ルンビニーで一泊して、ヒマラヤ連峰が眺望出来るポカラに、チャーターしたジープで移動。約八時間、山又山の道中。
あと、一時間という処で、車のスプリングがバーンと石が当たった音と共に折れてしまった。
山から次の村まで下りる羽目になって、同乗六人は山伝いを歩いた。
夕方近く、日も暮れかかって、心配してもどうにもならない。
とある村の修理工場で車を直す時間を、持て余しながらブラブラしていた。
遠巻きに、また窓越しに街中の人々が、ジロジロと珍しそうに我々を眺める視線を、そこ彼処に感じる。子供達はたむろしながら、距離を置いて見詰めている。
この人達は、何処から来たのだろうか、と思っているのだろう。
肌は白く、顔付きは、自分たちと違うモンゴロイドの風貌。
チョッと似ているが、しかし違う。
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やっとのことで山間の村に辿り着く。何処も、同じ印象を受ける一つにサリーがある。どんな田舎に行っても、どこの家の女性も、色の鮮やかなサリーを平日でも着飾っている。男子は老いも若きも、粗末な身なりである。これが、不思議でならなかった。くすんだ街も、このサリーの色でパッと華やぐ。
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確かに、ここ周辺の村人は、このヒマラヤを一山越えた日本人顔と共通のチベット族とは大違いで、想像していたネパール人とは異なっていた。
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彫が深く、明らかにアーリア系というか、昔中東方面から移住してきた血を色濃く受け継いでいるように思われた。
中には、あのギリシア彫刻から抜け出たと思われるばかりの少年の顔の端正さに息を呑むほどだった。
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仏陀の初期のガンダーラ彫刻が、ギリシア、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式による文化の影響によるものと思っていた。
しかし、実際シャキャ族は、その血をも引いている極めて写実性に富んだものかもしれないと考えるようになった。
ここは、東西民族の融合した坩堝のように感じた。実際ネパールは三十以上もの民族からなり、インド系、チベット系、中央アジア系の三大系統に分かれると言う。
一瞬にして子供達と溶け合った不思議な一時だった。
子供の笑顔は、どの国でも同じ。笑顔のたえない国でありたい。
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時間を持て余していたので、たむろしていた子供達に声をかけると、意外とすぐ懐いて、たちまちに「ワーワー」と叫び出したのには驚いた。
デジカメを向けて写し、再生したものをすぐ見せてやると大喜びで、わいわいそこいらの友達を呼び込んで、私の周辺は黒山の大騒ぎになった。
「写して、写して」とネパール語で言っているのだろうか 。
兎に角、子供の無邪気さに惹かれて相手をしてやると、さらに懐いて何重にも取り囲み、せがむのであった。
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そして、驚くことに、この田舎の山中、就学前後の子供の口から流暢な英語が飛び出すのには、舌を巻いた。
既に国際人として、充分なくらいのネイティブな発音と感覚には、驚ろかされた。
この邪気のない快活さ。
そして、近所の子供達が家族のように付き合っている一体感。
私達が子供の頃、隣近所の子供と朝早くから夜遅くまで遊びほうけた時に、タイムスリップした感じがした。余りにも強い子供達の無心の声や動きに、私は何時しか子供心そのものになったのだろうか。
子供達と一体になって遊んでいるうちに、何と、パッと良寛の心が飛び込んで来たのだ。
「あーあー、こういう境地だったのか」と、瞬時に理解出来たのだった。
それは不思議な体験だった。
何かそういう虚心の空間が空から降りてきたような感じで、あの童らと手鞠歌やかくれんぼした情景が頭を過ぎったのだった。
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「せっせっせーとパラリとせ・・・・」同じ遊び方にビックリ!!
