今泉 清詞(今泉記念ビルマ奨学会会長)
『致知』2013年10月号
「致知随想」より
人間の運命とは実に不思議なものだと、
九十年の人生を振り返ってつくづく感じます。
大正十二年、新潟県の農家に生まれた私は
十八歳の時、兵役を志願しました。
次男坊だった私が分家を継ぐことが決まっていたために、
中学へも進学せず、「志願すれば早く除隊できる」
という親や親戚の勧めに従って入隊を決めたのでした。
ところが同じ年に太平洋戦争が始まり、
その話も断念せざるを得なくなります。
私はビルマ(現・ミャンマー)戦線に従軍し、
インパール作戦の準備に当たりました。
中学も出ていなかったため、一兵卒のままでしたが、
高等教育を受けた将校の大半が戦死したことを思うと、
学歴がなかったために命を救われたと言えるかもしれません。
また連隊本部から事務要員を出すよう命令があった時、
私の名が挙がりましたが、中隊長が
「今泉は俺の手元に置く」と却下し、他の兵が派遣されました。
ところがその兵士が不適格として中隊へと戻されてきます。
偶然にもその時、中隊長が不在だったため、
今度は私が事務兵として送り込まれたのでした。
元いた部隊が全滅したと知ったのは、その半月後のこと。
十万以上といわれる夥しい死者を出したインパール作戦でも、
何度も死線を彷徨いながら私は九死に一生を得ました。
やがて終戦となり、復員が決まって皆は大喜びでしたが、
自分だけがのうのうと帰るわけにはいかないと、
私は後ろ髪を引かれる思いでの帰国でした。
戦後は開拓営農として埼玉に移住し、
新たな一歩を踏み出しましたが、
当時は皆が生き抜くことに精いっぱいの状態。
日々の生活に追われ、亡き戦友たちのことを
ゆっくり考えられるようになったのは、
昭和四十年代に入ってからのことでした。
激戦地となったビルマには延べ三十二万人の兵隊が従軍し、
約十九万人が戦死したといわれています。
その中で生き残った戦友たちが皆、
口を揃えて言うのは
「ビルマだったから帰ってこられた」ということでした。
戦況が不利になると、日本軍が
どんどん現地の村へと逃亡していきます。
そんな時、ビルマの人は
「日本の兵隊さん、イギリス軍が隣の町に来ているから
捕まっちゃうよ。早く家の寝台の下に隠れなさい」
と我われをかくまってくれただけでなく
食事までご馳走してくれたのです。
こんなことが知れれば、
間違いなく彼らの身にも危険が及んでしまう。
それを覚悟の上で我われのことを庇ってくれたのですが、
これと同じ体験をした兵士の例は枚挙に遑がありません。
戦友たちを弔うため、烈師団の有志約六十人でビルマを訪れ、
六か所の激戦地で慰霊祭を行ったのは昭和四十九年のこと。
出発時、私の脳裏に浮かんだのは、
ビルマの人たちは日本人のことを
なんと思っているのだろう、ということでした。
戦地では食糧や家畜を徴発し、
畑を踏み荒すなどの迷惑を掛けてきた。
我われが行けば反日デモでも起きてしまうんじゃないか……。
そうした不安もある中でしたが、
慰霊祭は大勢集まった地元民で、
黒山のような人だかり。
皆でともに礼拝を行った後は、
テーブルを出してきてミルクを沸かしてくれたり、
焼き鳥を焼いてくれたりと大変なもてなしようでした。
不思議に思った私は、
なぜこんなにも温かい歓迎をしてくれるのかと
尋ねてみました。
すると彼らは「当然だ」と言うのです。
「我われは子供の頃から、
“幸せの神は東から来る”
と親から教えられてきた。
その幸せの神とは日本人だった。
あなた方は知らないかもしれないが、
我われはイギリス軍に植民地化され、
実に酷い目に遭わされてきた。
その支配を日本軍が終わらせてくれたおかげで、
やっと人間的な生活が送れるようになった。
これが感謝せずにいられるか」
あぁ、彼らはそういう気持ちでいてくれたのか……と、
ほっと胸を撫で下ろすとともに、深い喜びが込み上げてきました。
そしてそんな想いを寄せてくれているビルマの人たちに、
なんとか恩返しをしたいものだと感じました。
何かよい方法はないものかといろいろ思案した結果、
国の将来を担う若者に教育を授けることが
一番よいのではないかと考えました。
戦友会の幹事にも協力してもらい、
財団の設立に向けて外務省へ三年間通い詰めました。
私の所有地の半分以上に当たる
三千坪の土地と基金二億円を銀行から借り入れて
財団をつくる構想でしたが、どうしても許可が下りません。
そこで、最終的に自分のポケットマネーから
年間一千万円程度拠出する計画で奨学会を設立し、
奨学生は関東圏内の大学に在籍する
ミャンマー人留学生を対象として、
多くの応募者の中から毎年十名選抜して二か年間、
毎月四万円返却不要の条件で支給いたしました。
ただし毎月支給日には
必ず本人が今泉宅へ受領に参りました。
その都度、私が人生訓話や情報交換を行ったため、
結果的に奨学金以上に効果が大きかったと感謝されています。
この活動は一九八九年から二〇〇九年までの二十年間続き、
奨学生の数は二百人近くになりました。
「金や物はいくら有ってもあの世へ持って行けない。
欲は程々にして人に施し不滅の徳を遺そう――」
数年前、知人に請われて認めた処世訓の一節ですが、
卒寿を迎えられたことへの感謝の念を持ち、
亡き戦友の分まで精いっぱい生きたいと願っています。