まほろばblog

Archive for 10月, 2013

奇跡のピアニスト

金曜日, 10月 11th, 2013

大橋&寺山&ブラウン ひとり

 

ピアニストの大橋亜樹子さんの記事が、大きく道新に掲載された。

丁度その2日前に、彼女の伴奏をあるホールで聴く機会を得て、感心した所だった。

あるテノール歌手のリサイタルで、5日前に楽譜を渡されて、

難なく弾かれたその力量に、彼女の並々ならぬ才覚と努力を思った。

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まほろばでも、何回か演奏会を開いて戴いて、

生来の難病を克服してのピアニストとしての自立に思いを馳せた。

想像を絶する苦しみと哀しみを乗り越えての今日に言葉もなかった。

そして、新聞記事を拝見して、それ以上に壮絶だった病歴に、

さらに、言葉を失った。

 

大橋&寺山&ブラウン 1

 

動かぬ手、短くなる指、誰がピアニストの肉体を思うだろうか。

これは、奇跡ではなかろうかと思った。

まるで、彼女の舞台は、夢のようであった。

これは、我らに示し賜う神の恩寵でなくて何であろうか。

ただただ、彼女がピアノに向かうことで、

人間の果てしなき可能性の扉を開いていたのだ。

大橋&寺山&ブラウン 7

大橋&寺山&ブラウン 5

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(2009年、11月11日「アンソニイ・ブラウン、寺山心一翁、大橋亜樹子コンサートin豊平館)

亜樹子さん 1

(まほろばでのブラウンさんのコンサートhttp://www.anthonybrownbaritone.net/

「凡人が勝つ唯一の道」

木曜日, 10月 10th, 2013
菊原 智明(営業サポート・コンサルティング社長)

