ニックの奇跡
土曜日, 3月 30th, 2013乙武さんの映画「だいじょうぶ 3組」が封切りになりましたが、 外国にも、同じように生きているニックさんがいらしたんですね。 ただ見るだけで、勇気を戴きました。 ありがとうございます。 http://daijyobu-3.com/
乙武さんの映画「だいじょうぶ 3組」が封切りになりましたが、 外国にも、同じように生きているニックさんがいらしたんですね。 ただ見るだけで、勇気を戴きました。 ありがとうございます。 http://daijyobu-3.com/
松原 泰道(龍源寺前住職)
『致知』2008年9月号
「読者の集い」より
└─────────────────────────────────┘
これはかなり前のお話であります。
ある新聞を読んでいましたら、
女子高で教える三十歳くらいの国語の先生の投書が載っていました。
それを読んで私は非常に感動したんです。
当時の女子高の生徒でも、
やっぱり挨拶を全然しなかったといいます。
だからその先生がやり切れなくなって、
「そんなふうに黙っていたら、
家庭間も友人関係もうまくいかない。
就職してもうまくいかないから、
きょうからは少なくとも三つの挨拶を実行してほしい」
と言われたそうなんです。
先生が唱導されたのが
「ありがとう、すみません、はい」
の三つの言葉でした。
この三つさえ言えれば、交友関係もうまくいくし、
人に憎まれることも、人をいじめることも少なかろう。
君たちが上の学校に上がらず、このまま就職したとする。
その職場の中で皆が黙っていたら、
君たちが進んで大きな声で
「ありがとう、すみません、はい」
と言えばいい。これを繰り返せば、必ず事故が減る。
そして先生は三つの言葉の頭文字を取って
「あすは運動」と名づけたそうです。
私は、これはいいことを聞いたと思いましてね。
その後、いろんな会社やどこかでお話をするたびに、
この「あすは運動」をお勧めしたのです。
そうしたら確かに事故が減るんだそうですね。
皆さんも試しにやってごらんなさい。
ご家庭でも職場の中でもいいですから。
「ありがとう、すみません、はい」
この挨拶を繰り返していけば、自然に心が安らかになっていく。
これは禅語の上からも考えられます。
「ありがとう」という言葉は「感謝」と同義語になっていますが、
本来の意味は「有ること難し」です。
滅多にないということ。稀有の事実であります。
いまお互いがここに生きているということは、
考えてみれば稀有の事実です。
私なんか、後期高齢者も越えてしまって、
もう末期高齢者ですよね。
孫が挨拶代わりに「おじいちゃん、いつ死ぬんですか」
なんてことを聞いてきます(笑)。
この頃、朝起きて着物を着せてもらう時にしみじみ思うのですが、
あぁ、きょうもまた生きていた、と。
百歳を越えましてね。
何もかも人様のお世話になりながら、
生きさせていただいているんだということが、
本当に分かってまいりました。
有り得ないことが、いまここに有るんだという事実。
だから感謝の前に、まず、稀有の事実を知ることです。
それから「すみません」。
この言葉は若い女性が嫌うんです。
何にもしないのに「すみません」なんて謝るのは
侮辱だなんておっしゃるけれども、そんなふうに考えずにね。
すみませんとは、「謝る」という意味より前に、
「すんでいない」ということなんです。
決済をしていない、未済だということです。
皆様もお気づきでありましょうが、
私たちは自分一人で生きていられるんじゃなく、
大勢の人の力を借りて生きさせていただいている。
その恩返しがまだすんでいません、という深い反省の言葉なんです。
それを自分に言い聞かせる意味で「すみません」。
これなら気持ちよく言えるだろうと思います。
第三の「はい」は、単に人に呼ばれた時の返事だと思うから、
なかなか声が出てこないんです。
「はい」と返事をすることは、自分が自分になるということ、
自分自身を取り戻すことができるということです。
誰かに呼ばれた時にモゴモゴするよりも、
「はいっ!」と、こう返事をしてごらんなさい。
気持ちがスカーッとして、自分に出会うことができる。
だからそういう何でもないような挨拶や言葉の中にも、
これこれの意味が含まれているということを
