しかし一方、食糧の生産と余剰穀物の貯蔵は、私有財産や富の集中をもたらし、貧富の差や、権力、身分の差などを次第に生んで行くことにもなりました。
部族同士の争いや、内外での権力闘争、広大な古墳文化に象徴される中央集権的国家もこの延長線上に生まれてきたのです。
好むと好まざるとにかかわらず、あらゆる現代の不幸と争いは、農耕経済の発達と共に、用意されたと言っても過言ではないでしょう。
≪ 農業は人類の原罪≫と言う人もいるくらいです。
しかし、農業が悪いわけではありません。
それまで、縄文時代の人々は、驚くほど多種類のものを何でも食べ、世界一の雑食人種でした。
細やかな四季の移り変わりが、食物の種類を複雑で多様なものにしていたのだと思います。
水稲が出来るまでは、主食と副食という観念はありませんでした。
しかし、水稲(小麦・とうもろこし)が生産されるにつれて、その便利さと豊かさ、おいしさに魅了された人類は、単一穀物への依存を極端にまで深めていきました。
日本民族にとって米は主食であり、神であり、貨幣であり、あらゆるものの価値基準であり、日本文化と精神の物質的基礎であり、中央集権国家の精神的、経済的支柱でもありました。
しかし、そのあまりにもの執着と偏りは、多くのプラス面と共に弊害も生んでいくこととなります。
もし、人類に≪原罪≫があるとすれば、それは農業にではなく、神格化するほどの穀物(米)に対する極端な偏りと、思い入れ、依存と執着にあるのではないでしょうか?
それが日本では一番極端な形であらわれました。
|