まほろばblog

Archive for 8月, 2013

「人生のメンバー外になるな」

月曜日, 8月 12th, 2013
 森 士(もり・おさむ=浦和学院高等学校硬式野球部監督)

              『致知』2013年9月号
               致知随想より

└─────────────────────────────────┘

二〇一三年四月三日、春の甲子園で
我われ浦和学院高等学校は初めて頂点に立った。

苦節二十二年――。
振り返るといろいろなことが頭の中を駆け巡る。

その都度目の前に敵が現れ、
思うようにいかないことの連続であったが、
生徒や家族、守るべき存在がいたからこそ
頑張ってこられたのだろう。

今回優勝できた一番の要因は私自身の意識にあると思う。
まだまだ未熟だが、やはりトップに立っている
人間の器を広げないと組織は伸びていかない。

教育とは自分自身を磨くことだと日々実感している。

甲子園優勝は夢のような瞬間だった。

しかし、それ以上に私が誇っていることは、
この二十二年間、春夏秋とある埼玉県大会で
決勝戦に行っていない年が一度もないということだ。

毎年生徒が入れ替わる高校野球では、
時としていい選手が集まらないこともある。

だからといって、「今年は諦めて来年勝てばいい」という
チームづくりは一切してこなかった。

集まってくれた生徒が常に主人公であり、
とにかくいま目の前の代に懸ける。
その積み重ねが成果に繋がったのではないだろうか。

私が今日あるのは上尾高校時代の恩師・野本喜一郎監督が
いてくださったからに他ならない。

大学時代、私は怪我に泣かされ、
このまま選手として続けるか、指導の道に進むか悩んでいた。

野本監督は上尾高校から浦和学院高校に移られていたが、
そんな時、野本監督から
「もし指導者を志すなら、手伝わないか」と
声を掛けていただいた。

ところが、である。

大学四年の時、野本監督はすい臓がんで亡くなってしまった。
その年、浦和学院は初の甲子園出場を果たし、
ベスト4まで勝ち進んだのだが、秋の大会では一回戦負け。

選手たちは恩師を亡くした悲しみに
打ちひしがれていたようだった。

そんな彼らの姿を見た時に、学校さえ違うものの、
同じ師のもとに集った一人の人間として、
残された後輩たちに何か手助けができないだろうかと思い、
師の亡き後の浦和学院高校を守り立てようと決めた。

五年間のコーチ指導を経て、
監督に就任したのは一九九一年、二十七歳の時。

以来、負けたら終わりという勝負の世界に
ずっと身を置いてきた。

その中で何が勝敗を分けるのかと考えると、
それは瞬間的集中力の継続、に尽きるのではないかと思う。

私はよく生徒たちに

「野球とは人生一生のドラマを二時間に凝縮したもの」

と言っている。

その時その時の決断が後の人生を大きく左右するように、
野球の試合も一瞬のパフォーマンス次第で
状況は目まぐるしく変化していく。

例えば……

「果決」こそリーダーの条件

月曜日, 8月 12th, 2013
         松川昌義(日本生産性本部理事長) 

