まほろばblog

Archive for the ‘震災 原発’ Category

【24時間・緊急署名】

月曜日, 10月 31st, 2011

私たちは、原発輸出を促進する日越合意に反対します

福島の原発事故は未だ収束せず、日本の大地、自然、海にいまも放射能物
物質が降り注いでいます。福島をはじめとして、多くの人達が、放射能汚染の
危機にさらされ、生活を破壊され、苦しんでいます。事故の原因さえ、究明さ
れていません。

そんな中、原発輸出をまた一歩前進させる日越政府合意が行われようとして
います。

現在、ベトナムでは、日本の税金によってニントゥアン省の原発建設に向け
た実行可能性調査が実施されています。しかしこの調査の結果は、ベトナム
の住民や日本の納税者に公開される保証もありません。

ベトナムの建設予定地は、風光明媚な自然が広がり、住民たちは漁業や農
業、観光などでくらしをたてています。原発建設はこのような住民の生活を脅
かすものです。

さらにひとたび事故が起これば、放射能汚染はタイ、カンボジア、ラオスなど
のベトナムの近隣国にも広がります。ベトナム政府は、自国民に対する説明
責任を果たしていないのと同様、これらの国々の住民にも一切の説明責任を
果たしていません。

私たち、経済産業省前に集った北海道から九州までの女たち、そして原発輸
出に懸念を有する市民たちは、日本政府の原発輸出に強く反対します。輸出
すべきは、福島の痛みによって得られた貴重な経験であり、断じて原発では
ありません。

以上を踏まえ、私たちは日越両政府に対して、以下を要請します。

・日本政府は、原発輸出を行わない方針を明確に打ち出すこと
・日本政府は、原発輸出に向け、これ以上無駄な税金を使わないこと
・日越両政府は、現在実施されている実行可能性調査を打ち切ること。
・日越両政府は、ベトナム国民、ベトナム近隣国の住民に対する説明責任を
果たすこと。

以上

呼びかけ団体:原発いらない全国の女たちアクション

ヘルプページ:   http://help.yahoo.co.jp/help/jp/groups/
グループページ: http://groups.yahoo.co.jp/group/datugenpatu-hokkaido/
グループ管理者: mailto:datugenpatu-hokkaido-owner@yahoogroups.jp

「日本人を見習いたい」 

金曜日, 10月 28th, 2011

被災者らが助け合い 略奪も発生せず

2011.10.26 09:55 [中東・アフリカ
25日、トルコ東部エルジシュで「日本人を見習いたい」と話すイザット・アカーンさん(共同)
(25日、トルコ東部エルジシュで「日本人を見習いたい」と話すイザット・アカーンさん(共同))

多数の死傷者を出したトルコ東部の地震被災地では避難生活を送る人々がお互いに助け合い、

落ち着いた行動を呼び掛け合っている。

「日本人を見習いたい」。

東日本大震災で注目された日本人の忍耐強さ、秩序を守る姿勢が教訓となっている。

 多くの建物が倒壊、損壊するなど大きな被害が出たエルジシュ。

千人を超す被災者がテント生活を送る競技場では、食料配給を求める人々が整然と列をつくっていた。

割り込む人はおらず、妊婦に先を譲る姿も。

物資が不足しているとされる被災地のワンでも商店で略奪などは発生していない。

 「昨晩、みんなで震災後の日本人の姿勢を見習わなければいけないと話していたんだ」。

25日午後、エルジシュの競技場で、一家7人でテント生活を強いられている被災者の一人、

イザット・アカーンさん(46)が打ち明けた。(共同)

「脱原発」が危ない!!

木曜日, 10月 20th, 2011

(まほろば扱い)

全国学校給食フォーラムin札幌

水曜日, 10月 19th, 2011

まほろばチケット扱い :  昼・夜・通し 三種アリ

泊 プルサーマル延期!

