まほろばblog

Archive for 3月, 2012

かなうなら・・・・・・・

月曜日, 3月 12th, 2012

 

「かなうなら、妻にもう一度会いたい・・・・・・」

この写真だけで、この一言だけで、・・・・ただ胸が詰まり、涙が溢れる。

この若いご主人と遺された6歳の女の子を見ると、肉親を亡くした同じ悲しみが伝う。

この一家のこれからは、どうなんだろう・・・・・・

そんな悲しみの家族が何万、何十万とある・・・・・。

余りにも、悲しみが重くて、広くて、深くて・・・・・・支え切れずに誰もが居る。

神々は、なおも心の彩りを深めようと、こうも残酷な杭を打ち給うたかや。

日本の国民は、悲しみのくびきを背負うて、果てしない前を、

一歩一歩、それでも歩んで行かねばならない・・・・・。

 ものの見方・考え方を養う

月曜日, 3月 12th, 2012

『何のために働くのか』よりの紹介。

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 安岡正篤先生は思考の三原則として、
 次の三つをあげておられます。

  ・根本的にものを見る。
  ・多面的にものを見る。
  ・長期的にものを見る。

 安岡先生が言っておられるように、大局的にものを見る、
 ものの根本を見ることはとても大事です。

 私たちが物事を判断する場合、
 ともすれば枝葉末節(しようまっせつ)にばかり
 目がいきがちですから、常に
 「果たしてこれが本質なのかどうか」と
 考える習慣をつけるといいでしょう。

 また、近視眼的にならないように、
 できるだけ長期的視野に立ってものを考えてみる。
 そして、いろいろな角度から
 多面的にものを考えてみる態度も大切です。

 さらに、「策に三策あるべし」と言うように、
 常にA案、B案、C案と三つの案を用意しておき、
 いろんなケースに備えるのも大事なことです。

 この思考の三原則は自分一人で考える
 というものではなりません。
 「君はどう思う」と周囲の人に問いを投げ掛けて、
 意見を聞いてみるようにするべきです。
 特に、多面的にものを見るためには、
 いろんな人の意見を聞くのが一番です。

            

真夜中の火の番兵

土曜日, 3月 10th, 2012

ここ数年、業務用やリハビッシュ用などで、エリクサーのセラミックを焼く頻度が増えた。

焼成が始まると、夜中に2,3回起きて、炉の具合を見て、火を入れたり、止めたりする。

早朝、市場にも行かねばならぬので、その1週間は、体がしんどく、朦朧としている。

特に、還暦を過ぎての焼成は身に応えて、回復するのに長引く。

去年辺りから、上の息子が見真似で手伝うようになり、徹夜で火の番をする。

夜中、家内が何度も起されて0-1テストをするので、彼女も大変だ。

そこで、私は急に楽になって、高根のイビキである。

ラクチン、ラクチン、とばかり、最近は怠けている。

これ以上に、大変なのが、昨年暮れに伺った石孫本店さん。

炭で暖をとる昔ながらの室で、その温度具合を見ては、麹板を上に下にと取り替える。

それをやるのは、社員を帰らせた後の、裕子社長とお嬢さんの二人の仕事だ。

これは何週間も続くので、相当しんどいはずだ。

その記録帳を見せて頂いた時、焼成小屋の温度や時間管理と同じなんだな、と妙に親近感を持った。

今は、みなコンピューター管理で、自ら起きて麹を管理する所なんかは少ない。

でも石孫さんは、頑として蔵を近代化にしない。

手仕事、手作りを貫く。

まほろばの生産者は、みなこんな哲学を持って生き抜いて来た。

五体の感性を大事にして、これからも小さく少なく生きて行こうと思う。

「自己改革の6つのキーワード」

土曜日, 3月 10th, 2012

      
       
  大谷將夫(タカラ物流システム社

    『致知』2012年4月号
      特集「順逆をこえる」より
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 多くの経営者が近年の経営学を勉強されて
 効率化を図られているのは非常にいいことだと思います。
 私はこれを合理主義の経営と名づけて、今日まで取り組んできました。

  ところが職場で働く人間を大事にしたり、
  モチベーションを上げていって
  実力以上の力を出してもらうという人間に立脚した経営、
  これを人間主義の経営と言っていますが、
  これがいまの経営者は非常に弱いように思うんですね。

