まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

ヒット商品を生む秘訣

月曜日, 11月 25th, 2013

佐藤可士和(クリエイティブディレクター)

※『致知』2012年9月号
特集「本質を見抜く」より

 

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――ヒット商品を生む秘訣のようなものはありますか。

商品の本質を見抜くことが肝要です。
本質を見抜くとはある表層だけではなく、
いろいろな角度から物事を観察し、
立体的に理解するということです。

そのためのアプローチは様々ありますが、
中でも僕が最も重要だと思うのは、
「前提を疑う」ということです。

――前提を疑う、ですか。

これは僕のクリエイティブワークの原点ともいえる
フランスの美術家、マルセル・デュシャンから学んだことです。

20世紀初頭、皆が一所懸命絵を描いて、
次は何派だとか言って競っている時に、
デュシャンはその辺に売っている男性用の小便器にサインをして、
それに「泉」というタイトルをつけて、美術展に出したんです。

キャンバスの中にどんな絵を描くのか
ということが問われていた時代に、
いや、そもそも絵を描く必要があるのかと。

見る人にインパクトを与えるために、
敢えて便器という鑑賞するものとは程遠いものを提示して、
アートの本質とは何かをズバッと示した。
つまり、そういう行為自体が作品であると。

――まさに前提を覆したのですね。

そうです。
ただ、必ずしも前提を否定することが
目的ではありません。

一度疑ってみたけど、
やはり正しかったということも十分あり得るでしょう。

大事なのは、「そもそも、これでいいのか?」と、
その前提が正しいかどうかを一度検証してみることです。

過去の慣習や常識にばかり囚われていては、
絶対にそれ以上のアイデアは出てきませんから。

――前提を疑わなければ、よいアイデアは生まれないと。

はい。あと一つ挙げるとすれば、
「人の話を聞く」ことが本質を見抜く要諦だといえます。

相手の言わんとする本意をきちんと聞き出す。
僕はそれを問診と言っていますが、
プロジェクトを推進していく際は
この問診に多くの時間を割いています。

じっくり悩みを聞きながら、
相手の抱えている問題を洗い出し、
取り組むべき課題を見つけていくのです。

――問診するにあたって、何か心掛けていることはありますか。

自分が常にニュートラルでいること、それが重要です。
邪念が入るとダメですね。

人間なので好き、嫌いとか気性の合う、合わないは
当然あるじゃないですか。

ただ、合わない人の言っていることでも
正しければその意見に従うべきですし、
仲のいい人でも間違っていれば「違いますよね」と言うべきでしょう。

感情のままに行動するのではなく、
必要かどうかを判断の拠り所とする。

いつも本質だけを見ていようと思っていれば、
判断を間違えることはありません。

 

「愛犬チロリが教えてくれた命の尊厳」

月曜日, 11月 18th, 2013

大木 トオル(国際セラピードッグ協会代表)

※『致知』2013年12月号
連載「致知随想」より

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高度な訓練を受け、医療や介護の現場で
病に苦しむ人々に寄り添い、
サポートする「セラピードッグ」。

その日本第一号となった愛犬チロリが、
私の胸の中で息を引き取ったのは
もう7年も前のことになります。

私はチロリをはじめとして、
日本の動物愛護のあり方を問い直す取り組みに
20数年携わってきました。
そのきっかけは、約30年前にまで遡ります。

私の本職は、アメリカを拠点に活動する
ブルースシンガーですが、
1977年、ニューヨークの高齢者施設で活動する
セラピードッグの姿に感銘を受け、
その育成に携わり始めたのでした。

しかし、その頃に参加したある動物愛護団体の会で
私はこう言われたのです。

「日本には“犬猫のアウシュビッツ”がある。
いくら経済大国と呼ばれようと、我われは日本人を認めない」

バブル景気の絶頂期にあった1980年代の日本、
そして隆盛を迎えるペット産業。

しかし、その裏では飼い主に捨てられた
年間100万匹もの動物たちが殺処分されていたのです。
その命を守る法律も未整備でした。
動物たちは、いわば廃棄物のように扱われていたのです。

