西端 春枝 (真宗大谷派淨信寺副住職)
『致知』2012年11月号
連載「生涯現役」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html
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最近はタクシーを使うことが増えましてね。
その時にはできるだけ運転手さんに話し掛けるようにしているんです。
怖そうな人は別だけど(笑)。
この前も「あんた、お母さんいてはるの」とお聞きすると、
小学校の頃に亡くなったと言うんですよ。
でも具体的に何月何日だったかは覚えていないし、
ある運転手さんは両親の命日を知らない。
中にはお兄さんと喧嘩して家を飛び出したから、
どこのお寺さんに行けばいいのか分からないという。
こういう人たちに出くわすと、
もう黙っていられないから
身を乗り出して説教が始まるんですよ(笑)。
彼らはいつも車で走っているので、お寺の前を通ったら、
ちょっとでも頭を下げるようにと言うんです。
それだけでもいいって。
でもね、そうすれば、自然とお母さんのことを思い出したり、
心の中でお父さんに話し掛けられるようになるんです。
そうやってご自身が亡くなるまで、
折に触れて親のことを偲ぶことも親孝行なんですよ。
そしてこのような話をしながら、
私自身もまた自分の親のことを偲んでいる。
ある運転手さんが私と話し込んで、
つい道を間違えてしまって遠回りしたことがありました。
彼はしきりに謝りましたが、
それよりも私は「遠回り」というのが懐かしいなと思ってね。
なぜかと言えば、子供の頃に母親から
「はよ帰っておいで」と言われていたんだけど、
機嫌が悪くて遠回りして帰ったことがあったんです。
つまらないことして、親を困らせてね。
そんな懐かしい母との思い出を、
思わぬ人の言葉で思い出せるんです。
父は親孝行なんて、親が生きている間に
満足にできているなんて思うな、と言っておりました。
親が子を思う心の半分も、お返しなんぞできるものではないと。
だから昔の人はお盆の時に、墓石を洗いながら
こんな詩を思い浮かべていたんです。
「父母(ちちはは)の背を流せし如く墓洗う」
いま生きていれば一遍でも背中を流してあげるのにな、
と思う時にはもう親はいないんですね。
だからせめて父母の背中を流すつもりで墓石を洗う。
こうやって一つひとつの出来事を通じて、
私たちは亡き親を偲ぶことができるんですね。