                『致知』2013年11月号 
                     「致知随想」より

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人生とは不思議なものです。

私は大学卒業後、七年間クビ寸前の
ダメ営業マンをしていました。

ところが、そこから一転して四年連続トップ営業。

2006年に営業サポート・コンサルティング
という会社を立ち上げ、大企業の営業研修や
全国初となる大学での営業の授業を行っています。

まさか自分が他人様に何かを教える立場になるとは、
思ってもみませんでした。

そもそも私が営業の道に進んだのは、
友人の父親が車の営業をしており、
その自由奔放な姿に憧れたことがきっかけでした。

ある時、トヨタに面接を受けに行くと
「月に五台売ってください」。

一方、

「うちは住宅もやっていて、
  そっちは四か月に一戸売れればいい」

とのこと。それならできるかもしれない。
そう思い、トヨタホームに入社しました。

ただ、よく考えてみれば、トヨタ車は人気が高く、
店で待っていてもお客様が来てくださるのに対し、
トヨタホームを買いたいというファンは少ない。

大手メーカーがひしめき合う住宅業界にあっては

「○○会社もいいけど、菊原さんが素晴らしい方なので
  トヨタホームにします」

と、お客様から思っていただかなければ売れないのです。
しかし、当時の私にそのような人間的魅力はありません。

電話をしても

「ちょうど子供が寝たところになんで電話してくるんだ!」

と怒鳴られ、訪問しても

「資料だったらポストに入れてもらえますか」

と言ってTVドアフォンを切られてしまう。
会社に戻れば「またアポ取れなかったな」と散々叱られる。

半年もゼロで、俺って存在価値あるのかな……。
周りからすべて否定され、
次第に自分で自分を責めるようになってしまいました。

そんな中、私の支えとなっていたのが週末の飲み会でした。

そこに集まるのは、売れない同期や後輩たち。

結果の出ない者同士で酒を飲むことで、
現実から目を逸らし、ストレスを発散していたわけです。

その当時は、朝九時に朝礼が始まり、
毎日夜中の十二時まで帰れない、
まさに地獄のような日々でした。

それに耐え切れずに辞めていく社員も数多くいました。

彼らが手放したお客様をフォローしたり、
大手が相手にしないクレーマーのような
お客様から契約をいただいて、
年間三棟の最低ノルマをどうにか達成する。

そんなギリギリの生活が七年も続き、
気づけば二十九歳になっていました。

それまでは

「別に売れないけど、仲間がいるし、
 飲んで忘れてしまえばいいや」

と思っていたものの、三十を目前に控えた頃から
飲み会が徐々に楽しくなくなっていきました。

ある時、いつものように飲んでいると、

「いま確かに楽しいかもしれない。
 でも、おまえってダメな人間だよな」

と、もう一人の自分が囁くように感じたのです。
本当は仕事で結果を出したいという思いが、
心の叫びとして聞こえてきたのでしょう。

しかし、七年やってダメな人間が八年目から
爆発するという話は聞いた例がありません。

ちょうどその頃、結婚したこともあり、
家を建てて転職しようと考えました。

せっかく家を建てるのならば、失敗したくない。
そう思い、様々な情報を集めていると、
ある資料が目に飛び込んできました。

「もう少しコンセントを増やしておけばよかった」

「濃い床にしたら傷や埃が目立つ」

等々、そこには実際に家を建てたお客様が
後悔した事例がたくさん載っていたのです。

「これは面白い! きっとお客様にも喜んでいただける」

私はすぐに“お役立ち情報”として、
そのリストをお客様に郵送しました。

するとどうでしょう。

「いくつか見積もりを出したんだけど、
 ちょっとよく分からないので相談に乗ってくれませんか」

「とりあえず菊原さんにお願いしますよ」

というお客様が現れたのです。

営業の仕事が面白いと、
心の底から感じられた初めての瞬間でした。

「お魚キャンペーン」明日10日から!

水曜日, 10月 9th, 2013

鮮魚店での魚介類の消費拡大に向け、

札幌市中央卸売市場の水産協議会が

「お魚キャンペーン」を開催します。

 

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キャンペーン参加店で1,000円(税込み)以上、魚介類をご購入の方に、

その場でスピードくじをお引きいただきます。

「当たり」が出たら、その場で賞品をプレゼント。

スピードくじが無くなり次第、終了します。

ぜひ、この機会に鮮魚店をご利用ください!!

詳しくは、こちらのポスターをご覧ください。

期間 :2013年10月10日(木)~10月24日(木)

キャンペーン参加店 :店頭にポスターの貼ってある札幌市内及び近郊の鮮魚店

賞品 :甘口たらこ 10個

   :まほろば特別 プレゼント『うなぎ蒲焼』 100p

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「うなぎ蒲焼」の柳川丼仕込み

① 化学調味料 不使用  ② 着色料 不使用  

③ 保存料 不使用  ④ 黒砂糖 使用

⑤ 本格味醂 使用  ⑥ 寺岡醸造 杉樽3年再仕込み醤油 使用

「“足なし禅師”と呼ばれた禅僧」

水曜日, 10月 9th, 2013

 

 

          『致知』2007年3月号
           特集「命の炎を燃やして生きる」総リードより

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「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。

小沢道雄師。大正9年生まれ。幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。
20歳で召集を受け満州へ。
昭和20年、25歳で敗戦。シベリアに抑留され強制労働。

だが、肩に受けた銃創が悪化し、
役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で
牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、
支給された食料は黒パン1個、飲み水もままならず、
3日間を費やした行程で死者が続出した。

小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。

膝から切断しなければ助からない。

その手術の担当軍医は内科医で外科手術はそれが初めて。
麻酔薬もない。
メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、
小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。

想像を絶する激痛。

歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。

すさまじい痛みは1か月余続いた。

8月に突然の帰国命令。
歩けない者は担架に担がれ、
牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで、
1,500kmを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、
目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。

折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、
僥倖というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、
福岡で再手術を受け、故郷相模原の病院に送られた。

母と弟が面会に来た。

「こんな体になって帰ってきました。
 いっそのこと死のうと思いましたが、
 帰ってきました」

言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、
小さく言った。

 「よう帰ってきたなあ」

母と弟が帰ったあと、
小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。

懊悩の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。
その果てに湧き上がってきた思いがあった。

比べるから苦しむのだ。

比べる元は27年前に生まれたことにある。

27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。

両足切断の姿で今日生まれたのだ。

そうだ、本日たったいま誕生したのだ。

足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、
痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、
生まれてきたのだから、何も言うことなし。

本日ただいま誕生!

深い深い覚悟である。

一、微笑を絶やさない
一、人の話を素直に聞こう
一、親切にしよう   
一、絶対に怒らない


小沢師はこの4つを心に決め、
58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

 

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「二度とないこの一球という意識を強く持て」

月曜日, 10月 7th, 2013
   小久保 裕紀(元福岡ソフトバンクホークス選手) 

