まほろばblog

Archive for 11月, 2012

天才建築家・ガウディの遺志を継承する

火曜日, 11月 6th, 2012

    彫刻家・外尾悦郎氏の幸福論

        『致知』2012年12月号
          特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆ この34年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、
   私がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がありましてね。

  「いまがその時、その時がいま」というんですが、
   本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、
   その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、
   いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。
 
   憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、
   だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければいけないと思うんです。

 ◆ 人は答えを得た時に成長するのではなく、
   疑問を持つことができた時に成長する。

 ◆ 仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが何よりも大切で、
   完璧に条件が揃っていたら逆にやる気が失せる。
   たやすくできるんじゃないか、という甘えが出てしまうからです。

 ◆ 本来は生きているということ自体、命懸けだと思うんです。
   戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、
   いま自分は生きていると感じる。

   病で余命を宣告された人が、
   きょうこの瞬間に最も生きていると感じる。

   つまり、死に近い人ほど生きていることを強く感じるわけで、
   要は死んでもこの仕事をやり遂げる覚悟が
   あるかどうかだと思うんです。

 ◆  当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、
   まだ子供で未熟です。それを今回の震災が教えてくれました。

   本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。
   それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。

………………………………………………………………………………………………
(編集部より)

  不世出の建築家アントニオ・ガウディが設計した
  「サグラダ・ファミリア教会」。

  着工から130年の歳月を経たいまなお未完のまま工事が続く
  壮大な聖堂の建設に、日本人として参加してきたのが
  彫刻家・外尾悦郎氏です。

  外尾氏に初めてお目にかかった時、
  全身から漲る強烈なエネルギーに圧倒されました。

 「この仕事がうまくいかなければ明日はない」という過酷な世界の中、
  一回一回、「これが最後の仕事だ」という思いで
  真剣勝負をし続けてこられた方だけが持つ迫力ではないかと思います。

  ぜひ本誌のインタビュー記事から、
  外尾氏の“熱”を感じ取ってください。
  http://www.chichi.co.jp/monthly/201212_pickup.html#pick3

……………………………………
○サグラダ・ファミリアとは?
……………………………………

 正式名称はサグラダ・ファミリア贖罪教会。
 聖母マリアの夫ヨセフを信仰する教会として1882年に着工。
 翌83年、前任者が辞任したことによりガウディが引き継ぐこととなり、
 没後その遺志は弟子たちに委ねられた。

 設計図が残っていないため、ガウディの建築思想を想像する形で
 建設は進められている。

 完成すれば170メートルを超す「イエスの塔」など
 18の塔と3つの門を持つが、完成するのは
 数十年後とも数百年後ともいわれる。

感謝!3.11チャリティーお好み焼き

月曜日, 11月 5th, 2012

3日(土)に、開かれた「東日本大震災チャリティーお好み焼き」。

多数の方々の義援金を頂きまして、ありがとうございました。

60名さまのご購入で¥30、000を頂くことができました。

全額、ヤンジー「災害支援ネットワーク北海道」に、

この月末、南三陸行の活動諸費に当てさせて頂きます。

また、毎日少しづつ戴いておりますエリクサー基金も

お役に立てさせて頂きますので、よろしく了解のほど、お願い申し上げます。

詳細は後日させていただきます。

それにしても、何事も経験は無駄にならず。

穂積店長の若き日の経験が、尊くも皆様のお役に立っています。

若者よ、苦労は買ってでもしましょうね。

「九十五歳の回想 ~人生は蒔いた種のとおりに~」

月曜日, 11月 5th, 2012

        折小野 清則
       (おりこの・きよのり=折小野農園代表者)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘

鹿児島県薩摩郡さつま町の山間に
「折小野(おりこの)ひがん花ロード」という道があります。

毎年秋のお彼岸の頃になると、
約四キロにわたり道の両側にひがん花が一斉に咲き誇ります。

もともとこの道は舗装されていない山道でした。

いまから十五年前に立派なコンクリートの道をつくっていただき、
当時八十歳だった私は何らかの感謝の思いを伝えたいと思いました。
そこで生命力と繁殖力の強いひがん花の球根を
人知れず植えていきました。

