まほろばblog

Archive for the ‘歴史’ Category

領土とは何か!

金曜日, 8月 17th, 2012

北方領土、竹島、尖閣諸島と軒並みに烈震している。

元々地は、神の物、天地の所有で誰彼のものではないだろう。

元始、人は定住せずに、狩猟なり、遊牧なりで、所有の概念がなかったはずだ。

みなの心は、天地と一体で、一切が己が体としていたのだろう。

農業革命により、人は定住して、貯蔵する術を知り、貧富上下と自他の別が生れた。

ここから戦いが始まり、領土を拡大して国家が開かれていった。

この対立概念が、何千年來、止む事なき人類の業となった。

冷静に、その初めを知り、これからの人類の歩みを再考することなしに、

根本解決の道は捜し得ないだろう。

極めて難しい課題だ。

激昂に激昂を対しては、止む時なし。

先ずは、知人からシェアされた動画を見ながら、歴史を知ることも必要であろう。

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若者よ、君たちが生きる今日という日は・・・・・・

水曜日, 8月 15th, 2012

   「若者よ、君たちが生きる今日という日は
           死んだ戦友たちが生きたかった未来だ

      八杉 康夫 (戦艦大和語り部)

        『致知』2006年7月号
           特集「人学ばざれば道を知らず」より
          

───────────────────────────────

  大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
 
  なおも攻撃が続けられ、
  魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
  次第に船は傾いていきます。

  砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
  25度、30度とどんどん傾いていきます。
 
  それでも、戦闘中は命令がない限り 
  持ち場を離れることはできません。
  その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
  軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
  これが事実上「逃げろ」という意味です。

  すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
  この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
  それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
 
  もう海に飛び込むしかない。
 
  そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
 

  私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
   自分の腹を掻っ捌いたのです。
 
  噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
  船はますます傾斜がきつくなっていきました。
  90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
  

  *********************************************
 

 飛び込んだのも束の間、
  沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。

  その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
 「生きるための数々の方策」です。

  海軍に入ってからというもの、
  私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。

  海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
  漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
  陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
 「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」
   などと言われたことは一度もありません。
 
  ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
 
  だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、
   実践しました。
 
  しかし、どんどん巻き込まれ、
  あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
 
 その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
  戦艦大和が大爆破したのです。
  そこで私の記憶はなくなりました。

  *********************************************

  気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。

  幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。

  しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
  重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
 「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
  なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
  この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。

  すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
 「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。

  そう思って身構える私に、彼は優しい声で
 「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
  自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
  そして、なおもこう言ったのです。

 「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

  4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
  川崎高射長はそれに背を向けて、
   大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
 
  高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
 
  大和を守れなかったという思いから、
   死を以て責任を取られたのでしょう。
 
  高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
   彼の命そのものだったのです。
 

      (中 略)

  
  昭和60年のことです。

  いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から
   喫茶店に呼び出されました。
 
  彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、
   こう言ったのです。

 「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

  驚いたなんていうものじゃありません。

  戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
  厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
  前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。
 
  念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
  手を合わせることができましたが、
  墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
  もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。

  その時私は50歳を超えていましたが、
  自分が31歳だった時を思い返すと
  ただただ恥ずかしい思いがしました。
  そして、不思議なことに、それまでの晴天が
  急に曇天となったかと思うと、
  突然の雷雨となり、
  まるで「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。
  
  天皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、
  そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
  不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
  そして、敗戦。
  
  そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
  17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。
 
  最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
  現在の学生の姿を見ると、
  明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。
 
  いや、生徒たちだけではない。
  間違った教育を受けた人が先生となり、
  親となって、地域社会を動かしているのです。 

  その元凶は昭和史を学ばないことに
   あるような気がしてなりません。
 
  自分の両親、祖父母、曾祖父母が
  どれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
  いくら石器時代を学んだところで、
   真の日本人にはなれるはずがない。

  現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
  学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
  真顔で聞き返すのですから。
  
  よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
  毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?
  確かに昔も殺しはありました。

