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はからおうとしても
何一つ自分の力で
はからうことをようしない私
はからえないままに 生かされている私
怒りのままに
腹立ちのままに
かなしみのままに
与えられないままに
足らないままに
生かされているこのひととき
手足の無いままに生かされておる
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真理の鏡によって
自分の
心のとびらを そうっと開いて のぞく
そこにはきたない おぞましい自己がある―
そして 今日も無限のきわまりない
大宇宙に 四肢無き身が
いだかれて 生かされている―
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ああこの歓喜
この幸福を
「魂」を持っておられる誰もが
共に
見出してほしい
念願いっぱいあるのみ―。
(中村久子著「こころの手足」から)
久子女史は、五体不満足の我が身の度重なる不幸を嘆いた時、
まだ両手両足にその付け根が丈夫で丸々と
がっしりとして残っていたことに
「ある ある ある」
と、ハッと目覚めて真の我に帰ったという。
これがあれば、何でも出来る。
鬼と思っていた母さまから、お裁縫も習字も料理も何でもかんでも、何不自由の無いように仕込まれて今がある。
幼き日に、脱疽でもがれた両手足が無くても、この付け根が何でもやってくれる。
私は何でも出来る。
義父のイジメ、肉親の早世、夫の二度の病死、子供の死、「だるま娘」として見世物小屋に売られた娘盛りの恥ずかしさ、辛さ。
そんな大難の大波が襲い続けた時、親鸞聖人の「歎異抄」が、暗夜を照らす光明となった。
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あなたが何かができるから
価値があるということではなく、
あなたがいるということに
価値があった。
何かと比較して「日本一」ではない。
存在そのものが価値となる。
自分の果たすべき役割―天命―
天命を発揮する局面が三つある。
1、好きでたまらないことを
しているとき。
2、ピンチに直面したとき。
3、人に喜んでもらう。
人の喜んでいる姿を見て、
自分も喜ぶとき。
天命は長所として与えられている。
長所を伸ばすことから
始めれば良い・・・・・・・・」
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次女の中村富子さんは、
人間で一番大事なことは、
黙って見ていること
であると母から教えられた、と語られる。
この黙って温かく見守って下さっている方こそ、久子女史にとって阿弥陀さまであった。
それは、大自然と言葉を置き換えても良いものであった。
それは平等に、誰の中にも外にも存在している存在なのだ。
天国も極楽も、実は元から ここにあったのだ。
あなたの内に、あったのだ。
私を救ったのは
手足のない私の身体
この逆境こそ感謝すべき
私の師でありました。
逆境こそ恩寵なり。
人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はない。
どんなところにも生かされていく道はございます。
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DVD ¥1,000(税込)
(まほろば扱い) |
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