まほろばblog

Archive for 10月 1st, 2011

『生き方の流儀』

土曜日, 10月 1st, 2011

   藤尾 秀昭 「小さな人生論」

・・・・・・・・・・・「運」についての話。

米長先生は最後にこのテーマに言及され、
ねたむ、そねむ、にくむ、ひがむ、うらむ。
 そういう気持ちを持っている人に運はついてこない。
 そういう人は運命の女神から見放される
と締めくくられました。

渡部昇一先生は「惜福(せきふく) 」の話をされました。
これは自分に舞い込んできた幸福を惜しむということ。
自分に舞い込んできた幸福を使い切らないで
大事に一部とっておく。
そういう心がけの人に運命の女神は微笑む――ということです。

まさに、その通りだと思います。
両先生の話に首肯(しゅこう)しながら、
私はその時、道元の言葉を思い出していました。

古人云(いわ)く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。
 よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり

昔の人は霧の中を歩いていると
知らないうちに衣がしめるといっている。
それと同じように、よき人のそばにいると、
知らないうちに、自分もよき人になっている、
ということです。

道元のこの言葉は
実は運をよくする神髄(しんずい)を
教えているのではないかと思います。

どんなに才能のある人でも
悪い人の中に交わっていては
運をよくすることはできません。

よき人に交わり、よき言葉、よき教えにふれていくことこそ、
運をよくする根元であろうと思うのです。

安岡正篤師の言葉があります。

人間はできるだけ早くから、
 良き師、良き友を持ち、良き書を読み、
 ひそかに自ら省み、自ら修めることである。
 人生は心がけと努力次第である

「どのくらい我慢すればいいですか?」

土曜日, 10月 1st, 2011

       
       
            鍵山 秀三郎 (イエローハット相談役)
        
            『致知』1999年8月号
             特集「節から芽が出る」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。

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叩かれ、踏みつけられた思いは私にもありますが、
私の場合はどんなことでも
割合簡単に譲るようにしてきました。

人が一歩踏み込んできたら「いいですよ」と引く。
すると相手は甘く見てどんどん踏み込んできますが、
私はどんどん引く。

しかしそれがある一線に達して、
私が「ほい、待った」と言ったときは
もう一歩も譲りません。

一歩も譲らないのは私個人の利害からではありません。
これを譲ったら社員が幸せにならないとか、
社会が良くならない、あるいは相手にもよくないと思ったら
絶対に譲りません。

量販店との取り引きをやめたのもそうですが、
相手が暴力団でも譲らずにやってきました。

大勢のやくざに一昼夜以上監禁されて
「金額が記入していない白地小切手を会社から届けさせろ」
と脅されたこともありました。

小切手にどれほどの金額を書き込まれるかわかりませんから、
断じて譲りませんでした。

そのときは着ている洋服をカミソリでずたずたに切られて
家に戻ったものです。

中国の言葉に

「睡面自乾(すいめんじかん)」

というのがあります。
喧嘩がめっぽう強い青年に、村の長老が

「世の中には強い人間がたくさんいるから、
 これからは我慢して喧嘩はするな」

と諭しました。

「どのくらい我慢すればいいですか」

と尋ねた青年に、

「たとえ顔につばきを引っかけられても我慢する。
 それも拭ったりせず、自然と乾くまでほっておけ」

と長老は答えました。それがこの四文字の意味です。

私は喧嘩が強いというわけではないですが、
人生において何度も、この言葉を思い出して我慢をしてきました。

仕事も人生も大切なことは、
「いかに将来良いことを、いまやるか」
ということに尽きます。

歴史を見ましても、人間、企業、国家が
いま良くて将来も良かったということはありません。
いまが悪くて将来良くなる、あるいは、
いまが良くて将来悪くなるというのが
歴史を見てわかる方程式です。

ところが、日本ではいま、
良いことばっかりを狙っていますから、
これでは将来は悪くなるばかりです。

そうではなく、いまは苦しくても
将来良くなるであろうことを願ってやっていく。

これが人生にも仕事にも共通する
大事な心構えだと思います。