かす力が出る。

しかし、九十九度ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
この一度の違いを意識しながら仕事をすることが、
リッツ・カールトンの仕事の流儀でした。

だから最初に齋藤さんの記事を読んだ時、
この人は百度だと思った。

百度の仕事とは、誰もがしている仕事を、
誰も考えないレベルで考え、
懸命に汗を流さないと見えてこない世界です。

「ウメボシマンは禁止だぞ」

土曜日, 11月 3rd, 2012

     平 光雄(小学校教諭)

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

└─────────────────────────────────┘

 まずはこの一枚の紙芝居をご覧ください。
 http://ameblo.jp/otegami-fan/

 真ん中には小さな赤丸が描かれており、
 その中には中心部分に向いた矢印が描かれています。

 実はこの赤丸は「自分」を表したもので、
 矢印が自分にばかり向いていることから、
 他人のために何かをしてあげようという
 奉仕の心のない人間をイメージ化したものなのです。

 たまたま最初にこれを見た子供たちから、
 「ウメボシだ」という声が上がったことから、
 私はこういう人間のことを「ウメボシマン」と呼ぶことにしました。

 そして、もう一枚の絵には小さな赤丸から外に向かって
 いっぱい矢印を書き込んであります。
 成長というのは、矢印を外に向けて発していき、
 リンゴとかスイカくらいに広がっていくことなんだよと、教えるのです。

 奉仕の心や人に尽くすことが大事であることは誰もが知っていても、
 それが自然にはなかなか出てこないものです。

 ところがこの紙芝居を見せることで、
 自分のことばかり考えている人間を
 イメージとして捉えることができるのです。

 例えば自分勝手な行動をとる子供に、
 「あいつはウメボシマンだ」と言うだけで、
 大事な価値観を教えることができる。

 考えてみてください。

  同じことを子供に伝えようとして、片や

「ウメボシマンは禁止だぞ」

 と言うのと

 「こら、自分のことばかり考えて行動するな」

 と言うのとではだいぶ違うでしょう。

 後者のようなことを何度も言われると
 説教臭くて本人も嫌になってしまいますが、
 前者であれば笑って受け入れることができるのだから不思議なものです。

 そしてこういった話が契機となって、
 人のお世話をしてあげられるようになったり、
 自分のゴミではなくても拾って捨てられる子供が
  出てくるようになっていくのです。
 

『望郷 ~二つの国 二つの愛に生きて~』

金曜日, 11月 2nd, 2012

以前、ドキュメントで蜂谷さんの劇的な半生を観て、

感動というより激しい衝撃を受けました。

こんな凄まじい人生があるのだろうか。

こんな深い人間愛と信頼があるのだろうか。

その一端が垣間見れるロシア人妻だった方からの手紙を・・・・・

新書、私も是非読みたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

想像を絶する苦難を生き抜いた闘争記

  『望郷 ~二つの国 二つの愛に生きて~』

    蜂谷 彌三郎

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◆ クラウディアからの手紙

    *     * 

 一切の責任は戦争にあるのです。

 私は、心からあなたを理解しておりました。
 ご両親や弟妹、たった生後1年あまりで別れた
 娘さんや奥さんがいる祖国を、恋しく思うあなたの心のうちを……。

 私たちは、こまごまとしたそのすべてを思い浮かべて、
 涙とともにいつも思い出話は尽きませんでした。
 食事の時間も忘れて身を砕くようにして、
 ただ一心不乱に働きましたね。

 そして、長い年月が流れました。
 私たちはようやく、その人たちが健在であることを知ったのでした。
 娘さんやお孫さんたち、
 それに年老いた奥さんが一途にあなたの帰りを待ち焦がれていることを……。

 今、年老いたあなたが多くの病を抱えて、
 一切が失われたようだった祖国へやっと帰っていくのです。
 奥さんや娘さん、お孫さんたち、
 弟妹、友人たちが待っている祖国へと……。

         *     * 

 終戦直後に身に覚えのないスパイ容疑でソ連軍に連行されてから、
 51年に及ぶ抑留生活を送られた蜂谷彌三郎氏。

 そんな蜂谷氏を支え続けたのが、この手紙の主である
 ロシア人女性・クラウディアさんでした。

 そして日本を離れてから51年目に訪れた
 日本への帰国の機会。

 後ろ髪を引かれる思いでロシアを後にする蜂谷氏に
 手渡されたのがこの手紙でした。

 手紙はさらにこう続きます。

        *     * 

 もはや私たちは、再び会うことはないでしょう。
 これも私たちの運命なのです。

 他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることは、
 私にはどうしてもできません。

 あなたが再び肉親の愛情に包まれて、
 祖国にいるという嬉しい思いで、私は生きていきます。

 私のことは心配しないでください。
 私は自分の祖国に残って生きていきます。
 私は孤児です。
 ですから、私は忍耐強く、勇敢に生きていきます。

 私たちは、このように運命づけられていたのでした。
 37年あまりの年月をあなたと共に暮らせたこと、
 捧げた愛が無駄ではなかったこと、
 私はこの喜びで生きていきます。

