「言葉が育つ時」
木曜日, 6月 13th, 2013苅谷 夏子(大村はま記念国語教育の会事務局長) 『致知』2007年10月号 致知随想より └─────────────────────────────────┘ 「国語教育の神様」といわれた大村はまが 九十八歳で亡くなる四日前、あるシンポジウムのため、 インタビューを収録しました。 静かな迫力のある話しぶりでしたが、翌日、 「言いたかったことを一つ、言い落とした」 と電話がきました。 追加の収録をお願いしようか、 印刷物にして会場で配布してもらおうか、 いや、シンポジウムに出席して、 フロアから発言させてもらおう、とまで言います。 そこまでしなくても、と止めましたが、 大村の、仕事の細部にまでわたる本気は、 揺らぎませんでした。 けれども、その長い電話の最後に、 ふと気持ちが切り替わったように 「あんまりしつこすぎるのも良くないからやめにする」 と自分から言い、その三日後に突然、 あっけないような感じで世を去りました。 七十四歳で教職を終えてからも、 国語教育者として道を切り拓くのだという 覚悟と自負が大村にはあったのでしょう。 亡くなるその月まで 毎月何万円分という本を買って読み続け、 最後の最後まで前のめりな人でした。 死後、残された自室の机の上は、 まさしく現役の人のものでした。 * * 大村と出会ったのは、私が中学一年九月の転入時です。 当時六十三歳の大村は、明るい調子のあいさつで 授業を始めると、小さな藁半紙を配りました。 「夏休みの宿題はきょうが提出日でしたね。 少し遅れるという人もありますか。 この紙に提出状況や予定を簡単に書いて、 添えて出すように。 隣の人と相談したりしないで、 静かに、さっとやりましょう」 と言いました。 転入生だった私はどうしていいか分かりません。 尋ねに行こうかと考えましたが、 それをさせない雰囲気が大村にはありました。 結局、考えた末に 「私は転入生なので何も提出できません」 と藁半紙に書き、黙ってそれだけを出すことにしました。 二日ほど後のこと、まだよく名も知らない同級生が 「はま先生がね “ああいうことを黙ってやり切るのは大きな力だ。 今度の転入生は力のある子だ” って褒めてたよ」 と教えてくれたのです。 迷った末にとったあの行動を 「力」と評価してくれたのだと知った時、 あの先生についていこう、という気持ちに なったのを覚えています。 大量の本や新聞・雑誌・パンフレットなど、 驚くほど多彩な教材を使った授業は 「大村単元学習」と呼ばれました。 一度も同じ授業を繰り返さなかったといわれています。 授業をリードするその姿は実に知的で、 具体的な知恵と技術に満ち、 生徒としてはついていかざるを得ないような 強い引力がありました。 特に印象に残っているのは、 「『私の履歴書』を読む」という単元です。 日本経済新聞の連載が本として五十巻ほど発刊され、 各自、違う人の自伝を担当し、 その人となりなどを発表する取り組みです。 その初回の授業で、 「これまでの自分の人生を振り返った文章を 書いてみましょう」と課題が出されました。 思い出しながら、題材をメモしていくと、 種になりそうなことはいくらでも出てきます。 ところが、いざ一つの文章にまとめようと 構成を考え出すと、これは大事なことだけれど 人には知られたくないとか、 これは実際以上に少し強調して書きたい、などと、 思いも寄らないようなややこしい気持ちが 自分の中に湧くのです。 事実としてそこにある自分のこれまでの日々を、 平坦な気持ちでは書けないことに戸惑いました。 そんな最中に大村が 「はい、そこまででやめましょう」 と作業を止めました。 「すべての出来事をあった通りに そのまま書くわけではなさそうでしょう。 たくさんの事柄のなかから、 それを選び取る自分がいる。 実際にあったことでも、書かないこともある。 選び、捨てる、そこにこそ、 その人らしさが出てくるんじゃありませんか」 その一瞬、文字通り目から鱗が落ちました。 生まれて初めて「ものを書く」ということの本質が 垣間見えた瞬間でした。 そうか、表現するとはこういうことか。 文章も音楽も美術も、日常の言葉のやりとりさえ、 拾うことも捨てることも経た上での表現なのだ! どこかから「ぐいっ」と音が聞こえるくらい、 ひとつ大人になったのだと、私は実感していました。 大村が単元学習をやり通した大きな理由の一つは、 心からの言葉が行き交う教室を つくりたかったということだと思います。 ふつう、国語の授業中、教科書の文章を読むような時、 自分の心や頭を思わず深くのぞき込み、 気づいたことをぜひ発言したいと思うことなど、 めったにありません。 言わばお義理で読んで、お義理で質問に答えている といった状況がほとんどです。 大村は、お義理で言葉を使うような場では、 言葉の力は本当には育たないのだということを 冷静に直視し、子どもたちが自分から立ち上がって 言葉と向き合う場をつくろうとしたのではないかと思います。 大村の言葉に 「子どもたちはどの子も、 あのことを言いたいと思って トラの子のように たいせつにしている考えを抱いている」 というものがあります。 大村は、本気で、一人ひとりの子と、 その子らの抱くトラの子一匹一匹を見ていてくれた。 そう思うと、ほんとうにありがたいような気持ちになります。 晩年の大村の手伝いをするようになって、 二人で本当にたくさんの話をしてきました。 それを思い出しながら、 『優劣のかなたに―大村はま60のことば』(筑摩書房) を書きました。 大村が育ててくれた言葉の力を、 大村の仕事を伝えることに使っていければ嬉しいです。 なにか、収支が合う感じがします。
Posted by mahoroba,
in 人生論
コメント入力欄こちらからコメントをどうぞ »