まほろばblog

Archive for 6月, 2013

長寿郷と徐福の里へ

土曜日, 6月 15th, 2013

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今日から、森下自然医学主催の森下会長率いる長寿郷調査団に加わり、

江蘇省南通市に行って参ります。

前回訪問した 如皋(ルーカオ)市の隣に接し、多くの長寿者を擁しています。

今までの辺境に在する長寿村ではなく、都会における画期的な調査でもあります。

連雲港 徐福

 

また後半は、上海や南通より少し北に位置する港町、連雲港を訪問します。

そこは、徐福の里でもあり、そこから日本に向けて2200年前に出航したのでした。

森下博士を迎えての政府の招待は、

日本徐福会名誉会長の羽田元総理に次ぐ大歓迎式典ということで、

中国国内の一級の徐福研究家が一同に介して研究交流会が開催されます。

日本からは、森下会長と私が発表との事で、驚いています。

知らされたのは、つい先日4,5日前のことでした。

でも、何とかなるでしょう。

楽しんで来たいと思います。

後日、旅のあれこれをお知らせいたします。

 

 

 

22、23日に催眠療法が

土曜日, 6月 15th, 2013

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横浜の「イーハートブ クリニック」の萩原優院長は、

30年にわたり、消化器外科医として聖マリアンヌ医科大に勤め、

准教授を経て外科部長に就任後、クリニックを開業。

アメリカにおけるABHマスターインストラクターなどの多くの資格を取得して、

メンタルケアの総合医療を行い、心理療法の母胎でもある

「催眠療法」では、日本における権威でもあります。

今月22,23日に、まほろばにおいてセミナーを開きます。

なかなか奥の深い内容です。ご興味のおありの方は是非参加されてくださいませ。

http://ihatovo-clinic.com/

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萩原 優(はぎわら まさる)

医学博士  広島大学医学部卒業 東京女子医大外科で3年間の医療錬士を経て、 聖マリアンナ医科大学第一外科にて消化器外科、内視鏡的診断・治療、緩和医療に従事した。 第一外科講師、同大学講師、准教授を経て西部病院外科部長を歴任した。 30年以上に渡り大学病院に勤務し、平成17年3月退職した。 平成18年9月より19年3月まで「森の診療所」院長を勤めた。 現在は聖マリアンナ医大客員教授。イーハトーヴクリニック院長。 医療における精神面に特に重要視し、統合医療を行っている。 催眠療法を実践しつつ、その普及に努めている。
元日本外科学会指導医、元日本消化器外科学会指導医、日本消化器病学会指導医、 日本消化器内視鏡学会認定専門医、日本緩和医療学会評議員
・NPO法人ほあーがんサポートネットワーク代表 ・日本ホリスティック医学協会専門会員 ・ABH(米国催眠療法協会)マスターインストラクター ・NGH(米国催眠士協会)インストラクター ・ブライアン・Lワイスプロフェッショナルトレーニング修了 ・ソマティックヒーリング・インストラクター ・日本ホリスティックワーク顧問 ・日本メンタルヘルス協会公認カウンセラー ・現代レイキ師範マスター
著書/ 『がんの催眠療法』(太陽出版) 『前世療法体験CDブック』(マキノ出版) 『医師が行う がんの催眠療法体験CDブック』(マキノ出版)
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なつかしき人、平澤興先生

土曜日, 6月 15th, 2013
致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」

      2013/6/15 致知出版社(毎月15日配信)

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平澤興先生に出会えたのは私の財産です、
と私は講演の時によく話します。

森信三先生、坂村真民先生に出会えたのも同じです。

初めてお会いしてからもう30年近くが過ぎますが、
年を経るごとに、「逢い難くして逢うを得たり」の思いを深くしています。

その平澤先生の25回忌が6月17日に新潟で行われると、
平澤先生の晩年、秘書としてよく仕えられた早川さんが教えてくれました。

当日は、私は所用があり参加できませんが、
没後25年、先生のお人柄と教えは今も温かく、
私を導いてくれています。

平澤先生はお会いすると、
人をホッとさせるような人格の力をお持ちの方でした。
しかし、自分には相当厳しい人だったようです。

数年前、平澤記念館で、
平澤先生の同級生が先生を評した言葉に出会いました。

「平澤君は非常な努力家でありました。
 人間努力をすれば最もすぐれたところまで進み得ることを
 彼は身をもって教えてくれました」

同級生からこういう評価をされるほどの努力家であった、ということです。

そういえば、伝説的になっている先生の若かりし頃の勉強ぶりがあります。

先生は四高から京都大学医学部に入学するのですが、
これまでのような受身の勉強ではなく、
命がけの勉強をしようと決心し、
昼間は大学の講義を聞き、
夜は先生の話した外国の参考書を原典で読み、
そして自分独自のノートを作るという計画を立てられました。