一つずつ、一尺(約三十センチ)置きに。
最初の年は誰も気づきませんでした。
二年が経ち、三年が経った頃、村の人たちが

「なんであの道の両脇に
 あんなにたくさんのひがん花が咲くんだろう?」

「誰がやったんだ?」

と話題になっておりました。私の近隣の方が、

「そういえば、清則さんが毎朝暗いうちから出掛けていた」

という話から、私が植えていたことが知れることとなりました。

いつしか噂は広まり、季節になると
遠方からわざわざ見に訪れる方もいるそうです。

現在は下草の手入れなどは町役場が行ってくれて、
「折小野ひがん花ロード」という大きな看板もつくってくれました。
九十五年間懸命に生きてきて、このように皆さまに
喜んでいただけることが何より誇らしく思います。

私は大正六年、この集落で農家を営む
折小野栄の長男として生まれました。

私も農家になるものとばかり思っていましたが、
十五歳の時に人生の大きな転機が訪れました。
地元からシンガポールに出て、漁業で成功された「南海の虎」
こと永福虎さんが私の中学校に講演にいらしたのです。

講演終了後、校長室に呼ばれました。

先生はこう言いました。

「折小野君、君は外国に行きたくはないか」

なぜ私が呼ばれたのかは分かりませんが、私はすぐに
「はい、行ってみたいです」と答えました。

永福さんは
「外国に行ったら十年は帰れないぞ。それでもいいのか」
とおっしゃるので、「はい、構いません」と申しました。

外国に行ったら何かいいことがあるように思ったのです。

いまにして思えば、両親はよくぞ長男の私を異国へ出したものです。
現代ではシンガポールも飛行機ですぐでしょうが、
当時、田舎に住む両親にとって月の世界へ送り出すような
感覚だったのではないでしょうか。

シンガポールでは二年間は事務所の手伝いをしましたが、
三年目からは志願して漁船に乗り、赤道を越えて
南シナ海やインド洋にも行きました。

その後、新たにできた製氷所のチーフエンジニアとして
働いていた時、大東亜戦争が勃発したのです。

当時シンガポールは英国領でしたから、私たちは捕虜となって、
灼熱の国インドの収容所へと送られました。
食料はない、連日四十度を超す暑さで、
毎日二~三人の日本人が死んでいきました。

この収容所には子供もおりました。
最初は一緒に連れられてきた先生が教えていましたが、
昭和十七年に第一次交換船によって帰国された方が多く、
その選にもれた子女は教育を受けられないままでした。

キャンプ内でただぶらぶらと過ごす子供たちは遊ぶことにすら
情熱を失った様子でした。このままではいけない。
二十代前半だった私は文学青年だったこともあり、
先生に推挙されました。

