まほろばblog

Archive for 3月, 2012

「坂村真民先生の詩魂を後世に」

日曜日, 3月 4th, 2012

       
                   
         中村 剛志 (愛媛県砥部町長)

        
        『致知』2012年3月号
            「致知随想」より

────────────────────────────────────

『致知』の読者にお馴染みの仏教詩人・坂村真民先生が
九十七歳の天寿をまっとうされて五年の歳月が流れました。

先生は生前、

「念ずれば花ひらく」

をはじめ数多くの詩を発表され、
その求道の生活から生まれる珠玉の言霊から優しさ、
勇気や希望を感じ取られた方も多いのではないかと思います。

先生が四十年以上をお過ごしになった
私どもの愛媛県砥部(とべ)町では、
その偉業をなんとか顕彰できないものかと考え続け、
生誕百周年に当たる平成二十一年、
私が町長として発案したのが記念館を建設することでした。

まずは同年一月発行の『広報とべ』で
町民の皆様に次のように語り掛けました。

「私の夢は『坂村真民記念館』を創ることです。
  より多くの人に、真民さんの詩に触れていただき、
  自然愛、人間愛の尊さと、平和への感謝と祈りを
  学んでいただきたいと思っています」

幸いに記念館建設の願いは多くの町民のご賛同を得、
町議会のご理解をいただいて、
建物の本体工事がほぼ終了しました。

今年の三月十一日にはオープンし、
全国のファンの皆様を迎え入れる運びです。

私が記念館建設を打ち出したのには、
いくつかの背景がありました。

当町はこれまで伝統工芸の砥部焼を観光や
地域おこしの軸としてまちづくりを進めてきました。

しかし、近くに高速道が完成してからは
国道沿いの販売店にかつてのような活気がなくなり、
新たなまちづくりの施策が求められていたのです。

「坂村真民先生生誕百年記念の集い」開催の話が
持ち上がったのは、そういう時でした。

準備段階で気づいたのは、
全国には私が思っていた以上に
先生のファンがたくさんいらっしゃることでした。

実際、集いにはイエローハット創業者の鍵山秀三郎さんや
托鉢者の石川洋さん、早稲田大学元総長の奥島孝泰さんなど
高名な皆様にご臨席を賜り、
「朴(ほう)の会」という先生を慕う会の会員さんも
たくさん集まってくださいました。

地元にいてはなかなか分からないことですが、
先生の詩や言葉がここまで深く
日本中に根を張っていることに
私は驚きを禁じ得なかったのです。

真民先生の詩や歩みを
より広く知っていただくのが当町の役割。
それがひいては町の活性化にも繋がる――。

そう考えた私はご遺族に快諾をいただいた上で
建設計画を発表しました。

総予算は約二億五千万円。
町の財政負担を少しでも減らすため、
六年前の町村合併の折に出た合併特例債を活用し、
全国の皆様から寄付金を募ることにしました。

現在、寄付金の額は五千万円に及んでおり、
浄財をお寄せいただいた皆様への感謝の思いは
とても言い尽くせません。

建物は鉄筋コンクリート造り平屋建てですが、
随所に木板を配し、瓦屋根を取り付けて
温かみを醸し出しています。

二百坪の室内には先生自筆の詩が書かれた扁額や軸、
色紙、さらに言葉が書かれた葉や木片なども多数展示予定で、
先生が詩を創作された居間「たんぽぽ堂」の様子も
再現したいと考えています。

先生は生前、テレビにも多数出演されており、
在りし日のインタビューや対談の様子を紹介する
映像のコーナーを設けることで、
お人柄をより身近に感じていただけることでしょう。

我われ砥部町民にとって
真民先生はとても親しみのある存在でした。

「朴庵」と名付けた建物内で、
毎月五十人前後のファンの皆様に講話をされていました。

県庁所在地の松山でやればもっと注目を集められたろうに、
先生はそれをよしとせず、地元での小さな集まりを
とても大事にされていたのです。

また、平成三年、仏教伝道文化賞を受けられた際には、
多額の賞金をそのまま町の発展のためにと寄附されています。
このように町を深く愛されたからこそ、
町民もまた先生を慕ったのではないかと思います。

