まほろばblog

Archive for 11月, 2011

「孔子の人間学」より

月曜日, 11月 7th, 2011

●北尾吉孝(SBIホールディングスCEO)
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  「徳は孤ならず。必ず隣あり」
   あらゆる事業は自分一人でできるわけではなく、
   その人のもとに様々な人の力が加わって結実する。

   徳を持っていることがそのための大きな原動力となることを、
   私は『論語』を通じて学んだ。
 
  

  
●瀬戸謙介(空手とともに『論語』の指導を行う瀬戸塾塾長)
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   教育はレベルを落としてはいけないんです。
   子供を子供扱いすると必ず見抜きます。
   自分たちを一人前に扱ってくれているんだという思いがあると、
   子供のほうも頑張るんですよ。

●阿部一郎(福島の桃源郷といわれる「花見山公園」所有主)
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   私は畑が自分の勉強の場だと思っています。
   二宮金次郎さんは
  「音もなく香もなく常に天地はかかざる経を繰りかへしつつ」
   と歌っているでしょう。

   自然は書かざる経を繰り返しているんですよ。
   そこに私は学んでいるんです。

●桜井章一(二十年間無敗の伝説を持つ“雀鬼”)
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   準備、実行、後始末

「自分を待ってくれている人たち」

日曜日, 11月 6th, 2011

        
       
      佐伯 輝子

      (寿町勤労者福祉協会診療所長、医学博士)

        
     『致知』2006年2月号より

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「五年も前から先生を探してるんですが、
 一向に決まらなくて困ってるんです」

自宅の医院と市内の診療所を掛け持ちし、
多忙な日々を送っていた私の元へ横浜市から
電話があったのは二十五年前。

五十歳を目前にした日のことでした。

現在、日本の三大ドヤ街の一つとして知られる
寿町(ことぶきちょう)も、当時は世間に知られておらず、
私自身もそこがどんな町であるか、見当もつきませんでした。

実際、それまでも何人かの先生に依頼したそうですが、
駅を降り、診療所に行き着くまでに誰もが引き返してしまう、
それほど異様な雰囲気の町だというのです。

夫は

「そんな危ない場所へ女が行くことはない」


断固として反対。それでも市と医師会からは

「何とか一年だけでもお願いします」

とたびたび電話がかかってきます。
そんな時、私たち夫婦の会話を
そばで聞いていた息子がこう言いました。

「ママを待ってくれている人がいる限り、
  それを断っちゃいけないんじゃない?」

てっきり反対されるものと思っていた
息子の一言には驚きましたが、
あれだけ反対していた主人までが
「それじゃあやってみるか」と言い出したのです。

この時、女学校時代に担任の先生から聞いた

「いいかい、人間の意見は二人は複数じゃないの。
 三人以上の意見があって
 それがまとまった時にうまくいくのよ」
 
 
という言葉を何十年も経ってから実感しました。

初めての診察日、自動車で診療所前まで来ると、
木立ちで用を足している男性がいます。
仕方なく車の中で待っていると、
私の気配に気付いた彼が逆上し、
車におしっこを撒き散らしてきたのです。

木で車体を叩きつけられ、
怒鳴り散らしながら去っていった姿を見ながら、
これは大変な所へ来たと思いました。

診察に訪れる方は、泥だらけだったり、シラミがいたり、
下着も穿いていない、健康保険に入れない方など様々です。

しばらくすると、当初二十名程度の見込みだった患者数が
連日倍の数、多い時で九十名を超え、
待合室の廊下には人が溢れました。

「うるせぇ」「てめぇ、このヤロー」といった怒号が
わんわん飛び交い、落ち着いて診察もできません。

一度、待ち時間の長いことに腹を立てた男性が、
刃物を忍ばせて私に襲いかかってきたこともあり、
その後しばらくは恐怖心が拭えませんでした。

患者に首を絞められ、危うく死にそうになったこともあります。
入り口付近にいた男性が近づいてきて、
肩をつかまれたかと思うと「久々に女に触れた」という興奮からか、
私の首を絞めたまま痙攣状態になり、激しく震え出したのです。

