まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「安岡正篤師とドラッカー氏の共通点(学びの手法編)」

金曜日, 10月 25th, 2013

佐藤 等(ナレッジアドバイザー、公認会計士、税理士)

『致知』2013年10月号

特集「一言よく人を生かす」より

└─────────────────────────────────┘

両者の著作は膨大ですが、
その教えの根本は活学であり、実践である点で一致しています。

さらに二つの教えは、学びの手法においても共通しています。

「一度古人に師友を求めるならば、

それこそ真に蘇生の思いがするであろう」

(安岡正篤『いかに生くべきか』)

「理論化に入る前に、

現実の企業の活動と行動を観察したい」

(ドラッカー『現代の経営(上)』)

ドラッカー教授の本には「IBM物語」「フォード物語」
といった経済人や企業の逸話が随所に盛り込まれています。

彼の著作には机上で生み出されたものは一つもなく、
すべて自らの目で見たものに基づいて記されています。

現実を観察し、一つの理想を提示し、実現を促しました。

これは安岡先生がお示しになる造化(ぞうか)の位どり、
つまり理想‐実現‐現実、天‐人‐地の教えに適っています。

それは歴史や人物に学ぶことの大切を説き続けた
安岡先生と共通するスタンスといえるでしょう。

「自分を知り、自分をつくすことほど、むずかしいことはない。
 
自分がどういう素質、能力を天賦されているか、
  それを称して『命』という。

  これを知るのを『知命』という。

 
知ってこれを完全に発揮してゆくのを『立命』という」

(『安岡正篤一日一言』)

「自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。
 
そこから充実と自信が生まれる。

  能力は、仕事の質を変えるだけでなく
  人間そのものを変えるがゆえに重大な意味をもつ。

 
能力なくしては、優れた仕事はありえず、
  自信もありえず、人としての成長もありえない」

(ドラッカー『非営利組織の経営』)

安岡先生の説く「知命」「立命」は、
『大学』の「明徳を明らかにする」という言葉にも置き換えられ、
それはドラッカー教授の

「自分の持っているものを発現させる」

「卓越性の追求によって社会の役に立つ」

という言葉によって、
より現代人にも分かりやすい教えに転換されています。

「“戦争型競争”から“恋愛型競争”へ」

木曜日, 10月 24th, 2013

早川 吉春(公認会計士・霞エンパワーメント研究所代表)

『致知』2013年11月号
特集「道を深める」より

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私の考える価値創造というのは、
単に商品やサービスを生み出すことではなく、
社会的価値や文化的価値を含むより深いものです。

そして価値創造企業には数値化できない
企業文化や脈々とした遺伝子が存在し、
その原点に常に顧客に対する価値創造があります。

競合他社との比較における相対価値ではなく、
絶対価値の創造と深化こそが企業の持続的発展に
繋がると私は考えるのです。

価値とは創造しようと思っても創造できるものではなく、
絶対的なものを追求し続けるうちに実現できたり、
また、そのものや考え方は変わらないのに、
時代や環境が変わることで新たな価値が
加わったりするものだと私は考えます。

ですから真に価値を創造するためには、
常に絶対的なものを追求し続ける姿勢を
維持することが大切だと思います。

これからの企業と経営リーダーには、
「絶対の競争」への視座が必要なのです。

法政大学の嶋口充輝先生はこうおっしゃっています。

競争概念については、ライバルをいかに叩いて
相手のシェアを奪うかという
陣取り合戦的な「戦争型競争」から、
最終顧客にいかに喜んでもらえるかを
ライバルと競い合う「恋愛型競争」に移りつつある。

まさに競争が、創られた価値を
ライバル間で奪い合うスタイルから、
いかにより高い市場価値そのものを
創造するかというスタイル、
つまり相対の競争から絶対の競争に向かって動き始めています、と。

「人生とは織物のようなもの」

水曜日, 10月 23rd, 2013

志村 ふくみ(人間国宝・染織作家)

