まほろばblog

Archive for 11月, 2012

まほろば歳末ギフト#1『味付け数の子』

金曜日, 11月 30th, 2012

今の時期、いよいよ歳末に向け、お歳暮と御節商品が出回ります。

まほろばでは、今年から特にオリジナル海産物に力を入れています。

その第一弾は、「味つけ数の子」。

上の写真、数の子にしては色が濃いでしょう。

でも、これが本当の数の子原卵の色なんですよ。

市販のものは、漂白剤で脱色しているから鮮やかな黄色をしています。

今年も、例年通り試験操業船の「テストロー」を仕入れる予定でしたが、全く入荷がありませんでした。

このような年は、初めてです。

その代替で、ロシア海域で、船の上でニシンの腹出しを行った原卵が入手出来ました。

価格も安く、お手頃です。

それをまほろば海産物担当の竹市さんが、味付け数の子に仕立ててくれました。

原卵の皮をいちいち剥いて、血合いを除き、きれいにした後、塩抜きしていよいよ調味液に漬けます。

材料は、小麦の白醤油に、枕崎産の一本釣り本かつをの鰹節、海の精の塩、

本格三河みりん、粗糖、焼酎、椎茸に道南真昆布の贅沢な仕込み。

なかなかの仕上がりで、師走は準備万端整いつつあり。

200g前後で¥1、480です。

まずは、味見のほどを。

「結」from下川町

金曜日, 11月 30th, 2012

㈱トータルヘルスデザインさんの近藤会長から、家庭に置く

パワースポット製作の依頼を受けたのは、もう6,7年も前になるだろうか。

本店建築の際に、黄金比で基本設計したことにヒントを得て、

これをミニマムに置物として、木質で作ることにした。

その依頼先が、北海道の下川町だった。

その下川町の記事が、先日道新に掲載された。

今や、国内でも揺るぎないエコ森林の町として知られ、

坂本龍一さんなどが、度々訪れ、その取り組みに賛同の意を表している。

それが、今頃の環境運動に端を発したというのではなく、

既に60年前から、原田前町長が遠望巨視で、「法正林思想」を実践されていた、

という驚くべき事実があったのだ。

詳しくは、まほろばで発刊した「光の町『下川町』」をお読み下さい。

なお、『結』に関しては、トータルヘルスデザインさんにお問い合わせ下さい。

http://president.thd-web.jp/e2875.html

http://www.thd-web.jp/site/taikendan/yui/no1.html

http://www.thd-web.jp/category/218.html

「幸運をつかむ3つのプロセス」

水曜日, 11月 28th, 2012

      『致知』2011年5月号
               特集「新たな地平を拓く」より

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昨年(2010年)10月、二人の日本人科学者が揃って
ノーベル化学賞を受賞され、日本国中を沸かせた。

鈴木章さんと根岸英一さんである。

そのお一人、根岸さんが特別出演された新春のテレビ番組を視聴し、
深く感ずるものがあった。

「自分は科学者だが、中小零細企業の社長と同じです」

と根岸さんは笑いながらそう話し出された。

ヒト、モノ、カネをいかに裁量するかが事業経営の要諦だが、
科学技術の開発もまた、その苦労から逃れ得ない、
ということだろう。

また、科学者は一つの研究が成ったらそれで終わりではない、

さらに新たなテーマを見つけ挑戦していかなければならない、
という話をされた。

根岸さんはいま、海水中にあるウランを活用する
技術の開発に取り組んでいると目を輝かされていた。
そして、長年のご体験から掴まれた発見に至るプロセスを
図式化して説明された。

発見はまず、こういうものが欲しい、
こうなったらいいという「ニーズ」「願望」が出発点である。

そのニーズや願望を達成するために「作戦」を練る。
この作戦でいこうと決めたら、それに沿う方向で
「系統立った探求」を始める。

この系統立った探求が難物である。
途中で、もうやめようか、と迷う瞬間が何度もある。
失敗が続き、こんなことをやっていても無駄だ、
と思う時がある。

その時、「いや、絶対に屈しない。これでいくんだ」と
思い続けられるかどうか──。

そう思い続けるには、
「知識」「アイデア」「判断」が要る。

この3つが不屈の「意志力」「行動力」を生む基になる。
これらの難関をくぐり抜けて「幸運な発見」が生まれる、
というのである。

この発見のプロセスは、科学技術に限ったことではない。
あらゆる仕事に共通した普遍の法則というべきものであろう。
新たな地平を拓くための要訣を示した法則だ、とも言える。