火曜日, 10月 18th, 2011

「泊原発 プルサーマル延期」の報道。

しかし、やらせ問題を一時沈静化する、一時凌ぎの策でしかない。

あれほど前代未聞の大惨事を受けたにも関わらず、

また原子村がうずうずと復興する動きが見れる昨今、

信じ難い光景でもあり、渡し難い日本である。

費やす論議も虚しく、被災者の悲嘆は報われない。

「脱原発!」女たちの会

金曜日, 10月 14th, 2011

<iframe width=”420″ height=”315″ src=”http://www.youtube.com/embed/5xdszFXI2J0” frameborder=”0″ allowfullscreen></iframe>

<iframe width=”420″ height=”315″ src=”http://www.youtube.com/embed/QSk-6Vf-Hsg” frameborder=”0″ allowfullscreen></iframe>

blind

土曜日, 9月 24th, 2011

<iframe width=”560″ height=”315″ src=”http://www.youtube.com/embed/E2SgonaD4U0” frameborder=”0″ allowfullscreen></iframe>

「誇り高き消防団」

木曜日, 9月 22nd, 2011

 

  津波が近づくなか、

  宮城県南三陸町防災対策庁舎2階にとどまり、

  防災無線を通じて町民に避難を呼びかけた

  遠藤未希さん一享年24一の語は涙を誘った。

  ただ、遠藤さんと交代して最後の最後まで

  避難を呼びかけた上司がいたことはあまり知られていない。

  同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(享年51)。

  「10mの津波が来ます。皆さん、逃げてください!」

  それが、母のすゑ子さん(75歳)が

  最後に聞いた息子の声だった。

「未希さんの懸命の声が途中で息子に代わり、

3度目の呼びかけの途中で

『ガガガッ』という雑音でかき消されました。

息子の声は呼びかけというより叫びに近かった。

あまりのショックで記憶が暖味ですが、

夫が『流された……。家族を守って流された……と言ったことだけ憶えています」

町民からは「毅さんの声を聞いて助かった。地域の英雄だ」

という感謝の声が多く寄せられた。

「それは、親として誇りに思います。

でも一方で、なんで逃げてくれなかったのか、

という無念が消えなくて……。

夫は常々、津波が来たらとにかく逃げろと息子に説いていました。

『誰も悪くねえ。逃げられなかったのが悪い。親の言うこときかねえで』

と憎まれ口を叩いて、私が泣いていると

『まだ泣いてんのか』と怒るけど……。

心の中では夫も泣いています」

わが子を失うという最大の悲しみを多くの人が味わった。

なかでも全校生徒の約7割の命が奪われた、

宮城県石巻市立大川小学校の悲劇は広く知られる。

震災後、東北各地では自衛隊に先がけて地元の消防団が救助と遺体捜索に当たった。

大川地区を担当する石巻市河北消防団第4分団の団員の多くは、

わが子を失った痛みに堪えながら活動した。

紫桃千聖ちゃん(当時5年生)の父親・紫桃隆洋一47歳)さんもそのひとりだ。

「娘は早い段階で遺体が上がりました。見つけてくれたのは地域の方。

団員のなかには自分の子を見つけた人もいます。

私だけでなく、自分の子が上がっても皆が捜索を続けました。

ここらには『子供は地域の子』という意識が残っているんです。

東北のあらゆる土地で、消防団員が必死に頑張った。

私は個人としてではなく、誇り高い消防団の一員として、

そのことを伝えておきたいと思います」

(週間現代8月20,27日号)