                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より

    http://www.chichi.co.jp/monthly/201303_pickup.html#pick5

201303pick5[1]
現役を終えた僕がいまいろいろなお話を
いただいているのは
野球一筋にやってきたからだと思っているんです。

野球という道を極めようとしたことが
自分の生きる道に繋がりました。

野球が野球道へと繋がったように
一つを極めることは自分の財産になる、ということですね。

いま若い人は定職に就かず
いろいろなことを体験して
自分に合うものを見つけようとする傾向がありますが、
それは違うと思います。

いま目の前にあることこそが天職で、
そこに百%時間を使って取り組まない限り、
その先の人生で花を咲かせることはできないんです。

ちょっと囓ったくらいでは
仕事の本質は絶対に分かりません。

どんな小さな仕事であっても、
それを天職と自分で思って全身全霊をかけてぶつかり、
目の前の課題を一個一個クリアする中で
次の展開が見えてくる。

僕の座右の銘である「この一瞬に生きる」は
そこに繋がってくると思っています。

王監督からは「二度とないこの一球という意識を強く持て」と
教わりました。

同じ一球でもなんとなく見逃すのと
確信を持って見送るのは大変な違いです。

ただ、野球は勝負なのでこの言葉がピンと響くんですが、
ユニホームを脱いだ後は、よほど強く意識しない限り、
一瞬一瞬の勝負がなくなってしまう。

だからこれからは、講演でも取材でも野球教室でも、
すべての仕事を試合と考えて
全身全霊で打ち込もうと思っています。

それに一つ加えるとしたら、
プロ野球でもなんの世界でも
「思い」の強さはとても大事だと思います。

プロに入ったことで夢を叶えたと考えるような選手は
やはり育たないですね。

僕の場合は「絶対にレギュラーになる。絶対に名を残してやる」と
いう思いが半端でないくらいありました。

だからこそプラスになると思うものは
なんでも吸収してきました。

いまの若い選手には
「僕は将来、絶対にホームラン王になる」
と言い切る者が少ないんですよ。

逆に結果が出ていないのに謙虚な選手ばかり増えてきました。
僕はそんな選手に

「俺は天狗になって、その鼻を折られた。
 それでも折れた鼻を再び生やしたから成長したんだ。
 伸びもしないうちから謙虚になるな」

と言うんです。
特に若い頃は寝ても覚めても夢でも、
常に願望を抱いていることが
伝わってくる迫力が必要だと思います。

「三角山の友マガジン762」に農園が

月曜日, 10月 7th, 2013

小泉&洋子

セーンジャーさんが小原孝さんと・・・・

日曜日, 10月 6th, 2013

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モンゴル旅行で取材同行されたアーティストのセーンジャーさん。

彼から、お便りが届き、あのNHKFM「弾き語りフォユー」で、

御馴染みのピアニストの小原孝さんとの

馬頭琴コンサートを銀座のヤマハホールで開くそうです。

是非、応援して頂ければ、幸いです。

 

センジャー 1

http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/topix/topix200904mongoru3.htm

(モンゴル食源紀行3より・セーンジャーさん)

センジャー 2

http://www.senjiya.net/

(セーンジャーさんHP)

センジャー 4

自然栽培フェア

日曜日, 10月 6th, 2013

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自然栽培フェアが東京中野で26.27日に開かれます。

26日にサンスマイルの松浦智紀さんが講演されます。

是非、ご参加ください。

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原発テロ~日本が直面する新たなリスク~

日曜日, 10月 6th, 2013

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NHKスペシャル

2013年10月7日(月)
午後10時00分~10時49分

原発の安全性に警鐘を鳴らした、福島第一原発事故。

実は今世界は、「フクシマ」からもう一つの重大な警告を受け止めている。

「核兵器がなくても、原発の電源や燃料プールを破壊すれば核テロを起こせる」

ことを明らかにしてしまったのだ。

フクシマ後、世界各国では、武装部隊が電源や燃料プールの警備を強化。

さらに警備が破られる「想定外の事態」に備え、

放射能汚染下でも電源の確保や冷却を行える体制を整え始めている。

またテロの多くに内通者が関与していることから、

原発の従業員の犯罪歴や借金・思想まで徹底調査している。

こうした中、世界が懸念しているのが、日本。

全国50の原発に、テロの標的となる大量の使用済み核燃料を貯蔵、

さらに国内外にプルトニウム44トンも保有しているため、

早急な対策を求められている。

 
核兵器のない日本で、平和利用の象徴だった「原発」が、

テロの温床となるという事態に、

私たちはどう向き合っていけばいいのか。

対策の最前線をルポ、日本や世界が直面する「原発テロ」リスクと、

「これから」を考える。

 

「ミャンマーへの報恩」

日曜日, 10月 6th, 2013
  今泉 清詞(今泉記念ビルマ奨学会会長)

                『致知』2013年10月号 
                     「致知随想」より

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人間の運命とは実に不思議なものだと、
九十年の人生を振り返ってつくづく感じます。

大正十二年、新潟県の農家に生まれた私は
十八歳の時、兵役を志願しました。

次男坊だった私が分家を継ぐことが決まっていたために、
中学へも進学せず、「志願すれば早く除隊できる」
という親や親戚の勧めに従って入隊を決めたのでした。

ところが同じ年に太平洋戦争が始まり、
その話も断念せざるを得なくなります。

私はビルマ(現・ミャンマー)戦線に従軍し、
インパール作戦の準備に当たりました。

中学も出ていなかったため、一兵卒のままでしたが、
高等教育を受けた将校の大半が戦死したことを思うと、
学歴がなかったために命を救われたと言えるかもしれません。

また連隊本部から事務要員を出すよう命令があった時、
私の名が挙がりましたが、中隊長が
「今泉は俺の手元に置く」と却下し、他の兵が派遣されました。

ところがその兵士が不適格として中隊へと戻されてきます。

偶然にもその時、中隊長が不在だったため、
今度は私が事務兵として送り込まれたのでした。

元いた部隊が全滅したと知ったのは、その半月後のこと。
十万以上といわれる夥しい死者を出したインパール作戦でも、
何度も死線を彷徨いながら私は九死に一生を得ました。