                『致知』2013年9月号
                 連載「私の座右銘」より

president[1]
心の支えとなる座右の銘を持つことは、
山あり谷ありの人生を歩んでいく上で
非常に大事なことだと思います。

特に逆境に立たされた時、そういう言葉が自分を鼓舞し、
果敢に立ち向かっていく力を与えてくれるのです。

組織を導くリーダーとして、
私が常に反芻(はんすう)してきたのは、
陽明学者・張詠(ちょうえい)の言葉です。

「事に臨むに三つの難あり。

 能く見る、一なり。

 見て能く行う、二なり。

 当に行うべくんば必ず果決す、三なり」

事に臨む、変化に対応していくには
三つの難しいことがあります。

一つは対象をよく見て
的確に判断するための観察力、調査力。

二つ目はそれを行動に移す実行力。

しかしそれだけでは不十分で、
その上にさらに重要なのが果決であるということです。

これは、日本生産性本部における私の上司であり、
人生の師とも仰ぐ牛尾治朗会長が、
安岡正篤先生から教わった言葉として
お話しくださったものです。

安岡先生は、果決という言葉の意味を、
次のように説いてくださったそうです。

果物の木に咲いている花を
すべて実らせてしまってはいい果実は採れない。

どの花を残すかを考え抜き、勇気を持って決断し、
選んだ花から立派な実を育てなければならないと。

よし、これでいこう。
折しも強い危機の最中にあった私の心に、
この言葉はストレートに響き、肚を固めることができたのでした。

それは、私が日本生産性本部の理事長に就任した
二年前のことでした。

その年の三月に発生した東日本大震災により、
予定していたプロジェクトの多くが中止や規模縮小を
余儀なくされ、経営は赤字転落。

このまま手をこまねいていては
生産性本部の存続そのものが危うくなる――
損傷した日本生産性本部のビルを見上げながら
強い危機感を抱いていた頃に教わったのが、
この果決という言葉でした。

日本生産性本部は昭和三十年、
経済同友会の設立に尽力された郷司浩平さんが、
当時まだ生産性の低かった日本企業の近代化を
促進するために設立された財団法人です(現在は公益財団法人)。

しかし、その後社会情勢は大きく変わり、
時代にそぐわない事業が増えてきたにもかかわらず、
旧弊を引きずりなかなか思い切った改革に
踏み出せずにいました。

理事長就任前から牛尾会長の熱心なご指導を受け、
ピンチをチャンスに変えよと繰り返し
説いていただいていた私は、
この震災を機に事業再生に
根本から取り組もうと決意を固めたのです。

そこで六月に理事長に就任すると、
私は「事業再生タスクフォース」を立ち上げ、
既存の百の事業を徹底的に精査し、
各々の経常利益まで分析しました。

その分析結果をもとに、
私は一つひとつ存続の可否を決断。

まさしく果決を実践したのです。
それは容易な作業ではなく、考えに考え、
思い悩んだ末に決断を下した体験から、
私は果決という言葉の重さを実感したのでした。

鳥の歌

土曜日, 8月 10th, 2013

 

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「鳥の歌」の原曲はキリストの誕生を祝い鳥たちが歌う という内容の、

カタロニア地方に伝わるクリスマス・キャロル。
現代でもキリスト教の聖歌として歌われている。

整体法の故・野口晴哉氏が終生「わが心の師なり」と尊敬した

チェリスト、パブロ・ザルスが、

カタルーニャ民謡『鳥の歌』(El Cant dels Ocells)を演奏し始めたのは、

第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。

この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、

以後カザルスの愛奏曲となった。

1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において

「これから短いカタルーニャの民謡《鳥の歌》を弾きます。

私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)

と鳴きながら飛んでいるのです」と語り、

『鳥の歌』をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている。
カザルスの故郷スペインは1939年の内戦以降、
独裁者フランコによる軍事政権が続き、
「自由な政府ができるまで祖国には帰らない」 と語り、

スペインを離れたカザルスは、 祖国の土を踏むことは二度となかった。

彼は優れたチェリストであるばかりでなく、 大指揮者であり、

またシュバイツァーと共に、 核実験禁止の運動にも参加した平和主義者だった。

 

この演奏の声は、音楽を超えて、私達に迫る。

それは、平和を訴えると共に、音楽の本質は何かと訴えるものなのだ。

 

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その「鳥の歌」をスペインの誇る国民的歌手、同じカタルーニャ地方出身の

MARINA ROSSELL・マリナ・ルセイユ」が歌います。

魂に打ち続けるチェロと声の響きに、音楽と人間の深遠さを思うのは、私ばかりでしょうか。

 

 

「二宮金次郎の幸福論」

土曜日, 8月 10th, 2013
          中桐万里子(二宮尊徳七代目子孫・リレイト代表) 

                『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201309_pickup.html#pick1

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金次郎の教えで有名な
「たらいの水の話」というのがありますね。

