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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨年二月九日。 まほろば地下洞「無限心庵」のお披露目会の記念日に、野点ならぬ地下点の茶会と、お琴による演奏が行われた。  
 その打ち合わせを、まほろば開店当初からのお客様、鈴木祥子さんとお姉様の史子さんとで行った。祥子さんは、最近まで手稲地区で高校の先生をされており、お姉様は、不世出の筝の名手、あの故宮城道雄さんの最後の愛弟子であったという。
 そんな中、あれこれ芸事の話になって、突然、祥子さんが語られた。

「私の先祖が、中国の琴を弾いていたの。」
「へぇー、それは十三弦の筝ですか。」



山田史子さんによる箏演奏。 生田流の正統を継承する音色に、皆固唾を呑んで聞き惚れた。
 

 

 

「いや、古琴とか、七弦琴とか言っていた。」
「ほんとー、すごい!それは、どなたですか。」
「浦上玉堂」
「えーえー!!・・・・・」

 もう、びっくりしたというか、それは唖然とするしかなかった。 もうかれこれ、二十年以上のお付き合いがあったのに・・・・・。 そんな事、今までおくびにも出さず、一言も洩らされなかった。 こんな近くに、あの浦上玉堂(呼び捨てて御免なさい)の子孫が居られて、長年お付き合いしていたとは、本当に驚いた。 最近、色々なご縁で驚くことが頗る多くなった。その中でも、このご縁は出色物で、別格だった。 それは、私の青年時の深い思い入れがあって、それと思い出が重なるからだった。  

 四十年も前、私が十八の歳に薬師寺の故橋本凝胤長老の大乗院におかせて戴いた時に、長老が私に、「岡さんと対談した記念に・・・・」と言って、数学者の岡潔先生のお書きになった『曙』(講談社、絶版)という新書を下さった。その中に、

「・・・・・私は胡蘭成さんから、孔子の作曲した七絃琴『幽蘭』のレコード(香港製)を貰ったが、全く感動してこんな音楽がありうるのかと思った。その後、さしもの西洋の古典音楽が、阿鼻叫喚と聞こえた。これが頭頂葉の音楽で、西洋の古典音楽は前頭葉の音楽、ドビュッシー以後のものに到っては側頭葉や体の音楽だと思った。 中国には琴は二つある。五(七)絃を琴といい、十三絃を筝という。日本にはこの後の筝の方だけが伝わったのである。・・・・・・」

 この一文に、心が俄かにときめき、元々音楽志望の私は、この音楽を何とか聴きたい、出来ればやってみたい、と思うや、矢も盾もたまらず上京したのだった。七絃琴は、伏儀が八卦と共に創った世界最古の楽器である。その超古代の哲学と音曲に、聴かずして惹き込まれる媚薬のような匂いを嗅ぎ分けていた。

 

 

 


 

 

 


 公衆電話でその消息を尋ねた風景は今もなお鮮明に覚えている。東京大学比較音楽学の岸辺成雄名誉教授に直接、七絃琴のことをお尋ねした。岸辺先生は古琴研究の大家でもあり、また大学院生に香港の留学生がいて、しかも七絃琴が弾ける、との回答だった。  
 

 

 

 

張世彬先生は、筝も弾かれた。

 

実は、この好機は江戸時代以来のことだった。早速お宅をお尋ねして、毎週岸辺先生のゼミや授業を聴講し、先生にその留学生・張世彬さんに習う手はずを取って戴いた。七絃琴は、平安・江戸時代に二度伝来したが、その後途絶え、昭和にまた復興しようとの志を立てたのだった。
 

 

 

 わずか、二年ほどの間だったが通い詰めて、最大の難曲「幽蘭」と「流水」が弾ぜられるようになっていた。冬季のバイトで手と指が皸、爪は練習のし過ぎでボロボロになり、血が滲み出て弦が赤く染まった。七絃琴は橋本長老が奈良の骨董屋に手配し、また正倉院の御物修復家にまで頼んで直して下さった。同じ奈良在住の正倉院古楽器研究家の林謙三氏も紹介して戴き、尋ねることも出来のだ。復元された正倉院の古楽は、従来の雅楽と趣きを異にして、絲綢之道の音響に新鮮な煌きがあった。   

 その後しばらくして、奈良高畑町の数学者・岡潔先生宅にお邪魔して、それまでの経緯を告げた。

「東雲篩雪図」(川端康成記念会、国宝)




喜寿祝賀会の朝に、岡潔先生と奥様。(奈良女子大学付属図書館ホームページより)


 その時、お互い無言となって話が途絶えた。互いに目の色をジーと見詰め合ったのを、今なお印象深く覚えている。湖底の色を見る思いだった。その時間が茫々として感じられた。

 
「『君不看双眸 不語似無憂』 君看ずや双眸の色、語らざれば憂い無きに似たり」

 その時、良寛の詩を初めて解することが出来たのだった。 「この人は、よう解かっている人や」と奥様を呼び、上機嫌で嬉しそうに語って下さった様子が、昨日のように心に甦って来る。

