「ヘレン・ケラーが尊敬した
日本の偉人・塙保己一の生涯」
※『致知』2014年2月号
特集「一意専心」総リードより
塙保己一は延享3(1746)年、
武蔵国児玉郡保木野(現・埼玉県本庄市)に生まれた。
生家は裕福な農家だったが、
5歳の時、思いがけない病魔に襲われる。
目が次第に光を失っていったのだ。
母・きよは保己一を背負い、
片道8キロの道を一日も欠かさず
藤岡(現・群馬県藤岡市)の医師のもとに
通い続けた。
なんとしても我が子の目を
治したい一念だった。
しかし、保己一は7歳で
完全に失明した。
さらに、12歳で最愛の母が
亡くなってしまう。
保己一は杖を頼りに毎日墓地に行き、
母の墓石に向かって泣き続けた。
涙の中で一つの決意が生まれた。
江戸に出て学問で身を立てよう。
保己一は耳にしたことは
すべて記憶するほどの
抜群の記憶力の持ち主だったのである。
保己一の情熱は父を動かした。
絹商人に手を引かれ、
保己一は江戸に旅立つ。
15歳だった。
江戸時代、盲人の進む道は限られていた。
検校(けんぎょう)という役職者に
率いられた盲人一座に入り、
按摩(あんま)や鍼灸(しんきゅう)の修業をする、
琵琶や三味線の芸能に勤しむ、
あるいは座頭金という金貸しの知識を学ぶ、
などして世渡りの技能を身につけ、
互いに助け合って生活していく
仕組みになっていた。
選べる職業はそれだけだった。
保己一もまた雨富須賀一検校の
盲人一座に入門した。
だが、保己一の望みは学問である。
悶々とした日々が続き、
思い切って師匠の雨富検校に本心を明かす。
「私は学問がしたいのです」。
破門覚悟の告白だった。
保己一の幸運はこの雨富検校に
出会ったことだった。
「人間、本心からやりたいことに
打ち込むのは結構なことだ」
と検校はいい、
学問することを許されたのである。
保己一の目覚ましい研鑽が始まる。
目が見えない保己一は
誰かに本を読んでもらうしかない。
全身を耳にし、
耳にしたことはすべて身につけていく。
盲目の身で学問に励む少年がいる、
とたちまち江戸の町の評判になった。
* * *
その後、保己一はいかにして
大学者への道を切り拓いていくのか。
その人生からいまを生きる私たちが
学ぶべきものとは――。