水を自分のほうに引き寄せようとすると
向こうへ逃げてしまうけれども、
相手にあげようと押しやれば自分のほうに戻ってくる。
だから人に譲らなければいけないと。

けれどもこの話には実は前段があるのです。

人間は皆空っぽのたらいのような状態で生まれてくる、
つまり最初は財産も能力も何も持たずに生まれてくる
というのが前段にあるのです。

そしてそのたらいに自然やたくさんの人たちが
水を満たしてくれる。

その水のありがたさに気づいた人だけが
他人にもあげたくなり、
誰かに幸せになってほしいと感じて
水を相手のほうに押しやろうとするんです。

そして幸せというのは、自分はもう要りませんと
他人に譲ってもまた戻ってくるし、
絶対に自分から離れないものだけれども、
その水を自分のものだと考えたり、
水を満たしてもらうことを当たり前と錯覚して、
足りない足りない、もっともっととかき集めようとすると、
幸せが逃げていくんだというたとえ話だと祖母から教わったんです。

それから金次郎は、偉大な思想家、経済学者、農政家と
いわれていますが、彼はやっぱり農民だった、
土と一緒に生きた人だったと凄く感じるんです。

例えば金次郎が残した道歌にこういうものがあります。

「米まけば 米の艸(くさ)はえ 米の花
 さきつゝ米の みのる世の中」

米を植えれば米が実るという
当たり前の道理を歌っているんですが、
金次郎はこの歌の米の部分を茄子や麦や芋や
あらゆるものに置き換えて歌っていて、
とてもありきたりなんですが、そのことをとても楽しんでいる。

農業という自分の仕事に力を尽くしてきた人だ
というのが伝わってくるとともに、
とても大切なことを教えられるような気がするんです。

仕事をやっていると、自分は小さなことしかできていない
という焦りや、不安に苛まれることもあります。

けれども金次郎は常に目の前の現実、
自分の一歩を大事にし、愛おしみ、
感謝しなさいと教えてくれ、
浮ついてしまいがちな自分を
地面に引き戻してくれる人だと私は感じています。

※中桐さんが、作家の三戸岡道夫氏と語り合った
「二宮尊徳の残した教え~心田の開発こそあらゆる繁栄の本~ 」。

いざ、寿都へ

金曜日, 8月 9th, 2013

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一昨日、「無着色タラコ」「無着色明太子」の生産地・寿都の南波さんに行って来ました。

長年、魚を扱って来て、ようやく地元でタラコの安定供給の道を見出したのです。

しかも、ずべて原材料は地物日本海産のスケソウ鱈の卵。

輸入物は一切なしという徹底振りで、その工場の衛生・製品管理の徹底さにも驚嘆しました。

 

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(「無着色明太子」80g 、「無着色たらこ」70g )

 

また、全く添加物を加えないという一貫性。

産地は北海道で、加工は福岡、・・・なる明太子。

それを、北海道の人々が何十倍もの値段で買って食べるという馬鹿な構図がありました。

しかし、これからは、地物を地元で作って、地場で売って買う健全な構図にしなければなりません。

そんな意味でも、この商材を起爆剤にして、裾野を押し広げることは、

地域活性にとても重要なことです。

これから、南波さんとタッグを組んで、前向きに商品開発に力をそそぎたいと思います。

詳しくは、後号まほろば便りの報告をご覧ください。

 

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 『清、負けたらあかん』

金曜日, 8月 9th, 2013
貧乏と小児マヒを乗り越えた孝行社長の物語

    川辺 清・著
   
324[1]
    *     *

焼肉の「情熱ホルモン」をはじめ、
様々な事業を手がける「五苑マルシングループ」は、
今年4月で創業から50年を迎えます。

創業者の川辺清氏は昭和13年生まれ。
靴職人で博打好きだった父はほとんど家に帰ることなく、
母は生活費を得るために、
夫の行方を捜しながら4人の子供を育てたといいます。

清が2歳の頃のことです。
帰ってきた母がボロ布団の中でぐったりと横たわる清を見つけました。
布団をめくってみると、
紫色に腫れ上がった清の左足首からは膿が垂れ、虫が湧いています。
急いで病院に駆け込んだものの、
清の左足は完治することなく、
小児マヒの身となってしまいました。

その後、父の意向で清だけが
親戚の家に預けられることになります。
継ぎ接ぎだらけの服、小児マヒで骸骨のようになった左足、
それを引きずるようにして歩く姿がおかしいと、
近所の子供たちから毎日のようにいじめられました。