KAMIKAZEー神風ー

火曜日, 11月 27th, 2012

大貫妙子さんが語られていたオペラ「神風」が、来年早々東京で開幕するのですね。

お父様が、神風特攻隊の生き残りで、その辺りの消息を身近に感じておられた彼女に、

作曲家の三枝成彰さんからアリアの依頼があり、書かれたとか・・・・・・・。

詳しいことは、後日お伝えしますね。

上京される方や、東京近辺の方々でご興味のある方は、是非ご覧下さい。

「癒しと憩いのライブラリー」からのお願い

火曜日, 11月 27th, 2012

ありがとうございます!チャリティー参加

火曜日, 11月 27th, 2012

先日、23日(金)、24日(土)本店、厚別店において「興農ファーム再建、チャリティー講演会」が行われました。

前日の22日(木)には、興農ファームで、従業員向けの「何故、興農ファームの肉なのか?」を話して自覚を促し、

25日(日)には、札幌で「バーリーグリーン」の販売店に対して「インテグレード・マクロビオティック」のセミナーがあり、

4日連続の講話で、大変だったと思います。

チャリティーには、多くのお客様がおこしになり、熱心にお聞き下さいましてありがとうございました。

また、本店ではチャリティーお好み焼きも行い、総額、興農ファームの再建基金にさせて頂きます。

この場を借りまして、厚くお礼を申し上げます。

次に、お客様の森田様からご本人のご了解を得て、感想を載せさせて頂きます。

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社長様。

お久しぶりです~。

今日、厚別店に、専務のお話聞きに行ってきました。

ここ数年、体調がおかしくて、何を食べたらいいんだか、何をどうしたらいいんだか、

何やってもダメなような・・・で、ちょっと、参っていたんです。
 

そこに、このタイミングで、お話を聞くことができて。

なんというか、本当によかったです。

一緒に連れて行った、母の友人マダムも、「目から鱗だった~~!」と、

たいそう喜んでらっしゃいました。

(とても真面目な人なので、マクロとかにハマりそうな気がして、

まほろばの紹介して、まずは専務の話を聞いたらいいですよ~!とお誘いしたの。)

いやー、やっぱり専務はすごいです。

そしてこの講演、まだ続きそうで、さらに楽しみです。

専務の話、ちゃんと聞いて勉強したかった~~!!!

本当にありがとうございました。

専務にごあいさつを~と思っていたのですが、駐車場の車を出さなきゃ、とか、

バタバタしちゃって、結局ご挨拶せず、帰ってきてしまいました。

どうぞ、よろしくお伝えください。

また、次の講演も楽しみにしています。

千円じゃ、安いよ~!

スミエ。

追記・・・・・・

専務のお話は、冊子とかで読ませてもらっていたけど、今回再確認、できたような気がします。
あ~あ、と落ち込んで、くら~~くなると、なんでもネガな方に流れがち・・。
これを食べればいいんじゃないか?これは食べない方がいいんだよね~、あ~でも食べちゃった・・・(で、罪悪感)
もうねー、なにもかもこんがらがっちゃってた。

専務の自然体な話し方、すんなり、するりと、頭に入って、
やっぱり実際にお話聞く方が、いいんだわー。

というわけで、すっかりご無沙汰でございました。

スミエ

「息子の名前がつく村 ~ナカタアツヒト村~」

月曜日, 11月 26th, 2012

   中田 武仁 (国連ボランティア終身名誉大使)

                『致知』2008年9月号
                       致知随想より

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 平成4年になって間もなく、大阪大学を卒業し、
 外資系のコンサルティング会社に
 就職が決まった息子の厚仁(あつひと)から、
 1年間休職し、国連ボランティアとして
 カンボジアに行きたい、という決意を打ち明けられた。
 
