外尾悦郎(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)
『致知』2012年12月号
特集「大人の幸福論」より
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【記者:外尾さんのこれまでの原動力となってきたものは何ですか】
私が外国の地で仕事をするには、
労働許可を得るのにも大変な労力が要るんですね。
毎年、長い行例に並んで書類を山のように集め、
それをまとめたり、提出しに行ったり。
何日もの日数が無駄になるようなことをしながらも、
同時に他の人に打ち勝つ作品をつくっていかなければならない。
でも私は条件が厳しければ厳しいほど
逆にいい仕事ができると思っているんです。
周りのスタッフにあれこれ注文をつけ、
それを叶えてもらうより、限られたスペースの中、
道具も時間もこれだけしかないという条件で
やったほうがいい仕事ができる。
完璧な条件はこちらに仕事をさせてくれません。
仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが
何よりも大切で、完璧に条件が揃っていたら
逆にやる気が失せる。
たやすくできるんじゃないか、という甘えが
出てしまうからです。
果物の木でも、枝の分かれた所に石を置いてやる。
そうすると木が苦しむんですが、
それによって枝が横に伸びて表面積が広がり、果実も多くなる。
大事に大事に育てた木には実があまりなりません。
私は皆さんからよく
「外尾はなぜそんなことに気づくんだ?」
と聞かれるんですが、ガウディには
皆が同じように接しているはずなのに、
外尾は電車を待っている時や掃除をしている最中でも、
ガウディのことと絡めていろいろなことに気がつく。
その理由を知りたい、と。
これは私だけでなくどんな人もそうだと思うのですが、
苦悩する人はもう、気づかざるを得ないんですよ。
同じ状況にいても、苦悩しない人は何も気づかない。
気づく必要がないからです。
本当に何かを知っていくためには、苦悩を重ねる必要がある。
人はなぜ自分の命を懸けてまで山に登るのか。
自分にできるかできないか分からないことに対する挑戦、
自らを奮い立たせる勇気、そして苦しみ。
息も絶え絶えになりながら山を登り切り、
自分の限界を超えて頂上に達した時の喜び。
その喜びがあるから山に登るのだと思う。
そうした苦悩の上に立って、当たり前のことを
心から幸せに思える人は幸せだと思うんです。
当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、
まだ子供で未熟です。
それを今回の震災が教えてくれました。
本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。
それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。