Archive for 12月, 2011
「関東大震災の時に聞こえてきた天の声」
月曜日, 12月 19th, 2011
堀 文子 (日本画家)
『致知』2012年1月号
特集「生涯修業」より
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そもそも私のような人間がどうしてできたかと考えると、
四歳の時に体験した関東大震災の影響が原点になったと思います。
あの時、頼りにする母が、恐怖で我を失っているのを見ました。
大人たちが裸足で庭を転げ回っているのを見て、
おかしかった記憶があるんです。
住民が町の避難所へ集められ、人々が家財道具を持ち込んで、
一つの街ができているような状態でした。
そこで私はいろんなことを観察したのを覚えています。
わがままを言っている人、サイダーの栓を口で開けていた人……、
その時、私の家に年をとった婆やがいて、
驚くことに安政の大地震を知っていた。
でもその人が総大将になって、
冷静にその大災害を乗り切る一切の準備をし、
皆の不安を和らげてくれました。
ただ、下町から火の手が回り、
私の家も危ないという知らせがきた。
家の方向に巻き上がった真っ黒な煙を見ているうちに、
私、失神状態になっていたと思います。
その時、
「あるものは滅びる」
って声が電流のように全身を貫いた。
幼い心が悟りを受けたのです。
そういうことがあって、私は子供らしい子供にならず、
物欲のない、自分の足で立って生きる姿勢が
身についたんじゃないでしょうか。
子供だから理屈は分からないが、
この世の無常の姿を、物心のついたばかりの頃に見たわけです。
「乱」を見てしまった。
その時、庭に泰山木の大木があったんですが、
カマキリが静かにこっちを見ながら
その幹を上っていくのを見ました。
絶え間なく余震が続いていました。
大きなカマキリでしたから、産卵前の雌だと思います。
人間がこんなにもうろたえている時に、
カマキリは静かに動いていました。
この時、文明に頼っている人間が
無能だということを知りました。
停電はする、水は出なくなり、汽車は止まる。
何もかも動かなくなった時、他の生物は生きて動いている。
私が生命の力を意識するようになったのも、
その時の経験が大きかったと思います。
「一日一生」
日曜日, 12月 18th, 2011
橋本 喬 (観光企画設計者社長)
『致知』2003年8月号
「致知随想」より
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十年前の十月、いつも通り出社した私を
待ち受けていたのは東京地検特捜部だった。
故・金丸信元自民党副総裁の脱税事件を契機に
明るみになったゼネコン汚職。
土建国家・日本の暗部にメスが入り、
収賄罪で県知事や自治体の首長、
ゼネコンの役員クラスが多数逮捕された。
私もその一人である。
大成建設の営業本部長を経て副社長になった矢先、
宮城県発注工事にからみ、県知事および
仙台市長へのヤミ献金容疑が発覚。
私と仙台支店長と副店長が贈収賄で起訴された。
営業本部長はゼネコンの営業活動の総元締めであり、
必要な資金はすべて私の管理下に置かれていた。
支店長と副支店長が
「知事と市長に少し何かしなくては」と言った時、
私は「そうだね」と答えた。
それが業界の通例だったし、そうしなければ
他社から取り残される。
また、われわれだって贈収賄が
刑事罰に相当することは百も承知。
あくまでも「選挙資金」として渡したのであって、
相手が私的に使っていたなど知る由もない。
「選挙資金と言っても、それに対する見返りを
期待していたでしょう? 何も期待せずに金を出しますか」
取り調べの席で検察は言った。
「そりゃ出しませんな」
と答えると、私は即刻逮捕された。
自分が金を渡してもいなければ、いつ渡したかも知らない。
相手が選挙に使わず、勝手に私腹を肥やしていただけだ……。
言いたいことは山ほどあった。
だが、腹を括った。
すべてを受け入れることにした。
拘置所での生活は、判で押したように
規則正しい生活だった。