「あなたは有名なブルースシンガーだろう。
なぜ祖国の不正を糺すために闘わないんだ」

一介の歌手に何ができるのだろうと思いましたが、
1979年から始まる日本公演の際、
私は意を決し、殺処分を行う動物愛護センターを訪ねました。

そこで見た光景はまさに地獄でした。
犬や猫たちが次々とガス室に送られ、
のたうち回っている彼らを
容赦なく焼却炉に放り込んでいく……。

その衝撃の中、脳裏に甦ってきたのは
幼年時代に私の命を救ってくれた愛犬の姿でした。

* * *

大木氏の命を救ってくれたという
愛犬とのエピソード。

その後、日本初となるセラピードッグ・チロリは
いかにして誕生したのか。

そして、チロリが教えてくれた命の尊厳とはーー。

続きはぜひ『致知』12月号P94をご一読ください。

できないことばかりに目を向けていたら

火曜日, 11月 12th, 2013
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「できないことばかりに目を向けていたら、
人生はとてもつまらないものになってしまう」

レーナ・マリア(ゴスペルシンガー)

※『致知』2013年12月号
特集「活路を見出す」より

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――これまでの人生で心無いことを言われて
心が折れてしまったり、
絶望してしまうようなことはなかったのですか。

ハンディキャップのことで?
それはないですね。
もっとも、それは自分の態度によるところが大きいと思います。

中学生時代、同級生に
「おい、一本足、元気そうじゃないか」と言われた時、
「ありがとう、二本足、あなたも元気そうね」
と答えたことがありますが(笑)、

例えば自己憐憫にあったり、
人を羨んだり、
自分に自信がなかったりすると、
誰かの一言に傷ついて人生は辛くなるのではないでしょうか。

ただ、私も一人の人間として
乗り越えられないと思うような
悲しみ、困難に遭遇したことはあります。

若い頃は生きていくことは
簡単だと思っていましたが、
どうやらそうではないようですね。

人間はみんな弱い存在です。
辛い出来事があれば自分を小さく、弱く感じたり、
足りなく感じることって誰にでもあると思います。

その時、家族や友人、そして神様など
周りから愛されていると感じることで、
私は強くなることができます。

人間は自分一人で強くなることはできません。
もしも私が強い人間だと思う人がいるなら、
それは私の周囲の人の愛が私を幸せにしてくれているからです。

(中略)

考えてみてください。

もしも私が
自分のできないことばかりに
目を向けていたら、
私の人生はとても
つまらないものになっていると思います。

いま自分が人のためにできることに目を向ける。
それは小さなことでもいいのです。

そうやってお互いに励まし合ったり、
配慮し合うことで、
最上の幸福や勇気を得ることができます。

* * *

生まれつき重度のハンディキャップがありながら、
障碍者の水泳選手権で金メダルを獲得し、
世界的なゴスペルシンガーとして
人生を開花するまでに至った、その半生とは。

いかにして誰もが絶望するような状況から
希望の光を見出してきたのか――。

「あと3年、とにかく死に物狂いでやる」

月曜日, 11月 11th, 2013

大島まり
(東京大学大学院情報学環・生産技術研究所教授)

※『致知』2013年11月号
特集「道を深める」より

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――脳動脈瘤の研究はどのような経緯で始められたのでしょうか。

大学院時代にマサチューセッツ工科大学(MIT)に留学し、
帰国後は博士課程を終えて工学博士になりました。
その後、スタンフォードにも1年間留学し、
大変刺激を受けて戻ってきました。

