まほろばblog

Archive for the ‘人生論’ Category

「小津安二郎監督から学んだこと」

土曜日, 9月 14th, 2013
    山本 富士子(女優) 

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より

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小津安二郎監督とは会社が違ったので、
出演したのは『彼岸花』の一本だけでしたけれども、
人間的魅力に溢れたとても素晴らしい方でした。

それまで自分の持っているものを
フルに出そうとしていた私に、

「百%、百二十%やらなくていいんだよ」

と、自然体で演じることを教えてくださいました。

心に残る言葉もたくさんいただきました。

「どうでもいいことは流行に従う。
 重大なことは道徳に従う。
 芸術は自分に従う」

「品行が悪いのは直せる。
 品性のないのは直せない」


いずれも深く心に残りました。

「保険営業の頂点へ その先に見えたもの」

木曜日, 9月 12th, 2013
  金沢 景敏(プルデンシャル生命ライフプランナー)

                『致知』2013年10月号 
                     「致知随想」より

└─────────────────────────────────┘

私は平成二十四年度、プルデンシャル生命の
営業コンテスト個人保険部門で頂点に立ちました。

入社一年目、特に最後の数か月は
「物理的には不可能」と言われた大差を
覆しての勝利でした。

プルデンシャル生命に転職したのは昨年、
三十二歳の時。

前職では大手テレビ局でスポーツ中継などを担当し、
名刺を出せば誰もが会ってくれるというような
一見、何不自由ない日々を送っていました。

そんな私が固定給なし、経歴関係なし、
「いかに多くのお客様を満足させたか」で
すべてが決まる完全フルコミッションの
生命保険営業の世界に飛び込んだのは、
自分はこのままでいいのだろうかとの
思いがあったからでした。

周囲からするとなぜ? 
という思いがあったでしょう。

京都大学在学中には
名将・水野彌一監督率いる
アメリカンフットボール部でプレーし、
卒業後も特に苦労なく大手企業へ就職。

しかし学生時代、口では日本一になると言いながら
満足に勝つこともできず、
厳しい練習から逃げていた自分がいました。

「完全燃焼できなかった」との後悔の念が
卒業後も拭えず、学歴や大手企業の
“看板”の中で生きるのではなく、
自分の力をもう一度がむしゃらに
試してみたいとの思いがあったのです。

また就職後、記者としてアスリートに接する中で、
選手を取り巻く厳しい現実にも直面しました。

若くして高給をもらう選手の多くは金銭感覚に乏しく、
引退後には厳しい生活になることも少なくありません。
引退後に彼らが安心して競技に打ち込める環境を
つくれないかと考えるようになっていました。

プルデンシャル生命の社員から
「一緒にやらないか」と
声をかけていただいたのはそんな時でした。

「フルコミッションの世界なら、
 どこまでも自分の力を試すことができる。
 また保険を通じてアスリートの手助けも
 できるかもしれない」

と、すべてを抛ち、転職を決意したのです。

しかし、転職後の二か月はいくら電話をかけても、
もうこれ以上ないというほど断られる日々が続きました。
こちらの名前を名乗った途端、
「保険の営業ですか」と電話を切られてしまう……。

しかし、ある時、ふと手に取った
『鏡の法則』という本の中でこんな言葉に出合ったのです。

“あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡”

自分が冷たい対応をされてきたのも、
逆の立場だったら同じことをしていたかもしれない。
そう思うと、いくらかは相手の気持ちが
理解できるようになった気がしました。

商談が失敗しても、アポが取れなくても
すべての原因は我にあり――。

自分がされて嫌なことは相手にもしない、
自分がされて嬉しいことを
とことんやっていこうと発想を変えました。

「特攻の母・鳥濱トメが遺した言葉」

水曜日, 9月 11th, 2013
   鳥濱 初代(富屋旅館三代目女将)

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201310_pickup.html#pick2

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鳥濱トメが富屋旅館を開業したのは昭和二十七年。

戦後、特攻隊員のご遺族や生き残られた方々が
知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうと、
隊員さんたちが憩いの場としていた離れを買い取り、
旅館にしたのです。

