まほろばblog

Archive for 2月 18th, 2013

「奇跡の鳥・ダチョウ」

月曜日, 2月 18th, 2013


 塚本 康浩(京都府立大学教授、「オーストリッチ・ファーマ」社長)

      『致知』2013年2月号
              致知随想より

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意外に思われるかもしれないが、いまダチョウが
「人類を救う鳥」として注目されている。

ダチョウの抗体が花粉症やノロウイルス、
新型インフルエンザ、アトピーなどを撃退する
働きがあると分かってきたからだ。

私がダチョウの研究を始めたのは約十五年前。
物心ついた時から「鳥少年」で、
家ではずっと鳥を飼い続けてきた。

鳥好きが高じて大学は獣医学科に進み、
大学院で博士課程を修了。
そのまま大学教員に就任、
研究テーマを探しているところだった。

神戸にダチョウを飼っている牧場がある、という話を聞き、
私は少なからず興奮を覚えた。

初めて動物園でダチョウを見たのは小学生の時。
「こんな大きな鳥はマンションでは飼えないなぁ」と思い、
手の届かない遠い存在だと思っていたからだ。

「牧場は儲かっていないみたいだから、
 もうすぐ閉めるかもしれない」
という話を聞き、私は翌日から牧場通いを始めた。

鳥は人生最大の趣味とはいえ、私も研究者だ。
ダチョウの行動を観察し、いままで誰も気づかなかった
規則性を発見して、論文にまとめようと考えていた。

ところが、である。

ダチョウはそれまでの私の鳥に対する知見を覆す
常識破りの鳥だった。 

そもそも彼らに規則性はない。
いつも何も考えず右へ左へ動き回っている。
いきなり崖の頂上へ駆け上がったかと思うと、
パニックになり、足がすくんで動けなくなる。
そんなダチョウを何羽助けたか分からない。

また、一般的に鳥はきれい好きである。
毎日せっせと毛づくろいをし、
寝る前に水浴びをする鳥も多い。

体を清潔に保つことが、
病原菌から身を守ることを知っているのだと思う。

ところが、ダチョウは違う。
体の汚れは全く気にしない。

汚れたら汚れっ放し。
糞を付けたまま走り回っていることもある。
しかしそれでもダチョウの平均寿命は六十年。
破格の生命力である。

彼らは暇になると隣のダチョウの羽をむしりとるが、
そこにもなんの意味もない。
されているダチョウも何も気にせず餌を食べ続けている。

そこに血の匂いを嗅ぎつけたカラスが現れ、
餌だと思い、ダチョウの肉を喰い千切る。

獣医として縫合手術が必要だと思うくらいの重傷でも、
消毒をすれば三日後には皮下組織が復活し、
一か月後には新しい皮膚が再生する。

私はダチョウの傷口の組織を大学に持ち帰り、
顕微鏡で調べてみた。

なるほど、他の動物よりも細胞の動きが速かった。
また傷口から感染症になることがないのだから
免疫力も相当強いのだろう――。

ここで私は研究の方針を大転換した。
行動生物学的な成果よりも、
ダチョウの抗体を利用できないかと思ったのである
(そこに至るまでに実に五年の歳月を費やしたのだが……)。

原始的な生物から人間を含む哺乳類まで、
体の中に異物が入ると、これを除去しようとする
タンパク質の分子をつくる。これを「抗体」という。

一方、異物のことは「抗原」と呼ぶ。

当初、ダチョウからこの抗体を取り出すために、
実験の都度ダチョウ一羽の命をいただくなど相当苦心した。
そして、ある時から卵に着目し始めた。

仮にインフルエンザの抗体をつくりたいとしよう。

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「土光敏夫氏に教わった経営と人生」

月曜日, 2月 18th, 2013
平林 武昭 (日本システム技術社長)

        『致知』2013年2月号
            特集「修身」より

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昭和三十七年、私が石川島播磨重工業に
入社した時の社長が土光さんだったんです。

その頃は瀕死の重傷に陥った
石川島播磨の経営再建を成し遂げて
社会的に注目を集めていらっしゃいましたが、
そういう人と偶然とはいえ、
巡り合えたのは幸せだったと思います。

格調高き人物に出会いの縁・運があった。
縁とか運とか目に見えないものを大切にすることで、
道がひらかれるのではないでしょうか。

土光さんと私はまったく次元が違うし
比較にもならんのだけれども、共感するところがありましてね。

一つには土光さんは岡山市、私は播州赤穂と故郷が近いんです。
そして信仰篤い家柄、なおかつお互いに農家の出でしょ。
春夏秋冬、とにかく休む暇なく
百姓仕事に汗したことも土光さんに共感した理由です。

それに、土光さんは受験の挫折とか代用教員を経て
大学に入るなど随分苦学されたようですが、
私も学区制を破って隣県の高校を受験しようとしたり、
親元を離れて千葉の高校に転校したり
向学心が旺盛でしたから、そういう点でも
親しみを感じるものがありました。

入社して間もなく我われ東京・豊洲
(当時は東京砂漠といわれていた)の
工場の新入社員五、六人で経営の勉強会を始めました。

ところが、ある時「経営は学か術か」というテーマで
社長の土光さんに一度講義をしてもらおうじゃないか
という話になりましてね。

新入社員のプライベートな勉強会なんか
普通、トップは来ませんわ。

ところが土光さんは実行の人ですよ。

勤務後、バスに乗って本社からやってこられたんです。
考えたらこれは大変なことでね。
私も「やはりただ者ではない」という思いを強くしました。

いまでも覚えていますが、

「議論する時は対等だ。同じ社員だ」

とおっしゃるんです。

大企業の社長と新入社員が対等なんてありえないでしょう。
でも土光さんは私たちの考えに
謙虚に耳を傾けてくださいました。 

あの方は根っからの技術者なんです。
日本を技術立国にしようと努力した方だけに
技術者を凄く大事にされました。

工場視察に行くと普通のワーカーたちに
「ここはどうなっているのだ」と気さくに聞いて回られる。
それが楽しかったようですね。

労働組合の団交にも自ら行って腹を割って話された。

とにかく偉く見られようとか、地位に固執するとか、
そういう素振りは一切なかったし、
謙虚な姿勢は九十二歳で亡くなるまで変わりませんでした。
そういう姿を見ると誰だって信奉します。
素晴らしい傑物でしたよ。