変わらず懸命に研究に打ち込んでいたのですが、
30代中盤に差し掛かった頃、
1つの転機がありました。

男性も35歳くらいに転職を考えると
聞いたことがありますが、
私もそのくらいの時に
「今後どうしようかな」と
随分悩んだ時期があったのです。

それまでは若い研究者の卵ですから、
ある程度ステップの目安があるわけです。
30歳くらいに博士号を取って論文を発表して……と。

でも、そこから5年くらい経って
次のステップに進まなければならない時、
果たして自分は本物のプロになれるのだろうかと思ったんです。

というのも、流体力学自体は
レオナルド・ダ・ヴィンチの時代からある
古い学問分野ですから、
MITにもスタンフォードにも、もちろん東大にも、
優秀な人がひしめき合っているわけです。

天才的なひらめきのない自分では、
どうやっても敵わない。
じゃあ自分には何があるのだろうと思った時、
つらかったというか、凄く不安だったんですね。

――そこからどうされたのですか。

実はその当時、
ファイナンシャルエンジニアリングという分野が
注目され始めた頃でした。

要するに金融予測ですよね。
理学部や流体の分野からも
金融関係に就職する人がいました。

知人が
「金融関係で数値シミュレーションできる人を欲しがっているから」
とヘッドハンティングの人を紹介してくれたのも、
ちょうどそんな時でした。

――研究で生きていくことに不安を感じていた時期に。

はい。「年収も十倍に」なんて言われて
「どうしようかなぁ」と思ったりもしましたけどね(笑)。

ただ、やっぱり私の中には
アポロ11号が月面着陸した時の
「サイエンスやテクノロジーは不可能を可能にする」
という感動があったんです。

また、金融工学は自分には向いていないかもしれない
と思って最終的には研究を選んだのですが、
とはいえ置かれている状況は変わりません。

不安だし、迷っていた。
そこで自分で期限を切ったんです。

「あと3年、とにかく死に物狂いでやって、
それでダメならダメで悔いが残らないし、次の道もあるだろう」と。

――締め切りを設けた。

はい。そう腹を括ると逆に気分が楽になりました。
「これで終わりだ」と期限が明確になると、
試験勉強みたいな感じで頑張れたんですね。

傍から見るとなんでそんなにガムシャラに、
という感じだったと思いますが、
不思議なことにそこから次の道が拓けていったのだと思います。

目標を持っていないこと

水曜日, 11月 6th, 2013

「成功の反対は失敗ではない。
         目標を持っていないこと」

   鍵山 秀三郎
(イエローハット創業者・日本を美しくする会相談役)

※『致知』2013年12月号
特集「活路を見出すより

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掃除はいいことだとは誰もが知っているのです。
しかし、自分の手でやろうとする人はいない。
やるとしても、お金を払って人にやらせるのが普通です。

しかし私は人にやってもらうのと、
自らの手足、身体を使ってやるのとは
全く価値が違うと若い頃から思ってきました。

「カー用品の業界は汚いから
掃除によってきれいにしたい」

と言った時、
私も随分人から非難もされましたし、
中傷もされました。
絶対に不可能だとも言われました。

社員たちは掃除をする私の手の上を
またいで歩いていきました。
そこからのスタートです。

それでも続けてきたのは、
私は会社をよくし、
業界をよくするためには、
これが一番いい方法だと信じていました。
もし、これ以外に何か方法が
あるなら教えてほしいと。

しかし、誰も「こうしたらいい」と
言う人はいなかったですよ。
時間はかかる。
すぐに効果は出ないかもしれないが、
いま自分の取っている道を行くしかない
という思いでやってきたんですね。

(中略)

日本を美しくする会では、
新宿・歌舞伎町の清掃活動を行ってきました。
暴力団が経営するお店が多いですから、
日本で一番犯罪が多い街と言われていました。

最初は「掃除なんかしても意味がない」と
言われてきましたが、
10年続けると犯罪率が40%以上減りました。

また一部ですが、
自分たちで清掃しようというお店が現れ、
新宿東口などは毎日15分間、
街の人が一斉に清掃しています。

意味がない、不可能だと言われていたことも、
やり続けることで必ず結果は出てくるのです。

よく、「成功の反対は何か」と聞くと
皆さん「失敗」と言いますが、
私はそうじゃないと思っています。

成功の反対は目標を持っていないことです。

* * *

鍵山氏が80年の人生を通して
極められた実践哲学の神髄とはーー。

「ピンチの時こそ閃きは近い」

月曜日, 11月 4th, 2013

上田 正仁(東京大学大学院理学系研究科教授)