  しかし、「殺してみたかった」などと、
  意味もなく殺すことは考えられませんでした。 
 
  真の平和とは、歴史から学び、
   つくり上げていくほかありません。

  鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば
  天から降ってくるものではないのです。

  しかし、一流の国立大学の大学院生ですら、
  「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」
  と平気で言います。
 
  ならば自分で学べと私は言いたい。
  自分で学び、考えることなしに、
  自分の生きる意味が分かるはずがないのです。
 
  人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
 
  大きくなくてもいいのです。
  小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
 
  戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
  いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。
 
  復員後、長く私の中に渦巻いていた
 「生き残ってしまった」という罪悪感。
  それはいま使命感へと変わりました。
 
  私の一生は私だけの人生ではなく、
  生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
 
  うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。

  未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
  真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
  いつか再び戦友たちに会った時、
 「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と
   胸を張りたいと思います。

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(八杉氏 講演会)

「母の諫死、師の警策」自然医学2012.9.

月曜日, 8月 13th, 2012

今朝、「森下自然医学」9月号が届きました。

開口一番、森下会長による「徐福伝説Ⅱ」の掲載。

卑弥呼の邪馬台国は、九州なりや、近畿なりやの論争未だ鳴り止まず。

その学説迷走する中、更に遡ること400年。

ましてや、その400年。

徐福の存在在りや無しやの論争は、伝説物語の彼方に葬り去られている。

もし、それが正論なれば、日本史を根底から書き換えねばならぬ大事(おおごと)が待っている。

これは、国史家が容易に認められぬ意味がある。

それは良いとして、すでに中国の史記を初めとする歴史書には、歴然とした記述がある。

『魏志倭人伝』もあの「三国志」にあるのに、いわんや正統史記に於いておや、である。

徐々に謎めいた霧が、森下博士によって、今それが晴れようとしている。

面白い!是非、必読のことを。

5月に訪問したルーカオ視察、長寿調査報告。

食べ物の機能値結果を公表。

いずれも高い数値が示されて、ルーカオの環境条件の高さを示している。

伝統的地方食を継承して、現代的出来合いの物を口にすることはない。

みな家族の手作りが、心身共に健康の源を形成するのであろう。

日本も、古来の原風景に帰る必要があろう。

今月の「倭詩/やまとうた」は、『母の諫死、師の警策』と題して、昭和の傑物「田中清玄」について。

コーボルトを扱っている磯深雪さんが、何と田中清玄さんの姪子さんにあたります。

訪問した際、山本玄峰老師から清玄に宛てた一筆の色紙『母』を譲り受けた。

物語は、そこから始まる。

驚くべき清玄の生き様と、死をもって子を諌めたその母アイの凄まじい愛。

その事実を知る時、日本の行くべき先を示されたように感じた。

モンゴル塩の故郷、ジランタイから

土曜日, 8月 11th, 2012

 

昨日の10日、モンゴル塩の故郷、内モンゴルの吉蘭泰(ジランタイ)から、

『蘭泰実業』社長はじめ幹部の方々が、木曽路物産のトヤさんの案内で、

北海道見学、まほろば視察にいらっしゃった。

はるか遠くの日本の涯で、自分達の産出した塩が、このように使われているのか、

という感激の面持ちで、店内を見回られた。

食されたソフトクリームやパンにも使用され、一層日本が近しく思われたことでしょう。

創業60年、木曾路さんとは15年のお付き合い。

10万tのほとんどが国内需要で、残りが日本と外モンゴル向けという。

意外にも、世界には行き渡っていなかった貴重なものなのだ。

最後に、2階の講話室をお貸ししている橋本東峰先生主催の「詩吟教室」を見学。

歓迎の合吟で、みなさまをお出迎え。

何というベストチャンス。

漢詩が、異国の日本でこのようにして歌われていたのか、と驚きの面持ち。

終えた後、感激のメッセージ。心は届いた模様。

これからも、文化に物に、交流を深めて、友好を図ってゆきたい。

 

唐 王之渙
    「  登 鸛 雀 樓 」


白日依山盡,
黄河入海流。
欲窮千里目,
更上一層樓。

******

鸛雀樓に 登る

                       
白日  山に依りて 盡き,
黄河  海に入りて 流る。
千里の目を  窮めんと 欲して,
更に上
(のぼ)る  一層の樓。

アイヌモシリ一万年祭 24”

金曜日, 8月 3rd, 2012

アシリ・レラさんから、「アイヌ・モシリ 1万年祭 24”」のご案内を頂きました。

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=3018

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=1316

https://www.mahoroba-jp.net/newblog/?p=3638

8月15日~20日の6日間、時間を見つけて、是非ご参加下さい。

大地の母ちゃん、待っていますよ!!!