『致知』2013年11月号
特集「道を深める」より

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自分の色というものは、
たった一つしかないのかもしれません。
それを求めてもらいたいと思いますね。

一つしかない色だけど、喜びや悲しみなど様々な感情、
刺激によって輝いていく。
その色に出逢うための人生じゃないですか。

それと同じように、
人の人生も織物のようなものだと思うんです。
経(たて)糸はもうすでに敷かれていて
変えることはできません。

人間で言えば先天性のもので、
生まれた所も生きる定めも、
全部自分ではどうすることもできない。

ただ、その経糸の中に陰陽があるんです。

何事でもそうですが、織にも、
浮かぶものと沈むものがあるわけです。

要するに綾ですが、これがなかったら織物はできない。
上がってくるのと下がってくるのが
一本おきになっているのが織物の組織です。

そこへ緯(よこ)糸がシュッと入ると、
経糸の一本一本を潜り抜けて、トン、と織れる。

私たちの人生もこのとおりだと思うんです。

いろんな人と接する、事件が起きる、何かを感じる。
でも最後は必ず、トン、とやって一日が終わり、朝が来る。

そしてまた夜が来て、トン、とやって次の日が来る。

これをいいかげんにトン、トン、と織っていたら、
当然いいかげんな織物ができる。
だから一つひとつ真心を込めて織らなくちゃいけない。

きょうの一織り一織りは
次の色にかかっているんです。

「苦しみの日々、哀しみの日々」

火曜日, 10月 22nd, 2013

鈴木 秀子(文学博士)

『致知』2013年7月号
連載「人生を照らす言葉」より

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詩人・茨木のり子さんの詩に、
「苦しみの日々 哀しみの日々」という作品があります。
分かりやすい詩ですから、そのままご紹介します。

苦しみの日々

哀しみの日々

それはひとを少しは深くするだろう

わずか五ミリぐらいではあろうけれど

さなかには心臓も凍結

息をするのさえ難しいほどだが なんとか通り抜けたとき 初めて気付く

あれは自らを養うに足る時間であったと

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば

やがては解るようになるだろう

人の痛みも 柘榴(ざくろ)のような傷口も

わかったとてどうなるものでもないけれど

(わからないよりはいいだろう)

苦しみに負けて

哀しみにひしがれて

とげとげのサボテンと化してしまうのは

ごめんである

受けとめるしかない

折々のちいさな刺(とげ)や 病でさえも

はしゃぎや 浮かれのなかには

自己省察の要素は皆無なのだから

茨木のり子さんは大正十五年、大阪府に生まれました。

上京後、学生として戦中戦後の動乱期を生き抜き、
昭和二十一年に帝国劇場で見たシェークスピアの
『真夏の夜の夢』に影響を受け
劇作家としての道を歩み出します。

その後、多くの詩や脚本、童話、エッセイなどを発表し、
平成十八年に八十歳で亡くなります。

茨木さんの作品はどちらかと言えば反戦色が強く、
過激なものが目立ちますが、
「苦しみの日々 哀しみの日々」はそれとは趣の異なる、
内省的で穏やかな詩の一つです。

おそらく作者自身、いろいろな人生体験を経ていて、
それを克服していく過程でこの詩は生まれたのでしょう。

「道を深める、極める」

土曜日, 10月 19th, 2013

――『致知』に登場した人間国宝たちの情熱

http://www.chichi.co.jp/news/topics/3870.html

└─────────────────────────────────┘

稽古は人の3倍やれ。
人の倍は何かの勢いでやれてしまうことがある。
しかし、3倍やるには●がなければできない」

この言葉は、
いまは亡き七代目中村芝翫(しかん)さんが
『致知』2010年5月号に登場された時、
師匠である6代目尾上菊五郎さんに言われた教えとして
ご紹介下さったものです。