孤独でつらい日々でしたが、
清の心の中にはいつもやさしい母の存在がありました。
子供の頃から抱いていた
この「お母ちゃんを早く楽にしてあげたい」という思いは、
清が大人になってからも続きます。

中学を出た清は、
奈良の靴職人のもとへ奉公に出ました。
仕事は朝6時半から夜中の12時まで、
休みは月に2回のみでしたが、
早く一人前になりたい一心から懸命に働きました。
ところが2年経った頃、結核を患ってしまい、
不本意にも実家へと追い返されてしまったのです。

「俺は本当に駄目なやつだ」

絶望した清は自らの命を絶とうと迫り来る機関車に身を投げました。
ところが次の瞬間、清は傍らの草むらの上に倒れていたのです。
恐れに飛び退いたか、風圧に飛ばされたか、ともかく生きていました。
ふと線路を見ると、
ポケットから転がり出た5円玉が身代わりに機関車に潰され、
平べったくなっていました。

「俺は5円玉や。5円玉の輝きを見せてやる」

新たな決意に病魔も退き、無事年季を全うした清は25歳で会社を創業。
以来、異業種にも果敢に挑戦しながら、
経営者として事業に情熱を注ぐ一方、
子として母に孝養を尽くしました。

実話を元に記された川辺氏の半生が描かれた本書は、
遡ること平成5年に刊行された作品です。
この20年、川辺氏は正月になると本書を読み返し、
自身の原点を振り返ってきたといわれます。

親が子を思い、
子が親を思う姿が美しく綴られた感動の名作から、
親子関係や孝行のあり方について、
見つめ直してみるのはいかがでしょうか。

「売り手よし、買い手よし、世間よし、ふるさとよし」

木曜日, 8月 8th, 2013
     山本徳次(たねや名誉会長)

                『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より

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田中 この後、近江八幡の日牟禮(ひむれ)八幡宮にある
  「日牟禮ヴィレッジ」のお店に案内していただけるということで、
   楽しみにしておりますが、オープン以来、大変な人気のようですね。

山本 おかげさまで十年前にオープンして以来、
   一日三千人から五千人の方々が八幡宮にやってきて、
   お店にも立ち寄っていかれます。

   日牟禮というのは近江八幡の古名で、
   古くは日牟禮の里と言いました。
   その近江八幡のシンボルである日牟禮八幡宮は、
   いわば商人道の原点とも言うべきお社です。

   彼らは他国へ行商に出る前と、帰った後に、
   必ずここでお参りをしていました。
   そして富を得ると、惜しみなく
   故郷の村の神社仏閣に寄進をしたといいます。

   よく「売り手よし、買い手よし、世間よし」で
   三方よしと言われますが、
   私は「ふるさとよし」の四方円満こそ、
   近江商人の行き方ではなかったかと感じるんです。

田中 なるほど、ふるさとよしですか。
   それは初めて伺いました。
   しかしよく八幡宮の境内にお店をつくろうと
   お考えになりましたね。

山本 これは至極単純な理由で、店を出す時には、
   神社仏閣やお城の近くなど、
   そう簡単に変わらないものの傍と決めています。
   百貨店なら主要店にといったふうに。

   そうすればなくなったり、移転する可能性が低いでしょう。
   揺るがないものの傍で、その地域地域に合った商いをするのも、
   近江商人の行き方です。

   また、お宮さんというのは、
   きょうは景気がよかったとか悪かったとかいう浮き沈みがない。
   いつも変わらない心、不変の心こそが大切だという考えで、
   その思い入れをより強くしたい、と。

   こんなに近くで商売をさせてもらっておきながら、
   あそこの店はええ加減で、と言われるようになったらあかんわね。
   やっぱり正真正銘の、裏表のない店でないと。

※事業永続・繁栄のヒントが満載の対談
「商いの道は人の道」。

「私の人生を救った言葉たち」

水曜日, 8月 7th, 2013
       長野 安恒(声楽家)
               『致知』2013年9月号
                 特集「心の持ち方」より

