アーティスト福田、RYU・りゅう・竜・龍
火曜日, 1月 10th, 2012まほろば自然農園のチーフ福田君は、芸術家である。
今年もやってくれました。
龍が看板に乗っています。
疲れて、一休みでしょうか。
山から枯れ木を探しては集め、正月休み返上で作ります。
彼のこのエネルギーは、まさに山を自分の遊び場として遊んだ子供の記憶。
その彼が、今年、農園でどんな改革を起すか!楽しみにしています。
龍のエネルギー、今年もダイナミックに虚空を駆け巡るでしょう。
まほろば自然農園のチーフ福田君は、芸術家である。
今年もやってくれました。
龍が看板に乗っています。
疲れて、一休みでしょうか。
山から枯れ木を探しては集め、正月休み返上で作ります。
彼のこのエネルギーは、まさに山を自分の遊び場として遊んだ子供の記憶。
その彼が、今年、農園でどんな改革を起すか!楽しみにしています。
龍のエネルギー、今年もダイナミックに虚空を駆け巡るでしょう。
以前、ソフテリアに務めていた堀内洋子さん、
その後、栄養学の大学を卒業し、学校給食関係で働いておられる。
最近、余技に焼き物を始められた。
その第一作が贈られて来た。
それが何と、無限ハートを象った、線香立て皿だった。
初心者にしては、上出来で、さすが美大出身の事だけはある。
酸化や還元焼き、青磁や焼き締め、磁器などなどバラエティに富んでいる。
大したものである。
それで、それを趣味ではなしに、売り物としては、と提案させてもらった。
早速、相談に来られ、近々には発表されることになるでしょう。
どんな完成度になるか、楽しみですね。
福地 茂雄 (アサヒビール相談役)
『致知』2012年2月号
特集「一途一心」より
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「惚れられるより惚れよ」という営業哲学も、
そういう中で叩き込まれました。
私が入社した頃は恵まれていて、
特に大阪ではビール会社といえば
アサヒビールというくらい浸透していたんです。
けれどもその勲章を持って回ったらダメだと。
アサヒビールという看板を抜きにしてもお客様から信頼され、
求められるような人間になれ。
そのためにはお客様から好かれようと思ったらダメだ。
こっちから好きになることだと。
そういう大切なことを叩き込んでくれたのがブラザーでした。
ですから新人の頃にマンツーマンで仕事の基本から、
技術的なことからものの考え方から
キッチリと教える体制をつくることは非常に大切だと思います。
それから、人間は着るものに応じて太くなるものですね。
立場が人をつくるんです。
だから課長になれば課長らしくなってくるし、
支店長になれば支店長らしくなるし、
社長になれば社長らしくなってくる。
小さい服を着ていたらいつまでも大きくなりません。
一度大きめの服を着せてみたら、
結構服に合わせた人間ができてくるものです。
自分の息子やよく知っている人間に対する時ほど、
あいつはまだ若いと躊躇しがちですが、
チャンスを与えることが大事です。
初めて課長になった時に支店長から、
「君はどういう考え方で部下指導をするんだ」
と聞かれたので、
「自分のできないことは部下に求めません。
できることは徹底して求めます」
と答えたら、
「君は落第だ。
上に立つ者は自分ができないことでも
部下に求めなければならないものだ」
と言われました。
雄武町の村上智子さんがひょこりやって来られた。
昨年暮、「銀鮭のいずし」を送って来た。
それがとても美味で、今年の暮にご紹介しようと思っている。
事務所でも試食してもらったが、大好評。
皆さん、年末には食べて下さいな。
改めまして、
新年明けましておめでとうございます。
今年も、ご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。
昨朝、9時から地下洞「無限心庵」で、
星野良先生(竜笛)、西野圭織さん(笙)、鈴木英子さん(篳篥)の三管演奏を拝する中、
『新年の祝い』を従業員一同つつがなく執り行ないました。
10時より、エリクサー給水場前にて、お客様に
『越天楽』『蘭陵王』などを披瀝して戴き、遠き古の日本に想いを馳せました。
シンクに水を張って乗せた蝋燭から龍が浮かび上がったのには、一同ビックリ!
辰年に相応しい吉兆として、ありがたく受け取らせて頂きました。
外では、「東日本大震災復興支援」に対しての感謝の標として、
お礼餅つき大会を、ヤンジーチームが執り行って下さいました。
初めて見る杵臼に、子ども達は大喜び!