((amoさんブログ、昨年の祭より)

アイヌモシリ一万年祭
期間 毎年8月15日~20日
 アイヌの儀式カムイノミは15日と20日の午前におこなわれる。
会場 北海道沙流郡(さるぐん)平取町(びらとりちょう)貫別(ぬきべつ)旭(あさひ)の森
入場料 2000円
持ち物 テント、寝袋、雨具、箸、コップなど。
募集 祭りの準備を手伝ってくれる方は何日か前にアシリ・レラ(山道康子)宅にきてください。
155-0101 北海道沙流郡平取町二風谷
行き方 JR苫小牧駅~(43分)日高本線富川下車~バスで(30分)二風谷アイヌ博物館前下車~売店などで道をたずね(徒歩3分)山道康子さんの家に着く。そこから会場の貫別旭まで車(23km)で連れていってくれます。
 車でいく人は会場の10km手前あたりから「1万年祭」という看板がたくさんあります。
 テントのない人は先着順で集合テントに泊まれます。食べ物は会場にいろいろあるので、炊事道具はいりません。
 毎年全国から1000人もの若者がテントをしょって集まってきます。巨大なたき火を囲みながら の飛び入り歓迎のライヴ、アイヌの歌や踊り、ユーカラ、伝統工芸のワークショップ、弓大会からパン食い競争まで盛りたくさん。

山道康子(アシリ・レラ)さん
 康子さんはアイヌの聖地、北海道二風谷で子どもたちにアイヌ語と伝統文化を伝える「山道アイヌ語学校」を主宰している。さまざまな事情で預けられた10人もの子どもたちの親代わりをしながら、平和運動をつづけている。
 オレの小説「風の子レラ」の主人公レラにいろいろな知恵を伝えるチュプばあちゃんは彼女がモデルだし、あとがきも書いてくれた。
 この物語自体康子さんとの出会いがなかったら生まれなかった。オレは毎年北海道の二風谷にかよい、康子さんからアイヌの知恵を教わってきた。アメリカインディアンのデニス・バンクス、アマゾンのパブロ・アマリンゴとともに、康子さんはオレの人生でもっとも影響を受けた偉大なるシャーマンだ。 山道康子さんの略歴
 1946年、苫小牧に近い鵡川に生まれる。
 うそのような実話だが、彼女が生まれたとき、家のかまどに雷が落ちた。驚いた父親はこう言った。「この子は大泥棒か偉人になるべ」と。
 中1のとき父を亡くし、18歳で結婚。
 19歳で長男、22歳で次男を出産。
 25歳のとき、夫を亡くす。夫は対向車をよけ、電柱に激突し、2ヶ月後に白血球が減り死んだ。
 民芸店を営むが、火事で大やけどを負ったり、交通事故で大けがをしたり、苦境はつづく。
 二風谷ダムが着工され、アイヌの大地を守るため反対運動をはじめる。
 さまざまな嫌がらせにもめげず、彼女のまわりにさまざまな人々が集まってくる。
 平成1年「アイヌモシリ1万年祭り」をはじめる。「誰のためでもない。自分のため、子どもたちのためにも地球をきれいにしてカムイにかえしてあげないとね。アイヌ・ネノアン・アイヌ(人間らしい、人間)でありますように。 アイヌとは人間という意味です」
                 アシリ・レラ(山道康子)