真民先生を知る人は皆、その優しく慈愛溢れる
お人柄に魅せられました。
先生が宇和島東高校などで教鞭を執られていた頃の
教え子の皆さんもそうおっしゃるところをみると、
きっとお若い頃から温厚な方だったのだと思います。

私もかつてライオンズクラブに所属していた時、
先生に講演を依頼したことがあります。

先生は詩作に集中するため夕方に床に就き未明に起床、
近くの重信川まで歩いて大地に額ずいて祈る
という求道者さながらの生活を長年続けられていました。

午後七時からの講演はご無理かと思い相談したところ、
快く応じてくださったことをいま懐かしく思い出されます。

しかし、先生の作品はただ優しく温かいだけではありません。
私の大好きな「鳥は飛ばねばならぬ」をはじめとして、
人生に処する上での厳しさが伝わってくる詩が数多くあります。

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

怒濤の海を

飛びゆく鳥のように

混沌の世を生きねばならぬ(後略)

私自身、厳しい町政運営を迫られる中で
幾度となくこの言葉を吟味し、救われてきました。

この言葉の力はおそらく、未明混沌の時刻に起床し
神仏や自らと厳しく対峙された
先生の姿勢そのものなのだと感じます。

当町の記念館が、そういう祈りにも似た
真民先生の詩魂を広く伝える場となれば、
こんなに嬉しいことはありません。

「・・・メタサイエンス」宮嶋さん本出版

土曜日, 3月 3rd, 2012

宮嶋さんの処女作「みんな、神様をつれてやってきた」に続いて、

第二弾「いのちが教えるメタサイエンス」が発刊された。

何時も、彼が説く語り節なのだが、なかなか難解で、

分かったようで分からないことが多かったが、

こうして上梓されると、図解もあり、何より噛み砕いて説いているので、

これはそういうことだったのか、こういうことだったのか、と肯く事しきり。

これで、宮嶋理論は初めて世に問われたのであり、

これからその真価が発揮されるのでしょう。 北海道十勝に入植して三十年が経ち、共働学舎の牧場としてかたちをなしてきたころ、前著『みんな、神様をつれてやってきた』(二〇〇八年、地湧社)を書いた。さまざまな負担を抱えて牧場にやってきた人たちと、働きながら生活を成り立たせようと悪戦苦闘をしているうちに、思わぬ幸運にも恵まれて、自然に添った暮らしぶりやチーズ作りが注目されるようになってきた。

 
 世の常識にとらわれず、炭を埋めたり自然素材で牛舎や住宅を建てたりと、これだと思ったことは根拠を探りつつも躊躇せずに実行してきた。そうしてその人、その動物や作物、その土地の持つ潜在的な力を引き出すようつくった牧場空間は、多くの実りをもたらした。そこには長年の自然観察と、かつて学んだ物理学や生態学の、そして名も知らぬ先人たちの知恵が生かされている。
 その一部を前著の巻末「注」に書き添えたところ、思わぬ反響があった。これまで多くの方たちに支えられてここまでやってこられた。そこから学んだことを還していく時が来たと思い、筆を執った。僕たちがつくってきたこの牧場の仕組みが読者の皆さんにも役立つかもしれない。
そこには経済中心に動いてきたこの社会が抱える閉塞感を解決するヒントがあるはずだ。

                                         宮嶋 望

炭、水、光、木、チーズと多方面にわたって説かれ、

ことに水に関しては、エリクサーについても言及している。

まほろばでも、取り扱っているので、是非お読み下さい。

「いのちが教えるメタサイエンス」 地湧社 ¥2,000 【税別】 まほろば扱い

これは絶品!!シカ肉

土曜日, 3月 3rd, 2012

すごい!これは、すごい!!!!!!!!!!
本当にビックリ!!!!!!!!!!!!!
エゾシカ肉が、こんなに旨いものだとは、
昨日は、心から感動しました。
鹿肉料理、今までいろいろ食べてきましたが、
こんなに旨い料理に会ったことがない。
料理というより、炭火でただ焼いただけだ。
このグリル、我満さんが製造特許を取ったほどの優れもので、
肉の旨味を逃がさぬよう工夫されている。
如何なる食肉も、これには到底叶わないだろう。
飼料や飼育法など、案ずる事がなく、
ただ野性の醍醐味をストレートに堪能出来るのだ。