考えていただければと思います。
(『致知』2008年9月号「読者の集い」より)
重松 昭春(意識開発フォーラム「メタワーク・ナウ」主宰) 『致知』2013年4月号 致知随想より └─────────────────────────────────┘ かつて、十年もの間、夜尿症に悩み、 中学二年生になっても治る気配のない子供の親から 相談を受けたことがあった。 特に器質的な疾患があるわけではなく、 鍼灸、漢方薬を始め、様々な治療法を試み、 宗教にも縋ってみたが、一向に効果が見られない。 そのうちどうにかなるだろうと考えているうち、 十年が経過してしまったというのである。 私は昭和三十年頃から脳力開発の研究に取り組んできたが、 器質的な疾患がなく、夜尿症が続いているケースには おおよそ次の特徴がある。 おねしょが発生する問題の根拠は消えていて、 「問題を持続させる根拠」だけが続いているのである。 ではその根拠とはなんだろうか。 こうした時、私が問題解決の糸口とするのが、般若心経である。 若い頃に教えを請うた巽直道先生は元エンジニアで、 仏教の専門家ではなかったが、その教えは 実に具体的かつ実践的なものだった。 巽先生の仏教講座を受け、自分自身の持つ思い込みから 解放された人たちが、病気や家庭不和をたちどころに 解消してしまう姿を何度も目の当たりにしてきた。 先述のおねしょを持続させている根拠とは、 親子のおねしょに対する強いとらわれと不安である。 般若心経でいえば「け礙(心身の自由を失うこと)」と 「恐怖」に支配されている状態だ。 その気持ちの表れとして、親は子供が寝る時の夜具に おねしょマットを敷いている。 また、夜半にはわざわざ子供を起こして 必ずトイレに行かせるという。 これは自律神経の働きから言っても不自然であり、 子供に心理的負担を強いることにもなってしまう。 つまりおねしょに対する母親のこだわりが強いと、 子供の意識にも深い影響を与え、 母親の不安どおりにおねしょは繰り返される。 私は彼女にそのことを理解してもらった上で、 お母さんの意識の転換がまず必要なのだと訴えた。 そして子供に対して次の宣言をしてもらうことにした。 「きょうからおねしょマットを取ります。 夜に起こして一緒にトイレに行くのもやめます。 おねしょがちゃんと治る方法を先生に教えてもらったから、 あなたはお母さんを信頼してくれさえすればそれでいいのよ」 ただ、母親としてはおねしょマットを取り、 子供を起こすのをやめたとしても不安は消え去らないだろう。 そこで私は彼女に 「本当に問題を解決したいのであれば、 どんなことでも素直に実行しますか」 と確かめた上で、般若心経の「般若波羅蜜多」の実践を勧めた。 といっても難しいお経の話をするのではなく、 次の言葉を唱え続けてくださいというだけである。 「治る、治る、治った。ありがとうございます」。 これが実は「渡った、渡った、彼岸に渡った……」という 「般若波羅蜜多」の翻案で、未だ成し得ない現象が 自分の意識の中で実現して喜びに満ち、 感謝していることを示す。 その行為を何回も繰り返してもらうのである。 本当にそんなことだけで、長年におよぶ子供のおねしょが 治るだろうかと疑問を持たれるかもしれない。 しかし実際に私のアドバイスを実行した母親により、 子供のおねしょは四日目には完全に治ってしまったのである。 私はこの後、夜尿症に悩む十組以上の親子から相談を受けたが、 いずれも数日間で問題は解決した。 他にも般若心経の教えを応用していじめ自殺を思いとどまらせた子、 勉強嫌いだった子が高三から突如猛勉強を始めて 難関大学に合格したケースなど、例を挙げていけば枚挙に遑がない。
福島の横川さんのお米が、放射性物質が2年前に比較し、さらに低くなりました。
土の浄化力は、すばらしいですね。
セシウム(131.137)
玄米 8.4Bq/kg → 0.95Bq/kg
白米 2.9Bq/kg → 0.8Bq/kg
下は、森下自然医学誌に連載している『倭詩』の第一回に「福島の奇跡、奇跡の福島」と題して、
福島の野菜等を、50歳以上の大人は食べるべきを説き、横川さんの米の事にも言及しています。
確実に土壌が回復して来て、嬉しい限りです。
みなさん、応援してください!!!