専任のガードマンと職員が四人がかりで引き離してくれましたが、
腰が抜け、どっとその場にへたれ込んでしまいました。
私は寿町で死んでしまうかもしれない。
その思いはいまでもあります。

当時、診療所に訪れる人たちの中には、
逃亡中の身の上や、家を出て行方知らずになっている人も
珍しくありませんでした。

住人たちは寿町に身を潜めるように暮らしていましたが、
それでは悪の温床になってしまう、
なるべく明るみに出したほうがよいと思い、
講演活動などの際に、私はこの町の存在を
勇気を出して話してきました。

ただ、初めの頃は、皆のために
ここへ来たと思っていた私ですが、
いまになって、自分のためにここへ来たんだなと
思うことが少なくありません。

いまから十五年前、診療所での活動を評価され、
吉川英治文化賞の受賞が決まった前の晩のことです。
馴染みの患者から自宅に電話がかかってきました。

「先生、いつも賞を受ける時、私一人の力じゃありません。
 スタッフ皆でいただいた賞です、って言うだろ。
 分かんねぇのかよ。
 俺たちもいままで“協力”してきたんだぜぇ」

確かに医者とスタッフだけいても仕事にならない。
患者さんも含めての受賞。
二十代からずっと医療に携わってきた私も
この言葉には目から鱗が落ちる思いでした。

診察をする上で、私は患者の方と目線を合わせる、
ということを常に心がけています。

だから「どこが悪いの」ではなしに、
「きょうはどうしたの」と尋ねる。

具合が悪いと聞けば、

「私は医者でたまたま治し方を知っている。
 だから一緒に治してみる?」
 

と持ちかけます。そして時には、
一人の人間として声を荒げることもあります。

ある日、「ビール瓶で怪我をした」という男性が
診察室にやってきました。

巻かれてあったタオルを取ると、薬指はブラブラで、
皮一枚でついています。隣の小指はすでにありません。
すぐに手術をしようという私に、男性は

「指なんていらねぇから取ってくれ。
 男の約束は、女には分かんねぇんだよ」
 
 
と言ってふてくされています。私はこう言いました。

「お母さんがあんたを産んだ時に、
 この指がなくてもいいと思ったと思うの。
 五体満足で生まれてくれて、あぁよかったと思うのが
 女が赤ん坊を産んだ時の気持ちなんだよ。
 
 それを尊重せずに自分だけの命だ、
 指なんていらないなんて言ったら、
 金輪際、女である私が許さないよ」

手術台のベッドで大泣きし始めた男性は、後日
「人に初めて怒ってもらえて、すごく嬉しかったんだ」
と教えてくれました。

休診の張り紙を出すと、いくら理由を言っても
「先生、やめるんじゃないだろうな」
「先生やめたら俺たち死んじゃうよ」と、
駄々っ子のようにごねる寿町の住人たち。

自分を待っている人がいる限り、
それを断ってはいけない――
二十五年前、息子から言われた言葉を噛み締めながら、
この生かされし命の使い道を考えるきょうこの頃です。

洋子オーナー生出演in三角山放送局 

土曜日, 11月 5th, 2011

 「まほろば自然農園」社長、宮下洋子が11月1日、三角山放送局に生出演しました。
(USTREAMで動画ですが、声が出ない時は、音楽が流れている無声状態です。)

しばし、お聞き下さいね。

農園を一人で始めた15年ほど前の若き日(?!)の洋子さん)

「安田善次郎が貫いた人生信条」

土曜日, 11月 5th, 2011

            
       
  安田 弘 (安田不動産顧問)
        