 涙を見せずに、お別れしましょう。
 過去において、もし私に何か不十分なことがあったとしても、
 あなたは一切を許してくださると思います。
 あなただけは、この私を理解してくださると信じています。
 私が誠実な妻であり、心からの友であったことを……。

 あなたたちの限りない幸せと長寿を、
 心から祈り続けることをお許しください。

 1997年3月21日 クラウディアより

 親愛なる彌三郎さんへ

    *     *

 苛酷な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、
 激動の人生を生き抜かれた蜂谷さんの人生を支えたのは、
 クラウディアさんの無私の愛と、日本に対する望郷の念でした。

 そしてもう一人、蜂谷氏を思い続けていたのが
 娘とともに長年にわたって帰国を待ち続けた
 妻・久子さんでした。
 

 祖国とは何か、運命とは何か、
 愛とは何かを教えてくれる蜂谷氏の波乱の生涯が
 壮大なスケールで描かれた感動の一冊。
 ぜひ、お読みください。

 再来年には本書をベースにして、
 映画化が予定されています。

……………………………………………………………………………………
 <目次>
 
プロローグ すべてはこうして始まった

第一章 私の原点 母への誓い

第二章 運命の激流 スパイの汚名を着せられて

第三章 望郷の思い シベリアおろしの夜は更けて

第四章 クラウディア 深い愛に包まれて

第五章 帰国 愛する祖国へ

あとがき

……………………………………………………………………………………

 ● 再来年、映画化予定!

 『望郷』 1,575円(税込) 蜂谷彌三郎・著
 → http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=977

「偲ぶ心が親孝行」

水曜日, 10月 31st, 2012

          西端 春枝 (真宗大谷派淨信寺副住職)

                『致知』2012年11月号
                 連載「生涯現役」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

─────────────────────────────────

 最近はタクシーを使うことが増えましてね。
 その時にはできるだけ運転手さんに話し掛けるようにしているんです。
 怖そうな人は別だけど(笑)。

 この前も「あんた、お母さんいてはるの」とお聞きすると、
 小学校の頃に亡くなったと言うんですよ。

 でも具体的に何月何日だったかは覚えていないし、
 ある運転手さんは両親の命日を知らない。
 中にはお兄さんと喧嘩して家を飛び出したから、
 どこのお寺さんに行けばいいのか分からないという。

 こういう人たちに出くわすと、
 もう黙っていられないから
 身を乗り出して説教が始まるんですよ(笑)。

 彼らはいつも車で走っているので、お寺の前を通ったら、
 ちょっとでも頭を下げるようにと言うんです。
 それだけでもいいって。

 でもね、そうすれば、自然とお母さんのことを思い出したり、
 心の中でお父さんに話し掛けられるようになるんです。
 そうやってご自身が亡くなるまで、
 折に触れて親のことを偲ぶことも親孝行なんですよ。

 そしてこのような話をしながら、
  私自身もまた自分の親のことを偲んでいる。

 ある運転手さんが私と話し込んで、
 つい道を間違えてしまって遠回りしたことがありました。
 彼はしきりに謝りましたが、
 それよりも私は「遠回り」というのが懐かしいなと思ってね。

 なぜかと言えば、子供の頃に母親から
 「はよ帰っておいで」と言われていたんだけど、
 機嫌が悪くて遠回りして帰ったことがあったんです。
 つまらないことして、親を困らせてね。

 そんな懐かしい母との思い出を、
 思わぬ人の言葉で思い出せるんです。

  父は親孝行なんて、親が生きている間に
 満足にできているなんて思うな、と言っておりました。
 親が子を思う心の半分も、お返しなんぞできるものではないと。

 だから昔の人はお盆の時に、墓石を洗いながら
 こんな詩を思い浮かべていたんです。

「父母(ちちはは)の背を流せし如く墓洗う」

 いま生きていれば一遍でも背中を流してあげるのにな、
 と思う時にはもう親はいないんですね。
 だからせめて父母の背中を流すつもりで墓石を洗う。

 こうやって一つひとつの出来事を通じて、
 私たちは亡き親を偲ぶことができるんですね。

「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」

火曜日, 10月 30th, 2012

中村 久子
          『致知』2012年11月号
               特集「総リード」より

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その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。

少女7歳の時に父が死亡。

そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、

「ほどいてみよ」

「鋏の使い方を考えよ」

「針に糸を通してみよ」。

できないとご飯を食べさせてもらえない。

少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。

文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。

ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。

それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。

この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。

その人の名は中村久子。
後年、彼女はこう述べている。

「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
  人間としてどう生きるかを教えてくれた
 最高最大の先生であった」

 そしてこう断言する。

「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」