まほろばblog

Archive for 2月 5th, 2013

一枚の写真から

火曜日, 2月 5th, 2013

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たまたま、珍しく買った『文芸春秋』新年号。

最後の方に沢木耕太郎氏の書いた『キャパの十字架』を、読むとはなしに読んだ。

それが、読めども読めどもなかなか終わらない、

309枚にも及ぶ渾身のノンフィクションだったのだ。

これは世界が激震する、あるいは信疑に杭を打つ決定的なスクープであった。

キャパといえば、あの戦争報道写真家の故ロバート・キャパだ。

そのキャパをキャパたらしめた決定的な一枚の写真が、上の『崩れ落ちる兵士』。

誰もがどこかで目にしたはずの一枚なのだ。

当時ライフ誌に掲載されたのを初め、世界にセンセーショナルな話題を提供した。

だが、それは戦闘場面ではなく、訓練だった。

そして、撃たれたのではなく、こけた(笑い話である)。

さらに、それは恋人ゲルダが写したカメラの一枚だった。

という隠された真実を、作家沢木氏は、それは執拗のうえにも執拗といえる執念で、

次から次へと、真事実を暴いていったのだ。

そして、CG技術が、当時の撮影設定を正確に再現した。

明らかに、有無も言わせぬ説得力に舌を巻いたのは私ばかりではなかろう。

それまで喧々諤々と論争されたこの写真に決定的な結論を下した。

その力作にNHKも動き、とうとうスペシャル特番を組み、

現地に入り、特別CG班も結成された。

何と76年目にして明らかになった事実なのだ。

その後、キャパは、戦場で逝ったゲルダを捜すかのように、そして、

この封印された事実を胸の奥に仕舞い、その事をあがなうかのように、

ノルマンディーを初め、戦闘員と共に銃弾が飛びかう危険地帯に、

死も恐れず、むしろ何時死んでもよい覚悟でシャッターを切り続けた。

それは、戦争キャメラマンとして不動の地位と名声を獲得したものだった。

そして40を過ぎて、ベトナムで帰らぬ人となった。

時代の趨勢が、科学の力で、今まで想像だにしなかった事実を覆すことを垣間見た。

そこには、事実を事実として直視する、あるいは再考させる別の道筋を開く。

真実を知る人間の彼方の目線の直向さを讃える。

だが一方、人が人をあやめる愚かさ、祖国を追われる怒り、家族を失う哀しみ、

あのピカソが描いた『ゲルニカ』の世界に告発した一枚の絵。

同じような足場に立ったギャパの恣意か偶然か分からぬ一枚の写真の衝撃。

それはピカソと同じ人間の愚行と残虐からの厭離を訴えていたはずだ。

それが名声であろうが、風聞であろうが・・・・。

この評議の末を、私は知らないし、また出来ない。

またギャパの行為の責を問う資格は、私には持ち合わせてはいない。

ただ、彼の出自はユダヤであったということを、私達は知らねばならない。

 

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富田少年の70年後に咲いた花

火曜日, 2月 5th, 2013
YouTube Preview Image

先日のNHKBSで放映された、「冨田勲×初音ミク『イーハトーヴ交響曲』」をご覧になった方も多かろうと思う。

私は、富田さんが宮沢賢治をどうのように楽曲化するのであろうか、という興味で偶々観た。

そこに、初音ミクというどこかで聞いたことのあるようなバーチャル歌手が唄うという設定であった。

そういえば、あの磯さんがミクのことを話していたっけ、と思い出したのだ。

札幌出身のミクを誕生させたのは、磯さんの仲間達だったのだ。

この初音ミクがアメリカでも大ブレークしていることなど露知らず、全く興味がなかったのだ。

しかし、TVから放映された多くのテクノ集団の極めて手作業のこんだ集大成とも言える楽曲と動画は、

中東風のメロディに、「あたしは初音ミク かりそめのボディ 妖しく見えるのは かりそめのボディ ・・・」と唄う。

(オケのコンダクターに合わせてシンセと3Dが動くという世界初の試みに成功!したのだ)

正体不明の風の又三郎や早逝した妹トシを重ね合わせたような浮遊感の漂うミクに、不思議な実在感を感じた。

あのドビッシーをシンセで塗り替えた衝撃的なデビュー盤から何十年経っているだろうか。

だが、彼の根底には、あのテーマ曲「新日本紀行」や、「きょうの料理」の国民が共感する日本が鳴り響いているのだ。

CGやIT映像には、極めて拒絶反応する私だが、御歳80もの富田先生が惹かれて製作共演したミクに、なんだかホロリとしてしまった。

何か、哀歓があったんだなー、としばし、「あたしは初音ミク かりそめのボディ ・・・」のメロディーが耳に残った。

そして、今あえて果敢にこれに取り組ませたのは、やはり3・11への哀歌であろう。

富田少年の心深くに語りかけた東北少年・賢治の一篇一篇が結実したようだった。

そういえば、私も賢治少年だったなー、と半世紀前を懐かしむ自分がいた。

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http://billboard-cc.com/classics/2012/11/post-15.html