 合理主義を追求して、例えば10部門中9部門までが
 赤字だった長崎運送の場合、1部門を残して
 あとは全部切り捨てればよかったかといえば、
 そんなことないですよ。
 
 本当は再建できる要素があるかもしれないのに、
 赤字だから切り捨てろというのではあまりに短絡的です。

 ですから私の経営の基本にあるのは、
 一つが合理主義に則った業務改革・業務改善、
 そしてもう一つは人間主義に基づいた意識改革。

 どれだけ合理的・効率的に考えていいことばかり言っても、
 元気の出ない人がそれを実行しても効果は上がりませんよね。

 私は社長として就任する前の日曜日に
 全社員320名を集めて、
 経営方針発表会を開きました。
 
 そうしたらいままで社長の顔すら見たことがない
 という社員が半分近くいたんですよ。
 そんな会社では、社長がいくら発破をかけても伝わりませんよね。

 私はその場で全員に訴えかけました。
 きょうから会社が変わっていくから、
 皆さんも意識を変えてくれよと。

「明るく、

 元気に、

 前向きに、

 いまやる、

 頭をつかってやる、

 必ずやる」

 これは私が掲げた自己改革の6つのキーワード。

 もちろんただやろうじゃないかと
 精神論を唱えるだけではなく、
 具体的な再建計画も全員にお伝えしました。
 
 会社が危機的状況に置かれていることすら
 知らない社員もいましたから、
 ここで全員の意識を一つにまとめて一丸となって頑張ろうと。

 すると、社員の目の色が変わりましたね。
 懇親会では舞台から降りて
 社員一人ひとりと握手して回りました。

 興奮する社員もいれば涙ぐむ社員までいて、
 それはもう大変な盛り上がりでした。

 320人もいれば本当にいろんな社員がいます。
 でもね、そういう人たち全部をまとめて
 一つの方向へ引っ張っていくのが
 社長の一番重要な役割だと私は思っているんですよ。
 
 社員もまた会社でそれぞれ役割を担っているわけですから、
 私はオーケストラでいう指揮者みたいなものだと思います。

 その日から私は一気に勝負をかけました。
 なんせ十年間だらだらしていた会社だから、
 様子を見ながらなんて言っていたら
 またすぐ元の意識に戻っちゃう。
 
 最初の3か月が土台づくりの勝負だと思って、
 もう朝から晩まで
 
 
 「これじゃあかん」
 
 「君の考えはどうなんや」
 
 
 と叫び通しでしたね。

 それまでぬるま湯みたいなところで、
 見せかけだけの仕事をしている人が多かったから、
 実際320人の社員がいても
 戦力的には7掛けくらいで見ていましたよ。
 つまり224人。

 でもね、もし彼らがやる気になって
 普通の人の1,2倍働くようになったら
 384人分の戦力になるでしょ。
 
 そうしたら同じ人員のはずが、
 モチベーションが上がっただけで
 新規に160人採用したのと同じことになる。

 だからいかに社員を元気にさせることが
 重要かってことですね。
 
 一人を単に一人と勘定しているようでは、
 本当の会社の実力というものは見えてきません。

不便だけど不幸でない

金曜日, 3月 9th, 2012

言葉は要りません。
ただ観て下さい。

アルバム ライナーノートから

 人生の途中で乳がんになり、夫が悪性リンパ腫と闘った知人の女性が、「不運だけど不幸じゃない」と言った。生まれながらにして手足のない先天性四肢欠損症の佐野有美さんは、「不便だけど不幸じゃない」と微笑む。与えられた状況を受け入れながら前進する人の言葉はズシリとくる。私たちは五感(視聴嗅味触)を生ずる五つの感覚器官の五官識の世界にいる。有美さんはそれを超えた六識の世界を持っている。私たちには見えない、感じられない力を四肢の代わりに持っている。
それは幼いころからの母親の厳しい訓練で得たのか、諦めない不断の努力によって培われたものなのか…。