「ここは、生きれども生きられなかった人たちが
 訪れていた場所。

 何かを感じ、自分が明日生きるという力に変えてほしい」

トメはそう願い、旅館業の傍ら、
平和の語り部として、この離れで隊員さんとの
エピソードなどを語っていました。

ここではその一部をご紹介したいと思います。

       * *

光山文博さんは厳しい訓練が続く中、
休みになると必ず富屋食堂を訪れていました。
しかし、隊員とは誰とも話さず、大人しくしている。
なんでこの子だけ独りぼっちなのだろうか。

トメは心配していました。
するとある日、光山さんはトメにこう告げたのです。

「僕、実は朝鮮人なんだ」

この方の母親は戦時中に亡くなり、
父親から日本男児として本望を遂げよと教育されたそうです。

「明日出撃なんだ。小母ちゃんだけだったよ、
 朝鮮人の僕に分け隔てなく接してくれたのは。
 お別れに僕の国の歌を歌っていいかな」

そう言って光山さんは帽子を深々と被り、
トメと共に祖国の歌『アリラン』を大声で涙ながらに歌いました。

「小母ちゃん、ありがとう。
 みんなと一緒に出撃していけるなんて、
 こんなに嬉しいことはないよ」

そう言い残して、飛び立っていったのが光山文博さん、
二十四歳なのです。

もう一人は、十九歳の中島豊蔵さん。

中島さんは右手を骨折していたため、
なかなか出撃の許可が下りませんでした。
しかし、いま行かなければ日本は負けてしまう。
その並々ならぬ思いで司令部に掛け合い、
ついに許可が出たのです。

出撃前夜、トメは骨折で長くお風呂に入れなかった
中島さんのために、せめて最後にこの子の背中を流そうと、
お風呂に入れてあげました。

ああ、この子ももういなくなるのか……。
そう思うと、トメの目に涙が溢れました。

しかし、涙を見せてしまうと、
中島さんの決意を鈍らせてしまう。
心を掻き乱してしまう。

トメは涙を堪えるため、とっさに身をかがめました。

「小母さん、どうしたんですか?」

「いや、お腹が痛くなって……」

 そう誤魔化すと、中島さんは、

「それなら、僕たちを見送らなくていいですよ。
 小母さんは自分の養生をなさってください」

明日飛び立つ自分の身よりも、
とっさについたトメの嘘にまで優しい心をかけてくれる。
そんな中島さんは翌朝、折れた右腕を
自転車のチューブで操縦桿に括りつけ出撃していったのです。

       * *

特攻平和記念館などに飾られている
十代後半から二十代前半の彼らの顔写真を拝見すると、
実に立派で、清々しく輝いた眼をしていらっしゃる。

それはやはり、彼らの中にぶれない軸が
一本通っていたからなのだと思います。

トメは平和の語り部として語る時、
いつもこう言っていました。

「私は多くの命を見送った。
 引き留めることも、慰めることもできなくて、
 ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。
 だから、生きていってほしい。命が大切だ」

されど、書き残した物の中には

「善きことのみを念ぜよ。

 必ず善きことくる。

 命よりも大切なものがある。

 それは徳を貫くこと」

とも記されています。

この言葉を見るにつけ、後の世の幸福を願って
命を賭した隊員さんたちの姿が思い起こされてなりません。

「伸びる選手の条件」

火曜日, 9月 10th, 2013
  吉田 栄勝(吉田沙保里選手の父/
            一志ジュニアレスリング教室代表) 

              『致知』2013年4月号
               特集「渾身満力(こんしんまんりき)」より

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以前うちの教室に、一万人に一人ともいえる逸材がいましてね。
本当に、格闘技をやるために生まれてきたような子で、
出る大会出る大会、全部優勝していきました。