テクノAOの増川博士の講演会が東京で開かれます。
近郊の方は、是非ご参加ください。
電磁波、水、食に加え、音についても世界の最新情報を
公開する大変興味深い内容になっております。
リラクゼーションケアでは道内で著名なスゥザンさんが、
大通りのビッフェの隣、北尾ビルに3.30(土)に
「majical sausan」をオープンします。
それに先立って、3.28に内覧会があります。
ご来店の際、上記のはがきを持参された方には、
佐藤いずみセラピストのポラリティボディケアプレゼントチケットをご用意しております。
(このはがきは店に用意しております) なお、営業時間は、 13:00~21:00(最終受付) 先約下さった方には スゥザンプレゼントケアがプラスされます。
今日は、札幌で素敵なホスピタリックケアリストと出会いましたので、ご紹介します。写真を見ていただければわかりますように、一見素敵な外国人の女性スゥザンさんですが、実際にお話をしてみるととても日本的いや日本人以上に日本的な細やかさと優しさを兼ね備えた女性で、私も話をしているだけで彼女に引き込まれていきました。
彼女はたった一人で札幌・中島公園を見下ろせる素敵なシチュエーションのマンションの一室でリラクゼーションケアを施術しています。彼女の施術は単なるエステやマッサージとは違います。精神的にも肉体的にも本当に優しく癒してくれるケアを施してくれます。仕事に疲れた方、心身ともにリラックスしてみたい方、一度彼女に相談してみてください。
北海道・札幌まで飛行機で飛んでいって施術を受けてみる価値は十分にあります。
男性でも女性のお客様の紹介があれば、施術を受けることができるみたいですので、相談してみてください。
ただし、お一人でやっておられるので予約を取るのも結構大変かもです。おっと、言い忘れました。スゥザンさんは、流暢な日本語を話しますので、言葉の心配は全くありません。
施術の一部をご紹介しておきます。(すべて消費税別料金です)
詳しい内容は、お電話でお問い合わせください。
料金が高いと思うか、その価値に満足するか、施術を受けたあなたにしかわかりません。
住所:札幌市中央区南13条西5丁目1-1 ナカビシグランドハイツ中島公園304
斉藤 俊幸(地域再生マネージャー) 『致知』2013年4月号 致知随想より └─────────────────────────────────┘ 東京の自宅を離れ、単身赴任を始めて間もなく十年になる。 その間、熊本で五年、高知で四年を過ごし、 去年の春から愛媛のしまなみ海道に拠点を移した。 私の仕事は、まちづくりを通じて 地方活性化のお手伝いをさせていただく 地域再生マネージャーである。 まちづくりには学生の頃から関心を抱いていた。 東京に生まれたこともあり、都会よりも田舎への憧れが強く、 地元の方々と力を合わせて仕事をしたいという思いがあった。 そこで大学卒業後は一般企業に就職せず、 開発途上国で経験を積んで二十六歳で 地域再生の事業を起こした。 スキルも実績もなかったため、社会の荒波にもまれ、 随分痛い目にも遭った。 「おまえなんかいらない」 何度言われたことだろう。 厳しい言葉を浴びせながらも、 未熟な私と手を組んでくださる方々があったおかげで、 なんとか生きていく術を身につけ、バブル期には こなしきれないほどの仕事に恵まれるまでになった。 ところが程なくバブルが弾けて仕事は激減、 暗黒の九〇年代を迎えた。 転機となったのは二〇〇二年、 ある大学が横須賀市の商店街活性化のために立ち上げた 「まちなか研究室」に参画したことである。 企画はよかったが、現地の空き店舗に設けた研究室を どう維持するかが問題になった。 そこで私は、生計の足しにするために習得していた 酒造技術を公開し、設備を原価で提供することにした。 さらに事業費として店主たちから一口一万円を集めて ファンドをつくり、ワイナリーを設立。 商店街は活力を取り戻し、研究室はいまも ワイナリーの運営とまちづくり活動を続けている。 このまちなか研究室が評判になり、 「ふるさと財団」からの紹介で総務省の民間人派遣事業に参画。 地域再生マネージャーとして最初に赴任した 熊本県荒尾市の二か所の商店街で、私は貴重な教訓を得た。 最初の商店街では当初、横須賀同様に ワイナリーの立ち上げを提案したが賛同を得られず、 侃々諤々の議論の末、野菜の直売所をつくることになった。 実は一キロ先にできた巨大ショッピングモールによって 八百屋が潰れた経緯があり、私は一抹の不安を覚えていた。 ところが蓋を開けてみると周辺に住む高齢者の方々が 次々と買い物に訪れた。 あるお婆さんは手を合わせておっしゃった。 「一キロ先のショッピングモールまで歩いて行けないから、 週に一回タクシーで出かけていました。 近くに直売所をつくってくれてありがとう」 意図せずして私たちは、高齢化に伴う 「買い物難民」の問題を日本で最初に発見し、 その救済モデルを確立したのだった。 次の商店街でも米蔵の下屋部分に、 同じく野菜の直売所を開設すべく準備を進めていたが、 保健所から壁と天井をつくれとの予想外の指導を受けた。 一緒に開設準備をしていた地元の老人たちに、 とてもそんなお金は捻出できない。 諦めかけた時にあるお爺さんから 「加工品を置く場所だけ壁と天井をつくればよか!」 というアイデアが出て、無事開設に至った。 