小学校の校長先生は、「あみちゃんが何事にも一生懸命に取り組んでいる姿を見て、ラクをしよう、ズルをしようという子がいなくなりました。あみちゃんの頑張りや前向きな姿勢が刺激になって、ほかのたくさんの子を変えていきました」と母親に告げた。人を変える力を持っているのだ。
本人は、「もし悩んでいる人がいたら、私には手がないけど、心の手を差し伸べたい。わたしには足がないけれど、真っ先に駆けつけてそばにいてあげたい」と思っている。

アルバム『あきらめないで』は、「誰にでもやさしくなりたい」という、有美さんの、「心に寄り添いたい」というメッセージである。聴き進むにつれ、ドキドキしてくる。私たちは抱きしめたり、走ったりできるが “ココロの欠損症” なのではないのかと。

「心底笑っているか?」「本当に見えているか?」「チャレンジしているか?」と自問せざるを得ない。
2011年3月11日、私たちは普通であることの大切さに改めて気付いた。立ち止まって矜持や忍耐、互恵について考えたり、己を省みた人も多いだろう。
歩み続けてきたから今日があり、今を一生懸命に生きるから明日がある。そういう時代が生んだアルバムであることは確かだ。

「川端康成さんが見せた涙」

木曜日, 3月 8th, 2012

      
  伊波 敏男(作家・ハンセン病回復者)

         『致知』2012年4月号
         特集「順逆をこえる」より
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私の人生を振り返ると、
人との出会いに恵まれたと思いますね。

出会いということでは、私が作家になった原点は
川端康成さんとの邂逅だと思います。

川端さんは『雪国』を発表した昭和十年頃、
ハンセン病療養所に収容されていた一人の青年と出会うんです。

彼は自身の魂の葛藤を原稿にするのですが、
世に発表していいレベルか分からない。

それで売れっ子作家だった川端さんに原稿を送りつけるんです。
それを読んだ川端さんは大変感動して、
『文学界』に掲載するための仲介の労を取った。

それが北条民雄の『いのちの初夜』といって、
増刷に増刷を重ねる大ベストセラーとなりました。

そういう繋がりを持っていたことから、
川端さんは昭和三十三年に沖縄に講演で招かれた時、
沖縄のハンセン病の子供たちに会いたいとリクエストされたんです。

小中学生合わせて五十六人の作文の中から私が選ばれ、
お会いする機会を得ました。中学三年の時です。

驚きましたね。

当時ハンセン病療養所に外来者が入るにはマスクをして
消毒済みの長靴を履いて、と完全防備するのが普通でしたが、
川端さんはワイシャツ一枚。

「関口君、作文を読みましたよ」

と言って、手を握ろうとしたから、慌てて手を引いたんです。

そうしたら悲しそうな顔をしてね、
今度はご自分の椅子を引き寄せ、私の両太腿をはさみ、
唾がかかるほどの近さでお話しされました。

私は北条民雄の全集に掲載されていた
川端さん宛ての手紙文を覚えていたんです。

「僕には、何よりも、生きるか死ぬか、
  この問題が大切だったのです。
  文学するよりも根本問題だったのです。
  生きる態度はその次からだったのです」

「人間が信じられるならば耐えていくことも出来ると思います。
 人間を信ずるか、信じないか」

諳んじてていた北条の手紙の一部を口にすると、
川端さんはふわーっとシャボン玉のような涙を浮かべ、

「……君は分かっています、北条民雄の悲しみが分かっていますよ」

と。そして、

「いっぱい蓄えなさい。そしていっぱい書きなさい」

と言われました。

随行の方々から時間だと促され、
川端さんは部屋を出ていかれました。

しかしもう一度戻ってこられて、

「関口君、欲しいものはありますか」

と聞くんです。

「本が欲しいです」と答えたら、一か月後、
木箱でたくさんの本が送られてきました。
本を読むことによって
夢をたくさん描くことができたと思っています。

「人生は、踏み切る、割り切る、思い切る」

水曜日, 3月 7th, 2012

             
  津田 晃 (野村證券元専務)

     『致知』2012年4月号
      連載「二十代をどう生きるか」より

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 昨今の厳しい経済情勢下、希望する会社に就職できずに
 悩んでいる若い人は多いだろう。
 
