唐澤 るり子 (唐澤博物館代表)
『致知』2011年10月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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東京練馬の閑静な住宅街の一角に、
江戸から昭和にかけての教育資料を展示する
唐澤博物館があります。
当館は私の父、教育史研究家・唐澤富太郎が
長い歳月をかけて収集した数万点におよぶ研究資料の中から、
特に選りすぐった七千点余りを展示しています。
日本で最初に使われた国語教科書や第一号の卒業証書、
時代を映す通知簿、児童作品、玩具など、
当時実際に使われていた実物の資料がぎっしりと並んでいます。
驚くべきことに、これらの夥しい資料は、
富太郎が五十歳を過ぎてから個人で全国各地を巡り
収集したものです。
そして平成五(一九九三)年、富太郎八十二歳の時、
自宅収蔵庫を改築して唐澤博物館を開館。
晩年、「これらのものは執念で集めた」と語ったように、
富太郎は教育史研究という一点に人生を懸けた人物でした。
* *
唐澤富太郎は明治四十四(一九一一)年、
新潟の出雲崎に生まれます。
生来、探求心が旺盛で、学業・操行ともに優秀だった富太郎は、
小学生時代すでに「将来は必ず博士になる」と志を抱いていました。
その後十四歳で上京し、師範学校で研究に没頭。
更に学位論文で中世仏教教育を研究したことで
仏教観が身体に沁みこみ、その後の研究姿勢に大きな影響を与えます。
唐の禅僧・百丈懐海の言葉
「一日不作一日不食」(一日作さざれば一日食らわず)
を自ら揮毫し、仕事部屋に掲げ、研究に没頭していました。
給料はすべて研究に費やし、貧しかったためスーツは一着だけ、
破れるまで新しいものは買わないほどの徹底ぶりでした。
また、研究生活には盆も正月もなく、
いつも「引っかかったら鬼だぞ」と言って
仕事場に籠もるのです。
取り掛かったら一心不乱、研究に専念する。
まさに、自他ともに認める「研究の鬼」でした。
戦後、日本教育史に携わるようになった富太郎は、
昭和三十年から三十一年にかけて
『教師の歴史』『学生の歴史』『教科書の歴史』の
近代教育史三部作を出版し、脚光を浴びます。
その後、世界の教科書に目を向け、
五十四か国の教科書を収集し、
三十六年『世界の道徳教育』を発刊します。
この本が世界から注目され、翌年ユネスコの招聘に応じて
ドイツで講演を行っています。
その折に欧米十六か国の教育現状を視察したのですが、
最後に辿り着いたボストン美術館で衝撃を受けます。
そこで日本庭園を背景に展示されていたのは
江戸期の浮世絵や調度品で、西洋にはない
日本独自の美の素晴らしさを再認識しました。
同時に、日本の文化財が海外に流出し
注目を集めているにもかかわらず、
当の日本人が日本のよさをあまり理解していない
愚かさに憤りを覚えるのです。
ボストンから帰国した富太郎が
戦後の教育史研究を改めて見て気づいたのは
「児童が不在である」ということでした。
当時は教育制度や法令といった
上から目線の研究ばかりが為されていたのです。
それに対して富太郎は、現実にその時代を生き、
教育を受けた児童そのものに視点をあてた研究にこそ
意味があると考えました。
そして子供たちが実際に使ったノート、筆箱、
ランドセル、教材、教具など、
児童を取り巻くありとあらゆるモノを通して、
その実態に迫ろうとしたのです。
ここから全国各地を巡り教育資料を収集するという
新たな研究生活が始まります。
当時の日本は、終戦によって価値観が一変し、
新しいものばかりが追求された時代です。
一度は捨てられ埃にまみれたような教育資料を
宝の如く大事に両手で抱え、自宅に持ち帰る日々が続きました。
前例のない型破りな研究に、同業者からは
冷淡な目で見られることもあったようです。
それでも富太郎は資料保存の意義を熱心に語り、
全国の教え子や教育関係者を巻き込んで収集にあたったのです。
富太郎は
「モノにはそれをつくった人、使った人、
大事にとっていた先人の知恵や心がこもっている。
それを感じ取ることが大切である」
と常日頃から口にしていました。
百万言を費やしても、実物の持つ情報量には
敵わないというのです。
そのため、新しいものばかり取り入れ、
古いものは捨てるという当時の軽薄な風潮が
許せなかったのでしょう。
そして常人には理解し難いような収集活動に奔走することで、
高度経済成長で商業主義に蝕まれる危険性に
警鐘を鳴らそうとしたのでした。
唐澤コレクションの中には、
戦前どこの小学校にもあった奉安殿
(教育勅語や御真影を納めるため学校の敷地内に造られた施設)や
教育内容の一変を象徴する墨塗りの教科書もあります。
GHQの占領政策によって戦前の教育が否定されて以来、
当の日本人が自らの教育の実態を省みることが
少なかったのではないでしょうか。
歴史の真実を物語るこれらの資料を遺した功績は
大変意義深いものだと感じます。
生前、富太郎はよく
「未来は歴史の上にある。
過去を知らずして未来はつくれない」
と申しておりました。
父・富太郎が自らの命のすべてを懸けて
後世に遺してくれたものを、
一人でも多くの方々に伝えることが私の役目であり、
使命であると感じています。