そして小学生の時、柔道に転向し、
それも日本一になって
もう一度レスリングに戻ってきたんですよ。

ところが彼は、俺は日本一だという偉そうな顔をしていて、
態度が悪いものでね。

あれがもうちょっと素直だったら、
五輪も出られるんだろうなと思うんですが。

そういう選手は他にもいて、教えたことはすぐ覚えるし、
教えなくても相手がやっているのを上手に真似る。
ただその子が本当に強くなるかというと、
やっぱり最後は素直でなきゃダメですね、人間。

「はい」という返事や
「すみません」「ありがとう」という言葉を
ちゃんと知っている人間でないと。

俺は強いんだ、なんて偉そうにしている人間は
もう人が相手にしない。

小さい頃からそういうことをしっかり叩き込んでおかないと、
大きくなってから必ず損をします。

私は(娘の)沙保里によくこんな話をしてきました。

「もしおまえが途中で負けてしまったら、
 おまえに負けた子がまた泣いてしまうぞ。
 だからおまえに負けた子の分まで勝たなきゃいけない」と。

一方、女房は二〇〇八年に連勝記録が百十九で途切れた時、

「いままでおまえが勝たせてもらったその裏で、
 他の子は皆泣いていたんだよ。
 一度負けたくらいでクヨクヨするな」

と言いました。

連勝の記録ももちろん大事ですが、
やっぱり人間、負ける悔しさというのを覚えていってこそ、
本当の成長へと繋がるのだと思います。

「『般若心経』を私に説いてください」

月曜日, 9月 9th, 2013
     酒井 大岳(曹洞宗長徳寺住職) 

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より

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大学を出てしばらくして群馬に戻った私は、
住職である父の手伝いをするとともに、
たまたま空きがあった県立女子校の
書道講師を務めることになりました。

書道講師は三十年以上続けてきましたが、
そこでも愛語の大切さを知る貴重な経験をしました。

私が奉職間もない頃、
小林文瑞という大先輩の先生がいました。

小林先生は私のように僧籍を持ち、
西田哲学や仏教思想に精通していました。

百九十センチ近い大柄な方でしたが、
一緒に食事をしていた時にこうおっしゃるのです。

「酒井先生、『般若心経』というお経があるでしょう。
 きょうは一つ私にそれを説いてください」

「それは無理ですよ。読めと言われればすぐに読めますが、
 とても説くことなんか」

すると一瞬先生の表情が変わり、
「馬鹿者!」と頭ごなしに
私を怒鳴られるではないですか。

「あなたはきょう、私の隣の教室で授業をやっていたね。
 一人休んでいた子がいたでしょう。
 名前はなんと言った?」

「山田悦子(仮名)です。窓際の前から三番目の子です」

「あなたは彼女がなんで休んでいるか知っていますか」

「いいえ、別に担任に聞いてみたこともないし、
 風邪でもひいたんだろうかと……」

その言葉が終わらないうちに、再び雷が落ちました。

「馬鹿者! 生徒が一人休んでいたら
 担任であろうが副担任であろうが
 そういうものは関係ない。

 ひょっとしたら事故かもしれない。
 大病かもしれない。

 担任のところに行って
 なぜ休んでいるかを聞くのが
 教師の役目ではないか」

さらに先生は

「あなたに『般若心経』が説けなかったら、
 私が見せてやる。着いてきなさい」。

そうおっしゃったかと思うや、
もう歩き出されていました。

店の裏の道をどんどん歩きながら、
しばらく経ったところで、

「あのな、山田悦子は腎臓を悪くして
 この先の病院に入院しているんだ。
 これから見舞いだ」。

彼女の部屋は二階の奥まったところにありました。
小林先生は病室に入ると、
笑顔で挨拶を交わし静かに話し始められました。

「えっちゃんな。
 きょう酒井先生が君の教室で授業中に歌を歌っていた。
 俺は隣の教室で聞いていたんだけど、
 酒井先生はえっちゃんがどんな病気で
 入院しているか知らなかったそうだ。