七時起床、九時就寝。
十五時から体操で、三度の食事の時間も決められていた。
よく、所内の飯は「くさい飯」といわれるが、
慣れればそれほど不味くもなくなった。
週に三度は風呂に入れたし、半月に一度は床屋にも行った。
とりたてて生活に不自由はなかったが、
「ここは別世界だ」と痛感することは多かった。
初めこそ罪状認否の取り調べもあったが、
早々と罪を認めたら特にすることもない。
独房の中で、これまでのことを考えてみたこともあった。
早大の建築学科を卒業し、
大成に入社したのは昭和三十三年。
東京タワーが完成した年だった。
戦後日本の復興の象徴ともいえる高層建築物を数多手がけ、
四十九歳で取締役東京支店長、
営業本部長を経て副社長になった時は、
「大成初の昭和二桁の副社長」と言われた。
当然、耳に入ってくるのは「次期社長」の声――。
狭い部屋で思いを巡らせても、すぐに行き詰まってしまう。
それに考えたところでどうしようもないのだ。
有り余る時間で、私はやたらと本を読んだ。
拘置所にいた四か月間で百冊以上読んだだろうか。
家族からの差し入れも、本が一番嬉しかった。
特に好んで読んだのは、徳川家康や織田信長などが
登場する長編歴史小説。
別に自分の姿を重ね合わせたとか、
彼らの生き様に鼓舞されたとかいうのではない。
ただただそのストーリーに集中し、没頭していた。
何も考えなくて良かった。
拘置所で年を越し、裁判も一段落した一月下旬、
いよいよ出所の時がきた。
ああ、この生活も終わったんだ。
事態を冷静に受け止めている半面、
誰かに会ってむしょうに話をしたかった。
この四か月、限られた面会時間に家族や弁護士としか
話ができなかったことへの反動だろう。
門をくぐると大勢の人たちの姿が見えた。
私は驚いた。そこにいたのは大成建設の仲間たちだった。
「ご苦労さん」
「お疲れ様でした」
次々と皆に労いの言葉をかけられ、
私は急に現実の世界へ戻ったような気がした。
会社から用意された車に乗り自宅へ行くと、
そこにもたくさんの同僚たちが私の帰りを
いまや遅しと待ち受けていた。
その輪の中に入った時、
「分ってくれる人はたくさんいる」と心から思った。
人生は「一日一生」である。
前から好きな言葉だったが、事件を契機に
その思いはますます深くなった。
人生は一日の積み重ねであり、一日を全力で生きて、
初めて人生をまっとうすることができる。
時には躓き、誤解もされる。
私も逮捕され、社会に大きな影響を与えた。
失ったものも多く、私の肩書きと付き合っていた人たちは、
潮が引いていくように離れていった。
しかし、「人間・橋本喬」と付き合ってくれていた人たちは、
私を支え、励まし続けてくれた。
現在籍を置く観光企画設計社の創業者であり、
会長である柴田陽三氏とは二十数年以上の付き合いになる。
ホテルオークラをはじめ、
全国のホテル設計を請け負っている柴田氏の事務所は、
大成時代の取り引き先だった。
「絶対にいい仕事をして、お客様のお役に立ちたい」
という一心で仕事に取り組んできた私の姿勢が、
柴田さんには伝わっていたのだ。
事件が一段落した時、
「ちょっとうちの会社を手伝ってよ」と言って、
私を副社長として迎え入れてくれた。
いずれ訪れるであろう死の床で、
これまでの人生を振り返った時、
私は幸せだったと思いたい。
結局最後に自分を満足させるのは、
「人様のお役に立った、人様に必要とされた」
という思いだけである。
出世をして金持ちになっても、
死に際に誰も来てくれないような人生は悲しい。
毎日毎日人に優しく、親切に、お役に立つ。
私はそういう人生を送りたい。
「チーム・やんじー」ありがとう!!
土曜日, 12月 17th, 2011先日の歳末大売出しに、「東日本大震災支援」への謝恩炊き出し隊、
「チームやんじー」から豚汁が振る舞われた。
ありがとうございました。
その様子が、やんじーのブログで垣間見られますよ。
http://mouth-mountain.greenwebs.net/archives/3272
新春の店開きには、店前で祝い餅をついて下さいます。
お楽しみに!