※『致知』2013年11月号
特集「道を深める」より

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大きな発見や画期的な研究成果を挙げる人は、
どちらかというと
成果に鈍感なタイプが多いように思えます。

トーマス・エジソンはまさにそうでした。

彼は子供の頃「1+1=1」と主張しました。
1つの粘土と1つの粘土をくっつけると1つ
だというわけです。

エジソンは幼少期から何にでも疑問を持ち、
納得いくまで教師に質問を続けた話は有名ですが、
それではなかなか先に進むことはできません。

それでも、成果を焦らず、
失敗を恐れず取り組んだからこそ、
大きな成功を手にしたのでしょう。

安易な成果を求めず、
自分の可能性を極限まで追求したいという
高い志を持って試行錯誤を続ける「諦めない人間力」は
学問やビジネスの世界だけでなく
人間のすべての営みに通じる創造力の源泉です。

いま社会は原発問題や財政・金融危機など
マニュアル力だけでは立ちゆかない
状況に追い詰められています。

ここで問われるのが、
まさに「自ら考え、創造する力」にほかなりません。

どうしても打ち破れない壁にぶつかった時に、
勇気を持って本来あるべき原点に立ち戻ることで、
新しい閃きが生まれる可能性が高まるのです。

ピンチの時こそ閃きは近い――。

これもまた学問やビジネスに
共通する人生の極意なのです。

* * *

「自ら考え、創造する力」は
どのようにして養い、高めていくのか。

その他、ノーベル賞を受賞した
小柴昌俊博士や益川敏英博士など、
成功者に共通するものとは。

 「非常識な監督」

日曜日, 11月 3rd, 2013

香田 誉士史
(駒澤大学附属苫小牧高等学校野球部元監督)

※『致知』2013年12月号 連載「致知随想」より

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白河の関を優勝旗は越えない。

そんな定説に支配されていた
高校野球の指導者として、
私が北海道の駒澤大学附属苫小牧高等学校に
赴任したのは
平成7年、24歳の時でした。

当時の駒大苫小牧の野球部は
地区大会の1、2回戦で敗退する弱小チーム。
私はこのチームを甲子園に連れて行き、
いずれ日本一にという目標を掲げて臨みました。

しかし、私の赴任前に
監督不在の時期が続いていたこともあり、
部員たちは当初不信感を募らせ、
なかなか心を開いてくれませんでした。

若さゆえにがむしゃらに
チームを引っ張ろうとする
私のやり方も空回りをし、
一時は練習をボイコットされる事態にも至りました。

各地に赴き、有望な中学生を勧誘して回っても、
弱いチームに選手はやれない、
と全く相手にしてもらえません。

「畜生!」
「ふざけんな!」

帰りの車の中では、
悔しさのあまりそんな叫び声が
何度も何度も口から迸り出ました。

いつか必ず、
駒大苫小牧で、この香田のもとで野球をやりたい、
とたくさんの子供たちから
言われる野球部にしてみせる。
そう心に誓い、
私は部員たちに自分のすべての
情熱、愛情を注ぎ込んだのでした。

そんな私たちに大きな壁となって
立ちはだかったのが、
北海道の冬でした。
授業が終わり、「さあ練習だ!」と外へ繰り出すと、
既に辺りは薄暗く、寒く、
グラウンドは雪で覆われており、
部員の士気は否応なく下がるのです。

