偶々、一大音響と共に、遂に茜の峰より噴火し、せの湖は熔岩熱泥が数十町、深さ三丈(訳者註・約9m)余りが流入し三湖に分かれ、魚類は全滅した。
甲斐国司橘末茂は、急使を出して事の次第を京師(都)に奏上した。
しかるに又、6月9日から13日の朝にかけて再び熔岩熱泥が流出し、御船湖は1町80問余りを埋没し、尚、御船山を包囲して押流した。
天地も、一瞬にして崩れんばかりのその大音響に驚き、村人たちは祈願を中止して、用意してあった穴蔵に隠れること3昼夜であった。
暴風震雷が轟々として、百雷が同時に鳴り渡るような状況が、7月下旬に至るまで続き、西北13カ所から噴火したのである。
以前の延暦大噴火の時、甲斐圃から太神宮に通じる御古峠が閉塞したので、道祖山に通路を開いた。
この道祖山は三つの峠より成り立っていることにちなんで、三津峠或いは三坂と称していたが、今や噴火のために又、閉塞してしまった。
8月3日、勅使藤原氏宗が富土山表本官大宮浅間神社に下向して、次のように述べた。
即ち今度の噴火は考えてみると、全く神官の不勤不敬が、もたらしたのであるから、宜しく陳謝、祈祷をせよと。
更に勅使は富土川通りを上り、甲斐国へ下向した。
5日に国司橘末重に次のように命じた。
即ち、駿河富土山火、彼国言上、決之蓍亀云、浅間名神禰宜祝等、不勤齋敬之致也、価応鎮謝。
(日本三代実録・巻9)と。
国司は、富士山の噴火は静まりましたので検察なさってくださいと応えた。
そして八代郡擬大領無位伴真貞に命じ、同副領伴秋吉を案内役にし、笹子峠より千箇坂を越え、柵模河原より家基懸峠を越え、8日阿祖谷小室にある祈願所の小屋場に到着された。
9日に、勅使は、熱都山笠砂の尾崎峠にある幸燈明神大社の境内において検察された。
即ち北方では、熔岩熱泥は御舟湖に流入し、又、御舟山を包囲した。
偶々検察中に、御舟山頂に一つの宮殿が現れたことが認められた。
即ち垣は四隅を有し、四面とも丹青石であり、石の高さは一丈八尺あまり、幅三尺、厚さ一尺、その中には一重の高閣があり、石構造で麗美な彩色は言葉で尽くせ無い。(日本三代実録・巻11)
もしや阿祖谷小室、中室、大室に鎮座する神々が現した宮殿ではなかろうかと、勅使初め一同は思わず遥拝された。
又、西の方を見渡せば、三坂沢の新湖(今の河口湖)は、三津峠山の中尾崎山蔭まで熔岩が流出し、その面積は判然としないが、平地で約140〜150町余りあったであろう。
そしてその西、せの湖を埋めること千町程であり(日本三代実録・巻11)、岩石世界に変わってしまった状況を検察した後、京師(帝都)に帰った。
その後9月9日に至り御舟山頂に、神々が現した宮殿は消え失せていた。
それ以来、太神宮の祭日を9月9日と改めることになった。 (中略)
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