まほろばロゴ   サイトマップ

Eメール
まほろばとは エリクサー&オリジナル オンラインショップ まほろば自然農園 レストラン
About Mahoroba まほろばとは


 
まほろばだより−折々の書−
 

 

 

 

 

 

 

 

 先日一日かけて受けた造粒作業と講習。  
 近くの道立工業試験場・粉体造粒科の研究員の先生に、長年にわたってご指導を請うている。セラミックを焼成する前段階で、素材の粉を丸く粒状に固めるための工程である。  

 何年試みてもなかなか、この原理と実際を把握するのが難しい。素材や水分量、温度等々で結果が全く異なるため、一定の公式では、応用が利かないという。一件一件、見極めねばならない。  
 一日中、作業しているとそのコツが終わりの頃ようやく少し見えてくる。人生も終わりかけになって、やっと分かり始めるのだろうか。しかし、その時にはお迎えも来ているだろう。  

 そうとはいえ、とに角やるしかない。何でもそうだが、熱心にすると、やがて面白くなって、工業音痴の私をトリコにさせてしまう。

 造粒技術は日常、丸薬や肥料など、身の回りに馴染みがあるあの丸い粒にするもの。パンという回転するステンレスの大皿に、素材の粉と水を加えて粒状にする。


 

 

 


 今回は、エリクサー水にまほろば酵素を加えた上に、七月に販売する薬草サプリと訶子(アルラ)というチベットの薬実を加えた薬液を噴霧した。

 粉は、三十種類以上の岩石・鉱物・宝石の粉を混成した物を、七百種類以上の原材料で醗酵させた酵素液に漬けてじっくり一年以上寝かせる。醗酵醸造食品と鉱物は同じものなのだ。


ローマングラスとは、大きな範囲で捉えると「紀元前1世紀から紀元後4世紀の間に、ローマ帝国内で造られたガラスの総称」で、一般的には「吹きガラス技法」によって造られたガラスを「ローマングラス」と呼んでいる。
 

 

 

 
 陶芸家は、後代のために粘土を工房に寝かせて熟成させるというほど、手練りの他に、時間の練り上げが必要。  
 互いの成分が変化して、珪素や炭素の結合力を強くしたり、単体とは別物に変容させる。  
 あのローマングラスが千何百年の時を経て、ガラス成分が土中で化学変化して『銀化』現象を起こすように。

 

 

 



 造粒作業をして面白い発見があった。 それは、セラミックの回転運動が、銀河などの宇宙構造と似て来る点だ。

 

 

 

 

 パンの中を回転する粉体が水分を吸うことで粉を取り囲み、固く成りながら段々成長する。  

 すると、次第に肥大化した粒が中心に集まってくる。そして、それが成長し切った処で、周りに押し出されるように、外に飛び跳ねて、それが完成品となる。  
 そのミクロの連続性が、マクロの宇宙の生滅を想起させるものだった。


 

 

 



 今の銀河系が成長を遂げ、その回転運動で遂には外に飛び出し、それが星の死を意味するのだろうか。しかし、またその連続性で、外郭の成長した恒星が、新たな太陽系を形成して、世代交代をするのではないか、と素人考えで想像してみた。
 
 この造粒するのに、大切なことは、渦を巻くということだ。それも、正円というより楕円に近い。丁度、大星雲と相似象の関係にあるのでは、と思わせるふしがある。  

 そして、角度。平坦でも、勿論垂直でもダメで、四十五度以上に傾いて、初めてこの渦巻き運動に伴う成長運動が盛んになる。  
 更に、パンの回転数と速度、水分量などの微妙な要素が関わって来て、出来上がりがまるで違うものになるのだ。

 

 

 

 


 

 

 

 

 以前、水の結晶の件で、北大低温科学研の古川義純教授を訪ねたことがあった。  
 その時、水の結晶が成り立つ数式とチーズのアミノ酸の結晶する数式が、あのマクロの銀河と銀河が衝突して、どう展開するかの数式と同じだと、教えて戴いたことがある。   