 カンボジアは長い内戦をようやく抜け出し、
 国連の暫定統治機構のもとで
 平成5年5月の総選挙実施が決まった。
 
 人々に選挙の意義を説き、
 選挙人登録や投開票の実務を行う選挙監視員。
 それが厚仁が志願したボランティアの
 任務の内容だったのである。
 

 厚仁の決意は私にとって嬉しいことであった。
 商社勤めの私の赴任先であるポーランドで、
 厚仁は小学校時代を過ごした。
 
 いろいろな国の子どもたちと交わり、
 アウシュビッツ収容所を見学したことも契機となって、
 世界中の人間が平和に暮らすには
 どうすればいいのかを考えるようになった。
 

 世界市民。
 
 その意識を持つことの大切さを
 厚仁はつかみ取っていったようである。
 
 1年間のアメリカの大学留学も
 その確信を深めさせたようだった。
 国連ボランティアは、
 厚仁のそれまでの生き方の結晶なのだ、と感じた。
 
 だが、現地の政情は安定には程遠い。
 ポル・ポト派が政府と対立し、選挙に反対していた。
 息子を危険な土地に送り出す不安。
 
 私には厚仁より長く生きてきた世間知がある。
 そのことを話し、それらを考慮した上の決意かを問うた。
 厚仁の首肯(うなず)きにためらいはなかった。
 私は厚仁の情熱に素直に感動した。
 

 カンボジアに赴いた厚仁の担当地区は、
 政府に反対するポル・ポト派の拠点、コンポントム州だった。
 自ら手を挙げたのだという。
 私は厚仁の志の強さを頼もしく感じた。
 
 厚仁の任務があと1か月ほどで終わろうとする
 平成5年4月8日、私は出張先で
 信じたくない知らせを受けた。
 

 厚仁は車で移動中、何者かの銃撃を受け、
 射殺されたのだ。
 

 現地に飛んだ私は、厚仁がどんなに
 現地の人びとに信頼されていたかを知った。
 厚仁の真っ直ぐな情熱は、
 そのまま人びとの胸に届いていた。
 
 カンボジア佛教の総本山と尊崇されている寺院で、
 厚仁は荼毘(だび)に付された。
 煙がのぼっていく空を見上げた時、
 厚仁は崇高な存在になったのだと感じた。
 

 私は決意した。
 
 長年勤めた商社を辞め、
 ボランティアに専心することにしたのだ。
 そんな私を国連はボランティア名誉大使に任じた。
 
 そういう私の姿は厚仁の遺志を引き継いだ、
 と映るようである。

 確かに厚仁の死がきっかけにはなった。

 だが、それは私がいつかはやろうとしていたことなのだ。
 厚仁のように、私もまた自分の思いを貫いて
 生きようと思ったのだ。
 
 私はボランティアを励まして
 延べ世界50数か国を飛び回った。
 それは岩のような現実を素手で
 削り剥がすに似た日々だった。
 
 ボランティア活動をする人々に接していると、
 そこに厚仁を見ることができた。
 それが何よりの悦びだった。
 

 厚仁が射殺された場所は人家もない原野なのだが、
 カンボジアの各地から三々五々その地に人が集まり、
 人口約1000人の村ができた。
 
 その村を人々はアツ村と呼んでいる、と噂に聞いた。
 アツはカンボジアでの厚仁の呼び名だった。
 人々は厚仁を忘れずにいてくれるのだ、と思った。
 

 ところが、もっと驚いた。
 

 その村の行政上の正式名称が
 ナカタアツヒト村ということを知ったのだ。
 

 このアツ村が壊滅の危機に瀕したことがある。
 洪水で村が呑み込まれてしまったのだ。
 
 私は「アツヒト村を救おう」と呼びかけ、
 集まった四百万円を被災した人びとの
 食糧や衣服の足しにしてくれるように贈った。
 
 ところが、アツヒト村の人々の答えは私の想像を絶した。
 カンボジアの悲劇は人材がなかったことが原因で、
 これからは何よりも教育が重要だ、
 ついてはこの400万円を学校建設に充てたい、
 というのである。
 