「日本の子供たちに負けるな」を合言葉に、灼熱の中、
必死で勉強し合ったことが昨日のように思い返されます。

敗戦を迎えた時が私の人生で一番の危機であったかと思います。
敗戦を伝えに磯貝陸軍中将と沢田連隊長がお見えになり、
私は悲しみのあまり自殺したいと思いました。

ところが「あの二人は偽者で、本当は日本は勝っているはずだ」と
言い出す者が現れ、賛同する者も多く、
子供たちに敗戦と伝えた私たちも襲撃され大怪我をする始末。

犯人を出すようにという厳しい命令も聞かず、暴動化し、
鎮圧するために、向こうの兵士が五十名ほど入ってきました。

「日本は勝っているのだから、銃を撃つはずがない」

棒を持って向かっていった人たちは、たちどころに撃たれました。
私にもその血しぶきが飛んでくるほど間近で十七名が死にました。

そこで奇跡的に助かり、板子一枚下は
地獄の船で日本へ帰国。敗戦直後の地元で貧しい中で農業に従事。

同時に女性ばかりだった生命保険の仕事もやり、
鹿児島県一になったこともありました。

山間の集落なので水田には向かず、
皆が苦しんでおりましたので、思い切って新たに山を開墾し、
ミカン畑に切り替えたこともございます。

その間、十七歳だった長男を水死で失い、ひどく落胆しましたが、
翌年次男が誕生するということもありました。

これまでの人生、いつ死んでもおかしくなかったのに
不思議と九十五歳の今日まで生かされてきました。

思いがけないことの連続でしたが、
しかし蒔かぬ種は生えぬよう、
諦めの種からは諦めの人生、
希望の種からは希望の人生、
感謝の種からは感謝の人生になるのだと思います。

私が植えたひがん花は時期が来たら必ず花を咲かせます。
その花が、私がこの生の役目を終えた後も
村の人たちの心を和ませることができたら、幸せに思います。

「百度と九十九度の違いを意識する」

月曜日, 11月 5th, 2012

      高野 登 (人とホスピタリティ研究所主宰)

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

└─────────────────────────────────┘

最初に齋藤泉さんの存在を知ったのは
僕がまだリッツ・カールトンにいた頃でした。

山形新幹線で驚異的な売り上げを誇る乗務員がいると。
しかも二か月更新のパート契約の立場だという記事を週刊誌で見て、
「こういう仕事の仕方をされている人がいるんだ」と。

リッツ・カールトンで我われが考えている立ち位置と
似ているなと思って興味があったんです。

リッツ・カールトンでは九十九度と百度の違いを
意識しているんですね。

九十九度は熱いお湯だけれども、
あと一度上がって百度になると蒸気になって、
蒸気機関車を動かす力が出る。

しかし、九十九度ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
この一度の違いを意識しながら仕事をすることが、
リッツ・カールトンの仕事の流儀でした。

だから最初に齋藤さんの記事を読んだ時、
この人は百度だと思った。

百度の仕事とは、誰もがしている仕事を、
誰も考えないレベルで考え、
懸命に汗を流さないと見えてこない世界です。

まほクリスマスケーキ試作成功!

土曜日, 11月 3rd, 2012

今までにないたいへんなケーキ作りでした。

思い描くように、なかなか進まない。

最後に残った三種類のスポンジの使える所だけ、そぎ落としたら

なんとか土台となる3枚が残りました。

どんなまずいケーキができるんだろう?

仕上げをしているうちに、やっとケーキと一体になっていき、

最後に感動して胸いっぱい、そして星が出て来た。

目の前にある、すべて受け入れる、愛することで、一つの形になる。

神様はケーキ作りを通してそう教えてくれました。

やっと今、大きな愛に包まれています。

                       大和 八千代

 

びっくりするほど美味しいケーキでした。

味に、厳しくうるさい専務が、久しぶりに「美味しい!!」と言いました。

抹茶とチョコとプレーンの三重スポンジが絶妙なハーモニーを生み、

カスタードや生クリームが適度なアクセントとつけて、

一大シンフォニーが奏でられました。

ご期待下さい、今年のクリスマスは・・・・。

追って詳細は、お知らせいたします。

「ウメボシマンは禁止だぞ」

土曜日, 11月 3rd, 2012

     平 光雄(小学校教諭)

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html

└─────────────────────────────────┘

 まずはこの一枚の紙芝居をご覧ください。
 http://ameblo.jp/otegami-fan/

 真ん中には小さな赤丸が描かれており、
 その中には中心部分に向いた矢印が描かれています。

 実はこの赤丸は「自分」を表したもので、
 矢印が自分にばかり向いていることから、
 他人のために何かをしてあげようという
 奉仕の心のない人間をイメージ化したものなのです。

 たまたま最初にこれを見た子供たちから、
 「ウメボシだ」という声が上がったことから、
 私はこういう人間のことを「ウメボシマン」と呼ぶことにしました。

 そして、もう一枚の絵には小さな赤丸から外に向かって
 いっぱい矢印を書き込んであります。
 成長というのは、矢印を外に向けて発していき、
 リンゴとかスイカくらいに広がっていくことなんだよと、教えるのです。