日本再生の一翼を、詩吟で・・・・

木曜日, 6月 28th, 2012

この一コマ、誠に私的なことで、表に出すべきでないと思っていたが、そうでもなくなってきたので一言。

これは、昨年よんどころない理由で詩吟を始めざるを得なくなった私。

1年を過ぎた頃から、前の厚別店長の合田さん(左はし)に勧めると、奥様が諸手を挙げて大賛成で入会。

今年、一緒に賢治の「雨ニモマケズ・・・・」を合吟。

それと、数ヶ月前、これも5年ほど詩吟を学んでいた登別のアイ企画の野崎さんがヒョンなことで入会。

今、橋本宗家の素晴らしさに惹かれて、ご一緒することになった(右から3人目)。

常に、彼は日本の今ある姿を憂い、何とかせねばと奔走している。

その一つが、日本の情操を復古することでもある。

その最も相応しい手だてとして、詩吟を選ばれていた。

私のように、いやいや始めたのとは訳が違い、そこには志がある。

最近、自然医学の連載『倭詩/やまとうた』が始まったので、これは必然の流れなのかもしれない。

今日めったなことで、日本古来の和歌や中国古典の漢詩なぞには、お目にかからないばかりか、

声に出すなど、一生にあるかないの人も多かろうと思う。

今日、日本が疲弊した原因の一つが、かような日本的情操を涵養する場を失ったからだ、と確信する。

それを取り戻す実践の場としても、詩吟は手近に身に付ける良き方法ではなかろうか。

その当日、初対面であったが、今日初めて素性を知ったのが、

アイヌや道内の風景写真家で著名な、最近入会された平島邦生さん(左2番目)。

その奇遇に驚くのだが、それはまた後述しよう。

若い層が欠落して、後代を憂うるのであるが、もし志願者あれば、

大いに歓び、共に日本再生の一隅を照らしたいと思うのだが、如何に。

http://homepage2.nifty.com/SHIGIN/index.html

自然医学「唐紅のはな、白菊のはな」

土曜日, 6月 16th, 2012

今朝、「森下自然医学7月号」が届いた。

すると、早速あの小泉武夫先生からお電話を頂いた。

「よく、会津の精神、真髄を書いてくれた。

私は、小さい頃から、白虎隊や只三郎のことを聞かされて来た。

早乙女貢の『会津士魂』にも、こういうことは書かれていなかった・・・・・」

と熱っぽく語られ、お褒めに預かったのだ。

7月号は「唐紅のはな、白菊のはな」と題して、

坂本龍馬の暗殺者、会津藩「見廻組」の佐々木只三郎について書いたのだった。

私は、二人の至誠の迸る真情というものは、敵味方の愛憎を超えていると感じた。

歴史音痴、幕末音痴の何も知らない私が綴れたのは、二人の本質が見えたからではなかろうか。

とまれ、知らない方には、新事実。

驚かれることと思う。

どうぞ、ご一読のほどを。

(まほろば扱い ¥472)

愛を生きる『レラ母ちゃん』魂の声

月曜日, 5月 14th, 2012

13日、Lプラザで「愛を生きる『レラ母ちゃん』魂の声」が開かれた。
山道アシリ・レラさんのユーからの語りをしみじみと聴く貴重なる機会だった。
平取町二風谷で山道『職業訓練校』、「アイヌ文化と歴史の会」、「沙流川を守る会」などを主宰し、
アイヌの復権と文化伝承に献身されておられる。
既に、全国的にも名を馳せ、レラさんファンがこんなにも多くいるのかと、満席の会場に感動。

当日、この会のため全力を尽くして頑張った大井ワコチャンに大拍手!!
彼女は、世界を股に、異民族の共有の精神を宿している得難い存在で、会場では光り輝いていた。
まるで、水を得た魚のように、みんなを引っ張っていく牽引力には驚いた。
また、会場を無償で提供してくださったエレガントな緒方紀子さんには、感謝するばかり。

レラさんは、ビックマザーと言われるように、どっしりとした、しかも懐かしいかあさんに、
私も子供の頃のふるさとの毎日が思い出される。
漁川という川べりで生を受けたのだが、そこは「鮭のとれる所」というアイヌ語で、
むかし、アイヌコタンのあったところだ。
そんな、言わなくても、共有の大地に生活する者が感ずる自然や家族の絆が、
レラさんと接していると感じられ、思い出されるのだ。