構想10余年「世界のTOMITA」、進化の結晶! -初音ミク、「イーハトーヴ」交響曲に舞う-
音楽の無限の可能性を探求し、ビルボード・クラシカルチャート連続第1位(「月の光」「展覧会の絵」「惑星」)を獲得、世界の音楽史の先端を築いた冨田勲。生誕80周年を迎えた2012年、巨匠、富田勲の進化の結晶となる「イーハトーヴ」交響曲が時空を超えた宮沢賢治の世界を創出します。人間や自然を超越した宇宙的な力を音楽化する壮大な交響曲は、東北の大地と人々がいかに強く結ばれているかを全世界に示し、生命の賛歌を高らかに響かせます。そして、総勢約300人におよぶ管弦楽、歌手、合唱団を率いる大友直人指揮による劇的な展開とともに、現代アートの最先端を走る初音ミクがこの壮大なシンフォニー空間に躍動。3Dイメージの初音ミクが華麗なパフォーマンスを次々と披露します。「注文の多い料理店」の物語の中に妖艶に変幻したミクが登場、可憐な歌声とダンスで魅惑のメロディーを歌い上げます。さらに「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」等、賢治の時空を超えた世界に登場。冨田勲が導く、シンフォニーサウンドのなかで、初音ミク歌い、舞う世界が誕生します。まさに「世界のTOMITA」の集大成が、伝統と先端芸術の融合のなかに誕生する舞台。大地の生命力が鼓動するこの大曲が誕生するとき、全ての聴衆は、偉大な音楽の歴史の証人になるに違いありません。
音楽の歴史的な瞬間に出会う 日-「世界初!初音ミクが人の指揮に合わせ、 変幻自在に歌とダンスを披露」~はやぶさ帰還に匹敵する高度技術に挑戦、ミクが人と一体化~
「イーハトーヴ」交響曲の世界初演が迫る中、話題騒然の初音ミク。人の複雑な指揮の緩急に合わせて変幻自在にミクが歌い、ダンスするという歴史的なパフォーマンスが誕生する。従来の常識は、あらかじめプログラミングされたミクの歌に合わせて人が演奏。今回は、ミクが大友直人指揮に合わせながら管弦楽と大合唱団とともに歌う舞台が実現。「注文の多い料理店」のミクをはじめ、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」等、賢治が描く現生と異次元空間が交錯した世界のなかに、よりリアルでハートフルなミクが誕生します。まさに天使ミクが人と一体化した瞬間に出会える日。現在、音楽の新しい歴史を刻むこの一大事業の実現にむけて技術陣が、小惑星探査機はやぶさ帰還に匹敵する高度技術を開発中。進化したミクが天界から舞い降りるとき、 ”世界のTOMITA”が再び新しい音楽の歴史を導きます。

◎8月27日に行われました制作発表記者会見の模様はこちらから⇒ http://billboard-cc.com/classics/2012/08/

◎冨田勲×初音ミク「イーハトーヴ」関連サイト「ASCII.jap×デジタル」連載リポートはこちら⇒
冨田勲コラボ、初音ミクは「指揮に合わせて歌う」新技術で登場http://ascii.jp/elem/000/000/721/721081/tp:/
「歴史に残るコラボを作る」初音ミク×冨田勲と技術屋の情熱http://ascii.jp/elem/000/000/721/721081/index-3.html

「王監督から学んだプロのあり方」

火曜日, 2月 5th, 2013

  小久保 裕紀 (元福岡ソフトバンクホークス選手)

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より

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僕がプロで成功した一番の要因は
王監督との出会いだと思っています。

亡くなられた根本陸夫監督の後を引き継いで
ダイエーの監督に就任されたのは
僕がプロ二年目の時でした。

その出会いからトータルで十五年、
王監督の下でプレーさせてもらったんですけど、
僕はその教えを忠実に守ることを心掛けてきました。

王監督からは例えば「楽をするな」って教わったんですよ。
「練習の時に楽をするな。練習の時に苦しめ」と。

練習は普通センター返しが基本と言われていて
大方の選手はそうしているわけですけど、
僕の場合は王監督から

「ボールを遠くに飛ばせ。
  それにはバットを振った時、
 背中がバキバキと鳴るくらい体を百二十%使え

と言われました。

皆、練習の時は適当にやって、
試合で百%の力を発揮しようとするのですが、
これは間違いだということがいまはよく分かります。

王監督のことでは強く印象に残っていることがあります。
怒ったファンからバスに卵をぶつけられたことがありました。

忘れもしません、九六年五月の日生球場での
公式戦最終日です。

負けが続いていて、怒ったファンの方が
たくさんの生卵を僕たちのバスに投げつけられたんです。
卵が飛び散って外の景色が見えないくらいだったのですが、
そんな時でも王監督はどっしり構えて絶対に動じられなかった。

後ろをついていく人間としてリーダーが
ここまで頼もしく思えたことはなかったですね。

帰ってからのミーティングでも

ああいうふうに怒ってくれるのが本当のファンだ。
 あの人たちを喜ばせるのが俺たちの仕事なんだ。
 それができなければプロではない

とおっしゃいました。

僕はまだ人間が小さいですから
「あんなやつらに」とついつい思っていたのですが、
それだけに絶対に言い訳をしようとしない
監督の姿には学ばされました。