エゾシカに対する認識が、昨日を境に一変しました。
それほど感動というか、むしろ心に深く沁み込む感銘を受けたという方が正しい。
自然と人工を観念的に認識していたが、エゾシカで自然の凄味が体験できた。
もうこれは、食べるしかないです。
今日、厚別で試食会を開いていますし、
明日、臨時に本店でもう一度、開催します。
皆さんで、この感動を分かち合いましょう。

家庭でのホームパーティーや
何かのイヴェントに、このグリルの貸し出しや
この腿の鹿肉を販売するのも、いいかなと思ってしまいました。
それほどのものですから、
どうぞ、お声をお掛け下さいませ。

 「仕事は自ら探し出すもの」

土曜日, 3月 3rd, 2012

       
 桜井 正光 (リコー会長)

   『致知』2012年3月号
   連載「20代をどう生きるか」より
       ────────────────────────────────────

 私がリコーに就職したのは一九六六年。
 オリンピック景気を最後に日本の高度経済成長期が終わり、
 「証券不況」という大きな不況の真っ只中だった。

 そもそもなぜリコーを希望したかというと、
 私は小さい頃から「これはなぜ動くのか」とその構造が知りたくて、
 買ってもらったばかりのおもちゃの解体に
 熱中するような子供だった。
 
 その好奇心が高じて理工学部へ進学。
 そして学生時代に熱中したのはカメラだった。
 
 必然的に就職先は製造業で、
 特にカメラを製造している企業を希望して、
 リコーに行き着いたのだ。
 
 ところが、面接時に衝撃的なことを言われた。
 
 
「いまほとんどカメラはやっていないよ。
  いまのうちの主力は複写機(コピー機)だ」
 
 
「???」

 当時、複写といえばガリ版刷りで、
 私は複写機そのものがどんなものか分からなかったが、
 咄嗟に「複写機でもいいです」と答えた。
 
 さらに「なぜこの時期にリコーなんだ? うちは無配だよ」
  と言われた。その瞬間、「無配」が何かが思いつかず、
 「いや“無敗”は望むところです」と答えた。
 
 いま振り返ると、よく通ったものだと思う。

 
 そうして最初に配属されたのは原価管理課という部門だった。
 しかし、不況の真っ只中、会社も無配の状態である。
 上司に言われたのは「おまえたちにやる仕事はない」と
 いうことだった。
 
 最初こそ仕事がなくて楽だと思ったが、
 三か月も経つと何もする仕事がないというのは
 こんなにつらいものなのかと身に沁みて感じた。
 
 他の部署の人たちが仕事をしていることへの焦り。
 また、もっと本質的な部分で、
 自分は会社や社会に何も貢献できていないという
 「役割」のなさへの焦りがあった。
 後々振り返って、社会人のスタート段階で
 
