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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

 

こは、何処までも静かで、何時までも時が止まったかのようであった。  
 
  初めて地に足を下ろした時、一種不思議な雰囲気が辺りを包んでいること に、鈍感な私でさえ気付かない訳にはいかなかった。
そこは、ルンビニーである。  
釈尊生誕の聖なる地であり、つとに仏教はこの地・ネパールから広まった。  

 しかしながら、ヒンズー教徒の多い土地柄でもあって、仏陀はその神々の一柱であった。そこでは宗教間の対立がなかった。
それ故、私の身を明かすに、ブッデストであることが、説明し易く、互いに親近感を覚えるには都合が良かった。  

 私個人としては、五大宗教をはじめとして多くの教義を学ぶことがあっても、今まで何か一つに帰依することはなかった。
それは、神道でも良いし、或いはイスラムでも良かった。
何でも根源は一つで、同じ印象を抱いていた。
しかし、最近は哲学的にも、心情的にも、大いなる命の源泉と言うか、弥陀思想と言うか、仏陀の寂静とした平安さに引き寄せられているように思われる。

 寄る年波がそうさせているのだろうか。
争いのない、宇宙と渾然一体になった涅槃という特別な境地が、生の最終的な行き場所でもあるような気がしているからだ。  

茅葺の小屋と牛達。長閑な田園風景が広がる。釈尊も見た万古変らぬ情景である。

荷は牛車や頭に載せて
運ぶ。

 

タライ大平原地帯
 

は、今まで海外に旅したことが余りなく、三大聖人の地に触れたのは、初めての経験であった。
 そんな募る思いも手伝ってか、ルンビニーの静かさは又格別で、驚き以外の何物でもなかった。

  四方平坦で広大なタライ平原の穀倉地帯が続き、ヒマラヤ連峰さえ見えず、あたかも北海道の原野を思わせるようだった。

  世界の遺跡の至る所が観光地化されているのに、ここを取り巻く風景は2500年来、相いも変らず、貧しい農村が延々と続くのだ。
 かやぶきの小屋を住まいとし、牛と同居し、機械も持たずに、人力と鍬 で耕し育て刈る農村風景が続く。
 ここには、貧富という格差の概念がないかのようだ。ただ、そうあるのみ。おそらく人の心も表情も変らず、また未来も変りなくあるのだろう、と思った。

 ここはコンピューター・ITも関わりなく、産業革命も情報革命も侵すことが出来なかった。淡々として今を同じように生きてゆくのであろう。
 それが、仏陀の心でもあるような気がした。  
雨の中を夢中で走り回る
元気な子供達。

に西暦前四六三年、ルンビニーの王舎城で、
生母麻耶夫人が四月八日世尊を右脇から産み落とした。

 釈尊が七歩歩んで『天上天下唯我独尊』と唱えたという菩提樹の真裏のホテルで、その朝焼けを待った。

 旭日が見事だから、と警備員に教えられ、早起きした薄暗い夜明け、かつて若き王子ゴータマ・シッダルダもこの地から眺めたのだろうか、と思うと、今までにない名状し難い不思議な親近感を覚えた

ルンビニー王城の入り口。
 この園丁の周りに、何の土産物屋も呼び込みもない事に、少なからず聖地としての風格と威厳を感じ、仏陀の霊気がそうさせるのではなかろうか、とさえ思われた。
 
 ここは、ネパールのカトマンズなどの古都の雑然とした印象とは、全く別世界であった。   

 

内された王城の道を人力車に乗って、その生誕の地に降りた。 

 両手の何かかえもある樹齢四千年にもなるピッパラ樹(菩提樹)を見上げ、そこを幾度となく歩み、仏陀の遺徳を偲んでみた。
何度も、大樹に触りながら、仏陀の肉声を聴こうと自分はしたのだろうか。

 

菩提樹を守る二人の少年

麻耶夫人が湯浴みしたという池を隔てて、王舎城塞の跡が今なお風化せずに護られ、静かにたたずんでいる。


マヤ・デヴィ夫人が
湯浴みした池。


王舎城の城塞の遺跡

 

      巡礼の女性達。
     皆ヒンズー教徒だという。
       本当に敬虔で、信仰に熱心だ。

 二千余年を隔てたレンガの城壁において、苦悶と思索と決断の二十九歳の若き日の王子シッダルダの 出家出城の足跡に私もまた踏み込む。
しかし、最早俗世に浸かり切った私には、すべてを捨てて真理求道の門を叩くには、歳を重ね過ぎてしまった。

 王舎城の四門を出て、生老病死の四大苦を諦めるには、余りにも瑣末な知識が邪魔し、純粋に生死を見極める心が萎えてしまっていた。


回の旅は、モンジュさんとの出会いがあって実現した。

 彼女には、京都の鉱物展で昨年はじめて出会い、何かとても深い縁を直感し、その帰郷の際、家族揃って同行させて戴いたのだった。

  カースト制度が今なお色濃く残るネパールの古都パタンで工芸家や商人の多い一族が、ネワール族であって、彼女の姓シュレスタはその同部族を示すものだった。
その彫の深い顔立ちとその思慮深さ、知性の煌きからそれを髣髴とさせるものがあった。