それを全部やると、睡眠時間は4時間ほどしかとれません。
そういう生活をひと月ほど続けているうちに
先生はノイローゼのようになってしまいます。

そんなある日、
故郷の雪原を1人で歩いていると、
ベートーヴェンの言葉がドイツ語で聞こえてきたといいます。

「勇気を出せ。
 たとえ肉体にいかなる欠点があろうとも、
 わが魂はこれに打ち勝たねばならぬ。
 25歳。そうだ、もう25歳になったのだ。
 今年こそ男一匹、
 本物になる覚悟をせねばならぬ」

25歳のベートーヴェンが耳の病気で絶望的になろうとした時に、
自分自身を鼓舞すべく日記に書いた言葉です。

その言葉がドイツ語で聞こえてきたというから、
すごいですね。

その言葉に励まされ、先生は自分を取り戻すのです。

そして、また新たな計画を立て直します。
それは実習には出るが講義には出ず、
その代わり原書を読むことに専念する、というものです。

担当教授に示された原書は1月から6月までで
約3千ページ。それを朝2時に起きて、夜9時まで読む。
予定のページがすむまでは寝ないという計画を立て、
それを実行したのです。

まさに、非凡な努力です。

平澤先生は計画を途中でやめないためには、
「予定は自分の実力以内で立てること」といっています。

1時間内に1ページ読める力があるなら、
予定はその3分の2か半分にする。
1か月も30日の中で、いろんな用事が出てくるから、
24、25日くらいにしておく。
そういう余裕のある計画を立てることが大事だといわれています。

平澤先生は89歳で亡くなられましたが、
その独特の人間的魅力と、
若年期の勉学に打ち込む姿は無縁ではないと思います。

平澤先生の語録『生きよう今日も喜んで』には
人生の達人たる先生のすばらしい言葉が
ちりばめられていますが、
私自身が心に留めている先生の言葉を
最後に紹介したいと思います。

「生きるとは燃えることなり
 いざやいざ 進まん 
 この道
 我が燃ゆる道」


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「ずく(やる気)を出して頑張らねか」

土曜日, 6月 15th, 2013
清水 咲栄(90歳の郵便配達人)

              『致知』2013年7月号
               特集「歩歩是道場」より

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二十年にわたって雪国の郵便配達を続ける中で、
命の危険に直面することが何度かありました。

