「一日一生」
日曜日, 12月 18th, 2011
橋本 喬 (観光企画設計者社長)
『致知』2003年8月号
「致知随想」より
────────────────────────────────────
十年前の十月、いつも通り出社した私を
待ち受けていたのは東京地検特捜部だった。
故・金丸信元自民党副総裁の脱税事件を契機に
明るみになったゼネコン汚職。
土建国家・日本の暗部にメスが入り、
収賄罪で県知事や自治体の首長、
ゼネコンの役員クラスが多数逮捕された。
私もその一人である。
大成建設の営業本部長を経て副社長になった矢先、
宮城県発注工事にからみ、県知事および
仙台市長へのヤミ献金容疑が発覚。
私と仙台支店長と副店長が贈収賄で起訴された。
営業本部長はゼネコンの営業活動の総元締めであり、
必要な資金はすべて私の管理下に置かれていた。
支店長と副支店長が
「知事と市長に少し何かしなくては」と言った時、
私は「そうだね」と答えた。
それが業界の通例だったし、そうしなければ
他社から取り残される。
また、われわれだって贈収賄が
刑事罰に相当することは百も承知。
あくまでも「選挙資金」として渡したのであって、
相手が私的に使っていたなど知る由もない。
「選挙資金と言っても、それに対する見返りを
期待していたでしょう? 何も期待せずに金を出しますか」
取り調べの席で検察は言った。
「そりゃ出しませんな」
と答えると、私は即刻逮捕された。
自分が金を渡してもいなければ、いつ渡したかも知らない。
相手が選挙に使わず、勝手に私腹を肥やしていただけだ……。
言いたいことは山ほどあった。
だが、腹を括った。
すべてを受け入れることにした。
拘置所での生活は、判で押したように
規則正しい生活だった。
七時起床、九時就寝。
十五時から体操で、三度の食事の時間も決められていた。
よく、所内の飯は「くさい飯」といわれるが、
慣れればそれほど不味くもなくなった。
週に三度は風呂に入れたし、半月に一度は床屋にも行った。
とりたてて生活に不自由はなかったが、
「ここは別世界だ」と痛感することは多かった。
初めこそ罪状認否の取り調べもあったが、
早々と罪を認めたら特にすることもない。
独房の中で、これまでのことを考えてみたこともあった。
早大の建築学科を卒業し、
大成に入社したのは昭和三十三年。
東京タワーが完成した年だった。
戦後日本の復興の象徴ともいえる高層建築物を数多手がけ、
四十九歳で取締役東京支店長、
営業本部長を経て副社長になった時は、
「大成初の昭和二桁の副社長」と言われた。
当然、耳に入ってくるのは「次期社長」の声――。
狭い部屋で思いを巡らせても、すぐに行き詰まってしまう。
それに考えたところでどうしようもないのだ。
有り余る時間で、私はやたらと本を読んだ。
拘置所にいた四か月間で百冊以上読んだだろうか。
家族からの差し入れも、本が一番嬉しかった。
特に好んで読んだのは、徳川家康や織田信長などが
登場する長編歴史小説。
別に自分の姿を重ね合わせたとか、
彼らの生き様に鼓舞されたとかいうのではない。
ただただそのストーリーに集中し、没頭していた。
何も考えなくて良かった。
拘置所で年を越し、裁判も一段落した一月下旬、
いよいよ出所の時がきた。
ああ、この生活も終わったんだ。
事態を冷静に受け止めている半面、
誰かに会ってむしょうに話をしたかった。
この四か月、限られた面会時間に家族や弁護士としか
話ができなかったことへの反動だろう。
門をくぐると大勢の人たちの姿が見えた。
私は驚いた。そこにいたのは大成建設の仲間たちだった。
「ご苦労さん」
「お疲れ様でした」
次々と皆に労いの言葉をかけられ、
私は急に現実の世界へ戻ったような気がした。
会社から用意された車に乗り自宅へ行くと、
そこにもたくさんの同僚たちが私の帰りを
いまや遅しと待ち受けていた。
その輪の中に入った時、
「分ってくれる人はたくさんいる」と心から思った。
人生は「一日一生」である。
前から好きな言葉だったが、事件を契機に
その思いはますます深くなった。
人生は一日の積み重ねであり、一日を全力で生きて、
初めて人生をまっとうすることができる。
時には躓き、誤解もされる。
私も逮捕され、社会に大きな影響を与えた。
失ったものも多く、私の肩書きと付き合っていた人たちは、
潮が引いていくように離れていった。
しかし、「人間・橋本喬」と付き合ってくれていた人たちは、
私を支え、励まし続けてくれた。
現在籍を置く観光企画設計社の創業者であり、
会長である柴田陽三氏とは二十数年以上の付き合いになる。
ホテルオークラをはじめ、
全国のホテル設計を請け負っている柴田氏の事務所は、
大成時代の取り引き先だった。
「絶対にいい仕事をして、お客様のお役に立ちたい」
という一心で仕事に取り組んできた私の姿勢が、
柴田さんには伝わっていたのだ。
事件が一段落した時、
「ちょっとうちの会社を手伝ってよ」と言って、
私を副社長として迎え入れてくれた。
いずれ訪れるであろう死の床で、
これまでの人生を振り返った時、
私は幸せだったと思いたい。
結局最後に自分を満足させるのは、
「人様のお役に立った、人様に必要とされた」
という思いだけである。
出世をして金持ちになっても、
死に際に誰も来てくれないような人生は悲しい。
毎日毎日人に優しく、親切に、お役に立つ。
私はそういう人生を送りたい。