まほろばblog

Archive for 3月, 2013

師・棟方志功の教え

月曜日, 3月 11th, 2013
     ~化け物を観ろ、化け物を出せ~
            秋山 巌(版画家)
          
       『致知』2013年4月号
               連載「生涯現役」より

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【記者:棟方志功さんからはどんなことを教わりましたか?】

版画に対する姿勢ですな。
棟方の名を慕って門下に入った者は百人以上いますが、
版画そのものを習ったのは一人もいませんよ。

先生、どんなことに気をつければいいですかと尋ねたら

「人を感動させろ。

 人を感動させるためには
 おまえ自身が感動しなきゃいかん。
 そのためには本を読め」


と。先生はどんな本を読んでいるのかと聞いてみると、
人からもらった本ばかりでした。
柳宗悦や金田一京助といった人たちが年中やってきて、
これを読め、あれを読めと難しい仏教書なんかを
しょっちゅう置いていくというんです。

そうやって棟方はよく本を読むし、
人の描いたものも実によく見ている。

「写真を見ろ、写真を。写真展を見て歩け」


とも言われましたね。

優れた写真は的確に物の焦点を捉えている。
その写真家の撮る構図を取り入れていけば、
絵もうまく描けるようになる。

要するに自分の描こうとするものを見る目が、
彼らと同じレベルにならなきゃダメだということなんです。

そのおかげで、なんとなくではありましたが、
あぁ、この場合はここを焦点にすればいいんだな、
あんまり余計なものを詰め込み過ぎてもダメなんだな、
といったことを覚えていきました。

実はこれは俳句の世界にも通じることで、
種田山頭火の自由律俳句も字が余るものもあれば、
逆に短いものもある。

大事なのは作品の体裁ではなく、
物事をどういう角度から見るかということですね。

それから棟方は、人を見れば

「化け物を観ろ。化け物を出せ」


と言いました。

要するに奇想天外なことをやれということでしょう。

棟方の絵は確かに化け物的なものが多いのですが、
その化け物をどうすれば版画に生かせるのか、
私は年中旅に出て石仏や道祖神を
写生してばかりの日々でした。

+「甘糀醤/あまこうじジャン」登場!

土曜日, 3月 9th, 2013

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待望久しき調味料「甘糀醤/あまこうじジャン」が、いよいよ登場しました。

すでに出ました塩麹の決定版「なごみしお麹」と対をなす「甘い麹」の出番を待っていたわけです。

実は内容がいわゆる「甘酒」、しかし、これは、れっきとした甘味調味料なのです。

単に、砂糖を加えて甘さを出すのではなく、

そこに、ビタミンB1、B2、B6、に葉酸、植物繊維、オリゴ糖、

システイン、アルギニン、グルタミンなどのアミノ酸、そして大量のブドウ糖、

これらの驚くべき栄養素や酵素・酵母・乳酸菌の発酵微生物が豊富に含まれて、

料理にふくよかで深い味わいのハーモニーを醸してくれます。

江戸時代、夏の季語となって、夏バテを癒す点滴にもなっていた訳です。

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そんな歴史的にも意味のある、しかも今日までそのような使われ方をして来なかった

古くして新しい調味料のニューフェイスとして『甘糀醤/あまこうじジャン』は、

これから、なくてはならない台所の必需品となること請け合いです。

 

『甘糀醤/あまこうじジャン』 

福岡自然農園の「ハッピーヒル」、羽場の糀、エリクサー水

                                220g ¥480

食から美来へ

土曜日, 3月 9th, 2013

食から美来へ1食から美来へ 2

「功徳の貯金を積む」

土曜日, 3月 9th, 2013
    塩沼 亮潤(慈眼寺住職)
               
              『致知』2013年4月号
               特集「渾身満力」より

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【栗城】僕は山に行っている時だけ
    頑張るんじゃなくて、
    日常生活の中でも
    汚い言葉は使わないとか、
    何事も当たり前だと思わないで
    感謝の気持ちを持つようにしています。