 俺が酒井先生に頼んで
 その歌を歌ってもらうからな。
 よーく聞いていろや」

私が歌ったのは、その頃農家を励ますために
流れていた田園ソングでした。

二番くらいから山田は布団を引っ被って泣いていました。

声は出さなくても肩が震えているから
それと分かるのです。

三番まで歌い終わると
「ありがとうございました」と小さな声がしました。

「よかったな、えっちゃん。
 これであと一週間もすると治って退院できるよ。
 じゃあな」

そう言って先生は部屋を出られました。

病院を出て別れ際に小林先生が
「酒井先生」と声を掛けられました。

また雷かと思って「はい」と答えると、
先生は大きな両手で私の手をしっかり握り、
大きく揺さぶられました。
そして満面の笑顔でおっしゃったのです。

「これが『般若心経』だよ。
 覚えておきなさい。じゃあな」

私は最初小林先生がおっしゃった意味が
分かりませんでした。

しかし、ある時、ふと
「仏教で大切なのは理屈ではなく実践なのではないか」
「いまできることを精いっぱいやることが
 人生で大切ではないのか」

と思ったのです。

それから私は『般若心経』に関する本を取り寄せ、
三百冊以上貪るように読みました。

驚くことに、小林先生の教えにすべて帰着していました。
理屈ではなく歩み続けることこそがその神髄だったのです。

ちなみに、山田悦子は奇跡的な回復を遂げ、
先生の言葉どおり一週間後に無事退院しました。

私には愛語の力を知る
忘れられない思い出の一つです。

「感性を研ぎ澄ませ 患者の声に謙虚に耳を傾ける」

月曜日, 9月 9th, 2013
 押川 真喜子(ハーフ・センチュリー・モア ケア部門統括責任者/
          聖路加国際病院訪問看護ステーション元所長)

              『致知』2013年9月号 
                   「致知随想」より

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一九九二年、三十二歳で
聖路加国際病院訪問看護科を立ち上げ、
その後ステーションに移行してから二十一年。

その間に私は約千人もの患者と出逢ってきました。

訪問看護では、年齢や疾患を問わず、
在宅療養患者のもとを訪れ、様々な処置を行います。

介護職でも対応できる入浴の介助から、
点滴等の医療処置、入院の判断をはじめ、
緩和ケアや終末期の看取りへの対応。

その裁量の大きさゆえ、訪問看護師の責任は重大です。

私は看護師生活の大半を訪問看護に捧げてきましたが、
大学卒業直後は「死を目の当たりにしたくない」
という理由から、保健師として保健所に就職しました。

そんな私の転機となったのは、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の男性との出逢いでした。

ALSは筋肉が萎縮し、全身麻痺になる難病です。
人工呼吸器が必要となるため長期入院を強いられ、
奥様は幼い子供をお義母様に任せて
献身的に看護されていました。

本人はもちろん、家族の負担は
計り知れないものだったと思います。

しかしそのような状況でも、
明るく気丈に振る舞う奥様に心打たれ、
病室を訪ねるうちに私は思わず口走っていました。

「何かあったらお手伝いしますから、
  なんでも言ってくださいね」

とは言え、病状から退院は無理だろう、
と内心思っていた私に奥様から電話が入ったのは、
三か月後のことでした。

「病院が廃業することになったの! 押川さん助けて!」

自分から申し出た手前、断ることもできません。
奮起した私は帰宅の願いを叶えるべく、
道を模索し始めたのでした。

しかし、当時は訪問看護という言葉すらなかった時代。
ALS患者の在宅看護を主張した私は、
保健所の中で完全に孤立してしまいました。

家族が分断され、長年辛い思いをしてきた方たちの
願いをなんとか叶えたい。

その一心で関係者の説得や機器の手配に奔走した結果、
保健所の所長が帰宅を許可してくださったのです。

「お父さんおかえり!」

当日、涙を流しながら子供たちに迎えられる彼を見て、
私は涙が止まりませんでした。
これが私の訪問看護の原点となったのです。

その後聖路加国際病院に移り、
院長の日野原重明先生に訪問看護の必要性を直訴。

先生はすぐ志に共感してくださいました。
しかし医師たちは看護師が医療処置をすることに
不安感を抱いており、処置の実演など、
技量を試されることも少なくありませんでした。