 前置きが少し長くなったが、その当時、丁度時期を同じくして、浦上玉堂の展覧会が都内のデパートで開かれていた。あの故川端康成氏所蔵の国宝「東雲篩雪図」が展示されていて、画面に横溢する神韻縹渺たる響きに圧倒されたのを覚えている。

 

 

 

 

 その頃、初めて玉堂が琴士であり、自作の曲も遺されていることを知らされた。それを張世彬先生が再現し、レコードが雑誌「古美術」に添付された。


 また、七絃琴の演奏会が三越劇場で行われた際、日本音楽研究家の吉川英史氏のご子息良和氏が、玉堂の曲「我駒」を演奏された。催馬楽など素朴な曲想は、日本における新しい琴曲の世界を開くものだった。(ちなみに、私は『平沙落雁』『幽蘭』を弾かせて戴いた)それは、玉堂の琴への思い入れの深さを認識するものだった。そんな事々で浦上玉堂に対しては一種特別な感慨とのっぴきならない印象を持っていた。

 琴詩書画を嗜むのを文人の素養としたが、玉堂は歳五十にして、岡山藩を脱藩して二人の息子、春琴と秋琴を携えて諸国を悠々と周遊放浪し、最後京都に落ち着き、風流三昧の中で、七十六の長寿を全うした。一切の俗事を捨て去って、風雅に生きた玉堂は、自然の懐の中に帰っていった。芭蕉の俳句といい、世阿弥の能といい、雪舟の墨画といい、そして玉堂の琴韻、その貫く一なるものは自然であり、道であった。


1972年1月15日 日本橋三越劇場での「中国古琴古筝演奏会」プログラムから。
 

 

 

 つい最近、岡山県立美術館で「浦上玉堂展」が開かれた。生地が、岡山であったためだ。  
 祥子さんは、一人そこに行かれたという。ついで七絃琴の演奏会もあったとか。そのお土産話と共に、写真を何点か見せてくださった。そして、それを見て、私は感嘆の声を上げざるを得なかったのだ。

 

 

 

 鈴木さんのお父様・好氏と、玉堂の子息春琴が書いた有名なあの玉堂像が、何と瓜二つではないか。

「玉堂先生が今なお生きておられたら、かくの如きか!」と思わせるほどよく似ている。

 そして、またあの富岡鉄斎の画いた玉堂琴士像が、これまた祥子さんのお祖母さま「於重」さんにそっくりなのだ。両方生き写しのお顔に、脈々たる血脈が、今の世に受け継がれている事実に、家系の不思議さを実感した。  

 

 

 

 

 そして、私の傍、まほろばの近所に住まわれている奇遇。私が引き寄せられたのか、玉堂が引き寄せてくれたのか。魂が互いに因縁の糸を手繰り寄せたのであろうか。
  再びと琴に手を触れてみて、あの「幽蘭」を弾じて見たいとは思うものの、既に手は忘れ、そしてすべきことの世事が余りにも多くして、文人の閑居はあの世の後事となるのであろうか。    

 十一月十二日の日曜日、何故かふと鈴木さん宅を訪れてみたくなって連絡した。一度、好氏に古琴をお見せしたかったのだ。お父様は、静かに座っておられ、シミひとつもないきれいなお顔をなさって、訪問を大層歓んで下さった。その初めて見る私が持参した琴面に、遠い祖先を感じられたのであろうか。フト横を見ると小泉前首相からの百歳記念の表彰状が飾られてあった。何とその日、十二日は百歳の誕生日であったのだ。二十年間一度も訪れたことがなかった店から一条裏のお家。

 

 

 

 よりによって、めでたい百歳を祝う静かなお祝いの日を選んでお訪ねしたのは、ご先祖のお導きか、玉堂さんのお招きのようにさえ思えたのだった。  
 好氏に会ってから、私の心の中に玉堂が闊達として活けるように、語りかけてくるのには正直愕いた。魂は不変だとまでは言わないが、少なくとも見上げれば、すぐにでも語ってくれる距離にまで降りてきて下さっている確かなるこの実感。これが生きた歴史の学習かとさえ思われたのだ。この生きた出会いで、古き世の日々を懐かしくさせる回路が開かれたのだろうか。

 最近、古今が渾然となって来た気配がある。それは、多分に今年初めに宮下家のルーツに辿り着いた為だろうか。古色蒼然たる埃塗れの古書が、ある日を境に、豁然として語りかけることがあり得ることを知ったのだ。
 それは画においても、音においても同じであろう。玉堂の一筆の筆裁きの空白に、彼の漂泊の人生はむしろ、悠々たる遊戯三昧の日々であった事を知る。それは何百年という時の壁を易々と越えて、パソコン時代の閉塞された我々の胸にも迫ってくるものなのだ。歴史を学ぶとは、そういうことなのか、とさえ思った。

 

 

 

 

玉堂さんから数えて四代目に長女於重さん。鈴木さんとの子が好氏。その娘が祥子さんで六代目となる。

 