大人たちも、懐かしい子供時代に帰って、ペッタンペッタン代わる代わる杵を搗きました。
朝から晩まで、何臼も仕上がって、餡子、黄粉、大根、納豆など、
選り取り見取りの搗き立て餅を、口一杯に頬張って喜色満面、
しばし冬の風物詩から去り難かった。
「ありがとう!ヤンジーチーム!!そして支援のみなさま!!!」
午後から、地下洞では、光輝さんのクリスタルホボールの演奏会が行われた。
彼は、タイで学んだ、道内で数少ないプロの演奏家。
まだ若く、今後の進化発展を望みたい。
夕刻に、華道家の森直子さんが新年のご挨拶に。
珍しい「雲龍梅」を生けて下さった。
故大西良慶師の絶筆『一』を前に、風格ある佇まい。
今年一年、皆様にとりまして良き年となりますように。
斎藤 智也 (聖光学院高校野球部監督)
『致知』2012年2月号
特集「一途一心」よ
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私は選手たちに「前後際断(さいだん)」とか
「瞬間燃焼」といった言葉を
よく使うんですが、これを教えるのに
最適なトレーニングがあります。
もともとは塩沼亮潤先生の大峯千日回峰行から
ヒントを得たのですが、毎年夏の大会前になると、
夜中に地元の吾妻連峰に登り、
懐中電灯と熊除けの鈴を持って暗闇の中を
五時間かけて一人ずつ下山させるんです。
山の雄大さ、険しさ、水の清らかさ、
この大いなる自然に身を委ねなさいと、
満天の星空を眺めるところからスタートする。
山を下りるのも真っ暗闇で怖い。
そこから徐々に日が差して辺りが明るくなってくる。
クライマックスは朝四時半頃。
雲海が飛び込みたくなるような思いに駆られるほど、
凄く綺麗なんですよ。
そこから太陽の光が少し差し込んでくる。
で、この時に子供たちの足が止まるんです。
雲海から出てくる太陽を皆、心待ちにしているんですね。
そしてパーッと太陽が出てきた時の、あの凄い感動……。
泣いている子もいます。きっと自分が
野球をやっていることの意味を噛み締めたり、
夏の大会を間近に控えた怖さと向き合うんでしょうね。
私なりに、お坊さんが瞑想して
無の境地に迫ろうとする意味は何かと考えてみると、
邪念の塊、雑念の塊、私利私欲の塊、
こうしたものから解放されるためには、
邪念、雑念、私利私欲に襲われ続けないと
消えていかないことが分かってきました。
だから怖い、負けたらどうしよう、嫌だ、嫌だ……、
そうやっていろいろなことを考えながら歩いていく中で、
その子の頭は雑念だらけ。
その雑念を、自然が忘れさせてくれるということもあるんですが、
でも最後はそこから解き放たれる自分自身を見つけるんですね。
これは勝負の世界でも一緒ですよ。
負ける怖さを骨の髄まで味わい続ける。
だから解き放たれる。
その時、やっと勝負事を天に任せられる状態になって、
夏の大会にさぁ行こうか、潔くやろうぜ、という気持ちになる。
選手たちには勝つも負けるもない。
ただ一瞬一瞬やり切るだけ、という状態になる。
それが、甲子園に行っても
「おまえら、ホントに預けてるの」
「引っ張り込んでるだろ、勝負事を」
「私利私欲の塊集団!」
なんて言いながら試合をやっている時があるんですね。
そういうシーンが多い時は負けが近い時です。
潔く、試合展開にも一切こだわらず、一喜一憂せず、
まさに前後際断、過去も未来もすべて消す。
まさにいまだけ、一途一心、という境地で臨める時は強いです。
夏の大会に入る前にその状態を完成させてしまえば、
後の結果は本当はどちらでもいいんですよね。
今、空前の孔子ブームだという。
若者にとって、孔子って何者だ、といわれる時代。
あれほど本国中国で、批林批孔で荒れ繰れた文化大革命。
赤軍派、四人組・・・私の青年期は激動の大陸で、古典文物は悉く破壊し尽くされた。
当時、孔子に憧れ、古琴を習っていた私は、留学は叶わぬ夢であった。
共産主義と孔子儒教は相容れぬものである。
それでも、その当時、私は汪兆銘政府長官の胡蘭成先生や
碩学の安岡正篤先生の謦咳に接する事ができた。
それと故川合信水先生から孔子の真精神について学んだことが大きかった。
その後、大学・中庸や春秋などは愛読書となっていた。
もう40年も前の事で、今では書棚に眠っているが、
青年時の白紙の状態に、古典に触れ、大人(たいじん)に接した事は、自分の財産となった。
何年か前、彼の中国で「孔子」の映画が完成された、と聞いていたが、
一向に封切の気配がなかった。