 
 「仕事があるありがたさ」
 「する仕事のないつらさ」
 
 
 を体感できたのは幸せだったと思う。

       * *

 さて、そこで私は
 「こうなったら、自分で仕事を探そう」と決意した。
 原価管理課は、製品の原価を計算し、
 コストダウンを提案して実践する部署だった。
 
 提案は誰に対して行うのか、我われの提案を
 利用する人たちにとってそれは十分な情報かどうか、
 もっと欲しい情報はないのか、ヒアリングに向かったのである。
 
 提案の利用者は、開発、設計、生産部門だから、
 各部署を回ってみると次第に自分がすべき仕事が見えてきた。
 
 複写機を取ってみても、いくつもの製品があり、
 それぞれの製品間で部品が類似しながらも
 微妙に違うものを使っていることに気がついた。
 
 
 「本当に違う必要があるのか」
 
 「コストアップの原因になってはいないか」……。
 
 
 いまならコンピュータで類似部品一覧を管理しているだろうが、
 あの当時、技術や設計の人間は手間隙かかる
 類似部品のリスト化に手をつけていなかった。
 
 私は五か月間、倉庫にこもって部品図面を種類ごとに分類。
 材質や形状、原価などを加えたリストを作成し、設計部署に渡した。
 その後、改善したほうがいい部分を指摘してもらい、
 どんどんブラッシュアップしていった。
 
 すると、現場は「部品を探す手間が省けた」と
 重宝してくれる一方で、同じような形状であれば
 一番安い部品を選ぶようになり、
 大きなコストダウンに繋がったのである。
 この経験から私が若い人たちに伝えたいことは、
 
 
「仕事は上司から与えられるものではなく、
 自分で探し出すもの」

 ということだ。
 
 自分の仕事のアウトプットを利用するお客様は誰なのかを考え、
 その人たちの役に立つことを探して実行すれば、
 必ず成果となって現れる。

 すなわち、それは自主自立、自己責任の全うということであり、
 いま日本全体で最も求められていることではないだろうか。
 

3月「桃の市」!!

金曜日, 3月 2nd, 2012

早や3月の「感謝デー」!

今月は、盛り沢山な事、この上なし。

イヴェントも、目白押し。

玄関先で、ジュージュー、エゾシカのグリル焼き、クルクル回しながらの試食会。

報道関係も取材に来ます。

2階では、ドイツの驚異の掃除機「コーボルト」のデモがおこなわれます。

下ではギャニオンさんがカナダ、メープルシロップへの誘いをしてくれます。

明日は「桃の節句」、ソフテではそれは美味しい美味しいケーキが並んでいますよ。

今日は、天気も良好の「桃の市」「春の市」で~~~~~ す!!!!!

東海地震と浜岡原発〜今、私たちにできること〜

金曜日, 3月 2nd, 2012
皆さまへ
 
*このメールは、STOP!浜岡原発の電子署名をして下さった方に、
不定期でBCCでお送りしています。
STOP!浜岡原発からのメールがご迷惑になる場合は、
お手数ですがご連絡下さるようお願いいたします。
  
★STOP!浜岡原発の電子署名をして下さり、ありがとうございました。
  
★お知らせその(1)4/7シンポジウム東海地震と浜岡原発〜今、私たちにできること〜
★「東海地震と浜岡原発〜今、私たちにできること〜」 (静岡市)
                  ☆手話通訳、ネット中継、託児あり
                 ★日時:2012年4月7日(土)開演13:30〜16:00(開場13:00)
                  ☆会場:「グランシップ」11階 会議ホール「風」(JR東静岡南口徒歩3分)
 
冒頭スピーチ「物質文明から生命文明に転換」
 
                                                                                  環境考古学者  安田喜憲氏
                                                                          静岡県危機管理監 小林佐登志氏 
                                                                                       牧之原市長  西原茂樹氏
                    元東芝原子炉格納容器設計技師・沼津高専教授  渡辺敦雄氏 
                静岡大学防災総合センター・関西大学客員准 教授   林能成氏
                               市民パネリスト二名(浜岡原発20キロ圏内、母親の立場)
 
★パネリストへの事前質問受付中!
http://shizuokamirai.jimdo.com/ご質問-掲示板/
★定員:500名☆参加費:500円(一般予約不要)
聴覚障がい者席、託児(要予約)
 
申込方法:http://shizuokamirai.jimdo.com/参加方法/
☆主催:ふじのくに浜岡原発を考える会シンポジウム事務局
E-mail: shizuokamirai@gmail.com Tel: 090-4401-8774
 