ある時、配達を終えて歩いていると、
突如としてゴォーッという地鳴りのような音が
聞こえてきました。

振り返ると、山の上から
物凄い量の雪が襲ってきたのです。

私は慌てて逃げましたが、
一瞬のうちに私の背中をかすめて
崖下へと流れ落ちていきました。

あと何秒か遅れていたら、
間違いなく雪崩に巻き込まれていたでしょう。

それだけではありません。

とてつもない暴風雪が吹き荒れていた時には、
どんなに踏ん張っても体が思うように動かず、
どんどん崖のほうへと流されていく。

そして崖まであと二メートルという寸前のところで
ピタッと風が弱まったということもありました。

郵便局の方からは

「吹雪の日は大変だから、
  休んで次の日にすればいいのに」

とよく言われます。
しかし、そんなわけにはいきません。

どんなに凄い吹雪だろうと、
郵便が届くのを楽しみに
待っている人たちがいるのですから。

ある方がこう言いました。

「誰かの笑顔を、この山に住む人々に届け、
 一緒に喜ぶこと。

 誰かの悲しみを、この山に住む人々に伝え、
 一緒に涙すること。

 それがあなたの仕事」


ですから、今日までの二十年、
私は天候を理由に休んだことは一切ありません。

しかし、たったの一日だけ、
どうしても体が言うことを聞かず、
休んだことがありました。

それは一番下の娘が亡くなった日のことです。
そう、父ちゃんが亡くなった時、
奇跡的に一命を取り留めたあの子です。

彼女はあの交通事故の後、
結婚して幸せな家庭を築きましたが、
若くして乳がんを患ってしまったのです。

享年四十六でした。
やはり親としては自分の娘に先立たれるほど
切ないものはありません。

こうして振り返ると、人生というのは
いいことよりも悪いことのほうが多いものなのでしょう。

しかし、四季が巡ってくるように、
厳しい冬の後には必ず春が来ます。

人生という畑に涙の種を蒔けば、
その種がいつか喜びの花を咲かせてくれる。

だからこそ、人生は忍耐と努力に尽きる――。
それが九十年の人生を通して得られた実感です。


私がよく言っているのは

「ずくを出して頑張らねか」


ということ。

“ずく”とはこのあたりの方言で、
やる気という意味です。

人生、ずくを出さなければ何もできません。

苦労をともに乗り越えてきた父ちゃんを亡くし、
自分の娘にも先立たれてしまいましたが、
ずく一筋で生きてきたからこそ
いまの私があるのではないでしょうか。

「奇跡のリンゴ」が日本テレビに

金曜日, 6月 14th, 2013

サン・スマイルさんからのお知らせです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

サン・スマイル松浦智紀です。

(Bcc配信です)

平素誠にお世話になっております。

早速でございます。

無肥料自然栽培でリンゴの栽培に成功した

木村秋則氏がモデルの映画が現在

「奇跡のリンゴ」の全国ロードショー中です。

なんと現在第三位の興業だそうです!

木村秋則氏もテレビ露出が増えておりますが

本日の放映は必見です!

ぜひご覧頂けたら幸いです!

本日6月14日(金) 23時58分~24時58分 の放送内容

日本テレビ「NEWS ZERO」【木村秋則×村尾キャスター対談】

映画の宣伝だけでなく

無肥料自然栽培の突っ込んだ内容になるようです!

「無肥料」という言葉は放送禁止用語として扱われていましたが

どのように表現されるのか私個人的にもとても楽しみにしています!

※放送時間にご注意ください。

放送日、放送内容に変更がでる場合があります。また地域によって

放送日時がことなる場合があります。放送時間は地域版のTV番組表等で
ご確認ください。

http://www.ntv.co.jp/zero/

「言葉が育つ時」

木曜日, 6月 13th, 2013
     苅谷 夏子(大村はま記念国語教育の会事務局長)

                『致知』2007年10月号
                      致知随想より

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└─────────────────────────────────┘

「国語教育の神様」といわれた大村はまが
九十八歳で亡くなる四日前、あるシンポジウムのため、
インタビューを収録しました。

静かな迫力のある話しぶりでしたが、翌日、
「言いたかったことを一つ、言い落とした」
と電話がきました。

追加の収録をお願いしようか、
印刷物にして会場で配布してもらおうか、
いや、シンポジウムに出席して、
フロアから発言させてもらおう、とまで言います。

そこまでしなくても、と止めましたが、
大村の、仕事の細部にまでわたる本気は、
揺らぎませんでした。

けれども、その長い電話の最後に、
ふと気持ちが切り替わったように
「あんまりしつこすぎるのも良くないからやめにする」
と自分から言い、その三日後に突然、
あっけないような感じで世を去りました。

七十四歳で教職を終えてからも、
国語教育者として道を切り拓くのだという
覚悟と自負が大村にはあったのでしょう。

亡くなるその月まで
毎月何万円分という本を買って読み続け、
最後の最後まで前のめりな人でした。
死後、残された自室の机の上は、
まさしく現役の人のものでした。

       * *

大村と出会ったのは、私が中学一年九月の転入時です。
当時六十三歳の大村は、明るい調子のあいさつで
授業を始めると、小さな藁半紙を配りました。

「夏休みの宿題はきょうが提出日でしたね。
 少し遅れるという人もありますか。
 この紙に提出状況や予定を簡単に書いて、
 添えて出すように。

 隣の人と相談したりしないで、
 静かに、さっとやりましょう」

と言いました。

転入生だった私はどうしていいか分かりません。
尋ねに行こうかと考えましたが、
それをさせない雰囲気が大村にはありました。

結局、考えた末に

「私は転入生なので何も提出できません」

と藁半紙に書き、黙ってそれだけを出すことにしました。

二日ほど後のこと、まだよく名も知らない同級生が

「はま先生がね

“ああいうことを黙ってやり切るのは大きな力だ。
 今度の転入生は力のある子だ”

