「守拙求真(しゅせつきゅうしん)」
水曜日, 5月 15th, 2013平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長) 『致知』2013年5月号 致知随想より └─────────────────────────────────┘ 数え百八で命尽きるまで彫刻に情熱を燃やし続けた 祖父・平櫛田中。 私は、祖父が晩年を過ごした自宅 「九十八叟院」(東京都小平市)に開設された 美術館で館長を務め、その芸術と人生をご紹介しています。 明治五年、現在の岡山県井原市の田中家に生まれた祖父は、 十一歳で平櫛家へ養子入りしました。 しかしながら家業が傾き、小学校卒業後に 丁稚奉公を余儀なくされ、 また当時不治の病であった結核を患うなど、 苦労の末に二十代半ばで彫刻の道に入りました。 平櫛田中の号は、平櫛家と田中家の姓を組み合わせたものです。 他の芸術家に比べて遅いスタートでしたが、 代表作である「転生」「五浦釣人(ごほちょうじん)」など、 生涯に手掛けた作品は数百点にも上りました。 わけても六代目尾上菊五郎丈をモデルに取り組んだ 「鏡獅子」は、昭和十一年より構想を練り、 二十四年に菊五郎丈が鬼籍に入った後も制作を続け、 二十年もの歳月を費やして完成させた畢生の大作です。 書も手掛けていた祖父には、 「寿 七十不踰矩(ことぶき しちじゅうにしてのりをこえず)」 という作品があり、七十にしてまだ規範を超えない、 すなわち自分はまだ道半ばであるという心境を 表現しています。 そして百八歳で亡くなった時には、 あと三十年以上は制作を続けられるだけの材が 確保してありました。 まさに不撓不屈、創作に懸ける凄まじいばかりの祖父の意欲は、 やはり仕事が心底好きであったところから 生じたものであることは言うまでもありません。 祖母が嫁いできた時、 祖父の身の回りには行李一つしかなく、 しかもその中には創作の参考に切り抜いた 新聞しか入っていなかったといいます。 生活は質素で衣食にほとんど執着がなく、 夜九時頃に床に入り、夜中の一時半から二時頃には 布団から抜け出して新聞の切り抜きを始め、 後はひたすら作品に向かう毎日。 八十を過ぎても上野桜木町の自宅から 葛飾のお花茶屋に設けたアトリエに一人で通い続けました。 高齢ゆえに家族はいつも帰りを心配し、 夜の八時頃に祖父の下駄の音が聞こえてくると 胸をなで下ろしたものです。 夏はアフリカの探検隊のような帽子をかぶり、 甚平に足袋。 その独特の出で立ちがいまも懐かしく脳裏に甦ります。
Posted by mahoroba,
in 人生論, 未分類
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