 

 

 

 最近、雅楽を愛好するお客様が、師匠の星野さんを連れて来店された。玉堂も脱藩後、会津に渡ったのは、雅楽を学んで、琴曲に取り入れたかったらしい。無限心庵で、その竜笛や篳篥の一音を直に聴き吹きして、神道というか、日本文化のスクッとした屹立たる精神を見る思いだった。
 

 

 

端正な音色の中に、複雑な響きが束ねられていて、それは得も言われず魅惑的でもあった。俗事がなかったなら、この虜になりそうだな、と予感した。

 話は移って、やにわに星野さんの出身を聞くと、釧路で先祖は鳥取から来たという。再び、愕いたのは言うまでもない。私の父方の祖母の両親は明治の同じ時期、同じ鳥取から移住して来たのだった。同じ街道を同じ海路を共に渡ったのであろう。星野さんとは、三代前には、鳥取市の池田藩の同じ城内で行き会っていた仲かと思うと、不思議な親近感が湧いた。 又しても音を通して、古き血脈が騒ぎ、邂逅したのだった。

 皆、不思議な縁生で結ばれているのであろうか、この狭い日本で。 袖触れ合うも、眼に触れ合うも、まさに他生の縁なのだ。 ましてや、一つ家で営み、一つ社で仕事をする。  
 皆、繋がり繋がれている濃き血は、やはり最後は結ばれるであろう。それは、平たく言えば、皆仲良くなるべきということであろうか。
 
 最近の暗澹たる世情。いじめや離職など世に潤いが無くなった。やはり、自国の歴史や文化が、遠く私達の手から離れてしまったことに、大きな原因があるのではなかろうか。
 

 

 

 

鈴木祥子さん:浦上玉堂のカタログを手にして。古い文物が大好き、さすが玉堂先生の直系。
 食文化も然り。先人の営々として築き上げてきた文化遺産を、大人はもっと目を向けて子供達に伝えて行くべきなのではなかろうか。

 祥子さんは、家庭科の授業の際、よくまほろばの食材を利用してくださり、またご自身も毎日まほろばに買い物にご来店される。これから家庭を作る若い生徒達に、本物の食材とは、有機の野菜や天然調味料の違いを、授業の場で伝えて行かれた。若き日のたった一日での邂逅がその人の生涯を決定付けるのだ。それは長い短いではない。命の伝承は、時間でなく命の燃焼のように思うのだ。
 

 

 


 先日も、厚別の中学校の女生徒が、まほろばに研修に半日来た。初めての大根抜き、初めての袋づめ、初めてのオーガニック料理、何から何まで初めての新鮮な体験。その短くも濃い学外の学びに、彼女等の命の芯に灯火は点っただろうか。それが、彼女が、恋をし、妻となり、母となった時、どんな役に立つだろう。その子に、その孫に、その隣近所に、その街に、火が点るかもしれない。伝えるということは、そんな事ではないだろうか。その小さい出会い、小さな出来事に宿るのではなかろうか。私が、かつて岡潔先生の著書の一行によって、人生が変わったように、若き日の一日は、その一生を支配し、一飯の馳走が、生涯の味覚を決定付けるのだ。

 彼女達の屈託のない、何事にも笑う乙女達に、今日のいじめの影など微塵も感じられなかった。日本の未来に、一縷の望みが私の中に灯ったのだ。  

 祥子さんの授業も、きっとそういう命を伝える、命がけの授業だったに相違ない。彼女のさばさばした性格のうらにある優しさは、そういった伝統に裏打ちされた命の継承だったのだ。それこそ、玉堂先生の内に流れていた命の系譜であったのだと思う。それが音になり、画になり、そして食になったのだ。その底に流れているものは、一つであった。風流という趣味に流され終わらない、その身を健全に養ってゆく命の門を叩くものに連なっていたのだ。
 

 

 

 

農業責任者、宮下洋子と厚別北中の女生徒達。笑顔がかわいい、朗らかな笑い声にこちらが癒される。まほろば自然農園第3農場にて
 

 

 


 まほろばは、大きな運動も、広い呼び掛けもしてはいない。また出来る器量など持ち合せてはいない。ただ、出来ることは、生産者の生命の代替品ともいうべき一品一品を代わってお伝えすること、お渡しする事だけなのだ。その毎日が精一杯である。しかし、それでいいと思っている。その橋渡しが歓びなのだ。その一品が人の命の炎を燃やす事だってありうる。そのご縁の一時が、人生を、国を変える奇跡だって起こりうるのだ。そう信じて今日も、野菜を作り、魚を仕入れ、酒を頼み、文を書き、皆で話す。このささやかな一歩、この見えない一言が、次の世代に伝える麹となり、仕込みの蔵となればと祈る。  

 この、人から人への伝承の心。 それによって、自然の豊かな、心の豊かな、懐かしき日本に甦り、国ぐるみで一大家族になれば、と思うばかりだ。


 

2006年11月16日記

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