    そういうことは子供の頃から
    身についていたかなと思います。

    いまでも伊勢神宮参拝や
    母のお墓参りには
    よく行っています。
 

【塩沼】私もお寺の修行僧や職員の
    人たちから「運がいいですね」
    とよく言われるんですね。
 
    人生ですから、いろんなことがあります。

    しかし、すべて転じて福となるんです。

    ある時、
    「なんでそんなに運がいいんですか」
    って突然聞かれたんです。

    いままで考えたこともない質問
    だったので、ふと
    「皆の中で一番言葉遣いが丁寧な人は誰かな」って聞いたら、
        「阿闍梨さんだ」と。

    「じゃあ、皆に一番敬意を払って
     話をしているのは誰だろう」って聞くと、
    「やっぱりそれは阿闍梨さんだ」
    って言うんです。

    私は「たぶんそこじゃないかな」
    って言ったんです。
 
    実は、それができるから私は偉いんだ
    っていう話じゃなくて、
    そこをちゃんとしていないと
    人生裏目に出て痛い思いをするって
    ことを何度も経験しているから、
    怖くてできなくなるんだよって(笑)。

    たくさん失敗して、失敗して、
    やはり大事なのは日常であり、
    自分の心掛け次第なんだということに
    気づいてくるんです。

…………………………………………………
命がけの人生を生きる塩沼氏が
幼少期に母から受けた教えとはなにか?
…………………………………………………

「母は小さい頃から私に二つのことを教えてくれました。
 一つは礼儀。もう一つは他のために生きる。
 この心を、日常何度も繰り返し教育してくれたおかげで
 いまがあると思います」

「松本薫選手が金メダルを取れた理由」

金曜日, 3月 8th, 2013
   稲田 明 氏(帝京豊郷台柔道館館長)

             『致知』2013年4月号
              特集「渾身満力」より

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【稲田】吉田沙保里さんもそうだと思いますが、
    松本薫の場合も金メダルを取るための
    練習をやってきた。

    2位、3位じゃダメだ、
    自分はそれだけの練習をやってきたんだ、
    なんで負けられるか
    という気持ちで戦ったと思うんですよ。

    それが結果に繋がったんでしょうね。

    柔道には体重別の階級制がありますが、
    あの子の場合はパワーもスピードも必要
    だということで、一日にあらゆる階級の
    選手を相手にするんです。

    また他の選手がぶっ続けでこなす
    30分のメニューを、松本はさらに
    2セット多くやる。要するに3倍ですね。

    何がなんでも金を取りたい、
    取るためにどうすればいいのか、
    それを自分で考えてできる選手なんです。

【吉田】そういう選手は伸びますね。

【稲田】実は彼女の帝京大時代にもこんなことが
    ありました。

    ひと月に数回だけ指導に来る
    偉い先生がおられたんですが、
    その方が道場の隅で話をしている選手に
    「おい、何を話しとるんだ! 練習やらんか」
    と大きい声で言われたんです。

    すると真面目に練習していた
    松本がやってきて、

    「先生、柔道は言われてやるものじゃないですよ。
     自分の意志でやるものです」

    と言ったんです。

【吉田】ほぉ。

【稲田】もう私、びっくりしましてね(笑)。

    自分なんかは話もできないような先生ですよ。
  
    本人は一所懸命やっとるもんですから
    耳障りだったんでしょう。

    彼女はそれくらいの強い意識で
    練習に臨んでいる。
    それがあの目に表れています。

【吉田】やっぱり自分の目標を自分でつくって
    挑むことが大事ですね。

    私も沙保里にはレスリングに対する情熱が
    なくなったら、もうやめなと
    言ってあるんですよ。

    人の邪魔になる、人に迷惑を掛けてまで
    やる必要はないと。

    アテネ、北京、ロンドンで金を取ったのは
    あくまで過去の問題で、
    いま現在メダルを取ろうと皆が頑張っている中で、
    嫌だと思いながら練習をするくらいなら
    やめたほうがいい。

    やる以上は世界の頂点を目指し、
    四つ目の金を取る覚悟で頑張んなって。

神の賜りし声 SUMI JO スミ・ジョー

木曜日, 3月 7th, 2013
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ご存知の方も多いかと思われるが、アジアの生んだ韓国の歌姫「Sumi Jo/スミ・ジョー」。