この地域的なハンディにより、
北海道のチームは本州のチームには勝てない
という思い込みが浸透していました。

しかし、甲子園出場、
そして日本一という目標を実現するためには、
なんとしてもこの冬を克服しなければなりません。

強いチームをつくるためには、
ピッチングやバッティングなどの
個々の技術ばかりでなく、

様々なせめぎ合いの中で、
守備時には相手にホームを踏ませないための、
攻撃時には一つでも多くのホームを踏むための
様々な連携力を磨いていかなければなりません。

冬場に野球から遠ざかっていては、
大会本番までにとても間に合わないのです。

そこで私は、ブルドーザーを調達してきて
グラウンドの雪を取り除き、
冬場はまともに練習できないという常識に挑戦したのです。

当初、吹雪いている日に
「外で練習をやるぞ!」と言うと
部員たちも怖じ気づいていましたが、

続けるうちにそれが当たり前になり、
内心これは寒いだろうなと思う日でも
「きょうはどうだ?」と聞くと、
「大丈夫です!」と元気な声が
返ってくるようになりました。

人間、本気になればなんでもできるものです。

厳しい冬と懸命に闘ってきただけに、
雪解けを迎える喜びは格別でした。

気候に恵まれた地域の野球部には絶対に負けない。
それが私たちの合言葉でした。

* * *

どのようにして甲子園への切符を手にし、
さらには北海道に初めて優勝旗をもたらしたのか。

24連勝の田中投手を育てた香田監督が語る
「指導者の条件」「強いチームをつくる秘訣」とは。

熱心に集中して、賭けていますと

木曜日, 10月 31st, 2013

「熱心に集中して、賭けていますと、
     運というか、幸運というか、
   そういうものがプラスアルファが引き出せる」

      川上 哲治(元巨人軍監督)

※『致知』1982年12月号
特集「力の源泉はなんだろう」より

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――川上さんは後姿をみて部下がついてくる
ようでなければだめだと、おっしゃってますね。
後姿で、指導するようになる、
それがリーダーの最高の姿だ、と。

これは私の禅の師匠である梶浦逸外老師が、
私が監督になったときにはなむけの言葉としてくださったんです。

「あんたは、正力さんに信頼されて
巨人軍の監督を命ぜられたのだから、
一生懸命やらなければいかん。

それがためには、
後姿で率いるような監督になんなさいよ
面と向かって率いるというだけでは
絶対、大きな働きはできませんよ」と。

――後姿で率いるというのは、
何もいわなくても部下はリーダーの気持ちを
知ってついてくるということでしょうかね。

そうですね。ただ、何もいわんというわけにはいきません。
こうやれ、こうすべきだということは教えていくし、
また辛いときに辛いことを要求しながら
やらせていくこともリーダーとしては大切です。

しかし、それだけではうまくいかないと思うんです。
やはり、お手本を示すといいますか、
監督、リーダーが自分の仕事を通じて
自分の要求していることを
自然にわからせるように持っていくことが大事です。

指導する立場にいるものは、
他人を指導できるだけの人間になるべく、
自分自身を鍛えていかないとね。

――やはり陣頭指揮といいますかね、
自分が立派にならなければ人はついてこないですね。
能力の点、体力の点、あらゆる点でね。

まったくです。部下の率い方には、教え、しつける面と、
自分が手本を示していく面とがあり、
これを併用して率いてこそ、
いい組織、勝ち抜くことのできる組織づくりが
できるんだと思います。

で、そのいずれの場合にも、
一番大事なのは誠意といいますか、
真心といいますか、
これを土台にしながらやっていくということでしょうね。
これは集団では大切なことですよ。

――結局、野球も力の強いやつが勝つのだと思いますが、
ああいう野球の集団の力の強さというのは、
どうですか。王とか長島みたいなのが
一人か二人いるのがいいのか、
集団が全員やる気になって一致団結するほうが強いのか……

