恭賀新年 「申は神なり」
金曜日, 1月 1st, 2016新年明けましておめでとうございます。
旧年中は、厚きご愛顧を戴きまして誠にありがとうございました。
本年も変わりませず、ごひいきのほどを,
よろしくお願い申し上げます。
さて、今年は「申」年。
「心猿意馬」と申すとおり、猿は騒がしく心を乱す者として、古来余り良い意味では使われてきませんでした。
ところが、申のいわれを紐解くと、意外にも深遠な意味合いが隠されていて、物事の根源に関わる大切な字であったのです。
それは、神の示偏の右の申すが、申として使われていた通り、実は「神」を暗喩する字体だったのですね。
以下は、あの漢字学者・白川静博士の「常用字解」より抜き書きしました。
申年の「申しん」とは?
解説:
象形。稲妻(電光)の形。右と左に光が屈折している形を縦線の横に並べて申の形となった。
稲妻は天にある神がその威光をあらわした形である、神の発するものであると考えられたから、
「かみ」の意味になり、申は神のもとの字である。
稲妻は屈折しながら斜めに斜めに走るものであるから、「のびる」の意味となり、
また「かさねる、もうす」の意味に用いる。
申が「もうす」などの意味に用いられるようになったので、
「かみ」の意味の字として、申に祭卓(神を祭るときに使う机)の形の示を加えた神が作られた。
それで思い出されるのが、現代アーティストの杉本博司さんの一連のシリーズです。
上の画像のように、写真乾板へ、ダイレクトに放電して、
その軌跡を捕えた作品が「放電場 (Lightning Fields)」です。
古代の人々は、この雷こそ、神のお告げで、畏怖したと想像するに硬くないわけです。
それを、狂言三番叟に写し撮った野村萬斎との競演『神秘域』への着想こそ、面白い。
これは事象の動機と人の始原にまで、思いが至れる創作だったように感じます。
野村萬斎×杉本博司 三番叟公演『神秘域(かみひそみいき) その弐』より
© Sugimoto Studio/ Courtesy of Odawara Art Foundation
言葉を申すことは、元来、神に申告し審判されるほど、厳しいものであったわけです。
いわゆる、日本の言霊(ことだま)ともいわれるものも同様で、
それは人に対して発しても、神に通ずるものであったはずです。
言葉を慎み、選び、控える事の大切さを、再びと知る今年となりそうです。
そこに和の文化、一切を削ぎ落とす簡素の美学と智恵が隠されているのでしょう。
兎に角も、めでたき申年が、かくも荘厳なる初めであったことを、
共有し、共感し、共同して行きたいものです。
今年も、よろしくお願い致します。