あいにくこの直売所は、直後に台風で大きな被害を受けた。 しかし自立心を取り戻した老人たちは自ら出資し、 補助金に頼らず新しい直売所を立ち上げ、 日商十五万円を実現。 現地を離れる時は涙が止まらなかった。 私はこの活動で国から地域活性化伝道師の称号をいただいた。 現場にたまに顔を出して机上のプランを押しつけたり、 偉そうにコメントするだけでは問題は解決しない。 補助金を申請してお金が下りるまで待っていたら 機を逸してしまう。 私は常に現地に居を構え、地元の方々と夢を共有して 一緒に汗を流すことを心懸けてきた。 その最中に現場から出てくる声を拾い上げ、 スピード感を持って反映していくことで、 思わぬ道が開けていくのである。 科学の偉大な発見が、失敗から偶然導き出されることが しばしばある。いわゆる瓢箪から駒、怪我の功名、 金融工学でいう「創発」であるが、この創発こそが まちづくり成功の鍵を握っていると私は確信している。 現在私は、総務省の地域おこし協力隊として 離島のまちづくりに派遣される若者たちの監督も務めている。 この就職難で、地方に自分の活路を 見出そうとする若者が増えているのだ。 よそ者の彼らは、地元の方々との関係に悩みながらも 優しく育まれ、少しずつ渦を巻き起こしつつある。 彼らの年収は概ね二百万円だが、 これはギリシャやスペインなど、 財政危機に直面するヨーロッパの国民の収入に近い。 そういう条件下で、彼らがまちづくりの ユニークな成功事例を構築していけば、 世界の諸問題にも打開策を提示できる グローカルな人材に育つ可能性も大いにある。 そのために大切なことは、人が見向きもしないところで 勝つまで挑戦を続けるような、 あるいは転んでもただでは起きないような執念と情熱である。 彼らの思いが地元の方々を動かし、創発をもたらすのである。 夜明け前は最も暗いという。 長らく低迷の続いた日本であるが、 志ある若者が増えている事実は、 この国にいよいよ夜明けが近づいている兆しだと 私は期待したい。 彼らの背中を押すとともに、 私自身も各地のまちおこしに力を尽くし、 日本再生のお役に立てれば幸いである。
『致知』2005年10月号 特集「幸福論」総リードより └─────────────────────────────────┘ 禅の研究と著述に九十六年の生涯を傾注された鈴木大拙博士が、 こういう言葉を残されている。 「人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって 信用できるものになれば、それでけっこうだ。 真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば “さよなら”で消えていく。 このような人を偉い人と自分はいいたい」 平明、しかし深遠な一つの幸福論である。 幸福論の言葉で真っ先に思い出す人に、 作家の故三浦綾子さんがいる。 三浦さんの人生は難病の連続だった。 二十四歳で突然高熱に倒れたのが発端である。 それがその後、十三年に及ぶ肺結核との闘病の始まりだった。 当時、肺結核は死に至る病だった。 入退院の繰り返しの中で、三浦さんは自殺未遂も起こしている。 さらに悲惨が重なる。脊椎カリエスを併発。 ギプスベッドに固定され、動かせるのは首だけで寝返りもできず、 来る日も来る日も天井を目にするのみ。 排泄も一人ではできず、すべての世話はお母さんがした。 そんな生活が四年も続いたとは想像を超える。 そこに一人の男性が現れて結婚を申し込む。 光世さんである。 その日から薄皮を剥ぐように快方に向かい、 二人は結婚する。 綾子さん三十七歳、光世さん三十五歳だった。 そして綾子さんの書いた小説『氷点』が 新聞社の懸賞小説に当選、作家への道が開ける。 しかし、その後も病魔はこの人を襲い続けた。 紫斑病。喉頭がん。 三大痛い病といわれる帯状疱疹が顔に斜めに発症、鼻がつぶれる。 それが治ったと思ったら大腸がん。 そしてパーキンソン病。 この二つを併発している時に、 本誌は初めてお会いしたのだった。 次々と襲いかかる難病。 それだけで絶望し、人生を呪っても不思議はない。 だが三浦さんは常に明るく、ユーモアに溢れていた。 「これだけ難病に押しかけられたら、 普通の人なら精神的に参ってしまいますね」という 本誌の質問に三浦さんは笑顔で答えた。 「神様が何か思し召しがあって 私を病気にしたんだと思っています。 神様にひいきにされていると思うこともあります。 特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと……。 いい気なもんですねえ(笑)」 誰の人生にも絶望的な状況はある。 だが、心が受け入れない限り、絶望はない。 同様に、誰の人生にも不幸な状況はある。 しかし、心が受け入れない限り、不幸はない。 三浦さんの生き方はそのことを教えてくれているように思う。 その三浦さんがこんな言葉を残している。 「九つまで満ち足りていて、 十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、 人間はまずその不満を真っ先に口から出し、 文句をいいつづけるものなのだ。 自分を顧みてつくづくそう思う。 なぜわたしたちは不満を後まわしにし、 感謝すべきことを先に言わないのだろう」 幸福な人生をどう生きるか。各界先達の英知に学ぶ。