折小野 清則
(おりこの・きよのり=折小野農園代表者)
『致知』2012年11月号
致知随想より
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鹿児島県薩摩郡さつま町の山間に
「折小野(おりこの)ひがん花ロード」という道があります。
毎年秋のお彼岸の頃になると、
約四キロにわたり道の両側にひがん花が一斉に咲き誇ります。
もともとこの道は舗装されていない山道でした。
いまから十五年前に立派なコンクリートの道をつくっていただき、
当時八十歳だった私は何らかの感謝の思いを伝えたいと思いました。
そこで生命力と繁殖力の強いひがん花の球根を
人知れず植えていきました。
一つずつ、一尺(約三十センチ)置きに。
最初の年は誰も気づきませんでした。
二年が経ち、三年が経った頃、村の人たちが
「なんであの道の両脇に
あんなにたくさんのひがん花が咲くんだろう?」
「誰がやったんだ?」
と話題になっておりました。私の近隣の方が、
「そういえば、清則さんが毎朝暗いうちから出掛けていた」
という話から、私が植えていたことが知れることとなりました。
いつしか噂は広まり、季節になると
遠方からわざわざ見に訪れる方もいるそうです。
現在は下草の手入れなどは町役場が行ってくれて、
「折小野ひがん花ロード」という大きな看板もつくってくれました。
九十五年間懸命に生きてきて、このように皆さまに
喜んでいただけることが何より誇らしく思います。
私は大正六年、この集落で農家を営む
折小野栄の長男として生まれました。
私も農家になるものとばかり思っていましたが、
十五歳の時に人生の大きな転機が訪れました。
地元からシンガポールに出て、漁業で成功された「南海の虎」
こと永福虎さんが私の中学校に講演にいらしたのです。
講演終了後、校長室に呼ばれました。
先生はこう言いました。
「折小野君、君は外国に行きたくはないか」
なぜ私が呼ばれたのかは分かりませんが、私はすぐに
「はい、行ってみたいです」と答えました。
永福さんは
「外国に行ったら十年は帰れないぞ。それでもいいのか」
とおっしゃるので、「はい、構いません」と申しました。
外国に行ったら何かいいことがあるように思ったのです。
いまにして思えば、両親はよくぞ長男の私を異国へ出したものです。
現代ではシンガポールも飛行機ですぐでしょうが、
当時、田舎に住む両親にとって月の世界へ送り出すような
感覚だったのではないでしょうか。
シンガポールでは二年間は事務所の手伝いをしましたが、
三年目からは志願して漁船に乗り、赤道を越えて
南シナ海やインド洋にも行きました。
その後、新たにできた製氷所のチーフエンジニアとして
働いていた時、大東亜戦争が勃発したのです。
当時シンガポールは英国領でしたから、私たちは捕虜となって、
灼熱の国インドの収容所へと送られました。
食料はない、連日四十度を超す暑さで、
毎日二~三人の日本人が死んでいきました。
この収容所には子供もおりました。
最初は一緒に連れられてきた先生が教えていましたが、
昭和十七年に第一次交換船によって帰国された方が多く、
その選にもれた子女は教育を受けられないままでした。
キャンプ内でただぶらぶらと過ごす子供たちは遊ぶことにすら
情熱を失った様子でした。このままではいけない。
二十代前半だった私は文学青年だったこともあり、
先生に推挙されました。
「日本の子供たちに負けるな」を合言葉に、灼熱の中、
必死で勉強し合ったことが昨日のように思い返されます。
敗戦を迎えた時が私の人生で一番の危機であったかと思います。
敗戦を伝えに磯貝陸軍中将と沢田連隊長がお見えになり、
私は悲しみのあまり自殺したいと思いました。
ところが「あの二人は偽者で、本当は日本は勝っているはずだ」と
言い出す者が現れ、賛同する者も多く、
子供たちに敗戦と伝えた私たちも襲撃され大怪我をする始末。
犯人を出すようにという厳しい命令も聞かず、暴動化し、
鎮圧するために、向こうの兵士が五十名ほど入ってきました。
「日本は勝っているのだから、銃を撃つはずがない」
棒を持って向かっていった人たちは、たちどころに撃たれました。
私にもその血しぶきが飛んでくるほど間近で十七名が死にました。
そこで奇跡的に助かり、板子一枚下は
地獄の船で日本へ帰国。敗戦直後の地元で貧しい中で農業に従事。
同時に女性ばかりだった生命保険の仕事もやり、
鹿児島県一になったこともありました。
山間の集落なので水田には向かず、
皆が苦しんでおりましたので、思い切って新たに山を開墾し、
ミカン畑に切り替えたこともございます。
その間、十七歳だった長男を水死で失い、ひどく落胆しましたが、
翌年次男が誕生するということもありました。
これまでの人生、いつ死んでもおかしくなかったのに
不思議と九十五歳の今日まで生かされてきました。
思いがけないことの連続でしたが、
しかし蒔かぬ種は生えぬよう、
諦めの種からは諦めの人生、
希望の種からは希望の人生、
感謝の種からは感謝の人生になるのだと思います。
私が植えたひがん花は時期が来たら必ず花を咲かせます。
その花が、私がこの生の役目を終えた後も
村の人たちの心を和ませることができたら、幸せに思います。