これはもう一人二人の選手がおったってだめで、
そういう人たちの力を当てにしているようでは
決して大きな成績はでないと思いますね。

やっぱり、集団の力というのは、
みんながやろうとする目標達成のために、
本当に一心になってやるときにでます。

それで、これが一心になってやっているというと、
もう一つの力もひき出せると思います。
例えば、幸運という運を呼び込む、プラスアルファということです。
神仏の加護といってもいいと思いますけどね(笑)。

熱心に集中して、賭けていますと、
なにかしらん、そういう運というか、
幸運というか、神仏の加護というか、
そういうものがプラスアルファとして引き出せるという気がします。

失敗のない人生は失敗だ

水曜日, 10月 30th, 2013

「人生は失敗があって当たり前。
          失敗のない人生は失敗だ」

佐藤 忠吉(木次乳業創業者)

※『致知』2013年11月号
特集「道を深める」より

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辛い時期を乗り越え
有機農業を確立できたのは、
一人ではなかったからだと思います。

親父も生粋の百姓ですけれども
折に触れ、いろいろなことを教えてくれました。

事業を始めた頃は、

「人間は1%の可能性があったらやれ。
失敗したら出発点に戻ればいいがな。
人生は失敗があって当たり前。
失敗のない人生は失敗だ」

「体で覚えたことしか実現しない。
頭で考えたことは正月の計画と一緒で駄目だ」

と励ましてくれました。

私が息子を亡くし火事で工場を失って
神頼みをしていた時には

「太陽は東から昇って西に沈む。
深い谷があれば次に高い峰がある。
私たちの人生はそういう循環の中にあるんだ」

ということに気づかせてくれたんです。

人生の節目節目でそういう言葉が私を支えてくれました。

(中略)

片足は清流に、片足は濁流につけて歩む。
人間は不完全なものです。

この年になって思うのですが、
年を取るほど分からんことが多くなる。
若い頃は分かったつもりでいたことが、
本当は何も分かっていなかった
ということをしみじみと感じる。

生きている限り、
これでいいということはありませんが、
私はあの世に行く前、
目を閉じた時がその人の価値だと思っているんです。

死に顔にはその人の生きざますべてが表れます。
残された人生、農業の道を深めていきたいと思っています。

* * *

93歳の今も島根県雲南市で
農業に従事する佐藤氏。
そのエネルギーの源泉はどこから来るのか。
また、日本初のパスチャライズ牛乳を
いかにして生み出したのか。

「未来を載せてエコトラックが走る」

日曜日, 10月 27th, 2013

池田 治子(エコトラック社長)

『致知』2013年11月号「致知随想」より

 

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「これ、ええなぁ。二十一世紀の運送会社は

こういう車を使っていかなあかん」

夫が経営する大阪の運送会社に勤めていた私が、
環境に優しい“天然ガストラック”に
初めて出会ったのは一九九八年、
地元の地域行事に参加した時のことでした。

守口市とガス会社の共同ブースで
「排ガスがクリーン」だと紹介されていたのです。

アトピーに苦しむ娘を助けたいと調べていた医学書の中で、
車の排ガスと皮膚病の関連を指摘する報告を見つけ、
ディーゼルトラックの性能に疑問を抱き始めていた頃でした。