 しかし、もっとも大切なことは、このパンという全宇宙を回転させる中心の運動力だ。この中心軸とその回転運動がなければ、何も生まれて来ない。この大中心を点として、あらゆる銀河が生まれ、星々が生まれ、生命が生まれてくる。しかし、天体的には、この形なき虚無の中心点は見つからないであろう。何故なら、それは物質ではないのだから。



 

 

 


 「自然の複雑さも、細かく分析すれば単純なものになり、それを総合すれば全体を復元する」との分析と総合の方法論が近代科学そのものだった。この観る側と観られる側の二元論を、現代生活を送る私達は、当然の事のように受け入れて来た。  

 しかし、近代科学が発展を遂げた先端物理では、量子論の領域になると、最早二元論では解けなくなって来た。つまり、ミクロの世界では、「波」になり、或いは「粒子」になり、対象が一定せず、「あるがまま」に見ることが不可能になったからだ。  
 不思議なのだが、「私が見ているから、こうなっている」という観察者によって物質の居場所が決定するという、観る側、観られる側が一体化した一元論に達した事だ。  

 「整然とした自然は表せない」として、近代科学を否定したドイツの物理学者ハイゼンベルグ。    
 「自然は本質的に極めて曖昧である」と、『不確定性原理』を発表したのだった。




ハイゼンベルグ (1901〜1976) ドイツの理論物理学者。マトリックス力学、不確定性原理を提唱。量子力学の基礎を確立。ドイツの原子力を指導。1932年ノーベル物理学賞受賞。著書『素粒子の統一場理論(山崎博士との共同研究)』他
 

 

 

 

 

 


 自然と人間、物と心等々、対立する概念としての二元論に対し、部分と全体が同じ形を現すフラクタル構造。それは、科学の手法の分析と総合が適応できない世界で、拡大しても縮小しても同じ形の自己相似象を顕わす。そして、この大きな特徴は、一切中心が無いことだ。逆に言えば、一切が中心になる、どこでもが中心になる。
コッホ曲線とフラクタル
 

 

 

 


 

 

 


 これを、仏教的に『無限円』と説く。  
 阿弥陀如来さまは浄土にしかましまさないということはなく、念ずるとそこに常にましますことをいう。それは神でも、サムシング・グレートでもよく、存在の大小や、空間の粗密や、時間の遠近を問わない。難しく言えば、「一切即一」という、全ては自分の中にあり、また自分は全ての中にあるともいえる素晴らしい世界観である。最先端の物理学も東洋思想も、あるいは今の精神世界も、同じ事を語り、同じ所を目指している。


シルビンスキー・ガスケット
 

 

 



 

 

 



 『無限円』といえば、まほろばで発見した『無限心』を思い出す。  

 二つの対立する黄金比を一点で重ね合わせたらハートが生まれ、そして反転しながらハートが無限大に拡大して、その都度中心が変る。『結』は、二元から一元に昇華するフラクタル構造であったのだ。  

 そして、何とこの自己相似象が『華厳経』に「因陀羅網」として喩えられ、『結』を想起することが書かれてある。

 

 

 





 【如梵網經。即取梵宮羅網為喩。今言因陀羅網者。即以帝釋殿網為喩。帝釋殿網為喩者。須先識此帝網之相。以何為相。猶如衆鏡相照衆鏡之。影見一鏡中。如是影中復現衆影。一一影中復現衆影。即重重現影成其。無盡復無盡也。】〈華嚴一乘十玄門探玄・因陀羅網境界門〉  

「因陀羅は帝釈天のことで、その宮殿を荘厳にするため、宝の網が幾重にも張り巡らされて、一つ一つの結び目には宝珠がつけられていた。
 一つの宝珠には、他の珠が皆そっくり映っていて、どの珠にも他の珠が映っている。