 って褒めてたよ」

と教えてくれたのです。
迷った末にとったあの行動を
「力」と評価してくれたのだと知った時、
あの先生についていこう、という気持ちに
なったのを覚えています。

大量の本や新聞・雑誌・パンフレットなど、
驚くほど多彩な教材を使った授業は
「大村単元学習」と呼ばれました。

一度も同じ授業を繰り返さなかったといわれています。

授業をリードするその姿は実に知的で、
具体的な知恵と技術に満ち、
生徒としてはついていかざるを得ないような
強い引力がありました。

特に印象に残っているのは、
「『私の履歴書』を読む」という単元です。

日本経済新聞の連載が本として五十巻ほど発刊され、
各自、違う人の自伝を担当し、
その人となりなどを発表する取り組みです。

その初回の授業で、
「これまでの自分の人生を振り返った文章を
 書いてみましょう」と課題が出されました。

思い出しながら、題材をメモしていくと、
種になりそうなことはいくらでも出てきます。

ところが、いざ一つの文章にまとめようと
構成を考え出すと、これは大事なことだけれど
人には知られたくないとか、
これは実際以上に少し強調して書きたい、などと、
思いも寄らないようなややこしい気持ちが
自分の中に湧くのです。

事実としてそこにある自分のこれまでの日々を、
平坦な気持ちでは書けないことに戸惑いました。

そんな最中に大村が

「はい、そこまででやめましょう」

と作業を止めました。

「すべての出来事をあった通りに
 そのまま書くわけではなさそうでしょう。
 たくさんの事柄のなかから、
 それを選び取る自分がいる。

 実際にあったことでも、書かないこともある。
 選び、捨てる、そこにこそ、
 その人らしさが出てくるんじゃありませんか」

その一瞬、文字通り目から鱗が落ちました。

生まれて初めて「ものを書く」ということの本質が
垣間見えた瞬間でした。

そうか、表現するとはこういうことか。
文章も音楽も美術も、日常の言葉のやりとりさえ、
拾うことも捨てることも経た上での表現なのだ! 

どこかから「ぐいっ」と音が聞こえるくらい、
ひとつ大人になったのだと、私は実感していました。

大村が単元学習をやり通した大きな理由の一つは、
心からの言葉が行き交う教室を
つくりたかったということだと思います。

ふつう、国語の授業中、教科書の文章を読むような時、
自分の心や頭を思わず深くのぞき込み、
気づいたことをぜひ発言したいと思うことなど、
めったにありません。

言わばお義理で読んで、お義理で質問に答えている
といった状況がほとんどです。

大村は、お義理で言葉を使うような場では、
言葉の力は本当には育たないのだということを
冷静に直視し、子どもたちが自分から立ち上がって
言葉と向き合う場をつくろうとしたのではないかと思います。

大村の言葉に

「子どもたちはどの子も、
 あのことを言いたいと思って
 トラの子のように
 たいせつにしている考えを抱いている」

というものがあります。

大村は、本気で、一人ひとりの子と、
その子らの抱くトラの子一匹一匹を見ていてくれた。
そう思うと、ほんとうにありがたいような気持ちになります。

晩年の大村の手伝いをするようになって、
二人で本当にたくさんの話をしてきました。

それを思い出しながら、
『優劣のかなたに―大村はま60のことば』(筑摩書房)
を書きました。

大村が育ててくれた言葉の力を、
大村の仕事を伝えることに使っていければ嬉しいです。
なにか、収支が合う感じがします。

「失敗から学んだ仕事の尊さ」

水曜日, 6月 12th, 2013
  田中 健一(東レインターナショナル元社長)

              『致知』2013年7月号
               連載第32回「二十代をどう生きるか」より

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新人の頃、伝票処理を行っていた時期がある。
営業の一線に配属された同期の仲間たちが、
華やかな商談話を自慢げに披露し合うのを
恨めしく思ったものだ。