「津波てんでんこ」

木曜日, 9月 22nd, 2011

   三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」という言葉。

   津波に襲われたら、親兄弟も捨てて「てんでんに」逃げろ、

   それが命を守る方法だ、という意味だ。

 一族の全滅を避けるためには正しい教えだが、

  3月11日、この禁を破った英雄が東北にたくさんいる。

  新日鉄釜石に勤務する森闘志也(としや)さん(34歳)。

これまで取材をほとんど拒否していたのは、

「目の前にいたのに助けられなかった人もいるから」だった。

あの日、職場で被災した森さんも波にさらわれたが、

川のフェンスに引っかかって九死に一生を得た。

一度会社に戻ろうと周囲を見ると、茶色い濁流に車、船、家が流されている。

振り返った瞬問、漂流している男性の姿が見えた。

近くにあったロープを掴んで、森さんは駆けだした。

その姿を見た同僚は「森は死んだ」と思った。

「濁流を泳いで渡り、男性を助けようとすると、

近くの車に女性が3人閉じこめられていた。

ドアを開けようとしても水圧で開かない。

丸太でフロントガラスを叩いてもへこむだけで割れない。

車はガレキに引っかかって止まっているだけで、

いつ流されるかわからない状態でした」

極限状態で、森さんは自分でも信じられないパワーを発揮した。

一拳でサイドのガラスを割り、中から女性を引っ張り出しました。

出したはいいけど岸まで距離がある。

丸太にロープを結び、僕は岸に戻ってロープを引っ張って

丸太ごと女性3人をたぐり寄せました。

女性たちは、大学に入学したての娘さんと友人、

母親の3人ということでした」。

森さんはこの女性たちも含め10人近くの命を救った。

(週間現代8月20,27日号)

「被爆を乗り越えた二人の実例」

水曜日, 9月 21st, 2011

   既に語り尽くされているお二人の逸話、

   改めて、秋月辰一郎先生と平賀佐和子さんをご紹介して下さいます。  
       
            大場 淳二

                 (ワン・ピースフル・ワールド日本代表)
        
            『致知』2011年9月号
             連載「意見・判断」より

  ────────────────────────────────────

ご紹介したい記録があります。

私の小学、中学の同級生の欣二君のお兄さんで、
長崎で被爆された医師・秋月辰一郎先生が書かれた
『死の同心円』という本です。

「死の同心円」――。

被爆した人たちは、

「吐き気がする。身体がだるい。血便が出る。頭髪が抜ける。
  皮膚に斑点が出る。歯茎から血が出る」
 
と原爆症の症状を訴え始め次々と倒れていきました。
発症が、きょうは爆心地から半径五百メートルで被爆した人たち、
きょうは一キロの人たち、と同心円状に
広まっていった恐怖感を表した言葉です。

秋月先生が被爆したのは、爆心地から
一・四キロ離れた浦上病院でした。

いよいよ半径二キロ内で被爆した人たちが
次々と倒れていく中で、不思議なことに
秋月先生とそこで働く看護婦たちは原爆症にならなかったのです。

それはなぜか。

秋月先生には二つの原体験がありました。
一つは玄米菜食によって生来の病弱を克服したこと、
もう一つは長崎医大付属病院で
放射線教室に助手として勤務していたことです。

『死の同心円』によると、秋月先生はご自身も含め、
被爆した人たちが訴える症状がX線治療の後に
レントゲン取り扱いの技師たちが見せる
「レントゲン宿酔」という症状に類似していることに気づきます。

そして、その治療法は濃い食塩水を
飲ませることだったと想い起こしました。

「爆弾をうけた人には塩(注・精製されていないもの)がいい。
 玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。
 塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。
 そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかん」

秋月先生は、被爆した職員や周囲の人たちにこう指導した結果、
原爆症の発症を免れたのです。

そして先生は八十九歳で亡くなられるまで
医療活動や反核平和運動に献身的に従事されました。

ここで特筆すべきは、先生と職員の方々は玄米と塩、
味噌汁を原爆以前から積極的に食べていたということです。

        * *

もう一人、紹介したい方がいます。
私の親しい友人である平賀佐和子さんです。

彼女は広島の爆心直下で被爆、
顔は火傷で三倍ほどに腫れ上がりながら、
どうにか一命を取り留めました。

原爆の後、炊き出しでおにぎりが配られた時、
彼女は中の梅干しが食べたくて仕方がなく、
姉や妹、知人たちにもらってまで食べたといいます。

その後遺症から、顔はひどいケロイドで
体も丈夫ではなかった平賀さんは、
被爆から十五年後、陰陽を元にした
食養(マクロビオティック)の概念を提唱した
桜沢如一(ゆきかず)先生の講演会に行きました。

その時、桜沢先生は

「あなた、このままでは死んでしまいますよ。
 玄米食にしなさい」

と言われたそうです。
それから毎日玄米とごま塩だけで過ごしたところ、
体重はぐんと減りましたが、子宮から真っ黒い出血があり、
その後、スーッと体の調子がよくなって、
皮膚のケロイドもきれいになくなったといいます。

「こんな顔では結婚はできない」と思っていたそうですが、
その後平賀さんは結婚し、子供七人を産み育て、
現在は孫十四人という大家族に恵まれ元気に過ごしているのです。