★詳細・シンポジウムHP:http://shizuokamirai.jimdo.com/
★お知らせその(2)買って脱原発&福島支援★
「限られた資金」で継続的に活動をするために、STOP!
浜岡原発のHPのヘッダーとバナーの絵で
グッズ(Tシャツ、エコバッグなど)を制作し、販売しています。
収益金の一部は福島の子どもたちを支援する団体に寄付し、
残りの収益金は、STOP!浜岡原発の活動費として使用させていただきます。
 
詳細:http://stophamaokanuclearpp.com/?page_id=1530 
どうぞよろしくお願いいたします。
 
*******************************************************
 
戸倉由紀枝 Yukie Tokura
STOP!浜岡原発 
STOP! HAMAOKA Nuclear Power Plant
E-mail: stophamaokanuclearpp@gmail.com 
Tel: 090-4401-8774 
HP
日本語:http://stophamaokanuclearpp.com/ 
English: http://stophamaokanuclearpp.com/en 

産業用大麻の議論をもっと!

木曜日, 3月 1st, 2012

昨日、Lプラザで北海道における「産業用大麻普及推進ネットワーク」会議が行われた。

前上川農試場長の菊池治巳氏の呼びかけに応えるもので、世界的にも産業・医療用に

栽培され活用されている現状、日本においても古代から営々として使われてきた麻の効用と歴史、

社会的にTHC(覚醒作用)の大麻と混同され、誤解されて来た産業用大麻の復興に向けての

北海道における第一歩を踏んだ。

まほろばの呼びかけに、北見の「ふきのとう」の佐藤社長、室蘭の「アイ企画」の野崎社長、

当別の土井女史などが、遠路はるばる参加してくださった。

道内各地の農家の方々の参加が目立ち、道内での栽培普及に意気込む。

中でも、北見で道の栽培特区を得ている「香遊生活」の舟山秀太郎社長の働きは、

全国的にも影響力が大きく、舟山さんの縁故で、中京大のあの武田邦彦教授も、

今月27(旭川)、28日(札幌)に講演会を開く。詳しくは追って後日に。

「お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか」

木曜日, 3月 1st, 2012

          
 上月 照宗 (曹洞宗大本山永平寺監院)
        
        『一流たちの金言2』
                        

────────────────────────────────────

親と子といえば、私には
どうしても忘れられない逸話があるんです。

土井敏春という中尉の話です。

昭和16年の安慶の攻略線の際、土井中尉は
部下5人を連れて将校斥候に出たのですが、
敵の地雷に引っ掛かってしまった。

    (中略)

一瞬にして5人の部下が
即死してしまったのだから惨いことです。

助かったのは土井中尉一人。
しかし、彼自身も両足と片腕を吹き飛ばされ、
爆風で脳、眼、耳が完全にやられてしまった。

あまりの苦しさに舌を噛み切って自害するといわれますが、
土井中尉は上下の歯もガタガタになってしまった。
死ぬに死ねません。これほど悲惨なことはありません。

どこにいて、何をしているのかもわからない。
声だけは出るものですから、病院に担ぎこまれても、
ただ怒鳴り散らすばかりです。

まだ昭和16年のころでしたし、将校ですから、
病院や看護婦は至れり尽くせりの看護をしたのですが、
本人にしてみれば地獄です。

目は見えない、耳は聞こえない、自分で歩くことも、
物に触れることもできない。

食事も食べさせてもらうのはいいが、
しょっちゅう漏らして看護婦の世話になる。
ただ、怒鳴るだけしかできず、介護に反発しますから、
ついには病院中のだれにも嫌われてしまった。

それで内地送還になり、
最後は箱根の療養所に落ち着くのです。
その連絡がお母さんのところに届きます。

すでに、夫を亡くしていたお母さんは
その当時はみんなそうでしたが、
息子のために毎日毎日、陰膳を供えて
彼の無事な帰還を祈っていました。

ですから、息子が帰ってきたという知らせに
母は娘と夫の弟さんを連れて、取るものも取りあえず、
箱根に駆けつけたんですね。

療養所では面会謝絶です。院長にお願いしても、

「せっかく来られたのですが、
 息子さんにはとてもあなた方のことはわからないでしょう。
 今日はお帰りください」

と聞き入れてもらえない。

しかし、母にとっては待ちに待った息子の帰還です。
何とか一目でいいから会わせてほしいと懇願し、
やっとの思いで院長の許可を取ることができました。

病院に案内されると廊下の向こうから
「わぁー」という訳のわからない怒鳴り声が聞こえます。
どうもその声は、自分の息子らしい。
毎日陰膳を供えて息子の無事を祈っていた
自分の息子の声であったのです。