「目をつむれば精神は花園に遊ぶことができる」
土曜日, 12月 17th, 2011 (財団法人 国際全人医療研究所理事長)
『致知』2011年11月号
特集「人生は心一つの置きどころ」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201111_pickup.html#pick3
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今回(東日本大震災)のような文明を
引っくり返すような大きなストレスに対し、
悲観的な捉え方をする専門家もいます。
けれども日本人は第二次大戦を経験し、
広島・長崎の被爆を経験し、
その中から立ち上がっていったわけでしょう。
だから僕はそれほど悲観的になる必要もないし、
人間はそんなに柔なものじゃない、
強かなものだと思っているんです。
それが我々のように実存分析を学ぼうとする人間の
最も根底にある考え方です。
要するに楽観主義の精神ですね。
フランクル先生ご自身の生き様もそうでして、
彼がアウシュビッツ収容所で家族全員を殺され、
いつガス室に行けと言われるかもしれない中を
生き抜けたのは、基本的に楽観主義者だったということ。
逆に悲観的な人は死んでいったということでしょう。
例えば何月何日に米軍が救出に来るという噂が流れる。
皆いよいよ助かるかもしれないと心がざわめく。
ところがその日が来ても何も起こらなかった時、
ガクッときてバタバタと人が死んでいった。
ところがフランクル先生はそんな期待はしていません。
例えばこんなエピソードがあります。
彼が収容所の中で何かミスをやった。
それを見ていたナチスの将校が
彼の頬を思い切りぶん殴ったんです。
その拍子に眼鏡が吹っ飛んで地面に落ち、
レンズが割れてしまった。
その割れた眼鏡を拾い上げながら彼は思った。
「もしここを出られて収容所体験を本にできたら、
この割れた眼鏡を表紙にしよう」と。
だから彼の初版本の表紙には、
その割れた眼鏡の絵が使われているんですよ。
とにかくそのくらいに彼は楽観的で強かだった。
またアウシュビッツでチフスに罹った先生は高熱を発しました。
本人は医者だから自分の予後が分かる。
今夜もし寝てしまったら、
私は明日の朝、死体になっているだろう、と。
だから自分の足をつねりながら、
眠らないようにしていたというんです。
一方、頭の中では何を考えていたかというと、
自分は米軍に救出されてウィーンへ帰る。
そして『一精神医学者の収容所体験』という本を書き上げ、
それが世界的なベストセラーになって
カーネギーホールに呼ばれると考えた。
そのホールを埋め尽くす聴衆を前に講演を終わり、
大喝采を受けている自分の姿を想像していたというんです(笑)。
今夜死ぬかもしれないという、その最中にですよ。
(中略)
たとえいかなる極限状況に置かれても、
人間の心は自由だと。
目をつむれば精神は花園に遊ぶことができると
フランクルは述べていますが、そのとおりですよね。
確かに妄想かもしれませんが、最後の瞬間まで諦めず
希望にしがみつくことが大事だと思うんです。
詩吟「雨ニモマケズ」・・・・・
金曜日, 12月 16th, 2011個人的なことで、甚だ恐縮なのだが、
この2月に、まほろばのお客様で、80歳にもなられる茶道の女流先生から、
「一生の頼みだから」と説き伏せられて、已む無く入会せられた詩吟の会。
先日、その会の宗家の記事が新聞に掲載された。
大変苦労された方で、独り芸術で身を立てるという厳しい道を選ばれた。
記事の中で、まほろばの近くの精神医療の太田病院でもう25年も長く、
患者さんに詩吟を教え伝えていらっしゃるという。
習うごとに徐々に、患者さんが回復せられ、声をお腹から出す効用があるという。
生理的にも副交感神経が活発になって、精神が安定する。
我々の日常、なかなか思い切って声を出す機会がないので、健康法としても良いのだろう。
さらに、漢詩や和歌の古典に親しめて、情操を涵養するに、格好な趣味の門となるに違いない
http://homepage2.nifty.com/SHIGIN/homepage/kyounoginei.html (「雨ニモマケズ」)