それが、この正月、ふと見た映画欄にそれらしきものが、掲載されていた。
早速観に行ったが、これは活劇である。
古色蒼然とした埃を被った2500年前が、豁然として現代に甦る。
そこには生き生きとした孔子とその弟子達が描かれて、
スペクタクルな戦闘シーンも含めて、乏しい想像の世界でしか描けなかった
時代背景や人物、文物が鮮やかに甦る。
日本では到底成し得ない時代考証や資料が山のように揃っているのだろう。
端然とした孔子の他に、策士・軍事家としての顔は世間の辛酸を嘗めた実像なのだ。
還暦近くして生国、魯を追放され、諸国を歴訪する果てしなき旅。
それがどのようなものであったか、想像を絶していたが、映像を見て、
困難を極めていた事がリアリティをもって迫ってくる。
何より、時代は変わるとも、人間のサガは変わらないという歴史は何とも哀しくも虚しい。
何はともあれ、一見の価値あり。
孔子の教え云々はさておき、その置かれた時代と風景と文化と人を観ておくだけでも、
論語は生き生きした、現代の新書となりうることを知るだろう。
(聖路加国際病院理事長、名誉院長)
『致知』2012年2月号
特集「一途一心」より
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医師としての原点を語る時、外せないのが、
医局に入ったばかりの頃、最初に担当した
結核性腹膜炎の十六歳の少女です。
彼女には父親がおらず、母親が女工として働いていました。
家が貧しくて彼女自身も中学に行かず働いていたのですが、
ある時、結核を患って入院してきたんです。
その病室は八人部屋で、日曜になると
皆の家族や友人が差し入れを持って見舞いにくる。
でも彼女を訪ねてくる人はほとんどいない。
母親は日曜も工場で働いていたから、
見舞いにもなかなか来られなかったんです。
私は日曜になると教会の朝の礼拝に出席するため、
同僚に彼女のことを頼んでいました。
ところがある時、その同僚から
「日野原先生は、日曜日は
いつも病院に来られないから寂しい」
と彼女が言っていたと聞かされましてね。
以来私は朝教会に行く前に、病室へ顔を出し、
それから礼拝に出るようにしたんです。
これはその後の私の医師としての習慣にもなりました。
ところが当時は結核の治療法がなかったために、
どんどん容態が悪くなっていってね。
非常に心配していたんですが、ある朝様子を見に行くと、
「先生、私は死ぬような気がします……」
と言うんです。私は
「午後にはお母さんが来られる予定だから、頑張りなさい」
と言いました。
すると彼女はしばらく目を閉じて、
また目を開いて言葉を続けました。
「お母さんはもう間に合わないと思いますから……、
私がどんなにお母さんに感謝していたかを、
日野原先生の口から伝えてください」。
そうして手を合わせた彼女に、私は
「バカなことを言うんじゃない。死ぬなんて考えないで!
もうすぐお母さんが見えるから、しっかりしなさい」
と言って、その言葉を否定したんです。
ところが見る見るうちに顔が真っ青になっていったので、
私は看護師を呼んで「強心剤を打って延命しよう」と言い、
弱っている彼女に強心剤をジャンジャン打った。
そして「頑張れっ、頑張れっ!」と大声で叫び続けた。
彼女はまもなく茶褐色の胆汁を吐いて、
二つ三つ大きく息をしてから無呼吸になりました。
私は大急ぎで彼女の痩せた胸の上に聴診器を当てましたが、
もう二度とその心音を捉えることはできませんでした。
私は彼女の死体を前にして、どうしてあの時
「安心して成仏しなさい。
お母さんには、私があなたの気持ちを
ちゃんと伝えてあげるから」
と言ってあげられなかったのだろう。
強心剤を注射する代わりに、
どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか、
と悔やまれてなりませんでした。
私は静かに死んでいこうとする彼女に、
最後の最後まで鞭を打ってしまったわけです。
この時に、医師というのは
ただ患者さんの命を助けるのじゃない。
死にゆく人たちの心を支え、死を受け入れるための
援助をしなければならないのだと思いました。
その強い自責の念が、
後にターミナルケア(終末の患者へのケア)や
ホスピスに大きな関心と努力を払い、
人々が安心して天国や浄土に行くにはどうしたらよいかを考え、
そういう施設をつくる行為へと繋がっていったんですね。
深井 浩司(新潟県立佐渡高校野球部監督)