└─────────────────────────────────┘

これはいまになって分かることですが、
小学校六年で入院していた病院では、
治療ではなく、ただの実験台にされていました。

毎日毎日朝昼晩、ヨウ素剤を飲まされて、
基礎代謝と甲状腺へのヨウ素の集まり具合を測るだけでした。

私は消灯時間になるとトイレで必ず本を読んでいたのですが、
寝たら次の日、目が開かないんじゃないかと思って
夜寝るのが怖かったんです。
だから十二歳で、まだおねしょをしていました。

そうして一年が経った頃、
姉が東京・原宿の伊藤病院を紹介してくれて、
伊藤國彦先生に診てもらえれば治ると。

私は逃げるようにして入院先を後にし、
伊藤病院へ転がり込んだ。

そしてこの先生に診てもらったら治ると思った途端、
夜尿症がピタッと止まったんです。

【記者:気持ちの面が大きく作用しているのでしょうね】

そうです。人を生かしているものは肉体です。
医師は肉体の不具合を治してくれますが、
心のありようが物凄く大きく影響する。

絶望は死に至る病と言われますが、
実際にそのとおりなんです。

全くなんの希望もなかったところに一条の光が差した。
やがて手術は成功し、病気から解放されました。

そしてふっと振り返ると、地獄だと思っていた中に、
自分は多くの人に助けられて生きていたんだと気づいたんです。

入院中は小学五年生の食べ盛りで、
しかもお腹が空く病気ですから、
病院の食べ物だけじゃ到底足りないわけです。
お腹が空いてお腹が空いてしょうがない。

そんな中、昼三時頃になると、
いつもおやつをくれるおばさんがいたんです。

ただ本当に申し訳のないことに、
その方の名前も覚えていません。
病院の人だと思っていました。

けれど後になって、掃除に来ていたおばさんだと分かりました。

私は毎日その人を探し回っておやつをねだっていた。
いつも何かを用意していてくれましたよ。
ない時には「これでなんか買っておいで」と
お小遣いをくれたりしました。

いま思えば、そんな神様の使いのような人に
出会えていたんですね。

それから、先人たちが残してくれた言葉にも救われました。

石川啄木の歌に

「はづれまで一度ゆきたしと
  思ひゐし
 かの病院の長廊下かな。」

とありますが、病院の廊下って本当に長いんです。
なぜかと言えば、廊下の突き当たりから先へは、
病人は出ていくことができないから。
だからこの歌が身に染みて分かるんですよ。

他にも

「東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる」。

私のいた病院は海辺の崖の上に建っていて、
砂浜へ下りていける道があった。
私は朝ご飯を食べると、逃げるようにそこへ行くわけです。
一日ボーッと海鳥などを見ながら、
そんな歌やこんな歌を胸に浮かべていました。

※長野氏の人生を救ったという、
 若山牧水の歌やロングフェローの詩とは?
 詳しくは『致知』9月号(P48~51)をご覧ください。

両雄、がんばってま~す!

火曜日, 8月 6th, 2013

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いつも裏に表に、必死になって店を支えている両店長。

この夏は一層ご苦労様です。

大橋店長は、前農家のセンスを活かし、玄関前に「ななつぼし」の苗を植えて、今穂を付けている所。

既にズッキーニも実をつけ堂々としたもの、右にはゴーヤを蔦に這わせて屋根までもカーテン。

ソフテの外には、このゴーヤカーテンをしつらえて、納涼の気分に。

上まで繁茂するのは、何時でしょう。

当った方には、まほソフトをご進呈します。

 

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穂積店長は、独りで厚別を切り盛りしています。

そんな中、合田さんが今少し休養しているので、最近は早朝から市場へ。

仕入れして、荷物を運んで、店をたたむのが8時過ぎで、大変です!

そこで、

嫁さんが いれば苦労も 何のその その嫁さんよ もうそろそろと

そうなんです。

家財道具一式そろえましたので(サラダマスターまでも)、

あとは嫁さんのお出ましを、待つばかり。

恥ずかしがらずに、早く名乗りを上げてくださいな!!!

三角山放送社長より・・・・・

火曜日, 8月 6th, 2013

おおたか静流 声のお絵かき 1 声のお絵かき 2