訪問看護の草創期は、血圧測定や簡単な問診のみを行う
「家庭訪問」が主流でした。

しかし、徐々にではありましたが、
私たちを必要としてくださる方は増え、
ケアの範囲も広がっていきました。

看護を始めて約十年が経った頃のことです。

経験を積んだ私は周囲から認められ、
いまにして思えば、過信していたのかもしれません。
そのような時、その後の仕事観を
決定づける出逢いが訪れました。

彼女は十七歳の白血病患者でした。
白血病は病状が悪化すると、毎日輸血が必要になります。
同様の状況だった彼女は、
ある時何度も注射に失敗するスタッフに不満をぶつけたのです。

自分たちは精いっぱいやっているのに……。
そんな思いがよぎり、
私はついこう漏らしてしまったのでした。

「私たちも頑張っているのだから、
  少しくらい我慢してくれてもいいのでは」

それを聞いた彼女は、

「私には、優しいけど何度も失敗する看護師さんではなく、
  怖くても一回で処置をしてくれる看護師さんが必要です」

と、涙ながらに訴えました。

病院では、失敗しても
はっきり拒否されることはありませんでした。

長期療養してきた彼女ゆえの切実な叫びに、
私は奈落の底に落とされたような衝撃を受けました。

生死と隣り合わせの人を相手にしているからこそ、
常にプロフェッショナルであることが求められる。

彼女の一言から私は、訪問看護師として
忘れてはならない三か条を掲げました。

「客観的に自分やスタッフの力量を判断する」

「患者の価値観を尊重する」

「感性を研ぎ澄ませる」

一人ひとりの死に様は、その人の生き様とも言えると思います。
その瞬間を最善のものにするためには、経験を積み、
理論を学ぶことも重要ですが、それをどう生かすかは、
私たちの力量次第です。

感性を研ぎ澄ませ、謙虚な姿勢で患者の声に耳を傾ける。
以来私は、これらを訪問看護の基本として、
仕事に打ち込んできました。

「病気になったことはとても悲しかったけど、
  あの時間が私たちにとって一番の宝物で、
  それは主治医と押川さんのおかげです」

約九か月の看護の後、彼女は亡くなりました。

しかし、最後に家族がそう言ってくれ、
多くの学びを残してくれた彼女の存在は
いまも私の心の支えになっています。

そして今年三月、私は訪問看護ステーションを卒業しました。
あえて自分が退くことで、後進に伸びてほしいと願い、
さらに高齢化が進む日本の将来を見据えて、
介護施設の介護職を統括する現職に就きました。

訪問看護でカバーできる部分は限られている一方、
団塊の世代の高齢化が進めば、看る側も看られる側も
認知症を患っている「認認介護」も問題になってくるでしょう。

しかし、介護施設での介護や看取りは
まだ整備されていないのが現状です。

これまでの経験を生かして、
多くの人が自身の生を全うできる施設づくりに貢献したい。

その実現のために、これからの看護師生活を
捧げていきたいと思います。

「芸能生活で支えにしてきた言葉」

月曜日, 9月 9th, 2013
    黒柳 徹子(女優・ユニセフ親善大使)