『致知』2012年2月号
特集「一途一心]
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私が監督になってからキャッチボールや
全力疾走といった基本的な練習から始めたのですが、
そこで気づいたのは部員の日常生活の乱れでした。
挨拶ができず、遅刻をしたり、
授業中に居眠りをしたりする生徒が大勢いる。
そこで日頃の行動規範などを定めて部員全員に配り、
毎日唱和させることにしたんです。
練習や試合の心構えなど六十か条を記したもので、
もともとは私の母校・丸子実業高校野球部の
恩師だった中村良隆先生が作られた
六十六か条を現代風にまとめ直しました。
高校野球は人間教育の場であるという基本線を踏まえながら、
師弟が一体となって甲子園を目指すものだという考えの下、
六十か条を
「一般心得」「練習心得」「試合心得」「生活心得」の
四つに分類したんですね。
もっとも初めて生徒に配った時には、
すぐに伏せられてしまいましたが(笑)、保護者にも全員配り、
「私はこういう信念で指導させてもらいます。
もしこれに外れるようなことをしたら
すぐクビにしてください」
と伝えました。
野村克也さんが「負けに不思議の負けなし」と言われますが、
試合の敗因は必ずこの中に隠されていると考えています。
例えば
「グラウンドの恥はグラウンドで返せ。
言い訳、詫びる言葉は厳に慎め、
自己の責任解消は口で談ずるべきではない」。
悔しい思いをしたら言い訳をするのではなく、
一回でも多く素振りをしたり、一球でも多く捕球の練習をする。
そういう見えない努力を重ねなさいということですね。
他にも
「球場に足を踏み入れたら気力で相手に勝て、
一に闘志、二に闘志、三に気合、余力は残すな」
「チャンスは必ず生かせ。次のチャンスは期待するな」
「同じ投手から二度負けるな。
研究して、打ち崩せ、これが根性だ」
「勝負の厳しさを知れ、理屈は通らない、結果だけが評価される。
高校野球は人生と同じ一本勝負である」
などがあります。
私は技術が六で気持ちが四のチームと、
技術が四で気持ちが六のチームがあったとしたら、
後者が勝つのが高校野球だと思うんです。
平凡なことを習慣化して取り組めば大きな力になる。
きょうは気分がいいから元気を出すけど、
別の日は嫌なことがあったから声を出さない、
といった気まぐれは絶対にいけない。
そういう日常の心得をこの中に込めたつもりです。
●『安岡正篤一日一言』(1月2日)
人間は何事によらず新鮮でなければならない。
ところが いかにすれば新鮮であり得るかといえば、
やはり真理を学んで、真理に従って生活しなければいけない。
もっと突っこんで言えば、人間としての深い道を学ぶ。
正しい歴史伝統に従った深い哲理、真理を学び、それに
根差さなければ、葉や花と同じことで、四季に従って
常に魅力のある、生命のみずみずしさを維持してゆく
ことはできるものではない。
●『森信三一日一語』(1月1日)
「人生二度なし」
これ人生における最大最深の真理なり。
●『坂村真民一日一言』(1月1日)
日本を
楽しい国にしよう
明るい国にしよう
国は小さいけれど
住みよい国にしよう
日本に生まれてきてよかったと
言えるような
国造りをしよう
これが二十一世紀の日本への
わたしの願いだ
●『中江藤樹一日一言』(1月1日)
父母のおんとくはてんよりもたかく、海よりもふかし。
あまりに広大無類の恩なるゆえに、
ほんしんのくらき凡夫は、むくいんことをわすれ、
かえって恩ありとも、おんなし共、おもわざるとみえたり。
●春日潜庵(かすがせんあん)
人生百年、大凡(およそ)二十年前は蒙々篤(もうもうえん)たるのみ。
二十歳後より六十に至るまで中間四十年なり。
これを過ぎて以往は、縦令(たとえ)衰えざるも、
窮竟(きょうきょう)用を做(な)さざるなり。
これを以てこれを観れば、百年の中久しといえども
四十年間に過ぎず。その余は蒙々篤たるのみ。
悲しいかな、悲しいかな、この四十年間、
徳を立て、業を立つる者それ幾何人ぞや。
その余は腐草朽木とともに 泯滅(びんめつ)して止む。
荀(いやしく)も志ある者、それ悲しむべきか、悲しむべからざるか。
●人生劈頭(へきとう)一箇の事あり。
立志これなり。
幕末の陽明学者、西郷南洲も傾倒した真固豪傑の士は
時代をこえて、生ある者に決意を迫ってきます。
●最後に明治天皇御製。
さしのほる 朝日のことく さわやかに
持たまほしきは 心なりけり