6代目尾上菊五郎といえば、自身も人間国宝であり、
いまも「神様」として歌舞伎界に語り継がれるの名優です。

さて、●の中に入る言葉はなんでしょうか――。

それは「志」です。

七代目中村芝翫さんは、
幼き日に師にいわれた言葉をずっと胸に秘めて
稽古に励み、自身も人間国宝になられました。

どんな道を深め、極めるにも、
 すべては「志」から始まる。

そんなことを教えられるエピソードです。

先月創刊35周年を迎えた月刊『致知』は発刊以来、
各界の“道の達人たち”の人生ドラマをご紹介してきました。

その中には人間国宝の方々もたくさんいらっしゃいます。

やはり国の宝となる人たちの言葉には
深い独自の哲学から発する力強さがあります。

<刀剣作家 隅谷正峯氏>

「刀は形。その形のよさは作り手の■■から生まれる」
(『致知』1992年2月号)

<染織作家 志村ふくみ氏>
「なぜコツコツが大事かといえば、材料と◆◆◆なるからです」
(『致知』2013年11月号)

※さて、■や◆に入る言葉はなんでしょうか?
答えはこちらから
http://www.chichi.co.jp/news/topics/3870.html

「問題発見のために最も重要なこと」

水曜日, 10月 16th, 2013

 上田 正仁(東京大学大学院理学系研究科教授)

『致知』2013年10月号
連載「生涯現役」より
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私の体験に限らず、「問題を見つける」訓練は
創造的な見方を鍛える上でとても重要です。

問題を見つけるために最も重要なのは
「何が分からないかが分からない」状態を
「何が分からないかが明確になる」レベルに高めることです。

そうすれば、問題のありかが絞り込まれてくるはずです。

その第一歩としてまず自分のテーマに関して
徹底的に調査をしなくてはいけません。

インターネットで検索すれば、
たちまち関連情報が入手できるでしょう。

その資料を丹念に読み込むわけですが、
その時、その分野ですでに分かっていること、
実践されていることを学習しようという意識でいると、
いいアイデアは生まれません。

むしろ「何が分かっていないか」を理解したいと
強く意識しながら読むように心掛けるべきです。

そうするとやがて
「分かっていること」と「分かっていないこと」の
色分けがはっきりとしてきます。

商品開発の例でいうと、アイデアが漠然とした状態で
最初に取り組むのは徹底した市場調査や同業他社の研究です。

成功、失敗のケース、その原因を含めて過去の情報まで
遡って調査する中で、取り組むべき課題を明確にします。

その際重要なのは成功例の真似をしてはいけない、
という点です。

過去の例に学ぶのではなく、常に差別化を意識しながら
資料を読み込まなくてはいけません。

根気のいる作業ですが、そうすることで
他社がまだ手を付けていない空白の部分が見えてきます。

その中で「何をやらないか」をまずはっきりさせ、
残ったアイデアの中で、必死に頑張れば
なんとか達成できるという自分の可能性を
ぎりぎりまで引き出せそうな難易度の高い課題に
的を絞り込んで勝負をかけるのです。

才能のある人は、ともすれば比較的余裕を持って
やれることに取り組もうとしますが、
私に言わせれば、それはあまりにもったいない話です。

人生は一度きり。

自分の可能性を極限まで
引き出せる高い目標に向かって
挑戦してこそ生きがいも生まれるというものです。

ここで情報処理の極意というべきことをお伝えしましょう。

「脳を10歳、若返らせる方法」

火曜日, 10月 15th, 2013

     藤木 相元(嘉祥流観相学会導主)

