陶芸家・蔦井乃理子さんの作品展
金曜日, 5月 17th, 2013
宮の森に住んでいらっしゃる陶芸家の蔦井乃理子は、
まほろばの昔からのお客様です。
とても簡素でシャープな、しかも女性的優美さを兼ね備えた
素敵な器を作っていらっしゃいます。
その作品展が、5月6月とありますので、是非ご覧になってください。
宮の森に住んでいらっしゃる陶芸家の蔦井乃理子は、
まほろばの昔からのお客様です。
とても簡素でシャープな、しかも女性的優美さを兼ね備えた
素敵な器を作っていらっしゃいます。
その作品展が、5月6月とありますので、是非ご覧になってください。
映画『降りてゆく生き方』のプロデューサーである弁護士の森田貴英さんとは、
「発酵」繋がりで、寺田さんを通じて親交を深めている。
宮嶋さんの本で、即「エリクサー」を求められたのだ。
先日、東京でのマイグルトのイベントでも再会し、話し込む中で、
彼の思想実践の源泉がおぼろげながら理解できたのは幸いだった。
http://www.sugimoto-movie.com/
その話の中で、ある写真家が現像時に電流を走らせて作品を発表しているという。
帰札後まもなく、森田氏からその映画になったDVDが送られて来た。
この手の現代映像は、ほとんどが期待外れのものが多いので、
申し訳ないが期待していなかった。ところが、違った。
「はじまりの記憶」と題する杉本博司氏のドキュメント。
久しぶりに、古い知己と邂逅したというか、ピッタとした志向は得難かった。
「私の中では、最も古いものが、最も新しいものに変わるのだ」
30年ニューヨークで現代アートシーンを牽引した彼だが、
一方若き日に、古物商で食い繋いだという古き良き物への眼力が、かく言わしめている。
前衛と古典に揺れ動いた私自身を見るようで懐かしくも心ときめいた。
初の著作「苔むすまで」を読み始めると、そこに鴨長明の方丈庵のくだりが記されてあった。
先日「自然医学」の連載に、その方丈記について書いたばかりだったのでその共時性に驚いたのだ。
直島・瀬戸内アートの楽園に「護国神社再建」の任が杉本氏に与えられた。
十方に玉砂利を敷き、24tものイワクラ(磐座)を運び、簡素な柱を立て、
質朴で矮小な本殿には、光学ガラスの階梯を渡し、それが地下洞に通じる。
そこは墳墓でもあった。
古代、古墳と社屋は一体であるとした彼のイマジネーションがそう設計させた。
著書で、場について、こう語らせている。
Q:写真家だと思われているあなたが、
なぜ神社を建てることになったのですか。
A:写真家といっても水と空気、それと光を扱ってきました。
建築も似たようなものです。
Q:アプロプリエート・プロポーションとは、
日本語でどう訳したらよいのですか。
A:神はある特殊な場に宿ります。そのような場には、
独特の比率があります。
Q:それは建築的な比率のことですか。柱とか梁の。
A:比率とは場のたたずまいのことです。
Q:ではアプロプリエートは、適切という意味ですね。
A:空間が適切であるとき、日本語では
場をわきまえた と言います。
Q:すると、”場をわきまえた、たたずまい”となりますね。
A:そうです、凛とした空気のことです。
(写真と対話、「苔むすまで」より)
藤尾 秀昭・著 ⇒ http://www.chichi.co.jp/book/7_news/post_76.html 「人は昔から、言葉を心の糧として生きてきました。 私たちはできるだけよい言葉、よい教えにふれ、 それを糧とすべく心術の工夫をしていかねばなりません」 ――言葉の持つ力の偉大さと、 心を鼓舞する内的言語の存在が、 人生においていかに大切であるかを謳った 著者の思いが込められた一文です。 今回一冊の本として装いを新たにしたことで、 各章の中に刻まれた箴言至言の数々が、 読む人の心に大きな活力を与えてくれます。 * * * 「“3万6500朝”(棟方志功) なんといういい言葉だろうか。 100年生きたって僅か3万6500朝だ。 一朝だってムダにしてはならないんだと、 腹にしみわたるような言葉だ」 (坂村真民) 「父母の恩の有無厚薄を問わない。 父母即恩である」 (西晋一郎) 「家庭の躾ができていない人は 主役級の俳優にはなれない」 (浅利慶太) 「人に教えられたものは身につかない。 自ら探して得られたものだけが自分の力になる」 (中川一政) 「芸のゆきどまりを見せずして、 一期を終るをまことの芸とす」 (扇ケ谷三郎) * * * 一度海に潜った海女は、 一つの真珠貝を見つけるまで、 どんなに苦しくとも上がってこない、 これを「一沈一珠」という.