そんなある時、私の伝票処理が遅れたために、
ある取引先への支払いが翌月回しに
なってしまったことがある。

すると、普段滅多にお目にかかれない
先方の重役が血相を変えて飛んできた。

上司は私の代わりに平謝りし、
特別な措置を取って支払いを済ませてくれた。

私の怠慢から生じたミスであったにもかかわらず、
その上司からは一言もお叱りが
なかったことが逆にひどく堪えた。

その失敗で私は、自分の仕事の重要性を初めて実感した。
その会社がこの支払いにどれだけ依存しており、
自分の仕事がそこにどれほどの影響を及ぼすのかということが、
これ以上ないくらいの形で理解できたのである。

以来、それまでただの紙切れにしか見えなかった伝票が、
まったく違って見えるようになった。
見方を変えれば、会社を取り巻く
あらゆる動向を教えてくれる
情報の宝庫であることに気づいたのだ。

私は、二度と同じ失敗を繰り返さないよう
仕事のやり方を工夫するとともに、
伝票処理を通じて様々な問題を発見し、
提案を重ねていった。

あの失敗がなければ、仕事の本当の面白さや、
やりがいというものに気づくことはできなかっただろう。

私は後の東レインターナショナル社長時代、
社の管理システムを世界標準と
なりつつあったSAP社のシステムに
全面移行する決断を下した。

その際、SAPのトップと直接打ち合わせを行い、
導入を成功に導くことができたのも、
新人時代にいきなり営業の一線に立つことなく、
最初はつまらないと思っていた伝票処理を通じて、
事業に伴う仕事の流れをつぶさに学んだからに他ならない。

もう一つ、私に目覚めるきっかけを与えてくださったのが、
二十代後半に仕えた十歳年上の課長であった。

江戸っ子は今の3倍の飲酒量!

火曜日, 6月 11th, 2013

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ひどくうすかった日本酒

さて、江戸時代の酒の総消費量がどう考えても多すぎる。まるで「酒の上に浮かんでいるよう」な按配(あんばい)だとか。醸造学の権威、東京農業大学教授の小泉武夫氏はご生家が酒蔵でして、江戸時代の資料どおりに酒づくりを再現してみた結果、あるところまでは、水で薄めても味が変わらない事を発見しました。
 この頃は石造税といいまして、造った酒の量によって税をかける。それなら水分を少なくアルコール度の高い酒をつくり、あとで薄める方が得。すると樽廻船、問屋、小売と順番に薄まってゆく。このあたりはアウンの呼吸だったとか。消費者の手元に届く頃、アルコール濃度は四分の一にまで落ち、4ないし5%ほど。これ以上薄めるとさすがに分かったといいます。
 日本酒の飲み比べの記録が残っていますが、とても信じられない量。しかし、これほどの薄さなら・・・いけるかも、といった按配なのでした。

「むらさめ」という酒は、持つと人を斬りたくて我慢ができなくなる妖刀の「ムラサメ」からで「切れ味がいいから」との説は嘘で、村に着く頃、醒めちゃう酒のこと。「むらさめの名のごとく、新川で多く居酒いたし候(そうらえ)ども、余、村へたどり着くまでに酔い心地ははや醒めたり」との記述があります。戦後はこういうのを「金魚酒」とよんだとか。中で金魚が泳げる酒、ということでしょう。

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「いい家はオーガニックで建てる」にエリクサーが

火曜日, 6月 11th, 2013

オーガニック建物

 

著者・中田重克氏から贈られて来た「いい家はオーガニックで建てる」

「・・・有機だから心と体が癒される!