      『致知』2009年4月号
      特集「いまをどう生きるのか」より
            

                  ※肩書きは掲載当時です。

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(曾祖父の)安田善次郎は生前、処世に関する
様々な本を書いています。
その中で彼は、自分がお金持ちになれた理由を
次のように述べています。

どんな仕事をするにせよ、自分でこうしようと決めたことを、
コツコツコツコツやっていく、
その「意志の力」ほど大切なものはないのだ、と。

本当は誰にでもできることなのに、意志の力が弱いために、
途中で迷ったり、せっかく貯めようとしていたお金を無駄遣いして、
結局目的を達せられずに終わってしまう。

毎日毎日自分で決めたことをしっかりと積み重ねていけば、
凡夫でも必ずお金持ちになれる。
驚くような仕掛けも何もない。

一歩一歩、目標に向かって着実に歩んでいくのが
最も大切なことなのだと。

また善次郎は、巨万の富を築いた後も
「勤倹貯蓄」の精神を貫いた人でした。
私が生まれたのは、曾祖父の死から十二年後のことですが、
安田家の食事は一汁一菜の非常に質素なものでした。

何にせよ、贅沢をしてはいけないという考え方で、
衣服にしても、善次郎はいつも
木綿の粗末な着物を着ていたそうです。

旅行をしていると
「へぇ、あの人が有名な大金持ちの安田善次郎さんかぁ…」
と皆から驚かれたと聞いています。

要するに、お金持ちになるには
一歩一歩堅実に歩んでいく以外にはないこと、
また無駄なことにお金を使っていては
いけないということでしょう。

そうやって善次郎は江戸へ出てきてから
僅か七、八年の間に定めた目標どおり
「千両分限者」になったのです。

また善次郎は、二十七歳で独立をするにあたり、
次の三つの誓いを自らに立てています。

「一、独力独行で世を渡る。女遊びをせず一所懸命に働く」

「二、嘘をいわず、正直に道を踏む。
   どんな誘惑があっても決して横道に逸れない」

「三、生活費は収入の八割以内にし、二割は貯蓄する、
   住居のために財産の一割以上の支出はしない」

ある日善次郎が町を歩いていると、
非常によい物件が見つかりました。
地主にいくらかと尋ねると、
いまの資産の一割以上オーバーしている。

その時、彼はその家が欲しくて堪らなかったにもかかわらず、
自分で誓いを立てた以上は破るわけには
いかないとして購入を諦めるのです。

しかしその二年後にまた同じ場所へ行ってみると、
幸運にも家は売れずに残っていた。

その頃にはすでに家を買っても資産の一割以内で
収まるほどに儲けていたため、
ここで初めて善次郎は購入しようと決めたのです。

普通であれば
「一割を少し超えてしまうけれども、まぁいいか」などと
考えてしまいそうなものですが、
善次郎はそうしたことを絶対にしない人でした。
これも彼の持つ、意志の力といえるでしょう。

        (中略)

善次郎は最晩年
「この二十年間守り通した処世の信条は?」という
雑誌社の質問に対し、

「勤倹、克己、一にもってこれを貫く」、

また別のところで

「人生は克己の二字にある。
 これを実行するところに成功があり、
 これを忘れるところに失敗がある」

 
 
と答えています。

現代人には、自分のいまあるがままの姿を
認めてもらいたいといった風潮が見受けられますが、
立派な人間になったり、成功したりするためには、
自分に打ち克つという意志の力を
持たなければいけないということを、
善次郎の生き方は立証していると思います。

地球村通信 GNHとTPP

金曜日, 11月 4th, 2011

 11月号の「地球村通信」は、ブータン報告とGNH。

GNP(国民総生産)よりGNH(国民総幸福)を選ぶブータン。

果たしてあなたは・・・・・。

そして、今物議を醸すTPP問題。

あなたは、どちらを選ぶか・・・・・・。

民(タミィ)さんの・・・・

金曜日, 11月 4th, 2011

養護学校祭!!