「ユーカラ」の語りに、作為なき民族の失われてゆく言葉の原形や発想に、
今となっては悲しみを覚える。
この命のリレーは、語りのリレーでなくてはいけない。
これを伝承することが、アイヌの魂を継承することでもある。

私は、民族は言葉であると思っている。
言葉を失った時、その国は滅びる。
日本も、本来の大和言葉を失いつつある。
日本の危機である。
アイヌとて同じかもしれない。
アイヌ語の復活と文化の伝承を望みたい。
だが、会場の至る所には、アイヌ文化を象徴する様々な工芸品等が、
若人らの手によって、作られ売られている現場を見て、胸をなでおろしたのだ。

次なるレラさんの再演と次なるレラ二世の語りを聴いてみたいものだ。

ダラス発、高松さんの心情

火曜日, 5月 8th, 2012

ダラスに東洋治療師として長年滞在されている、

昨年ご一家で来札された高松文三さんから

シリーズ『東洋医学の観方』が、送られてきた。

そこには異国の地にありながら、憂国の士、愛国の民としての

日本を想う心情と真情を吐露されていた。

米中のはざまの中で、未だに自立できない祖国日本。

歯がゆい思いで、今の日本が映るのであろう。

今こそ、真の日本の歴史を知り、それを伝えるべき時である。

「主権回復記念日に思う」

                  高松 文三

 

今回はあまり医療とは関係のないこと。

だが最近気になっていることを書く。

もうすぐ十六歳になる長女はテキサス生まれの

テキサス育ちだが、やはり日本人としての自覚が強いようで、

現地校でこんなことがあった。

 

歴史の授業で担当の先生が、日中戦争において

日本軍が南京で虐殺や強姦を万単位でやらかしたというのである。

娘は先生に「それは事実に反する」と抗議したそうである。

昭和十二年(一九一二七年)十二月、

日本軍が中華民国(当時)の首都南京を攻略した際、

虐殺、強姦、強奪の限りを尽くし、

その犠牲者は三十万人(中国側の主張)にものぼるというのが、

いわゆる「南京事件」である。

 

これは、中国共産党の作り話で事実無根、

歴史上最大の冤罪の一つと言っていい。

結局、問題がいつまでたっても収まらないのは、

日本の指導者層の歴史認識不足と、事なかれ主義、

本当に国を守りたいという気概の欠如のせいである。

国のために死んで行った二百万の英霊の名誉を傷つけても

何とも思わない無神経さも付け加えていいだろう。

 

いわゆる「南京事件」というのは、

東京裁判で取り上げられるまで誰も聞いたことがなかった。

当然である、そんな事件はなかったのだから。

ところが中国側にとっては反日意識を煽っておけば、

人民の不満の矛先を日本に向けることが出来るし、

好都合なことに日本国内にも力強い協力者がいるので

(朝日新聞、NHKなど)、非常に利用価値の高い外交カードなのである。

 

アメリカは日本に対して人類史未曾有の殺人兵器を

人体実験したという負い目があるので、

この点では米中の利害が見事に一致する。

日本は戦時中、こんなひどいことをしたのだということになれば、

それだけ原爆投下が正当化出来る訳だ。

 

共同でドイツのホロコーストに匹敵するような事件をでっち上げた。

そして、勝者が敗者を、しかも事後法で裁くという、

凡そ裁判などとは呼べない代物で、日本を不当に糾弾した。

誰が考えてもおかしなことだが、

七年に及ぶGHQの日本骨抜き作戦(公職追放、徹底した言語統制、

マスメディアを使っての洗脳教膏等)で、

日本人は見事にアメリカや中国の思惑通りの、

骨なし人間にされてしまった。

骨なしならまだしも、GHQの指令の下につくられた日教組による

反日教育によりまるで愛国心のない国民がそれ以後、量産されたのである。

 

奇しくもこの四月二十八日は、サンフランシスコ平和条約が発効して六十年、

日本がGHQの占領から解放されてやっと主権を回復した記念日である。

ところが日本は未だに主権国と言えるのかはなはだ疑問だ。

占領下に占領国によって作られた憲法を未だに押し頂いている。

自分の国を自分で守れないどころか、自国民が拉致されても、

それに対して何も出来ない。

 