 奉仕の心や人に尽くすことが大事であることは誰もが知っていても、
 それが自然にはなかなか出てこないものです。

 ところがこの紙芝居を見せることで、
 自分のことばかり考えている人間を
 イメージとして捉えることができるのです。

 例えば自分勝手な行動をとる子供に、
 「あいつはウメボシマンだ」と言うだけで、
 大事な価値観を教えることができる。

 考えてみてください。

  同じことを子供に伝えようとして、片や

「ウメボシマンは禁止だぞ」

 と言うのと

 「こら、自分のことばかり考えて行動するな」

 と言うのとではだいぶ違うでしょう。

 後者のようなことを何度も言われると
 説教臭くて本人も嫌になってしまいますが、
 前者であれば笑って受け入れることができるのだから不思議なものです。

 そしてこういった話が契機となって、
 人のお世話をしてあげられるようになったり、
 自分のゴミではなくても拾って捨てられる子供が
  出てくるようになっていくのです。
 

安全な消火剤「コールドファイヤー」

金曜日, 11月 2nd, 2012
YouTube Preview Image

11月4日(日)19時から、フジTV「ほこ×たて」の番組でコールドファイアーの出演が決定!

「どんな火でも消すスプレー」VS「絶対に火が消えないバーナー」

どうなるんでしょう?お見逃しなく。

まほろばでは、特売日の9日から店頭に登場します。

『望郷 ~二つの国 二つの愛に生きて~』

金曜日, 11月 2nd, 2012

以前、ドキュメントで蜂谷さんの劇的な半生を観て、

感動というより激しい衝撃を受けました。

こんな凄まじい人生があるのだろうか。

こんな深い人間愛と信頼があるのだろうか。

その一端が垣間見れるロシア人妻だった方からの手紙を・・・・・

新書、私も是非読みたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

想像を絶する苦難を生き抜いた闘争記

  『望郷 ~二つの国 二つの愛に生きて~』

    蜂谷 彌三郎

─────────────────────────────────

◆ クラウディアからの手紙

    *     * 

 一切の責任は戦争にあるのです。

 私は、心からあなたを理解しておりました。
 ご両親や弟妹、たった生後1年あまりで別れた
 娘さんや奥さんがいる祖国を、恋しく思うあなたの心のうちを……。

 私たちは、こまごまとしたそのすべてを思い浮かべて、
 涙とともにいつも思い出話は尽きませんでした。
 食事の時間も忘れて身を砕くようにして、
 ただ一心不乱に働きましたね。

 そして、長い年月が流れました。
 私たちはようやく、その人たちが健在であることを知ったのでした。
 娘さんやお孫さんたち、
 それに年老いた奥さんが一途にあなたの帰りを待ち焦がれていることを……。

 今、年老いたあなたが多くの病を抱えて、
 一切が失われたようだった祖国へやっと帰っていくのです。
 奥さんや娘さん、お孫さんたち、
 弟妹、友人たちが待っている祖国へと……。

         *     * 

 終戦直後に身に覚えのないスパイ容疑でソ連軍に連行されてから、
 51年に及ぶ抑留生活を送られた蜂谷彌三郎氏。

 そんな蜂谷氏を支え続けたのが、この手紙の主である
 ロシア人女性・クラウディアさんでした。

 そして日本を離れてから51年目に訪れた
 日本への帰国の機会。

 後ろ髪を引かれる思いでロシアを後にする蜂谷氏に
 手渡されたのがこの手紙でした。

 手紙はさらにこう続きます。

        *     * 

 もはや私たちは、再び会うことはないでしょう。
 これも私たちの運命なのです。

 他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることは、
 私にはどうしてもできません。

 あなたが再び肉親の愛情に包まれて、
 祖国にいるという嬉しい思いで、私は生きていきます。

 私のことは心配しないでください。
 私は自分の祖国に残って生きていきます。
 私は孤児です。
 ですから、私は忍耐強く、勇敢に生きていきます。

 私たちは、このように運命づけられていたのでした。
 37年あまりの年月をあなたと共に暮らせたこと、
 捧げた愛が無駄ではなかったこと、
 私はこの喜びで生きていきます。