 私が就職した四十年前といまでは随分事情も異なるが、
 本来の希望とは異なる道を歩んできた私の体験は、
 なにがしかの参考になるのではなかろうか。

 私は商社で活躍していた父の勧めで商社マンを志し、
 早稲田大学の商学部へ入学した。
 
 在学中に広告にも興味を持ち、
 就職先は大手商社か電通に絞り込んでいた。

 就職活動の時期、親しい友人の一人が日本脳炎に罹って出遅れ、
 彼には昭和四十年不況の煽りで不人気だった
 証券会社くらいしか求人は残っていなかった。
 
 彼から頼まれて野村證券の大学OBとの懇談会に
 付き合いで参加したところ、後でOBの一人からご連絡をいただいた。
 
 証券会社はこれからバラ色だ、と熱心に入社を勧められたのだ。
 
 無下に断るわけにもいかず、ゼミ担当の教授に相談してから
 返事をすることにした。

 貿易論の教授からは初志を貫いたほうがよいと言われたが、
 広告論の教授の見解は違っていた。
 
 海外事情に詳しいその教授は、
 アメリカでは証券ビジネスが急成長しており、
 いずれ日本もそうなるだろうとの見解を示され、
 どうせ選ぶなら自分を求めてくれる会社がよいと勧められた。
 
 私はそのアドバイスに心を動かされ、
 それまで考えもしなかった
 野村證券への入社を決意したのだった。

 ところが入社後の仕事は、
 最初にイメージしていた顧客の資産管理の仕事とは
 大きく異なっていた。
 
 研修が終わるや分厚い高額所得者名簿と商工名鑑を渡され、
 これを見て自分でお客様を探してこいと命じられ
 ショックを受けた。
 
 案の定、訪問先では
 「証券会社なんて縁起が悪い」などと罵られ、
 塩を撒かれたり、名刺を目の前で破られたりと
 散々な目に遭った。

 大変なところに入ってしまった……。

 悩んで入社を勧めてくれた教授のもとへ相談に行った。
 その時いただいた言葉はいまも心に残っている。
 
 
 「人生は、踏み切る、割り切る、思い切るの三切るだ。
 
  踏み切ったらまずは割り切って一所懸命やってみなさい。
  それでダメなら思い切ればいいじゃないか。

  君は踏み切ったばかりでもう思い切ろうとしているが、
  それはまだ早い。
  もうしばらく割り切って続けてみるべきだ」

 私は原点に返って仕事に打ち込むことにした。

ヤンジー 朝日に

火曜日, 3月 6th, 2012

「仕事の鬼になれ」

火曜日, 3月 6th, 2012

道場 六三郎 (銀座ろくさん亭主人)

             『致知』2012年4月号
              特集「順逆をこえる」より
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  修業時代は先輩やオヤジさん(親方)から
  非常にかわいがってもらえて、
 別段辛いことってなかったですね。

 僕は調理場でも何でも、
 いつもピカピカにしておくのが好きなんです。
 例えば鍋が煮こぼれしてガスコンロに汚れがつく。
 
 時間が経つと落とすのが大変だから、
 その日のうちにきれいにしてしまう。
 そういうことを朝の三時、四時頃までかかっても必ずやりました。

 それで、オヤジさんが来た時に
 「お、きれいやなぁ」と言ってもらえる。
 その一言が聞きたくて、もうピカピカにしましたよ。
 だからかわいがってもらえたんですね。