  長く釈迦に帰依し、遠くチベットから移住してきた最も古い部族だという。「モンジュ」は音の如く釈尊に仕える「文殊師利菩薩」の音、「モンジュ」から来ている。
文殊菩薩もネワール族であり、八月二十一日が同じ誕生日であったので、その名をご両親が付けてくださったという。

 ちなみに、私は八月二十日生まれなので、このようにご縁が繋がるのかもしれない。
彼氏バサンタさんも、同じシュレスタで同姓同族、日本で自分達の道を拓くという。

 今回お二人には、とても親切を尽くして戴いた。実際、カトマンズやバクタブルやパタンの古都に生まれ住んでいたので、通常の観光ガイドとは違う詳しい案内や情報を沢山戴いたことに感謝したい ことにネパールの思い遣りの深い、優しい心を戴いたことは筆舌に尽くし難い。

  今度は、お二人の力になって日本ネパールの友好の架け橋になれば、と思うばかりだ。
バサンタさんとモンジュさん。サンちゃん、モンちゃんと呼んでいる。モンちゃんは、ネパールで一番日本語が上手いとの評価を得ている。3カ国語を自在に操る才媛。関西弁も上手く、日本人の心をよく知り、みんなから愛されている。(まほろばで今年ネパール展を開催予定です)

バクタブル、パタンの古都は、美術館がそのまま街になった印象。
この古さはたまらないものがある。

夜写真を写すと、街中すさまじいオーブ(たまゆら)の海にビックリする。皆の厚く久しい信仰心が、空間に結晶化するのだろうか。あるいは、神仏の意識体なのだろうか。
その空気感は何処にもない独特なものだ。


パールには、あのヒマラヤを初めとするユネスコの世界遺産・自然遺産が二件ずつある。

 しかし、十日ばかり居て、ネパールの政治情勢の不安定さの現実には、しばしば驚かされた。 
四世紀頃、ネパールに王国が成立したが、十八世紀、現王朝に統一された。


カトマンズから2時間ばかり離れた山岳地帯に ヒマラヤ連峰を眺めに行く。 しかし、あいにく曇りで全く見えない。
折角来たので、面白半分にハンドパワーで手翳してみた。
すると、見る間に雲間が広がって山並みが見え出し、 みんなで驚いてしまった。



十九世紀初頭、英国とのグルカ戦争で敗北、一五九一年に立憲君主制が敷かれた。しかし、二十一世紀を目前にして、ネパール共産党毛沢東主義者いわゆるマオイストが王制を打倒すべく人民戦争と称した反政府運動が活発化していったのだ。
 丁度、世紀が開けて二〇〇一年、突如世界を震撼させる怪事件が王室で起った。  

 六月一日、皇太子が国王・王妃に結婚の希望相手を反対され、王族の晩餐会で両親はおろか、祖母や兄弟姉妹など一族を銃で乱射し十一人を殺して自殺したというおぞましい事件が、平和で安泰だったはずの皇室で勃発した。

 その時のニュース報道に、私はそういう事もあるものか、と見過ごしていた。

カトマンズの街中を車で行くと、その運転のすさまじさにど肝を抜く。アクション映画さながらで、交通法規無視で、クラクションを鳴らしっぱなしのジグザグ運転。それでも交通事故は無いという。しかし、牛だけは避ける。牛は堂々と我が道を行く。

 しかし、今回その地を踏んだが、驚くべきことに、当地の国民の多くはその事実を信じてはいないようだった。


 強く結婚を反対されたとはいえ、あえて一族を殺傷する必然性があったのか、という疑問は国民誰しもが持っていた。

 その宮殿の同室で、危うく命拾いした現皇太子と、ポカラの別荘に滞在していた皇太子の父、前国王の弟君、即ち現国王に疑惑の目が注がれたことは言うまでもない。

 しかし、それを公然と口にすることはタブーであった。
その真偽のほどは分からない。 が、その時点から一挙に政情が不安定に陥ったのは必然の流れであった。 それ以後、国王派・議会派・マオイストによる混乱状態が続いている。
 若者から多くの反対派が出現するのは当然で、それがマオイストだった。

 米国が国軍を武器などで支援しても、武装農民が山岳にゲリラとして出没するマオイストと合流するなど、混乱が激化した。
しかし、このマオイストは、表面的には現中国とは関わりが無く、純然たるマルクス・レーニンの共産主義者だと思われているようだった。  
その後、絶対君主制を敷いて戒厳令を発令しても、遂には解除に至った。