『致知』2013年10月号
連載「生涯現役」より

今度、『若々しい人がいつも心がけている21の「脳内習慣」』
という本を書いたんですが、私はそこで、
十歳若返る脳の使い方を説きました。

その原稿を書くのが本当に大変だったけれど、
誰も手伝ってもらえる人がいないものだから、
いまでもほとんどを自分一人で書き上げる。

そしてそれがいまの私の楽しみであるし、
生き様であるし、それができなくなった時には
こっちから先に井戸へ飛び込んでやろうと思っています。

ただ死を待つ、というのが嫌なんですよ。

もしあの世へ行くなら、すべてに未練がないようにと、
死に方の研究もいろいろしています。

【記者:「脳を十歳若返らせる方法」というのを
少しお聴かせいただけませんか】

これはいかに「ホラ」を吹くかですね。

人間がホラを吹かなかったら夢がない。
ホラとは、つまりドリームですよね。
少しでもそのホラが吹ける間は、
人間は若々しくいられるんです。

例えば「藤木さん、いくつになりました?」
「いま八十だよ」。これもホラでしょう(笑)。

やっぱりホラが人を楽しくもし、
自分自身をドリームの世界へと引っ張っていく。
だからいま皆さんに呼び掛けているのは、
嘘をつくんじゃなく、ホラを吹きなさいと。

嘘は人を騙すことですが、
ホラは人を楽しませることができるから。

人を幸福に導くものの一つはホラじゃないですか。
だって現実に目をやると、生老病死で、
生まれたら病気になり、年をとって皆必ず死んでいく。

これは宿命ですからね。
それをまともに認知したら、ホラなしでは生きられない。

逆に言えば、ホラの力を借りて生きることが、
人を一番幸せにする。
だから自分自身にもホラを吹けばいいんです。

例えばマジシャンも、ある面では
自分自身をときめかせていないと
お客様にも驚きが伝わりません。

それと同様、自分にホラを吹いたことが伝播していって、
皆なんとなく幸せな気分になるわけだ。

現実という恐ろしい世界は、常に一本道を歩いていく。
だから片一方ではホラを吹いて、
現実を嘲弄しながら人生を歩いていくことが
大切なんじゃないですか。

特に年寄りは大いにホラを吹くべきだと思うんです。

私にはいま日本全国に千人ほどの弟子がいて、
半分は直伝、半分は通信教育ですが、
とにかく皆さんに楽しく生きてもらおうと、
何よりもまず笑うことを勧めています。

この事務所にも「笑運」という額が掲げてありますが、
笑わないと運は来ませんよ

「安岡正篤師とドラッカー氏の共通点」

土曜日, 10月 12th, 2013
      佐藤 等(ナレッジアドバイザー、公認会計士、税理士)

                『致知』2013年10月号 
                 特集「一言よく人を生かす」より

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安岡先生とドラッカー教授の教えが驚くほど
一致しているのを実感するようになったのは、
『易経』研究の第一人者である竹村亞希子先生に学んでからでした。

竹村先生によれば、
『易経』は時の変化の原理原則を説く書です。
そしてドラッカー教授もその著書において時の変化、
世界の変化を広く記されており、
変化を見る目が人一倍優れていました。

つまり『易経』もドラッカー教授も、
変化、特に兆しを知ることが
重要であるという点で一致しています。

『易経』は東洋思想の中核をなす古典であり、
安岡先生の教えとも深く結びついています。

そこに思い至り、私は安岡先生とドラッカー教授の教えの
共通点について思索を深めてきたのです。

ここで具体的に、安岡先生とドラッカー教授の言葉を通じて、
両者の教えの共通点を見てゆきましょう。

「人々は意識しないけれども、
 何か真剣で真実なるものを求めるようになる。
 これが良知というもので、
 人間である以上誰もが本具するところであります。

 致良知とは、その良知を発揮することであり、
 それを観念の遊戯ではなくて、
 実践するのが知行合一であります」

         (安岡正篤『人生と陽明学』)

「自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。
 (中略)したがってまず果たすべき責任は、
 自らのために最高のものを引き出すことである。
 人は、自らがもつものでしか仕事はできない」

         (ドラッカー『非営利組織の経営』)