 こうして学校ができた。
 
 名前はナカタアツヒト小学校。
 いまでは中学校、幼稚園も併設され、
 近隣9か村から600人余の子どもたちが通学してきている。
 
 やがては時の流れが物事を風化させ、
 厚仁が忘れられる時もくるだろう。
 だが、忘れられようとなんだろうと、
 厚仁の信じたもの、追い求めたものは残り続けるのだ。
 
 これは厚仁がその短い生涯をかけて
 教えてくれたものである。
 

 厚仁の死から15年が過ぎた。
 
 ひと区切りついた思いが私にはある。
 楽隠居を決め込むつもりはない。
 国連は改めて私を国連ボランティア終身名誉大使に任じた。
 
 この称号にふさわしいボランティア活動を、
 これからも貫く決意だ。
 
 15年前、あれが最後の別れになったのだが、
 一時休暇で帰国しカンボジアに戻る厚仁に、
 私はこう言ったのだ。
 

 「父さんもベストを尽くす。厚仁もベストを尽くせ」
 

 ベストを尽くす。
 
 これは息子と私の約束なのだ。
 
 厚仁の短い生涯が、人間は崇高で信じるに足り、
 人生はベストを尽くすに足ることを教えてくれるのである。

「人間の脳が持つ3つの本能」

土曜日, 11月 24th, 2012

              『致知』2012年12月号
               特集「総リード」より

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太古から今日まで、生命は一貫して二つの原理によって
存在している、という。

一つは代謝であり、
もう一つはコミュニケーションである。

代謝によってエネルギーをつくる。
コミュニケーションによって新しい生命を生み出す。
この二つの原理によらなければ、あらゆる生命は存在し得ない。

この生命を生命たらしめている二つの原理は、
人間の幸福の原理と対をなすように思われる。

即ち、あらゆる面で代謝(出と入)をよくすること。
そして物を含めた他者とのコミュニケーションをよくすること。
そこに人間の幸福感は生まれるのだ。

聖賢の教えは、極論すれば、この二つを円滑にするための
心得を説いたもの、とも言える。

脳の専門医、林成之氏は、どんな人の脳も
三つの本能を持っている、という。

一は「生きたい」、

二は「知りたい」、

三は「仲間になりたい」

という本能である。

この脳の本能から導き出せる
「脳が求める生き方」は一つである。

「世の中に貢献しつつ安定して生きたい」

ということである。

脳の本能を満たして具現するこの生き方は、
そのまま人が幸福に生きる道と重なり合う。
そこに大いなる宇宙意志をみる思いがする。

遠くから来た私たちは、宇宙意志のもとに、
幸福を求めて遠くまで歩み続けているのかもしれない。

喫茶「ワイズ・ワン」さんとエリクサー水

金曜日, 11月 23rd, 2012

 

今年9月23日、手稲の自宅一角でジャズ喫茶「ワイズ・ワン」を始められた伴内さん。

「致知」会員で、木鶏クラブの三田さんから、私の紹介があったらしい。

だが、それ以前5,6年前に、THDトータルヘルスデザインさんからエリクサーを購入。

既に、まほろばとはご縁があったのだ。

今年、東京の会社を退職して、札幌に帰り、趣味のジャズやクラッシクの喫茶店を開かれた。

大きな銘木のテーブル。何と屋久杉で、大阪で購入されたとか。

珈琲もすべて有機栽培の豆を使ってのブレンド。

コルトレーンブレンドなどのネーミングが面白い。

手稲山山系の名水をさらにエリクサーで磨く、お客様から好評と聞く。

自慢のスピーカーJBLと浄水器ELIXIRで、千客万来を祈りたい。

「高畠導宏さんに学んだ本物の生き方」

金曜日, 11月 23rd, 2012

        隈本 豊 (筑紫台高等学校副理事長・前校長)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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八年前の夏、一人の高校教師が膵臓がんでこの世を去った。
高畠導宏、享年六十―。