たまらなくなって、その怒鳴り声をたどって
足早に病室に飛び込みます。

するとそのベッドの上に置かれているのは、
手足を取られ、包帯の中から口だけがのぞいている“物体”。
息子の影すらありません。声だけが息子です。

「あぁー」と母は息子に飛び付いて、
「敏春!」「敏春!」と叫ぶのですが、
耳も目も聞こえない息子には通じません。

それどころか、「うるさい! 何するんだ!」といって、
残された片腕で母を払いのけようともがくのです。

何度呼んでも、体を揺すっても暴れるだけです。
妹さんが「兄さん!兄さん!」と抱きついても、
叔父さんがやっても全然、受け答えません。
三人はおいおい泣き、看護婦も、
たまらずもらい泣きしました。

何もわからない土井中尉はただわめき、
怒鳴っているばかりです。

こんな悲惨な光景はありますまい。
しばらくして、面会の時間を過ぎたことだし、

「またいいことがあるでしょう。今日はもう帰りましょう」

と院長が病室を出ると、妹さんと叔父さんも泣きながら、
それについて帰ります。

しかし、お母さんは動こうとしない。
どうするのか、見ていると、
彼女はそばにあった椅子を指して
看護婦にこういうのです。

「すみません。
 この椅子を吊ってくださいませんか」

そして、それをベッドに近寄せると
お母さんはその上に乗るや、もろ肌脱いでお乳を出し、
それをガバッと土井中尉の顔の
包帯の裂け目から出ているその口へ、
「敏春!」といって押しあてたのです。

その瞬間どうでしょう。

それまで、訳のわからないことを怒鳴っていた土井中尉は、
突然、ワーッと大声で泣き出してしまった。
そして、その残された右腕の人差し指で
しきりに母親の顔を撫で回して

「お母さん! お母さんだなあ、
 お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか。
 家に帰ってきたんか」

と、むしゃぶりついて離さない。
母はもう口から出る言葉もありません。

時間です、母は土井中尉の腕をしっかり握って、
また来るよ、また来るよといって、帰っていきました。

すると、どうでしょう。
母と別れた土井中尉はそれからぴたりと怒鳴ることを
やめてしまいました。

その翌朝、看護婦がそばにいることがわかっていて、
彼は静かにいいました。

「ぼくは勝手なことばかりいって、申し訳なかった。
 これからは歌を作りたい。
 すまないが、それを書きとどめていただけますか」

その最初の歌が、

 見えざれば、母上の顔なでてみぬ
 頬やわらかに 笑みていませる

目が見えないので、お母さんの顔、
この二本の指でさすってみた、
そしたらお母さんの顔がやわらかで、
笑って見えるようであった。

土井中尉の心の眼、心眼には
母親の顔は豊かな、慈母観世音菩薩さまのように
映ったのに違いありません。

  (中略)

この話はその現場に立ち会っていた
相沢京子さんという看護婦から聞いたものなのですが、
その相沢さん自身も母親の姿を目の当たりにして、
患者の心になり切る看護というものに目覚めたということです。

道元禅師の言葉にこうあります。

「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども、
 未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」

「法」とは「仏性」のことです。
ですから、すべての生きとし生けるものには
みな仏性があると、根本信条を諭されます。

しかし、道元禅師は、それも修行して
磨きをかけないと本当の光が出てこない。

本当に磨きをかけることによって、
真実の父親、母親になれ、
その真実の人がそのものになり切ってこそ
偉大な力を発揮するということになるのです。