一国の首相が戦争で亡くなった人たちの霊を弔うという当たり前の行為に

なぜか他国から干渉を受ける。

自国の教科書さえ他国(中国、韓国)の顔色を窺いながら作成するという有様だ。

中学の歴史教科書を見たが、そのひどさに呆れてしまった。

こんな教科書を使って、子供達が日本という国に誇りが持てるわけがない。

日本は戦時中周辺諸国に対して負の遺産しか残してこなかったような

ことばかり書いてある。

 

そうじゃないだろう。

日本に感謝している人たちはたくさんいる。

だいたい日本があそこで立ち上がらなかったら、

アジア諸国は未だに白人の植民地になっている可能性が十分にある。

ここが一番肝心な所だ。

ここを外したら、歴史を学ぶ価値がないとさえ思う。

少なくとも自分の子供達にはこのことはしっかりと伝えていきたい。

 

米中韓の子女のために書かれた教科書が目立つ中、

今年に入って朗報があった。

マッカーサーが、日本が対米戦争に踏み切った理由を

「自衛のためであった」と、東京裁判を否定する証言を一九五一年に

米上院軍事外交合同委員会で述べた事実は余り知られていない。

それが今年、東京都立高校独自の地理歴史教材

「江戸から東京へ」で掲載されることになった。

 

一部のまともな日本人の努カの成果を見た気がする。

韓国の反日活動も激しさを増していて、

韓国にある日本大使館の前に「従軍慰安婦の像」を

建てて嫌がらせをしていることは周知の事実だが、

アメリカ国内でも二十カ所にその碑を建てる予定だという。

このダラスの地にも来る可能性がある。

 

実は、ニュージャージー州パリセイズ・パーク市の

公共図書館敷地内には既に建立されていて、

近隣の日本人やその子弟は嫌な思いをし、

それがもとで、いじめの対象にさえなっているという。

いわゆる「従軍慰安婦」の強制連行そのものが虚構である上に、

昭和四十年(一九六五年)に締結された日韓基本条約で

こういった件はすべて解決済みであるはずなのに、

未だにこういう問題が起こるのは日本が

主権国家として毅然とした態度を見せず、

適当に謝ったり、ごねられる度に金をばらまいてきたからだ。

 

早い話が日本は未だに主権国家とは呼べないのである。

娘は、現地校の歴史の授業で先生がスライドを使って

南京事件を解説するのを聞いていて、

「日本人の名誉を傷つけられて、メッチャ腹が立った」そうである。

これは、日本人としてごくごく当たり前の祖国愛の発露ではないか。

スポーツ競技場でしか芽生えない祖国愛というのは余りにも情けない。

 

娘に対して先生は

「それはホロコーストは無かった、といってるようなものだよ」

と返したそうだ。

娘もそれ以上何も言わなかったらしいが、

言うべきこと言っただけでもたいしたものだ。

先生に抗議した娘の勇気を大いに褒めてあげたい。

 

祖国日本には、子供達が胸を張って誇れるような主権国家としての

体裁を一日も早く整えて欲しいと一国民として切に願う。

醗酵とは情緒なり・・・・THD講演会

水曜日, 4月 4th, 2012

土日の31,1日、大阪と東京でTHDさん主催の講演会を無事終えました。

当日、寺田当主の都合で、婿さんの優専務さんが代役、見事に責を果たし、

24代も頼もしく、将来も安定ですね。

1時間の講演予定が、倍に急遽変更、ゆっくり唄も交えながら、お話しすることが出来ました。

日本の良さを、若い方々にお伝えしたいと思い、色々な角度から説いてみました。

醗酵王国は、心の醗酵文化でもあったのですね。

何時かまた、この内容をお伝えする機会があればと思います。

この日に用意した「へうげ味噌」や、新発売の「なごみしお麹」も、あっという間に完売。

今、へうげ味噌を5tを仕込んで、年間供給できるようにしました。

「なごみしお麹」もTHDさんでは、7月頃から再販されます。

お楽しみに。