金曜日, 11月 4th, 2011

 

11月17、18日に、手稲にある

北海道高等養護学校の学校祭が開かれます。

テーマは「ドリームフューチャー ~希望に向かって飛び立とう~」

みなそれぞれに木工、園芸、農業、陶芸などなどに頑張って、

社会に問いかけをしています。その応答があれば、嬉しいです。

この10月の1週間、西村和優君が、まほろば本店で実習しました。

バックヤード、ソフテリア、農園と新しい体験に刺激を受けたようです。

ハニカミヤさんの彼が、最後には明るい笑顔で戻りました。

まほろばでの経験が、よい実を結びますように・・・・・・・。

西村君の仲間たちが、日々の活動の成果を問うバザー、

是非、近隣関係者の方々はお誘い合わせの上、ご参加されてください。

学校祭リーフレット表側

学校祭リーフレット裏側

新月の木のはなし

金曜日, 11月 4th, 2011

NPO「新月の木国際協会」が2011年の研究発表会を行います。

物の本質を踏まえた品質を如何に見抜き、

それが月のリズムとどのように関わっているか、の研究発表会を行います。

豊かな森林が稲田を生かすー実践編を厚真で20haをやっている本田さんが、

講演してくれます。本田さんは、自分の森林を管理しながら、稲作に役立てています。

サホロリゾートで、高原の木々を見ながらの懇談会となります。

どうぞ、ご参集ください。

                                  宮嶋 望

 

放蕩息子

木曜日, 11月 3rd, 2011

今朝の朝日新聞に、京都の柿本商事さんが全国に募る「恋文大賞」が掲載された。

その初めに「決意の日」と題した札幌の角谷さんの文・・・・身に詰まされた。

聖書や法華経にある「放蕩息子」を思い出したからだ。

行った子は、何時かわが許に戻る、その悲哀が綴られている。

心当たりの方も多かろうと思う。

実は、宗教説話は、深い意味を秘めている。

阿弥陀如来や天の父から離れた衆生を親子関係と見る。

現代では、宇宙や自然から離れた私達人類は、親心子知らずで、

自然を傷付け、兄弟争いに明け暮れて、一向に親の愛に気付かない。

そろそろ、路頭に迷う我ら放蕩息子は、親孝行の時を知るべきと思うのだ。

 「成長の種はコミュニケーション」

木曜日, 11月 3rd, 2011

       
       
   石渡 美奈 (ホッピービバレッジ取締役副社長)

        
     『致知』2007年11月号より

       ※肩書きは掲載当時です

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東京赤坂で祖父がラムネの製造を始め、
第二次世界大戦後に「ホッピー」が誕生したのが
昭和二十三年のこと。

以来、祖父、父と受け継がれてきた
ホッピービバレッジの三代目となるべく、
全国を東奔西走する毎日を送っています。

ホッピーは、麦芽を使った低アルコール飲料として、
サラリーマンを中心に多くの方々に親しまれてきました。

現在私は副社長として雑誌やラジオなどに出演させていただいたり、
インターネットで日記を公開したりして、
ホッピーを広くご紹介しています。

おかげさまで平成十四年に八億円弱だった年商を、
五年間で三倍の約二十三億円まで伸ばすことができました。

ホッピーに入社するまで、私はいわゆるのん気なお嬢様でした。
一人娘で経済的に恵まれた環境に育ち、
大学卒業後、結婚までの腰掛けのつもりで大手企業に入社。

三年後に無事寿退社しますが、
「ホッピーの跡取りを見つけるため」という動機での
結婚はうまくいくはずもなく、半年で離婚。
その時初めて、自分の人生について真剣に考えました。

これからどう生きていこうかと暗中模索し、
最後にたどり着いたのがホッピーでした。

反対する父を一年がかりで説得し、
いざ入社してみると思いがけない試練の連続でした。

入社当時、社内は派閥争いで真っ二つに分かれていました。
社員の意識はバラバラでやる気が感じられません。

後輩に仕事をとられることを恐れた上司が部下に仕事を教えず、
いつまでたっても若手が育ちませんでした。
さらに赤坂にある本社と調布の製造工場とは交流がほとんどなく、
組織全体に情報が行き届かず、
血が通っていないという壊死寸前の状態です。