 それと、毎日市場から魚が入ってくるんですが、
 小さい店ですから鯛などは一枚しか回ってこない。
 
 でも僕は若い衆が大勢いる中で、
 その一枚を自分でパッと取って捌きました。
 そうしないと、他の子に取られてしまいますから。

 ただ最初のうちはそういうことを、
 嫌だなぁと思っていたんです。
 
 というのも、「いいものは他人様に譲りなさい」と
 親に言われて育ってきましたから。
 
 半年ぐらい随分悩んだんですが、
 でもそんなことばかりをやっていたら、
 自分は負け犬になってしまう。
 
 だから僕も、まだ青いなりに
 「仕事は別だ」って思ったんですよ。
 仕事だけは鬼にならなけりゃダメだ、と。
 そう思って、パッと気持ちを切り替えたんです。

 結果的にそういう姿勢が先輩や親方からも認められ、
 それからはもう、パッパ、パッパと仕事をやるようになりました。
 
 僕の若い頃には「軍人は要領を本分とすべし」
 よく言われたものです。
 
 要領、要するに段取りでしょうな。
 だから要領の悪い奴はダメなんですよ。
 そうやって先輩に仕事を教えていただくようにすることが第一。

 仕事場の人間関係の中でも一番大事なのは
 人に好かれることで、もっと言えば
 「使われやすい人間になれ」ということでしょうね。
 
 あれをやれ、これをやれと上の人が言いやすい人間になれば、
 様々な仕事を経験でき、使われながら
 引き立ててもらうこともできるんです。

 ただし、ダラダラと働いても仕事って覚えられないんですよ。
 自分でテーマをつくらないと。
 
 僕の場合は若い頃から、今年は何と何と何と何とを覚えようと、
 必ずノートに書くようにしてきました。
 そしてそれを何とか仕上げるよう努力していく。
 
 今年は何をする、そして一年が過ぎる。
 来年は何をする、俺ができないのは何だ? と。
 それを探して、今年はこれとこれだけは覚えようということで、
 一つずつ自分の課題をこなしてきました。

 結局のところ、ものを覚えるというのは、
 覚えるべきことを自分で探すことから
 始まるんじゃないですか。
 
 教わろうという気のある者は、
 自ら盗むようにして学び、吸収していく。
 人から言われて嫌々やっていたのでは、
 いつまで経っても成長しませんね。

108歳の女流ピアニスト

日曜日, 3月 4th, 2012

 

ある方(白いグランドピアノさん)のブログのシェアです。
108歳になる奇跡の女流ピアニストのお話です。

今年108歳になるアリス・ソマーさんは、今でも生存している元ユダヤ人強制収容所の囚人の中で
最長齢であり、しかもピアニストとしても最長齢だそうです。

長生きの秘訣は?との問いに、「楽観的な性格」だと述べています。

プラハに住んでいたアリスの一家は、ユダヤ人の強制収容が始まってから、
当初2年間はプラハのゲットーで過ごし、
その後チェコに作られたテレージエンシュタットという収容所に送られたそうです。
この収容所は、ナチスが諸外国に対して
「収容所は快適であり、中にいるユダヤ人は幸せに暮らしている」と見せるための、
いわゆる「やらせ収容所」的な場所だったそうで、
文化・教養があり、社会的に高い地位にあったユダヤ人が多く送られたといいます。

アリスはその収容所内に作られた楽団に入ったそうです。
そこでは暗譜でショパンのエチュード24曲を演奏したこともあったといいます。

楽団がある、と聞くとなんだか優遇されているように思うかもしれませんが、
実際には他の収容所と同様に生活は過酷で、毎日が飢えとの戦いでした。

彼女はこう語っています。
「食事はほとんど与えられませんでした。体重はすっかり落ちました。
周りで餓死する人が絶えない中、捨てられたジャガイモの皮を拾って飢えをしのぎました。
そんな状態でどうやって音楽なんか演奏できたの?と聞かれます。とにかく体力が弱っていましたから。でも音楽は特別で、魔法をかける力があったのです。私にとって音楽は食べ物でした。」

彼女の他にもこの収容所のオーケストラには優秀なチェリスト、バイオリニスト、
指揮者、作曲家などがいたといいますが、彼らにとっても音楽は食べ物だったのかもしれません。

アリスには6歳になる息子がいましたが、赤十字が視察にきたときに、
視察団の前で歌を歌わされたといいます。
視察の直前に、建物の外壁を塗り直したり、公園を作ったりと、
ナチスは収容所の悪環境がバレないようにいろいろと工作したようで、
子供の歌もその一環だった模様です。
ただ、実際にはこの収容所に来た1万5千人の子供のうち、
生き残ったのはたったの130人しかいなかったほどの過酷な環境だったのですが・・・・

アリスの夫は有名なバイオリニストでしたが、アウシュビッツへ送られ、
その後別の収容所で死亡しています。母親もやはり収容所で死亡しています。

ひどい目にあって母や夫まで殺された彼女ですが、ナチスを憎むことは一切ない、と言います。
憎しみの感情は、憎まれる対象ではなく、憎しみを抱く方の魂を蝕むからだと。

長生きの秘訣は、このあたりにあるのかもしれません。
・・・・・・・・