「知識とは、それ自体が目的ではなく、
 行動するための道具である」

         (ドラッカー『既に起こった未来』)

両者の著作は膨大ですが、その教えの根本は活学であり、
実践である点で一致しています。
さらに二つの教えは、学びの手法においても共通しています。

「一度古人に師友を求めるならば、
 それこそ真に蘇生の思いがするであろう」

          (安岡正篤『いかに生くべきか』)

「理論化に入る前に、現実の企業の活動と行動を観察したい」

          (ドラッカー『現代の経営(上)』)

ドラッカー教授の本には「IBM物語」「フォード物語」
といった経済人や企業の逸話が随所に盛り込まれています。

彼の著作には机上で生み出されたものは一つもなく、
すべて自らの目で見たものに基づいて記されています。

現実を観察し、一つの理想を提示し、実現を促しました。
これは安岡先生がお示しになる造化の位どり、
つまり理想‐実現‐現実、天‐人‐地の教えに適っています。

それは歴史や人物に学ぶことの大切を説き続けた
安岡先生と共通するスタンスといえるでしょう。

「自分を知り、自分をつくすことほど、
 むずかしいことはない。

 自分がどういう素質、能力を天賦されているか、
 それを称して『命』という。
 これを知るのを『知命』という。
 知ってこれを完全に発揮してゆくのを『立命』という」

           (『安岡正篤一日一言』)

「自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。
 そこから充実と自信が生まれる。

 能力は、仕事の質を変えるだけでなく
 人間そのものを変えるがゆえに重大な意味をもつ。
 能力なくしては、優れた仕事はありえず、
 自信もありえず、人としての成長もありえない」

           (ドラッカー『非営利組織の経営』)

安岡先生の説く「知命」「立命」は、
『大学』の「明徳を明らかにする」という言葉にも置き換えられ、
それはドラッカー教授の

「自分の持っているものを発現させる」

「卓越性の追求によって社会の役に立つ」

という言葉によって、より現代人にも
分かりやすい教えに転換されています。

「凡人が勝つ唯一の道」

木曜日, 10月 10th, 2013
菊原 智明(営業サポート・コンサルティング社長)