 日本と同じ象徴王制になり、高まる民主化闘争に、国王は統帥権を奪われ、印度仲介のもと直接統治を断念、議会制度を復活せざるを得なかった。 遂に政教は分離され、王国の名は削除され、ヒンズー教が国教でなくなるまでに至ったのだ。



 ちなみにヒンズー教は国民の八十六%、仏教が八%の中で起ったのであった。昨年、政府とマオイストは包括和平協定を結ぶも、実際現地では一触即発の非常事態が続いている。

 親印派の現国王と、国民に慕われていた親中派の前国王とに起った宮廷クーデターは、不測の事態を今も引き延ばしている。

 ネパールは作物が豊富に採れ、ことにヒマラヤ高地の山岳地帯は世界有数の薬草地帯なのだ。
垂涎の宝の山を前に虎視眈々と獲物を狙っているものがいる。

山岳地帯には、このようにマオイストの侵入を防ぐスパイラル・バラ線が張り巡らされている。
 ネパール国民は舵のない母船に揺られながら、何処に辿り着くか暗中模索の中で、毎日を過ごしている。
明らかに国が国を略奪し支配することは許されない。


「諸
行無常」、転々として万事万物は、時と共に移ろい行く。
それを儚いととるか、命のダイナミズムととるかは、その人次第であろう。  

 儚いが故に、活き活きとした命の律動としてポジティブに受け取れないだろうか。
避暑地ポカラから、アンナプルナやマチャプチャレの山々が垣間見える。

 
  しかし、六月から九月まで雨季にあたり、毎日午後から雨(スコール)が降る。
そのため、山が晴れて見える日が少ない。

 王制も、国も、一時の儚い陽炎のようなものかもしれない。
王宮の文化遺産も、ヒマラヤの自然遺産もこの地より何時かは無くなるであろう。
いずれかは去り、何時かは消えねばならない。

 

避暑地ポカラから、アンナプルナやマチャプチュレの山々が垣間見える しかし、8月まで雨季のため、毎日午後から雨が降る。
そのため、山が晴れて見える日が少ない。

 
 二千五百年前、王室を継ぐべきシッダルダ王子は、城を捨て、妻子を捨て、国を捨て、真理解脱の道を求めた。
形あるものは何時か消え去る。
人生の目的を求めるには、太子にとって国は夢幻のように映った。

 

ネパール王宮前
 その有形の財産を捨てることによって、人類史上最大の覚者・釈迦仏陀となり、未来に亘り人々より賞賛を勝ち得られたのだ。

の地ネパールで起っている政変、取り巻く国々。
仏陀が出生してより二千余年を経ても、その地は無明の暗夜に迷うていた。
釈尊はこれをいかに見るであろうか。  

 ここばかりではない。あの孔子の大中国も、イエスのイスラエルも、混沌として闘争と戦火は絶えない。
広大にして厳しい大国に出現したこれら大聖の心は、未だ行き渡らないのであろうか。  
 尋ねた東方の島人なる私達は、嘆息と微かなる希望の入り混じる中、異国の土を後にせねばならなかった。
拾って戴いた釈迦生誕・菩提樹の枝葉の一片。

回の旅で、自分の物品を買うことがなかった。

それは買う時間のゆとりがなかった事と、欲する物がなかった為かもしれない。  

 老人と子供が守っているあの生誕の菩提樹。
 
巡礼者が一心に祈りを捧げている菩提樹。  
その周りに落ちていた一片の枯葉の枝を、案内のモンジュさんが、私に手渡してくださった。


 結局、それがこの旅で得た唯一の天からのプレゼントであり、メッセージのような気がした。

 栄枯盛衰なる世に在りて、変らざる自然の造形物を飽かず見ていると、人は結局何も要らないような気がしてきた。 

樹齢4000年の菩提樹。
釈尊は、ここで生まれ、世界の覚者となって巣立っていった。仏教の原点がここに在る。
老人と子供が静かに守っている。



  空手で生まれ、空手で死する人は、結局は何も持てないのだ、という仏陀の説教のような声がした。

 素手で捕まえ、素足で歩く人生を望んでいる自分が居た。


後に、そのホテルの調理を一人で切り盛りしている女の子が、尼蓮禅河で仏陀が6年にも及ぶ苦行の果ての憔悴し切った肢体を甦らせた乳粥を供養したスジャータのように思われた。

 西大陸の血が交わる神秘的な顔の造作と所作に、仏陀を産んだシャキャ(釈迦)族の子孫かと想像した。
静かで端然とした柔和な姿態は、凛とした気を周りに漂わせていた。

ここが釈迦生誕の森。



 

食事のお世話をしてくれた
若い釈迦族の女性。
スジャータも、かくあらんかと
思われた。
ルンビニーの園丁の裏のホテルの前で、旭日を拝む。
肩に不思議な光が射す。

 

 ここルンビニーは、現世の混沌とした喧騒は断ち消え、仏陀の息吹を今も伝えている空気に、今までにない安らう心のありかというものを知った。

 

 

2007年6月8日記

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