 

 

 

その多くの他を含んだ珠が、またお互い映り合っている。即ち、一つの珠に全ての珠が映っている。
 
 映り合い、映り合いして、無尽に映り重なり合っている。それが数え切れないほど光り輝き、互いに返照して、重々無尽に極まりない」と。


因陀羅網(インダラネット)のイメージ図。イラストレーションは素晴らしいオリジナルのCG画像を創作されている岡田明さんのwebサイトより。http://nichigetu.b-tama.com/

 

 

 

 

 そこの様子を、宮沢賢治は短編『インドラの網』に綴っている。

…「ごらん、そら、インドラの網を」  
  私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変わったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金で又青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。  
「ごらん、そら、風の太鼓。」…




 正に、この宝珠こそ「結」そのもの。  
 そして、この「結」が無限に生まれ、無限に輝き合いながら、互いを活かし合う、という。それは、まさに心霊界のフラクタル構造で、それがまた自然界のフラクタル構造と照応している。
 

 

 

 

「結」を持った者同士が、無形の網の目を結んで、呼応し相照らしてゆく。
 
 この世に存在する個々のすべては、この因陀羅網の個々の宝珠。それは、この世界中の一切を含み、因縁の網で結合し、繋がり合っている。万物が皆お互いに支え合って存在していて、孤立するものは一とて無い。  
 
 私という一人の人間は、多くの人々に支えられ、また無限の過去からの因縁が結合して、今が存在して照らされている。私なる存在は、このように、特定の個にして、またそのまま全体なる存在でもあったのだ。

 

 

 





 そして、さらに思うのだ。  
 このフラクタルさえ動かしている大中心がある事を。  
 そして、また全てが中心となる二重構造になっている事。  

 それはパンの中心であるように。その中心そのものは、何も無く、何も生み出さないが、周りから生み出される虚の中心なのだ。
 ただ、周りの造粒物が、中心の画く円をそのまま真似て、大小の別なく丸くなる計らいがあるだけだ。


 

 

 


 『土団子は、農業の究極である』

 とは、自然農法の大家、福岡正信翁の至言である。  

『この一個の団子に宇宙が詰まっている』 

 と、語られたが、この中に命の種子があることの意味もさることながら、この回転運動の求心力と遠心力の見事なバランスと妙合は、生命誕生の秘儀であると感じた……、といえば、大袈裟過ぎるだろうか。  

 実際の現場から、そんな直感を得た。  
 そして、一個一個のセラミックには、中心があり、そして、それは大宇宙の中心でもあるのだ。  

 「エリクサー」も「結」も、まさに、大宇宙の中心と繋がっている因陀羅網、壮大な覚醒のネットワークだったのだ。


15年前、福岡自然農園での『土団子』作業に学んで。庵にて翁がまほろば製作「無」の小冊子を読まれる。
 

 

 

 この一粒のセラミックには、たかが粒子、されど粒子と言えるほど、物言わざるメッセージが、有り余るほど、込められていた。  

 それは、この作業以前、以後にも、語り尽くせないほどのドラマと観念と実際と結果がある。  

「これこそ、時を越えた『錬金術』なのかもしれない」  

と、ふと考えた。

 

 

 

 


この造粒作業中、無数の『たまゆら(オーブ)』が発現している。素材の精霊達が歓んでいるのだろうか。応援して下さっているのだろうか。一緒の共同作業だから。そして、パンの中のセラミック粒が七色に輝いているではないか・・・・(印刷では鮮明に見えないのが残念。)

 


 

2007年4月6日記

→過去の記事一覧

 


トップに戻る
トップページへ
まほろばとは
まほろばの商品構成について
仕入基準とO-1テスト
小国寡民
会社概要
社長ブログ
イベント
まほろばだより
まほろば主人から
折々の書
健康コラム
ココが知りたい
トピックス
小冊子のご案内