名碗を観る
木曜日, 2月 2nd, 2012当代きっての目利きと言われている林屋晴三氏の近著「名碗を観る」を読んでみた。
陶芸家にとっての最終的難関は茶碗にあると言う。
確かに、一碗を一城と取り替えるという逸話があるように、
大名をして命をかけるほど魅惑せしめる何かが潜んでいるのだろう。
「一壺中に天外を観る」とは真実の話しなのだ。
半世紀以上、古今東西の茶碗を見続けて来た林屋氏にとって、
その心眼は、あらゆるものに通じる活眼となっていた。
長い文中、最後の対談で、チラリと本音を明かされた。
それは、私が常に抱いていた事でもあった。
前後は割愛させてもらったが、要は情緒と感覚の違いではないかと思う。
現代の何事でもいえることだが、ことに芸術においても、
目先の感覚や感性ばかり取り沙汰されて、依って来るところの心が見えなくなった、
とでも言えるのだろうか。
そんな意味でも、胸の閊えが取れた一瞬でもあった。
表現が先にあるのではなく、自ずと後に現れるものなのだ。
現代に求める茶碗とはどういうものですか?
長次郎でもなく、オブジェの前衛でもなく、今を生きる感覚を
持つものが存在するはずだということですか?
林屋…そうではなくてね。
若い人が最近やたらに茶碗を造っていますが、なにか表面的です。
前衛的な造形性を求めた浅い自己主張なんです。
碗をオブジェとして造っているのなら構わないけれど、茶碗として造っている
なら、一碗の茶を飲ませることへの愛情がほしいと思うんです。
茶碗というものは、人に一碗の茶を飲んでいただく
という思いの中から出ないとだめなので、心の豊かさから生まれたものでないと。
表現者としての白己主張を打ち出そうとする茶碗では、
濃茶を練ってみても、どうしてもおいしい茶が点たない。
茶碗においしい茶を点てさせるものがないのでは困るのです。
茶巾で拭いても、ざらざらして中側をまわらない。
自分の表現だけがあって、茶碗として成立するものを捨てていると思わざるを得ない。
みんな今に生きているんですが、理想の茶碗とは何ぞや
という点では何人もそこへ行つていない。
だから僕がやるより仕方ないと思うんだ。・・・・・・