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まほろばだより−まほろば主人から−
 


 先日、郷土史家の宮原正幸氏よりお電話を戴いた。
大変興奮されたご様子だった。
 それは次のご指摘のように、歴史的記述を発見されたからだ。

 まほろばで取り扱っている『富士古文書(宮下文献)』のダイジェスト版『神皇紀』の新しい現代語訳版が最近発刊された。

 今回の東日本大震災が、1000年に一度ということはよく聞く。その前といえば、平安時代の貞観地震のことを示す。
西暦では869年のことだ。
 
 
 その「神皇紀」は2200年前、秦の徐福が渡来して富士の麓に一行が住み着き、当地の伝承を書き残したという「富士古文書」だが、今日まで広く世に出ることはなかった。

 ところが、貞観地震(869年)の5年前、西暦864年の貞観6年に、富士の大噴火があって、現地の記録者が事細かに被災の様子や富士噴火の地図なども記載し、しかもその当時の世の流れを克明に記載している。

 驚くべき新事実である。
今回の大地震に引き続いて起こるとされている東海・中部・南紀沖地震や富士山噴火なども危惧されているが、過去1000年前に興った事が証明されているので参考のため、一部抜粋して掲載したい。 

 


 貞観地震は、平安時代前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日、 グレゴリオ暦換算7月13日)に、日本の陸奥国東方の海底を震源として発生した巨大地震である。
地震の規模は少なくともマグニチュード8・3以上であったと推定されており、地震に伴う津波による被害も甚大であった。


「富士古文書(宮下文献)」

 



 清和天皇、貞観六甲申年(864)、5月1日から3日まで暴風雨、大雷電、黒煙激憤が発生した。
5日の朝、一大激震と共に、富士山西の峰に熾火が現れた。
甲斐駿河両国民は大に恐怖して、人心は愉悔となった(怖れおののいた)。

 八代郡大領無位、伴安貞男伴真貞は、元宮七廟中、宮守神社、福地八幡大神、山守神社の神託に従って、太神宮の大宮司を相模国寒川神社より、並に太神宮の副司を甲斐国神部山浅問神社より招き、仁壬坂麓の要塞堅固な祈願所において、鎮火の祈願をさせた。
 
 偶々、一大音響と共に、遂に茜の峰より噴火し、せの湖は熔岩熱泥が数十町、深さ三丈(訳者註・約9m)余りが流入し三湖に分かれ、魚類は全滅した。
 甲斐国司橘末茂は、急使を出して事の次第を京師(都)に奏上した。
しかるに又、6月9日から13日の朝にかけて再び熔岩熱泥が流出し、御船湖は1町80問余りを埋没し、尚、御船山を包囲して押流した。

 天地も、一瞬にして崩れんばかりのその大音響に驚き、村人たちは祈願を中止して、用意してあった穴蔵に隠れること3昼夜であった。
暴風震雷が轟々として、百雷が同時に鳴り渡るような状況が、7月下旬に至るまで続き、西北13カ所から噴火したのである。

 以前の延暦大噴火の時、甲斐圃から太神宮に通じる御古峠が閉塞したので、道祖山に通路を開いた。
この道祖山は三つの峠より成り立っていることにちなんで、三津峠或いは三坂と称していたが、今や噴火のために又、閉塞してしまった。

 8月3日、勅使藤原氏宗が富土山表本官大宮浅間神社に下向して、次のように述べた。
即ち今度の噴火は考えてみると、全く神官の不勤不敬が、もたらしたのであるから、宜しく陳謝、祈祷をせよと。
更に勅使は富土川通りを上り、甲斐国へ下向した。
5日に国司橘末重に次のように命じた。

即ち、駿河富土山火、彼国言上、決之蓍亀云、浅間名神禰宜祝等、不勤齋敬之致也、価応鎮謝。
(日本三代実録・巻9)と。
国司は、富士山の噴火は静まりましたので検察なさってくださいと応えた。
そして八代郡擬大領無位伴真貞に命じ、同副領伴秋吉を案内役にし、笹子峠より千箇坂を越え、柵模河原より家基懸峠を越え、8日阿祖谷小室にある祈願所の小屋場に到着された。

 9日に、勅使は、熱都山笠砂の尾崎峠にある幸燈明神大社の境内において検察された。
即ち北方では、熔岩熱泥は御舟湖に流入し、又、御舟山を包囲した。
偶々検察中に、御舟山頂に一つの宮殿が現れたことが認められた。