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この時、私の齢と変らぬ良寛が、新潟の出雲崎の浜辺や里山で子供と陽が暮れるまで遊んだ様子が偲ばれた。
それは、単に遊び心という余裕で接したのではなく、端然として座禅に向かい、悟りを求める真剣な姿勢と眼差しと変らない、と思った。
子供だから、適当にあしらうと言うのではなく、仏として真剣に向き合ったからこそ、子供が答え、仏が応じたのだろう、と感じた。
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良寛は子供の遊戯も、仏堂での参禅も、請われて筆を執る書画も、寸分もたがわなかったのだろう。
日々日々又日々
阡コ児童送此身
袖裏毬子両三箇
無能飽酔太平春
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日々 日々 また 日々
閑に 児童を伴って
この身を送る
袖裏の毬子 両三箇
無能 飽酔す太平の春。
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毎日毎日、来る日も来る日も、
のんびりと子供と連れだって遊び暮らしている。
衣の袖には何時も二三個の手毬を収めて、
何もせずただ太平の春を満喫している
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子供の中に、天心という雲一つない境地を知ったのだった。良寛は本当に真剣に子供と向き合って、付き合ったに違いない。
そして、晩年、若き貞心尼との恋も、きっと燃えるような想いを胸に秘めて、付き合ったのだろう、と想像した。
老いとはいえ、それは竹をスパッと割るような潔さと清冽さを湛えながら、しかもたゆたう豊かな叙情の世界を歌に詩に交わされた。
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ここはネパールである。
しかし、眼を日本に転じたとき、同じ境遇にない子供達の不幸を思った。
回りを見渡せば、彩りがくすぶった街並みと人々、教育水準も低く、食べるものにも限りあって皆痩躯ながら、眼がキラキラとしていた。
その生命力こそ、幸せに直結するものだ、と感じた。多くの物をもたない、多くを知らないことが、無邪気を養うことでもあるはずだ。
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一言で纏めれば『思い邪無し』と語ったことが、伝えられている。四書五経、あらゆる人生のジャンルの中で、煎じ詰めて、何が大事かと説けば、「無邪気」に窮まると。 |
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この旅の収穫と言えば、ヒマラヤの雪連峰でも古寺院の街並みでもなかった。今を生きる子供達の心だったのではなかろうか。
日本と同じ手遊びをしたりして、お母さんたちも寄って来て、言葉の壁を越え歓談し、友好の夕べの貴重な一時を過ごした。 |
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村長さんと記念撮影、突然の珍客に村中が大騒ぎだった。 |
ようやく、車も修理を終え、出発する際、何と騒ぎを聴き付けて、当村の村長さんまで来て、一緒に記念撮影しようということになった。
その人懐こい心に感動しながら、とっぷりと陽が暮れた山を後にした。子供達も「ワー」と叫びながら見送ってくれた。
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ただ、昨今聴く、ネパールの地雷犠牲者の三割はこれら山岳の子供達であることに、心痛む。
かつて、ネパールの山々の無医村に十八年間も無償で医療を施され、「ネパールの赤ひげ」として慕われ、アジアのノーベル賞、マグサイサイ賞を受賞した岩村昇医師(二〇〇五年十一月没)も、きっとこの人々の心根に自らを癒され、勇気付けられて励んで来られたのだろう。
村民と一心一体になった岩村博士は、御苦労も言語に絶しただろうが、それを償うに充分な人の笑顔や声に、きっと毎日が幸せだったに違いない。
かつて、日本もそうであったように、無邪気な国に戻したいものである。
きっとそれが「美しい日本」であったはずだ。
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岩村昇博士:1961年に海外医療協力会から派遣され、医師が不足し、医療設備も殆どなく、当時国民の平均寿命が37才というネパールに赴任。
山間僻地に蔓延していた結核・ハンセン氏病・マラリア・コレラ・天然痘・赤痢等の伝染病の治療予防として栄養改善のために、史子夫人と共に18年間活躍。
帰国後、神戸大学医学部教授として教鞭をとる。現在退官して、国際的視野を持つ人材の教育に当たる。
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