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201310_pickup.html#pick1

└─────────────────────────────────┘

私にはあんまり、こうしたい、ああしたいと
いう野望はないんです。

いまここにあるものを、
どうすれば切りひらいていけるかという
考えで生きてきたので。

ただ、努力はしますよ。

俳優の渥美清さんは私の芝居を
よく見に来てくださったのですが、感想は

「お嬢さん、元気ですね。元気が一番」

といつもそうでした。

また長年指導していただいた
劇作家の飯沢匡(ただす)先生も、
台本をどう演じればよいかを伺うと

「元気におやりなさい。元気に」

とおっしゃった。

その頃は元気だけでいいのかなと思ったんですが、
いまとなれば、どんなに才能があっても、
結局、元気でなきゃダメなんだということが分かるんです。

「元気が一番」という渥美さんの言葉も
随分私の力になっていますが、
もう一つ仕事をしていく上で大事にしているのが、
マリア・カラスの言葉です。

二十世紀最高のオペラ歌手と謳われた彼女が

「オペラ歌手にとって一番必要なものはなんですか」

と聞かれた時に、こう答えたというんです。

「修練と勇気、あとはゴミ」と。

彼女は生前、四十ものオペラに出たんですが、
楽譜を見ると分かるように、
それぞれに物凄く細かい音がある。

しかし彼女はその全部に対して
「絶対にこれでなければダメだという音を、私は出してきた」
と言い切っている。要はそれくらいの修練をし、
身につけてきたということでしょう。

私は毎年一回、舞台をやるんですが、
その時にはやはりね、
「修練と勇気、あとはゴミ」と思いますよ。

そのためには一か月半の稽古をし、
二千行におよぶセリフを覚えなければならない。

だから皆と飲みに行くことも、
ご飯を食べに行くこともなく、
稽古場から家に帰って、
あとはずっとセリフを覚えたり勉強をしたりで、
全神経をそこに集中させていく。

もう一つ、これはイギリス人の方が教えてくれたのですが、

「ある人が飛躍して才能を発揮する時には、
 皆が寝ている時にその人は寝ていなかった」

という言葉があるんです。
つまり努力をしたということでしょう。
でも並の努力ではそこまでいきません。

「砂時計の詩」

金曜日, 9月 6th, 2013
 山本 富士子(女優) 

              『致知』2013年10月号
               特集「一言よく人を生かす」より

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私は亡くなった主人と
毎年バースデーカードを贈り合っていたんですけれども、
主人は必ずそこに素敵な言葉を記してくれたんですね。

その一つが砂時計の話だったんです。

『産経新聞』の一面に、
「朝の詩」という一般読者の方が投稿する欄があって、
主人はそこへ投稿された「この秋」という詩に
大変感銘を受けて、「砂時計の詩」と題して
バースデーカードに引用し贈ってくれたんです。

       砂時計の詩

 一トンの砂が、時を刻む砂時計があるそうです。

 その砂が、音もなく巨大な容器に積もっていくさまを見ていると

 時は過ぎ去るものではなく

 心のうちに からだのうちに積りゆくもの

 と、いうことを、実感させられるそうです。

 時は過ぎ去るものではなく

 心のうちに からだのうちに積りゆくもの

私はこの言葉に出合うまでは、
時は過ぎ去るものと考えていました。

こうして牛尾さんとお話ししている時も
もちろん刻々と過ぎていきます。

だからこそこの一瞬一瞬を大切に、
一日一日を大切に、いい刻を
自分の心や体の中に積もらせていくことが大事で、
それがやがて豊かな心やいい人生を紡いでいってくれる。

そう受けとめて、一日一日を精いっぱい生きる、
きょう一日を精いっぱい生きることの大切さを
改めて実感させられました。

とても感動したものですから小さな紙に書いて、
お財布に入れていつも持ち歩いているんです。

※島根県の仁摩サンドミュージアムに設置されている
 一トンの砂時計。ちょうど一年の時を刻むそうですが、
 なぜこのような砂時計がつくられたのでしょうか?