希望と期待をもって入社したものの、
旧態依然とした社内で思うように動けない鬱憤から、
私は次第に青年会議所の活動に没頭していきました。

平成十五年の取締役副社長就任時、
父である社長から実質の経営を任されました。
実践的経営セミナーで定評のある小山昇氏に
出会ったのはそんな時です。

たまたま出かけた講演会で小山さんの話を聞き、
「この人だ」とすぐにぴんときました。
繰り返し勉強会に参加し、社内改革のために
その教えを会社に取り入れていきました。

早朝勉強会を始めたり、ボイスメールという
新しい手段を使って社内の連絡を密にしたりと
様々なことを試してきましたが、
一向に効果は上がりません。

後で気づいたのですが、十分な説明もないまま
小山さんからの教えを急進的に取り入れたことで
社員たちは動揺し、次第に社内の雰囲気は
険悪になっていったのです。

「大事な話があります」

嫌な予感は的中しました。
神妙な面持ちでやってきた工場長と社員二人の胸ポケットには、
「辞表」と書かれた白い封筒が入っていました。
聞けば、工場で働く社員全員が辞意を表しているといいます。

私は頭の中が真っ白になりました。

すがるような思いで小山さんに連絡すると、
すぐに駆けつけてくださり、
工場長に向かってこう切り出されました。

「工場長、この子がいきなり始めたことについていけず、
 反旗を翻したあなたが正しい」
 
 
私はこの言葉に耳を疑いました。

さらに小山さんは父に

「社長、この子はまだひよっ子だから、
 手は離してもいいけど目は離さないでください。
 でも一番悪いのはこの子に様々なことを教えた
 この私なんです」
 
 
と言葉を続けられました。
工場長、社長、そして私の三者の立場を汲んだ
判断をしてくださったのです。

その瞬間、工場長は涙を流して

「本当は協力したい。
 ただもっと話してほしいだけなんです」
 

と本音を打ち明け、社長は安堵し、私は救われました。

経営とは人の心理を無視してやってはいけない、
何より社員とのコミュニケーションが大切なんだと
目が覚めました。

それぞれの立場の人間の気持ちを大切にしながら、
一つひとつ問題を解決していく。
いきなり多くを変えようとするのではなく、
焦らず小さな一歩一歩を積み重ねることで、
いつか大きな実を結ぶのだと気づいたのです。

コミュニケーションの大切さを身をもって実感した私は、
経営者と幹部が同じ価値観を持って
一つの目標に向かうため、幹部とともに
小山さんの実践塾に参加しました。

塾では「企業発展の原点は環境整備にある」という教えのもと、
全社あげての調布工場のトイレ掃除や廃棄物処理などを行いました。
すると不思議なことに、回を重ねるごとに
いままでにはない連帯感や濃密なコミュニケーションが生まれ、
仲間意識が芽生えたのです。

また、社員の誕生日にはおめでとうを伝えたり、
小さな貢献に気がつくと、そのたびに感謝の気持ちを
自筆の葉書で表すようにしています。

それを手渡しではなく自宅に送ることによって、
経営者から高く評価されていることを家族が理解し、
家族間のコミュニケーションの手助けにもなるのです。

いまでも業務の合間を縫ってコツコツと
月に五十通以上送っています。

それからというもの

「ミーナさんからの葉書が励みになって頑張れました」

などの声を聞くことができ、私の元気の源にもなっています。

平成二十二年、わが社は創業百周年を迎えます。
これからもお客様に安心して飲んでいただける
ホッピーを提供し続けるため、
誰にでもできることを積み重ねて、
小さくてもきらっと光るような会社にしていきたいと思っています。