                『致知』2013年11月号 
                     「致知随想」より

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人生とは不思議なものです。

私は大学卒業後、七年間クビ寸前の
ダメ営業マンをしていました。

ところが、そこから一転して四年連続トップ営業。

2006年に営業サポート・コンサルティング
という会社を立ち上げ、大企業の営業研修や
全国初となる大学での営業の授業を行っています。

まさか自分が他人様に何かを教える立場になるとは、
思ってもみませんでした。

そもそも私が営業の道に進んだのは、
友人の父親が車の営業をしており、
その自由奔放な姿に憧れたことがきっかけでした。

ある時、トヨタに面接を受けに行くと
「月に五台売ってください」。

一方、

「うちは住宅もやっていて、
  そっちは四か月に一戸売れればいい」

とのこと。それならできるかもしれない。
そう思い、トヨタホームに入社しました。

ただ、よく考えてみれば、トヨタ車は人気が高く、
店で待っていてもお客様が来てくださるのに対し、
トヨタホームを買いたいというファンは少ない。

大手メーカーがひしめき合う住宅業界にあっては

「○○会社もいいけど、菊原さんが素晴らしい方なので
  トヨタホームにします」

と、お客様から思っていただかなければ売れないのです。
しかし、当時の私にそのような人間的魅力はありません。

電話をしても

「ちょうど子供が寝たところになんで電話してくるんだ!」

と怒鳴られ、訪問しても

「資料だったらポストに入れてもらえますか」

と言ってTVドアフォンを切られてしまう。
会社に戻れば「またアポ取れなかったな」と散々叱られる。

半年もゼロで、俺って存在価値あるのかな……。
周りからすべて否定され、
次第に自分で自分を責めるようになってしまいました。

そんな中、私の支えとなっていたのが週末の飲み会でした。

そこに集まるのは、売れない同期や後輩たち。

結果の出ない者同士で酒を飲むことで、
現実から目を逸らし、ストレスを発散していたわけです。

その当時は、朝九時に朝礼が始まり、
毎日夜中の十二時まで帰れない、
まさに地獄のような日々でした。

それに耐え切れずに辞めていく社員も数多くいました。

彼らが手放したお客様をフォローしたり、
大手が相手にしないクレーマーのような
お客様から契約をいただいて、
年間三棟の最低ノルマをどうにか達成する。

そんなギリギリの生活が七年も続き、
気づけば二十九歳になっていました。

それまでは

「別に売れないけど、仲間がいるし、
 飲んで忘れてしまえばいいや」

と思っていたものの、三十を目前に控えた頃から
飲み会が徐々に楽しくなくなっていきました。

ある時、いつものように飲んでいると、

「いま確かに楽しいかもしれない。
 でも、おまえってダメな人間だよな」

と、もう一人の自分が囁くように感じたのです。
本当は仕事で結果を出したいという思いが、
心の叫びとして聞こえてきたのでしょう。

しかし、七年やってダメな人間が八年目から
爆発するという話は聞いた例がありません。

ちょうどその頃、結婚したこともあり、
家を建てて転職しようと考えました。

せっかく家を建てるのならば、失敗したくない。
そう思い、様々な情報を集めていると、
ある資料が目に飛び込んできました。

「もう少しコンセントを増やしておけばよかった」

「濃い床にしたら傷や埃が目立つ」

等々、そこには実際に家を建てたお客様が
後悔した事例がたくさん載っていたのです。

「これは面白い! きっとお客様にも喜んでいただける」

私はすぐに“お役立ち情報”として、
そのリストをお客様に郵送しました。

するとどうでしょう。

「いくつか見積もりを出したんだけど、
 ちょっとよく分からないので相談に乗ってくれませんか」

「とりあえず菊原さんにお願いしますよ」

というお客様が現れたのです。

営業の仕事が面白いと、
心の底から感じられた初めての瞬間でした。

「“足なし禅師”と呼ばれた禅僧」

水曜日, 10月 9th, 2013

 

 

          『致知』2007年3月号
           特集「命の炎を燃やして生きる」総リードより

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「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。

小沢道雄師。大正9年生まれ。幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。
20歳で召集を受け満州へ。
昭和20年、25歳で敗戦。シベリアに抑留され強制労働。

だが、肩に受けた銃創が悪化し、
役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で
牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、
支給された食料は黒パン1個、飲み水もままならず、
3日間を費やした行程で死者が続出した。

小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。

膝から切断しなければ助からない。

その手術の担当軍医は内科医で外科手術はそれが初めて。
麻酔薬もない。
メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、
小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。

想像を絶する激痛。

歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。

すさまじい痛みは1か月余続いた。

8月に突然の帰国命令。
歩けない者は担架に担がれ、
牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで、
1,500kmを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、
目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。

折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、
僥倖というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、
福岡で再手術を受け、故郷相模原の病院に送られた。

母と弟が面会に来た。

「こんな体になって帰ってきました。
 いっそのこと死のうと思いましたが、
 帰ってきました」

言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、
小さく言った。

 「よう帰ってきたなあ」

母と弟が帰ったあと、
小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。

懊悩の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。
その果てに湧き上がってきた思いがあった。

比べるから苦しむのだ。

比べる元は27年前に生まれたことにある。

27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。

両足切断の姿で今日生まれたのだ。

そうだ、本日たったいま誕生したのだ。

足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、
痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、
生まれてきたのだから、何も言うことなし。

本日ただいま誕生!

深い深い覚悟である。

一、微笑を絶やさない
一、人の話を素直に聞こう
一、親切にしよう   
一、絶対に怒らない


小沢師はこの4つを心に決め、
58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

 

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