人間の姿勢は一つでいい

火曜日, 9月 3rd, 2013
  ~佐藤忠良先生から学んだこと~
         笹戸千津子(彫刻家)
              『致知』2013年9月号 
                   「致知随想」より

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「人間はある年齢になると下降線を辿る。
 だけど僕は、地面スレスレでもいいから、
 ずっと水平飛行しながら一生を終えたい」

世界的な彫刻家・佐藤忠良先生はこの言葉どおり、
二年前に九十八歳で亡くなるまで
創作活動に情熱を燃やし続けました。

私が佐藤先生とご縁をいただいたのは昭和四十一年、
新設された東京造形大学の一期生として入学した時でした。

母と乗った入学式に向かうバスで、
たまたま隣にハンチング帽をかぶり、
大きな鞄を抱えた、俳優の宇野重吉さんに似た男性が
座っていました。

その人が佐藤先生だったのです。

先生は山口の田舎から一緒に上京してきた母に
親切に話しかけてくださり、
細やかな心遣いを示してくださった一方、
その直後に行われた入学式では実に斬新なスピーチをされました。

日本の美術大学の歴史が始まって以来、
これほど程度の低い学生が集まったことはないだろう。

けれども私は、本人も世の人も天才だと思っているだろう
私の母校・東京藝術大学の学生と競争させてみるつもりだ。

素直に一所懸命に勉強すれば、
卒業時には一番成績の悪い学生でも
藝大の学生の下から三番目以上の力をつけさせる」

父母もいる前でこんな話をする先生のことを、
最初は随分変わった人だと思いましたが、
授業を通じてそのお人柄と芸術に対する深い洞察に触れ、
私はたちまち深い感化を受けました。

「大学の門を一歩くぐったら、
  僕は教える人、君たちは習う人、
  この区別をハッキリさせよう。

  でも大学の門を一歩出たら、
  お互いに芸術で悩む人間同士として付き合おう」

そんな佐藤先生から、四年の履修期間が終わり、
研究室に三年間残った後、

「僕のモデルを務めてほしい。
  その代わり僕のアトリエで自由に仕事をしていいから」

と誘われ、私は迷わず承りました。

おかげさまで私は先生のそばで創作活動を続けながら、
「帽子・夏」をはじめとする「帽子シリーズ」など、
七〇年代以降の先生の九割方の作品で
モデルを務める僥倖に恵まれました。

そのうち秘書のお仕事も担うようになり、
お亡くなりになるまで
四十年以上も身近にお仕えしたのでした。

私が彫刻の道を志した当初、
まだ女性で彫刻をやる人は稀でした。

けれども父は、
これからは女性も手に職を持たなければならない、
と理解を示してくれ、

「おまえは特別才能があるわけではないから、
  人より少しでも抜きん出たかったら人の三倍やりなさい」

と励ましてくれました。

私自身も、せっかく生まれてきたからには
自分をとことん試してみたいと思い、
自ら土日もなく佐藤先生のアトリエに通い詰め、
作品審査では必ず他の方より多く出品し続けました。