無垢材や漆喰などの天然資材と伝統工法に加え、

マイナスイオンを出す「S・O・Dリキッド」や木炭、

浄水器を活用して、より心身に負担をかけない

住まいを実現する。

一戸建ての新築やリフォームはもちろん、

賃貸マンションの一室からでも

応用できるのがうれしい」

と帯に、書かれている。

 

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1、「オーガニック住宅」は人が自然に還る場所

2、住宅を「オーガニック」にする5つのポイント

3、「日本的有機生活」で、より健康で幸せになる

その2項の

① 天然素材を適材適所で用いる

② 内装にマイナスイオンを出す

③ 敷地に炭を埋めて「イヤシロチ」に変える

④ 「住まいの血流」である水を浄化する

⑤ 目に見えない電磁波による害から家族を守る

の④で、エリクサーが紹介されました。

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河出書房新社 定価 ¥1.500(税別

丸山アレルギークリニック丸山修寛院長監修。

「テレビ断食で日本再建」

日曜日, 6月 9th, 2013
      田中 暖人(たなか・あつと=テレビ断食の会会長)

                『致知』2013年7月号
                      致知随想より

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ある調査によると、いまの子どもはテレビやゲーム、
インターネットなどの電子メディアに週平均で約三十時間、
多い子になると六十時間以上も浸っているといいます。

毎日報じられる学校現場での問題。
その中でも、子ども自身に関する問題の根っこにあるのは
家庭の崩壊です。

そして、家庭が崩壊する原因の根っこは
家族同士の会話の無さにあります。

そして、家族同士の会話を阻害しているのは
テレビをはじめとした電子メディアなのです。

私はこの程「テレビ断食の会」を立ち上げ、
日々の生活から電子メディアに浸る時間を減らし、
家族との有意義な時間を取り戻す運動を推進しています。

私たちを取り巻く電子メディアといえば
テレビ・ゲーム・携帯電話・パソコンなど幅広く、
テレビだけ断食しても仕方がないと思われるかもしれませんが、
「テレビを断食する」ということは、
テレビ以外の電子メディアとの関わりを減らすことにもつながってきます。

そもそもテレビ番組は視聴率を上げるために、
途中でチャンネルを変えさせないよう、
電源を切られないよう実に巧みに制作されています。

大人であってもついつい画面に吸い寄せられて、
いつの間にか時間が過ぎてしまいます。
自制心が育っていない子どもは
ずるずると長時間の視聴に及んでしまうのです。

学校では、テレビは計画的に約束を守って観ましょう
といった指導がよく為されます。
しかし、それは現実を知らないきれい事だと私は思います。

子どもにそういう自制心がほとんど期待できないことは、
自分自身の子ども時代を振り返っても、
我が子の様子を見ても明らかです。

子どもがいかにテレビ番組にコントロールされているかは、
観ている時の表情を見れば分かります。

口をぽかんと開け、魂を抜かれたような表情をしています。
途中で話しかけられたり、用事を頼まれたりしても
返事すらままならない状態です。

電子メディアがもたらすもう一つの大きな問題は、
子どもの脳へ与える影響です。

長時間テレビを観たりゲームをしたりしている子どもは
脳が休まっておらず、学習に集中できないため、
成績も振るいません。

電子メディアと関わる時間と学力との相関関係は明らかです。

さらに深刻な問題は、電子メディアと
長時間関わっていることによって、
主体的に時間を工夫して使うことを
考えなくなってしまうことです。

厳しい言い方をすれば、
「電子メディアに逃げ込む人間になってしまう」
ということです。

もし、電子メディアがなければ、子どもたちは外へ出て、
きょうだいや友達を探して遊ぶなり、
家の中であれば、絵を描いたり、物を作ってみたり、
本を読んだりして時間を過ごす工夫をします。

その過程で創造力や人間との関わり方が育っていくのです。

しかし、子どもが自由にテレビの電源を入れ、
自由にゲームができる環境にいるならば、
ついつい電子メディアに流れてしまうでしょう。

それは、電子メディアが「楽に楽しめる」からです。
自分で工夫することもなく、
与えられた娯楽番組やゲームに興じているだけでは、
創造力や人間と関わる力は培われません。

そういう力が育っていないと、
困難な場面に出くわした時、
簡単に折れてしまったり、
電子メディアの世界に逃げてしまったりするのです。

我われ人間は、大人でも子どもでも、
やらなければならないことを一つひとつ
やりとげながら毎日を過ごしています。

しかし、「楽に楽しめる」電子メディアの世界に向いてしまえば、
その時間は嫌なことから逃れられます。
そういった時間の過ごし方を子ども時代に続けていけば、
生きる力の根幹ともいえる創造力と積極的に
人間関係を築いていく力が育たないまま
大人になってしまうでしょう。

かくいう我が家も、かつてはテレビに翻弄されていました。