http://homepage2.nifty.com/SHIGIN/ (東峰流詩吟HP)
http://sapporoohtahp.blog32.fc2.com/blog-entry-310.html (医療法人『耕人会』札幌太田病院HP)
伝統の木樽仕込み「無添加イカの塩辛」
木曜日, 12月 15th, 2011近海産、塩・砂糖のみで発酵
函館のカネサクさん(大出年子社長)は、大正2年の創業以来、
函館近海のスルメイカを秋田スギの木樽で
じっくり熟成させる古来の製法で塩辛を作り続けている。
その伝統の味を守りながら、塩と砂糖だけで漬け込む無添加の塩辛を製品化。
構想から20年以上、試作5年を経て、完成させた塩辛の原点。
保存料、増粘多糖類、PH調整剤、香辛料は未使用。
木樽は水分の除去、ガスの発散など発酵に好環境を生む半面、
菌・カビが存在しやすく「製造は菌・カビとの戦い」。
塩分濃度が高ければ、菌・カビにも強くなるが、従来より低い6%台。
製造期間中は日々、突き棒で底を返す作業を繰り返し、
塩辛の発酵状態を管理する技術と確実な手順の実行が不可欠。
「木樽の長所だけを活用し、大量に同じものをつくる方法を見出すのに5年程、
試行錯誤した」と話す松田康嗣工場長。
寺田本家さんから
木曜日, 12月 15th, 2011千葉の寺田本家さん。
大震災と原発事故で、離れているとはいえ、
柏が放射能スポットになり、その近辺の蔵元。
一時心配しましたが、無事超えられた御様子。
ここも、ホッと胸を撫で下ろし、伝統醸造が末永く
幾末までも続きますように・・・・・祈ります。
酛摺(もとす)り作業
生酛(きもと)仕込みの特徴。
木桶に入った蒸米・麹・仕込み水を櫂棒で摺り卸し、
微生物が活躍しやすい環境を整える。
蔵人たちが、目出度めでたの酛摺り唄を唄い、微生物と響き合うとき。
「川又さん干し芋」安全宣言!!!
木曜日, 12月 15th, 2011諦めかけていた「川又さんのホシイモ」、放射能検査にクリア!
1Bq/kg以下で、ND(不検出)!!!スゴイ!!!!!
生産者も消費者も「よかった、よかった」で、胸を撫で下ろしました。
川又さん、本当によかったですね。
そして今朝、そのホシイモが初入荷しました!!
例年に無く、最初から甘味たっぷり!
みなさん、お互いに安心して、食べて川又さんを励ましましょうね。
「川又さんの干芋」 400g ¥698
1kg ¥1.695
「二言(にげん)挨拶」
木曜日, 12月 15th, 2011 (駒澤大学野球部元監督)
『致知』2006年3月号
「致知随想」より
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私が駒澤大学野球部監督に就任して
間もない頃のことである。
大勢いる部員の中に、こいつはどこか
人と違う挨拶の仕方をするな、という選手がいた。
後に読売ジャイアンツに入団し、
「絶好調男」の愛称で人気者になった中畑清である。
当時の彼は、率直に言って田舎から
そのまま出てきたような垢抜けない顔をしていたが、
声だけは人一倍でかく、
何よりも人懐っこい性格をしていた。
まるで見知らぬ人と会っても平気で話をするし、
お年寄りにも実に自然に声をかける。
言葉というものには、
これくらい「心」が表れていなければ駄目だと感じたのは、
おそらく中畑と出会ってからのことになるだろう。
* *
さて、彼のしていた挨拶とは次のようなものだった。
例えば誰かに「こんにちは」と声をかける。
普通ならこれでお終いだが、
中畑は必ずその後に
「きょうはいい天気ですね」
とか
「おばあちゃん、いつも元気ですね」
といった“もう一言”の挨拶を付け加えるのだ。
私はこれを
「二言(にげん)挨拶」
と名付け、普段の挨拶をただの挨拶に
終わらせないよう心がけてきた。
この「二言」は、必ずしも言葉である必要はない。
すれ違った相手のために立ち止まっても二言。
手振りや微笑であってもいい。
上級生のほうから
「おはよう。きょうも元気にいこうぜ」
なんて声をかければなおのことよし。
そこに人間同士の心と心の通い合いが生まれてくるのだ。