今季の紅葉の写真に「余情残心」と書き添えた。
本来、余は「餘」と書くべきも、四字混み合って抜きがない故に、簡略とした。
この余情残心、ことに残心は、日本精神の美学を指すように思う。
さらに、茶道において、ことづけが際立つ。
何にても 置き付けかへる 手離れは
恋しき人に わかるると知れ
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
この千利休の道歌にあるように、所作の後にも連続しているかの如く心を遺せよ、と。
見える動きのみが所作ではなく、見えざる静の時間も含めて、所作とする。
いわば、静動一如の思想実践体系が躍如として言い尽くされている。
それを、裏打ちするように、かの井伊直弼が「茶湯一会集」において、その消息を伝えている。
「客が退出した途端に大声で話し始めたり、扉をばたばたと閉めたり、
急いで中に戻ってさっさと片付け始めたりすべきではない。
主客は帰っていく客が見えなくなるまで、
その客が見えない場合でも、ずっと見送る。
その後、主客は一人静かに茶室に戻って茶をたて、
今日と同じ出会いは二度と起こらない(一期一会)ことを噛みしめる。
この作法が主客の名残惜しさの表現、余情残心である」と述べている。
日本舞踊における残心は、何と言ってもあの地唄舞・武原はんさんの「ゆき」を見れば了解される。
残心は、主に踊りの終わりに用いられ、それが欠けると「仕舞いが出来ていない」ともいわれる。
最後まで気を抜かず、手先足先まで神経を行渡らせ区切りの「お仕舞い」まで踊る事を指す。
だが、それは単に、終りのみならず、終始、心を遺す余香が漂うように、踊ることであろう。
折りえても 心ゆるすな 山桜
さそう嵐の 吹きもこそすれ
(桜を手に入れたと油断するな。嵐が吹いてしまったらどうするのだ)
武道において、技を決めた後も心身ともに油断をしないことをいう。
たとえ相手が戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態かもしれず、
隙を突いて反撃が来ることが有り得るからだ。
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空手・弓道・居合道などは、「かた」で身構えて、相手との間合い、反撃を考慮する。
技の前、行う最中、終えた後、一貫して持続される精神状態を、残心と呼ぶ。
弓道では、矢を射った後も心身ともに姿勢を保ち、目は矢が当たった場所を見据えること。
剣道では、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていること。
残心がなければ技が正確に決まっても有効打突にならず、無効とされる。
流派によっては、前心・通心・残心を説いている。
要諦は、一貫して精神をゆるがせにせず、時空に満ちさせるをいうのであろう。
天地一杯の我をもって、ことに当たる。
そこに、少しでも自我の念が入ると、一切のことごとが崩れてしまう。
これは、何も武芸に限ったことではなく、日常茶飯事にもある。
「余情残心」、なかなか手ごわい言葉である。