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まほろばだより−折々の書−
 

 

 





 

 

 


 

 

 


 3月28日(土)、まほろば本店二階で、京都・潟gータルヘルスデザインの近藤洋一会長に依る「生きる 中村久子物語」の上映会とミニ講演会を開いた。
 

 

 

 

 これは、本当に申し訳ないことだったが、先に見させてもらったDVDで、反響の期待は抱けなかった。
みな素人集団の学芸会的な演技で、正直どう評価してよいものやら、それが、私の偽らざる告白だった。


 しかし、驚くなかれ。  
みな水を打ったように鎮まり返った。  
ヒタヒタと心の波紋が拡がっていくようだった。
 
 どんな形であるにせよ、中村久子女史の生きた真実が変わらない、という事実。  
これは衝撃的なことだ。  
演技や演出を超えて、伝わってくる、その何か。
 
 それは、むしろプロの出演者でないからこそ、ズブの素人であったればこそ、無垢な想いが、逆に表現出来得たのではないか。
くしくも企画監修者の「お涙頂戴話、教訓的にしたくない」と言った意図が当たったのではないか、と感じた。  

 また、一人で何気なく観るのと、期待を込めて皆で観るのとでは、場のエネルギーが変わり、意識さえ変わっててしまうのだ。
 


 

 

 

はからおうとしても
何一つ自分の力で
はからうことをようしない私
はからえないままに 生かされている私

怒りのままに
腹立ちのままに
かなしみのままに
与えられないままに
足らないままに
生かされているこのひととき
手足の無いままに生かされておる


真理の鏡によって 自分の
心のとびらを そうっと開いて のぞく
そこにはきたない おぞましい自己がある―
そして 今日も無限のきわまりない
大宇宙に 四肢無き身が
いだかれて 生かされている―

ああこの歓喜 この幸福を
「魂」を持っておられる誰もが
共に
見出してほしい
念願いっぱいあるのみ―。
  
            

(中村久子著「こころの手足」から)
 

 久子女史は、五体不満足の我が身の度重なる不幸を嘆いた時、
まだ両手両足にその付け根が丈夫で丸々と
がっしりとして残っていたことに  
「ある ある ある」  
  と、ハッと目覚めて真の我に帰ったという。


 これがあれば、何でも出来る。
鬼と思っていた母さまから、お裁縫も習字も料理も何でもかんでも、何不自由の無いように仕込まれて今がある。
幼き日に、脱疽でもがれた両手足が無くても、この付け根が何でもやってくれる。
私は何でも出来る。

 義父のイジメ、肉親の早世、夫の二度の病死、子供の死、「だるま娘」として見世物小屋に売られた娘盛りの恥ずかしさ、辛さ。
そんな大難の大波が襲い続けた時、親鸞聖人の「歎異抄」が、暗夜を照らす光明となった。



「善人なおもて往生をとぐ、       
       いわんや悪人をや」
   

「善人でも極楽に往ける、
ましてや悪人が往けない訳がないではないか」

 これは、論理のゴリ押しでも何でもない。
悪人であればあるほど、
阿弥陀様は懇ろに心にかけて見そなわして下さる。
ましてや障害者の子を、如来様は手放す訳はない。  
 健常者が天国に上る、
ましてや障害者が先に上がれないことなどあろうはずがない。  

 全て満たされていることに気付かれた久子女史は、それから全托念仏の身となられた。  
 如来さまに一切合切、己が身を任すことを自分の生き様とされた。   「生かされている」がゆえに、
かくも「生きている」ことを悟られたのだ。

 それこそ、  
「ない ない ない」
 の生活から  
「ある ある ある」
 の光の毎日が訪れるようになったという。

すべては、満たされている、
一切は用意されている。
心一つで、想い一つで、
周りは、世の中は、
ガラリと一変する。

思えば、そこにもある。
振り返れば、ここにもあった。
良寛さんは、方丈の間に起居して足るの生活に終始した。
何が楽しいのだろう、 何を忍んでいるのだろう、 と俗人は邪推する。

 しかし、そうではなかった。
物が無いほど、心が拡がり自在になる身の豊かさに満足してしまうのだ。
 これ以上、何も要らぬ。  
 これ以外、何も欲せぬ。  

 人は、そのまま、あるがままで、満たされているのだ。  
 全ては必要以上に満ち満ちているのだ。



ある ある ある


さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく 義歯の取り外し かおを洗う

短いけれど指のない まるいつよい手が 
何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手も

ある ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝



最後に、近藤洋一会長から心に染み入るようなメッセージを戴いた。

「・・・・・・   
人はみな必要があり、何かの役割をもってこの世に生まれて来た。  
この世界が、あなたというかけがえのない存在を必要としている。

生まれてきた時は誰もが 「日本一」だった。

 あなたが何かができるから
価値があるということではなく、  
 あなたがいるということに
価値があった。  
何かと比較して「日本一」ではない。  
存在そのものが価値となる。  

自分の果たすべき役割―天命―  

天命を発揮する局面が三つある。

1、好きでたまらないことを
   しているとき。
2、ピンチに直面したとき。
3、人に喜んでもらう。    
  人の喜んでいる姿を見て、
   自分も喜ぶとき。  

天命は長所として与えられている。  
長所を伸ばすことから  
始めれば良い・・・・・・・・」



 
次女の中村富子さんは、
人間で一番大事なことは、      
      黙って見ていること
 
 であると母から教えられた、と語られる。  

 この黙って温かく見守って下さっている方こそ、久子女史にとって阿弥陀さまであった。
それは、大自然と言葉を置き換えても良いものであった。  

それは平等に、誰の中にも外にも存在している存在なのだ。  
天国も極楽も、実は元から ここにあったのだ。  
あなたの内に、あったのだ。

 私を救ったのは   
  手足のない私の身体   

 この逆境こそ感謝すべき
   私の師でありました。         

 逆境こそ恩寵なり。  
  人生に絶望なし。  

 いかなる人生にも決して絶望はない。

どんなところにも生かされていく道はございます。        
          
 中 村 久 子
      
「生きる!!中村久子物語」
 DVD ¥1,000(税込)
(まほろば扱い)

 





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