やがて終戦となり、復員が決まって皆は大喜びでしたが、
自分だけがのうのうと帰るわけにはいかないと、
私は後ろ髪を引かれる思いでの帰国でした。

戦後は開拓営農として埼玉に移住し、
新たな一歩を踏み出しましたが、
当時は皆が生き抜くことに精いっぱいの状態。

日々の生活に追われ、亡き戦友たちのことを
ゆっくり考えられるようになったのは、
昭和四十年代に入ってからのことでした。

激戦地となったビルマには延べ三十二万人の兵隊が従軍し、
約十九万人が戦死したといわれています。

その中で生き残った戦友たちが皆、
口を揃えて言うのは
「ビルマだったから帰ってこられた」ということでした。

戦況が不利になると、日本軍が
どんどん現地の村へと逃亡していきます。

そんな時、ビルマの人は
「日本の兵隊さん、イギリス軍が隣の町に来ているから
 捕まっちゃうよ。早く家の寝台の下に隠れなさい」
と我われをかくまってくれただけでなく
食事までご馳走してくれたのです。

こんなことが知れれば、
間違いなく彼らの身にも危険が及んでしまう。
それを覚悟の上で我われのことを庇ってくれたのですが、
これと同じ体験をした兵士の例は枚挙に遑がありません。

戦友たちを弔うため、烈師団の有志約六十人でビルマを訪れ、
六か所の激戦地で慰霊祭を行ったのは昭和四十九年のこと。

出発時、私の脳裏に浮かんだのは、
ビルマの人たちは日本人のことを
なんと思っているのだろう、ということでした。

戦地では食糧や家畜を徴発し、
畑を踏み荒すなどの迷惑を掛けてきた。

我われが行けば反日デモでも起きてしまうんじゃないか……。

そうした不安もある中でしたが、
慰霊祭は大勢集まった地元民で、
黒山のような人だかり。

皆でともに礼拝を行った後は、
テーブルを出してきてミルクを沸かしてくれたり、
焼き鳥を焼いてくれたりと大変なもてなしようでした。

不思議に思った私は、
なぜこんなにも温かい歓迎をしてくれるのかと
尋ねてみました。

すると彼らは「当然だ」と言うのです。

「我われは子供の頃から、
 “幸せの神は東から来る”
  と親から教えられてきた。
 その幸せの神とは日本人だった。

 あなた方は知らないかもしれないが、
 我われはイギリス軍に植民地化され、
 実に酷い目に遭わされてきた。

 その支配を日本軍が終わらせてくれたおかげで、
 やっと人間的な生活が送れるようになった。
 これが感謝せずにいられるか」

あぁ、彼らはそういう気持ちでいてくれたのか……と、
ほっと胸を撫で下ろすとともに、深い喜びが込み上げてきました。

そしてそんな想いを寄せてくれているビルマの人たちに、
なんとか恩返しをしたいものだと感じました。

何かよい方法はないものかといろいろ思案した結果、
国の将来を担う若者に教育を授けることが
一番よいのではないかと考えました。

戦友会の幹事にも協力してもらい、
財団の設立に向けて外務省へ三年間通い詰めました。

私の所有地の半分以上に当たる
三千坪の土地と基金二億円を銀行から借り入れて
財団をつくる構想でしたが、どうしても許可が下りません。

そこで、最終的に自分のポケットマネーから
年間一千万円程度拠出する計画で奨学会を設立し、
奨学生は関東圏内の大学に在籍する
ミャンマー人留学生を対象として、
多くの応募者の中から毎年十名選抜して二か年間、
毎月四万円返却不要の条件で支給いたしました。

ただし毎月支給日には
必ず本人が今泉宅へ受領に参りました。

その都度、私が人生訓話や情報交換を行ったため、
結果的に奨学金以上に効果が大きかったと感謝されています。

この活動は一九八九年から二〇〇九年までの二十年間続き、
奨学生の数は二百人近くになりました。

「金や物はいくら有ってもあの世へ持って行けない。
 欲は程々にして人に施し不滅の徳を遺そう――」

数年前、知人に請われて認めた処世訓の一節ですが、
卒寿を迎えられたことへの感謝の念を持ち、
亡き戦友の分まで精いっぱい生きたいと願っています。