即ち垣は四隅を有し、四面とも丹青石であり、石の高さは一丈八尺あまり、幅三尺、厚さ一尺、その中には一重の高閣があり、石構造で麗美な彩色は言葉で尽くせ無い。(日本三代実録・巻11)
もしや阿祖谷小室、中室、大室に鎮座する神々が現した宮殿ではなかろうかと、勅使初め一同は思わず遥拝された。

 又、西の方を見渡せば、三坂沢の新湖(今の河口湖)は、三津峠山の中尾崎山蔭まで熔岩が流出し、その面積は判然としないが、平地で約140〜150町余りあったであろう。
そしてその西、せの湖を埋めること千町程であり(日本三代実録・巻11)、岩石世界に変わってしまった状況を検察した後、京師(帝都)に帰った。

その後9月9日に至り御舟山頂に、神々が現した宮殿は消え失せていた。
それ以来、太神宮の祭日を9月9日と改めることになった。                             (中略)


 貞観十二庚寅年(870)7月、富士山中央より噴火したが、太神宮には何ら影響は無かった。
同十七乙未年(875)11月5日を、富土山表の峰に於いて白衣美女が舞踊を行ったということで、表元宮大宮浅問神社の大祭口とお定めになった。
醍醐天皇は延喜七丁卯年(907)5月18日に、従五位上紀貫之を勅使として、太神宮に太政大神を授けられた。
当時の大宮司は、宮下富十紀太夫明照と称し、大山守皇子32代の孫であり、大日本三大宮司の一人である。

 その太神宮に賜った勅状は、次の通りである。




 
 朱雀天皇承平二壬辰年(932)10月13日、富士山峰より八方に噴火し、熔岩焼石が稲妻を伴い雨のように降下した。
太神宮はどうやら焼失を免れたが、大宮浅間神社は噴火の為消失してしまった。

 天慶元己亥年8月、貞観6年(864)の大噴火の際に、御舟山頂に榔が現れた宮殿に準じて、再造営を行った。
村上天皇は、天暦元丁未年(947年7月7日に、近年富士山噴火が度々なので、亦それによる危害の発生を恐れ、藤原千晴、菅原文時に命じて、七廟中の宮守神社を、福地八幡太神の東、大黒木の下にある日本武尊の旧跡に遷宮された。

 そして大同元年(806)、下賜された平城天皇の勅額を再興し、更に空海上人作の仁王尊を再興された。
又太神富即ち七廟惣名先現太神を阿座真明神大社と改称なされ訪れて勅筆を賜れた。

 是より後世、阿座真と浅間の文字を混用するようになった。
空也上人は勅使と共に訪れて、勅命の真筆を賜れた。
当時の勅状は次の通りである。                         (中略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 天暦六壬子年(952)2月、富士山峰より北東に噴火したが、太神宮に被害はなかった。
冷泉天皇安和二己巳年(997)7月、源頼光主従が太神宮に参詣し、渡辺綱遣が平城天皇の勅額に書副を行った。
一条天皇正暦四癸巳年(993)8月、富士山北東三昼夜鳴動して、遂に噴火したが太神宮に被審はなかった。

 後一条天皇寛仁元丁巳年(1017)9月に、北方3ヶ所から噴火した。
このように富士山の度々の噴火により、太神宮への参詣者は次第に跡を絶ち、甚だしく衰微してきた。

 同年12月、大奉幣使藤原秀忠が下行したが、噴火により道路が通じず、太神宮へは来訪することが出来ず、富士山表本宮大宮浅間神社で奉幣して、西に帰った。
是より大宮は益々盛大になった。

 白河天皇永保三癸亥年(1083)7月、富士山7ケ所から噴火し、熔岩熱泥が流出したが是より後、富士山の火山活動はついに消失した。
延暦の大噴火からこの噴火まで噴火は8回に及んだ。
一般に是を富士八流という。
富士山の噴火が鎮まると、伊豆の大島が、又噴火を始めた。
世間では富士山の噴火が大島に移ったと言う。

(以上、噴火年代記、浅間記、大宮記、宮司記、勅状集、三座書、四座書、変遷記、寒川記)

 
   
   
 

 
 

 

 

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