プロ野球七球団で約三十年にわたり打撃コーチを務め、
落合博満、イチロー、小久保裕紀など、
数々の好打者を育て上げた指導者でもあった。

彼との出会いは平成十四年秋。
福岡の筑紫台高校で私が校長を務めていた時、
共通の知人を通じて知り合った。

かつてダイエーホークスで打撃コーチをしていた高畠さんは、
チームの本塁打数が激減した要因を、
本拠地がドームに変わり、球場が広くなったことに対する
精神面の変化にあるのではないかと考え、
五十代半ばにして心理学の勉強を始めるようになる。

心理学を学ぶのには教職課程が最適とよくいわれるが、
彼はコーチ業の合間を縫って
日本大学の通信課程を五年掛かりで履修。

その上で教員免許の取得に必要となる教育実習を、
私の高校で受け入れてもらえないかと
相談を持ち掛けてきたのだった。

私は実習期間中に全校集会で講演してもらうことを
条件に引き受けることにした。

実際に講演を聴いてみると、実に話が上手い。
自らの失敗談も交えながら、その失敗に挫けず、
経験として生かしていくことが大事だと語る。

本校の生徒には県立高校の受験に失敗し、
挫折感を抱えている者が少なくない。

高畠さんはそういう彼らに
「君たちは物凄いバネを持っているんだ」
「失敗を生かせ」と逆に励ましてみせる。

素晴らしいと感嘆した私は、彼にこの学校で
教員免許を生かす気はないかと持ち掛けた。

高畠さんはプロ野球の世界で、複数年契約をせず、
常にクビと隣り合わせの一年契約を自ら志願してきた人である。

監督の指導方針と合わなかったり、
自分の持つ能力を十分に活用してくれないのであれば
いつでもチームを変わる、
そういう覚悟を絶えず持っていたのだろう。

私は四十年近く県立高校の教員をし、
校長も何校かで経験してきたが、
大半の教員にはそれだけの覚悟がない。

加えて、初めて赴任する私立校は県立校とは
質の異なる様ざまな問題を抱えており、
彼ならばきっとこの学校の体質を変えてくれるに
違いないとの期待があった。

その頃、すでに某プロ野球チームからの
オファーが掛かっていたが、結果的に彼は
その誘いを断って本校へ来る決断をしてくれた。

新校長として赴任した私に対して
「教育の素人を雇うような中途半端なことをやっとって、
  学校教育ができるか」
と厳しい言葉もいただいた。

私は反論こそしなかったが、
人にものを教える際に問われるのは、
教養もさることながら、一人の人間としてのあり方だ
という信念があった。

高畠さんにはここで通用しなければいつでも腹を切れる
という覚悟が備わっており、彼はまたそのための努力を人一倍し、
持てる愛情のすべてを子供たちに懸けるという姿勢を貫いていた。

高畠さんは本校へ来て
「三年以内に甲子園で全国制覇する」と宣言していた。

もっとも、プロ野球の経験者は教師になっても
二年間は高校野球の指導が禁止されているのだが、
私も彼にならそれができるはずだと信じていた。

だからこそ、病院の検査を受けた彼から
「余命六か月です」との報告を突然受けた時は
返す言葉もなかった。

膵臓がんは進行が早いのとは対照的に、
症状が乏しく早期発見が難しい。

体の丈夫さには誰よりも自信を持っていただけに、
普段のケアが疎かになっていたのかもしれない。
まだ六十歳の、あまりにも早過ぎる死だった。

高畠さんが本校にいたのはたった一年半にすぎなかったが、
その後、大学への進学率が着実に伸び始めた。
さらに彼は剣道部の生徒たちの持つ目に惚れ込み、
試合の応援にも欠かさず駆けつけた。

剣道部にはいまも高畠さんの書による
「氣力」の文字が飾られており、
女子剣道部はインターハイで二年連続日本一になるなど
全国有数の強豪校となっている。

また直接指導することはなかったが、野球部には
「伸びる人の共通点」として彼の挙げた七つの言葉が残っている。

※高畠氏が生徒たちに伝えた
「伸びる人の7つの共通点」とは?
 また、氏は最後の授業で何を語りかけたか――。