ヨーロッパのオペラ界には受け入れられなかった東洋人が、初めて多くの絶賛を以って迎え入れられた。

私が長年抱いていた西洋の歌唱に対する垣根と峻別を、見事に取り払ってくれた彼女の歌声。

韓国の音楽や歌手に、あるスピリチュアルな情感を感じていたが、

それが彼女をして世界に知らしめた感を抱くのだ。

鍛え抜かれた天性の声は、別次元の扉を押し開く。

ここまで人種を超えて至れるものだろうか。

驚愕である。

東洋西洋の壁を、完全に取り払ってくれた。

まさに、世界はひとつをまざまざと示してくれた大天才に先ずは拍手を。 

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「陽ノ光」ジャム

木曜日, 3月 7th, 2013

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福岡自然農園のみかんジャムシリーズ。

第00弾、その名も「陽ノ光/ひのひかり」。

燦々と照りつける自然農園に、たわわに実りを付けるみかん、みかん・・・・・。

今回は、清見柑、ネーブル、文旦、八朔、小林柑、大谷伊予柑、宮内伊予柑、檸檬、純果糖、一二三糖。

相変わらず、フレッシュで瑞々しい晩柑の香りと実のハーモニー。

                              220g ¥680

「命を懸ける姿勢が人を感化する」

木曜日, 3月 7th, 2013
   植木 義晴(日本航空社長)

            『致知』2013年4月号
              特集「渾身満力」より

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【記者:稲盛和夫氏のご指導で他に印象に残っていることはありますか】

数えきれないほどあります。
中でもやはり一番大切にされていたのは、
まずは「責任を持て」ということでした。

この会社ではいままで誰が責任を持って
経営をしてきたんだと。

本部長一人ひとりが自分の本部のことに
100%の責任を持っているのかと。

その責任感がなければ
執行もできないだろう、
と我われに強く訴えかけられました。

会議の場で我われ役員が時間をいただき、
個別の案件について提案させていただいた
時のことは、いまも忘れられません。

そこで名誉会長が見ておられたのは、
説明の内容よりも、それを説明する
我われの「心意気」でした。

これ以上聴く必要がないと判断されれば、
最初の5分で「もう帰りなさい」と。

君の話には魂がこもっていない。

本当に認めてほしいなら、
私と刺し違えるつもりで来なさい。
その気迫のない者は去りなさいと。

ですから5分、10分、なんとか持ち堪えようと
懸命に説明をする。

30分聴いていただいて
ホッと胸をなで下ろしました。

もちろんその上で判断が下るわけですけれども、
そういう「真剣勝負」の場を毎日毎日
過ごさせていただいたことは
本当に大きかったですね。

「催眠療法基礎セミナー」のご案内

水曜日, 3月 6th, 2013

doc06138220130306100721_001横浜の「イーハートブ クリニック」の萩原優院長は、

30年にわたり、消化器外科医として聖マリアンヌ医科大に勤め、

准教授を経て外科部長に就任後、クリニックを開業。

アメリカにおけるABHマスターインストラクターなどの多くの資格を取得して、

メンタルケアの総合医療を行い、心理療法の母胎でもある

「催眠療法」では、日本における権威でもあります。

まだ先ですが、6月22,23日に、まほろばにおいてセミナーを開きます。

なかなか奥の深い内容です。ご興味のおありの方は是非参加されてくださいませ。

http://ihatovo-clinic.com/

「知られざる偉人・天野清三郎」

水曜日, 3月 6th, 2013
0010201amano[1]              『致知』2012年11月号
               特集「総リード」より

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天野清三郎は十五歳で松下村塾に入塾した。
四つ年上の先輩に高杉晋作がいた。
清三郎は晋作とよく行動を共にした。

だが、清三郎は劣等感を覚えるようになる。
晋作の機略縦横、あらゆる事態に的確に対処していく姿に、
とても真似ができないと思い始めたのである。

では、自分は何をもって世に立っていけばいいのか。

清三郎の胸に刻まれているものがあった。

「黒船を打ち負かすような
 軍艦を造らなければ日本は守れない」

という松陰の言葉である。

「そうだ、自分は手先が器用だ。
 船造りになって日本を守ろう」


真の決意は行動を生む。
二十四歳で脱藩しイギリスに密航、
グラスゴー造船所で働くのである。

そのうち、船造りの輪郭が呑み込めてくると、
数学や物理学の知識が不可欠であることが分かってくる。
彼は働きながら夜間学校に通い、三年間で卒業する。

当時の彼の語学力を思えば、
その努力の凄まじさは想像を超えるものがある。

しかし、三年の学びではまだおぼつかない。
さらに三年の延長を願い出るが、受け入れられない。
そこで今度はアメリカに渡り、
やはり造船所で働きながら夜間学校で学ぶのだ。

ここも三年で卒業する。
彼が帰国したのは明治七(一八七四)年。
三十一歳だった。

清三郎は長崎造船所の初代所長になり、
日本の造船業の礎となった。
一念、まさに道を拓いた典型の人である。

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