排ガスは真っ黒で人体に有害というのが当時の認識です。
天然ガス車との出合いは、
まさに“青天の霹靂”ともいうべき衝撃的なものでした。

すぐに夫の会社で二台リース購入し、
実際に排ガスを出すなど実験を敢行。

すると確かに黒煙も臭いもないのです。
「これ使える。もっと普及させなあかん」。
そう確信した瞬間でした。

しかし、同業者に勧めてみても
「環境では飯は食えない」とつれない返事ばかり。
九〇年代には、まだエコ=コスト高との先入観が根強くありました。

しかし、娘、ひいては次代の子供たちのためにも諦め切れません。

「将来天然ガス車は絶対必要になる。
低公害車百%の運送会社をつくり、
業績を上げれば、皆振り向いてくれるはずや」

そう決心し、夫の援助のもと「エコトラック」という
会社を立ち上げたのは一九九九年。
トラック五台からの、まさに手探りでのスタートでした。

天然ガス車にとって最も重要なのは燃料補給の問題です。
周囲からも不安視する声が多くありました。

しかし、幸いにも営業エリア内に
いくつか充填(じゅうてん)所が設置されていることが分かり、
この地の利が起業を後押ししてくれたのです。

そして、車両メーカー、ガス会社、行政の三者と連携を図り、
綿密な運行計画を立てていきました。

「長距離を走行できないのでは?」との声が上がれば、
実際に神奈川―大阪間をデモ走行してみせる、
環境イベントに車両提供の依頼があれば手弁当でも引き受ける。

その際に徹底したのは、「天然ガス車を普及させたい」という
創業理念から絶対にぶれないことでした。

つまり「儲かるかどうか」ではなく、
「低公害車の普及にプラスかどうか」を
唯一の行動指針として貫いたのです。

そのような損得抜きの取り組みを地道に積み重ねていくことで、
本気さが伝わっていったのかもしれません。
結果的に周囲の信頼が得られ、
大きな荷主さんが付いてくれるようにもなりました。

そして、「地球環境保全」という理念を掲げることで、
私たちの情報提供をもとにメーカーが車両改善に取り組めば、
ガス会社が充填所の営業時間などを見直す、
さらに行政も補助金制度などを整えていくというように、
異業種同士が垣根を越えて協力し合う体制が
少しずつ生まれていったのです。

また私は環境への取り組みとともに、雇用をつくり
従業員の自己研鑽を応援することにも情熱を傾けていきました。

そこには少子高齢化のため将来運送業を支える人材が
いなくなってしまうという事情もあります。

しかし何よりも、私には会社を支えているのは社長ではなく、
一人ひとりの従業員だという思いがありました。
トラック運転手はしんどい仕事です。

暑い日も寒い日も重い荷物を積んでは降ろす……。
その姿に私は心からの敬愛の念を抱くのです。

そんな彼らに報いるためにも、子育てをした経験を生かし、
資格試験の補助制度、女性の役員への抜擢、
若手の幹部登用など、皆が自己実現できる
環境づくりに苦心してきました。

当社に来られた方は皆口を揃えて
「あなたの社員はいつも笑顔で楽しそうですね」
と言ってくださいます。

お互いが認め合い切磋琢磨する社風もまた、
創業期からの成長を支えてくれたのだと感じています。

しかし、会社が順調に伸びていた最中の二〇〇三年、
突然経営危機に見舞われたことがありました。
最大の取引先だった家電販売店が
なんの前触れもなく倒産したのです。

衝撃でした。

すぐに家電以外の異業種へも必死に声を掛けて回り、
荷主の多様化を図りましたが、
それだけではとても危機を乗り切ることはできません。

焦りが募っていく中、この難局を救ってくれたのも、
やはり社員たちでした。

慣れた仕事以外のことをするのは
誰しも抵抗があるものですが、多くの社員が
「自分が会社の危機を救うことができるなら」と、
それまで扱ったことのなかった荷物の配達や
取り付け業務への現場移動に応じてくれたのです。

社員一人ひとりの粘り強い努力が強い結束力で一つとなり、
エコトラックは存続することができたのです。

十四年前、五台のトラックから始まった当社ですが、
いまでは従業員八十名、保有する低公害車は七十五台を数え、
年商も六億円にまで成長しています。

「私たちの会社が潰れたら、やっぱり天然ガス車なんて
あかんって言われてしまう。この事業は絶対成功させたる」

との強い思いでこの十四年間、無我夢中で走り続けてきました。

しかし、天然ガス車の知名度はまだまだ低いのが現状です。
これからもエコトラックの活動を通じ
子供たちが安心できる未来を残していきたい。
そう心から願っています。