野見山暁治(洋画家)
『致知』2012年4月号
連載「生涯現役」より
────────────────────────────────────
【記者:野見山さんは戦没画学生の作品を集めた
「無言館」の創設にも携わっておられますね】
戦後二十年が経ち、僕が四十五歳頃のことですが、
NHKから戦没画学生の特集を組みたいからと
ゲスト出演の依頼があったんです。
その後、出版部から画集にしたいので、
遺族の家を回ってくれないかと相談がありました。
それでゲストに出た三人で手分けし、
十五軒ずつ回ったんですがね。
三軒目に亡くなった親友の家を訪ねたら
「あなた、どうして生きて帰れたんですか」
とお母さんが言う。
その時に、僕は何か自分だけが
うまく生き延びたような気がしてね。
息子を亡くし悲嘆に暮れている人を、
俺は見物しに回っているじゃないかという
後ろめたさがありました。
そしてその家から帰る時のことです。
玄関にあったコートに袖を通そうとするとお母さんが
「向こうを向きなさい」
と言って着せてくれたのはいいんですけど、
その手がね、離れないんですよ。ずうっと。
こう、僕の背中を触って…。
長年待ち侘びた子供が帰ってきたという、
その実感なんだなぁ。
僕はもう耐えられなくなってね。
翌日NHKに行って、頼むから降ろしてくれ。
とても回れないと言ったんですが、
それなら代わりの人を推薦してほしいと。
でも自分が途中で放り出して
人に頼むことなんてできないから、
結局続けて回ることにしたんです。
やがてNHKから『祈りの画集』という本が出ました。
すると窪島誠一郎という人が、
以来、十何年とその本を持っていて、
何回も何回も読み返したというんです。
そしてこの人たちの絵を集めて、
美術館をつくりたいから協力してもらえないかと言ってきた。
僕は彼に、よしなさいと言いました。
労力や時間やお金がかかるのはもちろん、
行った先々で、もうこれは止めにしたいという
切ない思いになる。
なにしろ当時は戦没者の遺族を回る詐欺が
横行していましたから。
僕が訪ねていくと
「どうせ、金をせびりに来たんだろう。
おまえさん、いくら欲しいんだ?」
などと言われる。
画集を作りたいと言っても
「写真を撮ったらすぐに帰れ。後は一切関わらない」
とか。
ところが彼はね、何度言っても、
やると言って聞かないんですよ。
俺は協力しない、二度と回る気がしないと言っても、
「どんなことでも覚悟していますから」
と言って聞かない。
でも僕はね、実はそういう人が現れるのを待っていたんです。
これだけ言ってもやると言うなら、
この人は本当にやるな、やってくれるなと思った。
僕はその十年前にいろいろな家を回った時、
こんな別れ方を遺族の方としているんです。
「私たち夫婦が死んだら、
戦死したこの弟の絵はどうなるか分からない。
それじゃ私たちは死にきれません。
お願いします。待ってますから。
保存する機関を探して必ず連絡ください」
「……分かりました」。
そう言わないと帰れない家が何軒もありました。
これでやっとあの方たちとの約束を果たせると思いました。
そして窪島さんと一緒に全国を回ることになったんですが、
彼がまた周到な人で、美術館設立への思いを
前もって文章に託して、皆に配っていたんです。
最初に栃木の農家を訪ねた時は、
爺さんが森の前に立って我われを待っていた。
そしてこう言った、僕に。
ぎゅっと強く手を握ってね。
「あれから十八年間ずうっとあなたが来られるのを
待っておりました。
弟の絵を預かるところを必ず探してくるとおっしゃったから」。
僕はその時にね、こういう人がいるんだから
こうして生きててよかったな、
これはどうしても美術館を
つくらなきゃいけないと思いました。