 涙を見せずに、お別れしましょう。
 過去において、もし私に何か不十分なことがあったとしても、
 あなたは一切を許してくださると思います。
 あなただけは、この私を理解してくださると信じています。
 私が誠実な妻であり、心からの友であったことを……。

 あなたたちの限りない幸せと長寿を、
 心から祈り続けることをお許しください。

 1997年3月21日 クラウディアより

 親愛なる彌三郎さんへ

    *     *

 苛酷な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、
 激動の人生を生き抜かれた蜂谷さんの人生を支えたのは、
 クラウディアさんの無私の愛と、日本に対する望郷の念でした。

 そしてもう一人、蜂谷氏を思い続けていたのが
 娘とともに長年にわたって帰国を待ち続けた
 妻・久子さんでした。
 

 祖国とは何か、運命とは何か、
 愛とは何かを教えてくれる蜂谷氏の波乱の生涯が
 壮大なスケールで描かれた感動の一冊。
 ぜひ、お読みください。

 再来年には本書をベースにして、
 映画化が予定されています。

……………………………………………………………………………………
 <目次>
 
プロローグ すべてはこうして始まった

第一章 私の原点 母への誓い

第二章 運命の激流 スパイの汚名を着せられて

第三章 望郷の思い シベリアおろしの夜は更けて

第四章 クラウディア 深い愛に包まれて

第五章 帰国 愛する祖国へ

あとがき

……………………………………………………………………………………

 ● 再来年、映画化予定!

 『望郷』 1,575円(税込) 蜂谷彌三郎・著
 → http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=977

「天のしずく」辰巳芳子さん出演

木曜日, 11月 1st, 2012

YouTube Preview Image

YouTube Preview Image

YouTube Preview Image

 

料理研究家・辰巳芳子さんの映画『天のしづく 辰巳芳子 いのちのスープ』が上映されます。

北海道は「札幌シネマフロンティア」「シネマ太陽帯広」で公開されます。

辰巳芳子さんプロフィール

NPO「大豆100粒運動を支える会」、NPO「良い食材を伝える会」、「「確かな味を造る会」会長。

自宅で「スープの会」主宰。

料理研究家の草分け的存在である母・辰巳浜子の志を継ぎ、家庭料理、西洋料理の研究を行う。

母から家庭料理を学び、宮内庁大膳善寮で修行を積んだ加藤正之にフランス料理の指導を受け、

イタリア、スペインなどで西洋料理の研鑚も重ねる。

病苦に苦しむ父への介護食「いのちのスープ」に代表される家庭料理の大切さを

雑誌、著作、テレビなどで伝えている。

近年は安全で良質な食材を次世代に残したいとNPOの活動を通して

「命に直結した食の大切さ」を訴え続けている。

興農ファームの本田代表からこの本いい!と勧めてくれたのが、

辰巳さんの「食といのち」でした。その中の福岡氏の発言、

「私たちの体が、

絶え間なく刷新されつつ動いている、

非常に動的なものなんですね。

その動的な回転を止めないために、

私たちは食べ続けている。

この「動的回転」が即ち「いきている」ことに

他なりません。(福岡)」

モンサントの恐怖!

木曜日, 11月 1st, 2012
YouTube Preview Image

豊平「知恵の木」さん主催の映画「モンサントの不自然なたべもの」が上映されます。

農業大国フランスで150万人もが鑑賞し、話題となったドキュメンタリー。
アメリカに本社を持つ多国籍バイオ科学メーカー、モンサント。
世界の遺伝子組み換え作物市場の90%を牛耳る企業の裏側に迫る。
食の安全性や環境への配慮を軽視し、利益追求に傾倒する企業の知られざる歴史が
数々の証言や文書により白日の下にさらされていく衝撃的な作品。
 
詳しいことやチケットは、直接宮本さんにご連絡ください。