先生も私の意気込みに応えてますます創作に熱中され、
二人で競うように作品に取り組み続けたものです。

アトリエでは先生の粘土練りや心棒づくりをお手伝いしながら、
概ね午前中に自分の作品制作を行い、
午後は先生のモデルを務めました。

モデルを務めている時間は当然自分の作業はできませんが、
先生が制作に呻吟される姿を直に拝見するのが、
何物にも代えがたい勉強でした。

作品に向かう先生の姿勢は大変厳しく、
道具や粘土を粗末に扱うと厳しく叱責されました。

また、彫刻に男も女もない。
男に手伝ってもらおうと思った瞬間から負けが始まる、
と女性にも一切甘えは許されませんでした。

若い頃は

「こんなみっともない作品を
  僕のアトリエに置いてもらったら困る」

と完成間近の作品を壊すよう命じられ、
涙に暮れた体験は数え切れません。

けれども先生は、一度制作の場を離れると
実に温かい思いやりを示してくださいました。

「世の中には低姿勢とか高姿勢って言葉があるけれども、
  人間の姿勢は一つでいいんだよ」

と、どんな偉い方にもへつらわず、
また職人さんやお手伝いさんにも細やかな心遣いを示されるので、
面会した人は誰もが感激し、先生の虜になりました。

こうした先生の姿勢は、幼くして
父親を亡くし他家へ書生に入り、また先の大戦で応召し、
三年間もシベリアで抑留生活を送られた
ご体験とも無関係ではないでしょう。

イギリスに彫刻家のヘンリー・ムーアを訪ねた時、
既に晩年で病床にあったムーアが、
きちんとネクタイを締めて応対してくれた姿勢に感銘を受け、

「隣人へのいたわりや優しさのない人間が創る芸術は、
  すべて嘘と言ってもいい」

と繰り返されていました。

学生時代に師事した朝倉文夫先生から

「一日土をいじらざれば一日の退歩」

と教えられた佐藤先生は、講演会などで若い学生から、

「佐藤先生のような素晴らしい作品を
  創作するにはどうしたらいいですか?」

と質問されると決まって、

「コツはただ、コツコツコツコツやることだよ」

とユーモラスに答えていらっしゃいました。

生涯水平飛行を願った先生ですが、
それは極めて辛いことだともおっしゃっていました。

それでも先生は毎朝八時過ぎには必ずアトリエに入り、
生涯休むことなく活動を続けられました。

私もこの偉大な師の志を継ぎ、
命の炎が尽きるまで
創作活動に打ち込んでゆきたいと願っています。

「5打席連続敬遠秘話」

月曜日, 9月 2nd, 2013
  山下 智茂(星稜高校野球部監督)

              『一流たちの金言』(致知出版社)より
           http://www.chichi.co.jp/news/3818.html

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(高校時代の松井秀喜選手はいかがでしたか?)

いまでも忘れられないのが、入学した日、
「おめでとう」と言って握手した時のことです。
手が象の皮膚のように硬くひび割れていたのです。

ちょっとやそっとの素振りではああはなりません。
こいつ、どんだけ練習してんのや、とこっちが驚くほどでした。

才能もあったけど、才能を生かすための努力を
怠りませんでした。
それにご両親もしっかりした方々で、
三年間で松井の両親と話したのは三回しかないんです。

まず入学に際して
「よろしくお願いします」。

ドラフトの時、
「先生、相談に乗ってやってください」。

そして卒業の時、
「三年間どうもありがとうございました」
の三回です。

野球部の中には

「監督さん、なぜうちの子を試合で使ってくれないの?」
「なんでうちの子ばかり叱られるの?」

と言ってこられる親御さんもいますが、
松井の両親は百%息子を信じ、
学校を信じてくださっていたから、
一切口出しはなさいませんでした。

(松井選手とはいまでも親交があると伺っています)

義理堅いから、こっちに帰ってくると
必ず挨拶に来るんです。
で、来るたびに僕が読んで
「いいな」と思った本を彼に渡しています。

彼は高校時代、電車で一時間かかる町から
通っていたのですが、行き帰りで本を読むように勧めました。

最初は野球が上手くなってほしいから
野球の本を読ませていましたが、
次第に『宮本武蔵』や『徳川家康』などの歴史小説を薦め、
最後は中国の歴史書とか哲学書を読ませました。
プラトンとかアリストテレスとか。

本を読めば知識が広がるだけじゃなくて、
集中力が高まるんです。
それは打席に立って発揮する集中力に繋がるんですね。

それに彼にはただのホームランバッターではなく、
王・長嶋に次ぐ本物のスターになってほしかったから、

「日本一のバッターを目指すなら心も日本一になれ」

といつも言っていました。

彼は最後の夏の甲子園で話題になったでしょう。

(5打席連続敬遠されても、
  平然と一塁に走っていった試合ですね)

実はあの前年、高校選抜で一緒に台湾に行ったんです。
現地の審判だから当然台湾びいきで、
顔の前を通ったような球もストライクにする。

松井は頭に来て、三振するとバットを地面に叩きつけたんです。
その時、

「おまえは日の丸をつけて来ているんだ。
 石川代表じゃない。球界最高のレベルを目指すなら、
 知徳体の揃った選手になれ」

と懇々と話をしました。

(先生のお話を翌年にはしっかりと理解されていたんですね)

ええ。彼がいた3年間は甲子園に連続出場できたし、
最後の国体では優勝もしました。
スケールの大きな夢を追いかけた楽しい3年間でした。